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社会党委員長・浅沼稲次郎が比谷公会堂で演説中に右翼少年に刺され死亡した日

2007-10-12 | 歴史
1960(昭和35)年は、日米安保条約改訂の年であった。自民党岸信介首相退陣の後を受けた池田勇人総理は、10月12日、野党の党首である浅沼稲次郎( 社会党=現社民党)、西尾末広(民社党)の両委員長との立会演説会を日比谷公会堂で催した。浅沼は演説中に突然壇上に駆け上ってきた右翼の少年・山口二矢(17歳)に刺殺された。浅沼は、胸を2度突き刺されたが、一撃目の刺し傷が致命傷となり、出血多量によりほぼ即死状態(側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという)で、近くの日比谷病院に収容された時にはすでに死亡していたという。
撮影した長尾靖カメラマン(毎日新聞社)は、スピードグラフィック・カメラ(以下参考に記載のあっ、クラカメだあ・スピードグラフィック参照)にストロボを付けていて、瞬間を的確にとらえることに成功した。
鮮明な写真は世界中配信され、衝撃を与えた。他社のカメラマンはフラッシュバルブ(以下参考に記載のあっ、クラカメだあ・フラッシュ撮影参照)を使ったため写真がブレてしまったのに対して、浅沼の胸を突き刺した短刀の輝きが際立つ長尾の写真は、数千分の1秒というストロボの瞬間描写力を遺憾なく発揮したもので、この写真は日本人初のピューリッツァー賞をはじめ世界最優秀報道写真(以下参考に記載の※世界報道写真大賞参照)などを受賞した。これ以降の報道取材にストロボは欠かせないものとなった。
少年はその場で現行犯逮捕されたが、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で赤い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後自殺した。この事件で少年のほかに、全アジア反共青年連盟責任者である吉松法俊(当時32歳)、右翼団体防共挺身隊隊長である福田進(当時32歳)、また大日本愛国党総裁である赤尾敏等が逮捕されている。1960・61(昭和35・36)年には、右翼による事件が相次いでいる。その時の情況などは以下参考に記載の※「山口二矢烈士供述調書と資料・当時の事件状況」 を参考にされると良い。
浅沼は全盛期の社会党のリーダーであった。並外れた行動力の主でもあり、巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「人間機関車」と呼ばれた。政治家を志して早稲田大学に入学後、雄弁会と相撲部に在籍する。雄弁会(以下参考に記載の※早稲田大学雄弁会
参照)で、その後建設者同盟の結成に加わって、社会主義運動に飛び込み、同志たちと全国の小作争議や労働争議を応援する日々を過ごした。
三宅正一や、稲村隆一(稲村順三の兄)、 川俣清音 等と知り合い、大正デモクラシーの機運が高まる中、建設者同盟の結成に加わって、社会主義運動に飛び込み、稲村や三宅とともに全国の小作争議労働争議にかかわった。1923(大正12)年に早稲田大学を卒業後も社会主義運動を続け、1924(大正13)年の足尾銅山争議をはじめたびたび投獄されている。1936(昭和11)年に社会大衆党から衆議院議員選挙に立候補し初当選。しかし、このころ、浅沼は敬愛する麻生久国家社会主義的な路線を打ち出し、軍部の総力戦体制に傾斜していったのに引きずられて、軍部による戦争政策の熱烈な支持者となった時期がある。戦後、彼は、その責任に悩んだことがあるといわれるが、いつも政府に批判的な日本のマスコミ関係も当時は同様であった。
敗戦後、浅沼は、日本社会党結成に参加し、中間派の指導者であった河上丈太郎が公職から追放されると、自然と中間派の中心人物となったたが、結党大会では賀川豊彦の音頭で「天皇陛下万歳!!」を三唱し、天皇に批判的な左派荒畑寒村らは憤慨して退席したという。1947(昭和22)年、書記長だった西尾末広片山哲内閣に入閣すると、書記長代理となり、翌・1948(昭和23)年、書記長に就くことになるが、戦後の労働組合運動(日本労働組合総評議会)をバックとする左派に対して、戦前の農民運動家(戦時農地政策と農民運動参照)を中心とする右派に属した。
1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約ともに反対の左派と,ともに賛成の右派が対立。浅沼はその折衷案で左右両派の融和に努めたが、左右分裂を食い止めることができなかった。その後、右派社会党書記長となったが、分裂した社会党が1955(昭和30)年、再統一すると、再び書記長に就任し、折からの鳩山一郎(現民主党幹事長鳩山由紀夫の祖父)内閣の「逆コース」(アメリカからの再軍備要求が強まるなか、占領初期に進められた民主化・地方分権化政策を否定し,国家権力を強化しようとする動きが強まった。以下参考に記載の※ 国際社会への復帰の政治史・9逆コースの進展参照)に対する反対運動や、反基地闘争、警職法反対闘争の先頭に立った。また、55年体制が確立された鳩山内閣は、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、憲法改正を重要な公約の一つにかかげていたため、憲法改正問題をめぐってわが国はじめて有力な二大政党が、保守革新に分れて対決することになった。このころから、急進的な姿勢を強め、1959(昭和34)年、訪中した浅沼は、中華人民共和国で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言し、国内外に大きな波紋を投げかけた。浅沼がこのように踏み出した発言をした背景には、かつて戦争に協力して、中国の人々に塗炭(とたん)の苦しみを与えたという深い自責の念があったためと言われているが、この発言が右翼の強い反発を買うこととなった。
翌・1960(昭和35)年、社会党委員長に選ばれた浅沼は、安保闘争の前面に立って戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。そして、1960年総選挙の前哨戦として、自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した10月12日、前年の言動から危機感を感じた右翼によって刺殺されることになったのである。
浅沼は非常に大衆に愛された政治家であった。浅沼が刺殺されると、全国で暴挙を非難する抗議集会や抗議デモがおこなわれた。また、マスコミ関係者にも浅沼に魅了された者が多く、浅沼の命日には毎年、浅沼にゆかりのある記者たちが一堂に会して、浅沼の死を悼んだという。この浅沼亡き後の社会党は衰退の一途をたどる。社会党は、1993(平成 5)年第40回総選挙後に自由民主党分裂をきっかけに誕生した細川護煕内閣に連立与党として参加した。約40年ぶりに、自民党支配によるいわゆる55年体制は崩壊した。このとき社会党は与党第一党ではあったが、総選挙で一人負けの状態であったため、与党第一党にもかかわらず首相を輩出することができなかったが、無視できるほど力は小さくないという、与党内でも微妙な扱いを受けることになった。翌・1994(平成 6)年6月、羽田連立与党は自由民主党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが逆に、自民党は連立与党切り崩しのため、社会党の村山富市委員長を首班とする連立政権樹立を決定、連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗し得ず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまり、村山政権が発足。村山首相は、就任直後の国会演説で安保条約肯定、原発肯定、非武装中立の放棄など旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に同年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えず、1995(平成 7)年の参議院選挙では、空前の大敗北を喫した。間髭の長いだけのお人よしのおじいちゃんが、自民党の思うように操られ、党を壊滅させてしまったといってよいだろう。このおじいちゃんが首相の時、神戸はあの空前の阪神淡路大震災に遭遇したが、この時、おじいちゃんは、神戸で震災があったことを知りながら、会議に没頭していたという。どちらにしても、被害地域の惨状の把握が遅れ、官邸からの大規模派遣がなかなか示されなかった事から対応が後手に回ったことも被害を拡大させた。村山首相は、なぜ自衛隊派遣が遅れたのかを衆議院本会議において問われ、「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁。この村山内閣の対応の遅れは国民から強い批判を浴びて内閣の支持率低下につながった。こんな人が最高幹部じゃ~、党がやってゆけるわけはないよね~。しかし、自民党にとっては、折角の二大政党制が出来かけたのを見事に潰し、崩れかけた自民党体制を立て直してくれた功労者ではあるよね~。今の国会の情況も自民対民主党他の野党連立が年金問題他で対立し、次の宗銀選挙で国民の真意を問おうという雰囲気になって着ている。ここは、野党もしっかりと連立を維持出来るか・・・、また、国民も自民党の苦し紛れのまやかしなどに、惑わされないようにしっかりと、過去どのようであったかも振り返り、与党・野党双方の政策の中身をじっくりと見て行かないとダメだよ。
(画像は、浅沼稲次郎刺殺の瞬間。撮影者は、毎日新聞社長尾靖。画像は、アサヒクロニクル・「週刊20世紀・写真の100年」より)
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浅沼稲次郎が右翼少年に刺され死亡した日・参考

2007-10-12 | 歴史
参考:
浅沼稲次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E6%B2%BC%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
※世界報道写真大賞(World Press Photo of the Year)
http://page.freett.com/nishi/pulitzer/worldpressphoto.html
大判カメラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%88%A4%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9
※あっ、クラカメだあ
http://www.cosmonet.org/camera/index.html
※山口二矢烈士供述調書と資料・当時の事件状況
http://www.ishiikazumasa.com/reference/otoya/situation1960.html
※早稲田大学雄弁会
http://www.yu-ben.com/
早稲田大学百年史
http://www.waseda.jp/archives/database/cent/cron_top.html
日本学生運動の夜明け 菊川忠雄 著 「学生社会運動史」
http://taharatoshihiko.9.dtiblog.com/blog-date-20060917.html
大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1916-20/1919_21.html
法政大学大原社会問題研究所/総合案内
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/index.html
大正デモクラシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
足尾銅山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%8A%85%E5%B1%B1
足尾銅山略年表
http://www.zuisousha.co.jp/tochigi/zuitashiosho.html
革新 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E6%96%B0
※ 国際社会への復帰
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/modern/06/019.html
阪神・淡路大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD