764( 天平宝字8)年の今日 (10月14日)淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流された。
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、奈良時代・733(天平5)年、天武天皇の皇子・舎人親王(母は大夫人・当麻山背=たぎまのやましろ)の七男として生まれる。名は大炊王(おおいおう)。
日本の第47代天皇であるが、『淳仁天皇』とは明治時代になってから明治天皇によって追号(ついごう。以下に出てくる諡参照))されたもので、続日本紀などでは天皇を廃された後は、廃帝(はいたい)・淡路廃帝・淡路公などと称されていた。
諡、あるいは諡号(諡参照)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のことであるが、諡号として和風諡号(国風諡号)・漢風諡号・追号の種類がある。和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=殯(もがり)の一環として行われてきた。また、漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶え、これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。これらはいずれも非業の死を遂げた霊を慰め、怨霊化を防ぐための意味から「徳」の字を奉られたものである。
江戸時代に、光格天皇の時に第58代光孝天皇以来、千年近く絶えてなかった漢風諡号選定が復活し、仁孝天皇、孝明天皇の3代を数えた。
そして、明治時代に入って、明治天皇によって、3人の天皇に追号が奉られた。世に廃帝などと呼ばれていた人たち、つまり、今回のテーマーの御仁である淡路廃帝を47代淳仁天皇に、承久の乱の時に、順徳天皇から譲位された懐成親王は即位の礼や大嘗祭も行われないまま3 ヶ月で退位させられた九条廃帝を85代仲恭天皇とし、壬申の乱で天武天皇軍に敗れた大友皇子を即位したものとして39代弘文天皇としたもである。(→大友皇子即位説)。
さらに大正時代には、南朝の寛成親王の即位の事実が判明したとして98代長慶天皇としている。
明治以降に追号されたこれら天皇は「万世一系」の大義を明確化するために、なされたものであるが、以下、淳仁天皇が、淡路廃帝となった経緯を以下に簡単に書いてみよう。
淳仁天皇は、天武天皇の皇子・舎人親王の子として生まれながら、3歳で父が没したこともあり、天皇の孫でありながら官位を受けることも注目される事もなかったが、757(天平宝字元)年、聖武天皇の遺言によって立太子した道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだったが、大炊王は仲麻呂の子・真従(まより)の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていたようだ。翌・758(天平宝字2)年に孝謙天皇から譲位され即位したが、この皇位継承には、橘諸兄を失脚させて絶大な権力を身につけて行く仲麻呂の意向により孝謙天皇が退位させられたと見る方が良さそうだ。しかし、実際に皇位につけば、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。仲麻呂は唐で安禄山の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなど、派手な政策を採り、専横が始まる。この時、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。
760(天平宝字4)年、光明皇太后が死去すると、後ろ盾を失った淳仁天皇と押勝の勢威は蔭りを見せ始める。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになり、危機感を抱いたのは淳仁天皇よりもむしろ押勝だった。
押勝は天皇を通じて上皇に苦情を申し入れたが、それを批判したとして上皇は激怒。上皇は762(天平宝字6)年、”国家の大事は自分が行い、天皇(と押勝は)は小事のみを行えばよいとの宣言を行った。押勝・淳仁天皇と孝謙上皇・道鏡との政争の始まりである。光明皇太后の後見を無くして、上皇の専制政治に焦りを感じた押勝謀反の噂を耳にした、上皇は遂に小納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院に派遣して鈴印(りょういん)を没収させた。この鈴印とは駅馬(やくめ)(公用通信網の使用に必要な使用許可証明)のことで、軍の発動権と文書による命令権の所在を示すものとして必須なものである。天皇の意思ではなかったようであるが、山村王が中宮院から帰る途中、押勝の手勢が襲ってきた。もはや完全な反乱である。764(天平宝字8)年9月に押勝は挙兵(恵美押勝の乱)するが、孝謙・道鏡側に先手をうたれ、近江の国で捕らえられ斬首された。この時、鈴印がものをいった。押勝は太師でありながら近江守を兼任し、父の武智麻呂も長年ここの国守をつとめていた近江に入った押勝軍は鈴印を手中にした上皇方によって、完全に動きを封じられてしまったのである。
恵美押勝の乱のとき、淳仁天皇は、最大の後見人である筈の押勝と行動をともにしていない。押勝は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた。その原因については不明だが、淳仁天皇が、既に上皇側に拘束されていたからだとも、押勝を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われているようだ。押勝が打ち首になった1ヵ月後の同年10月9日、邸宅にいた淳仁帝は、上皇より「押勝と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇をもって、母とともに淡路島へ流された。翌・765(天平神護元)年2月に道鏡の新政権側から現地の国司に警戒の強化が命じられている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際は処刑されたか、あるいは自害した可能性が高いという。近代を除く歴代天皇の御陵のほとんどは都やそれぞれの天皇の宮のあった近くに作られているが、淳仁帝の墓は淡路国三原郡(南あわじ市の天王森丘とされる)に作られ、即位していながら、孝謙上皇(淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇)の意向によって長らく天皇の一人とはされず廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
この孝謙上皇と道鏡のことについは、以前に、弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が大隅国へ配流された日でも触れたので、興味のある人はそこでも見てほしいが、この「道鏡事件」も天皇の「万世一系」と関わりのあるものと思われる。この事件を教訓に朝廷はその後、皇位継承について一段と「男系」の原則を守ることに腐心するようになる。(皇室の系図一覧 。天皇の一覧)
また、奈良時代は、日本が国家としての体制を整えていった時代であるが、非常に血塗られた時代であったとも言える。天智天皇は、息子の大友皇子に皇位を継がせたかったと日本書紀は伝えるが、天智の死後に起きた壬申の乱により、弟の大海人皇子(天武天皇)が勝利して即位した。つまり、壬申の乱によって、天智から天武に代わった王朝を、天武系を排斥することによって、また、元の天智天皇系に戻していった時代であったとも言えるだろう。
(画像は、淳仁天皇淡路陵(場所:兵庫県南あわじ市賀集)。1873〔明治6〕年、明治天皇は廃帝に淳仁天皇の追号をした際、同時に、京都市上京区今出川通にある白峯神宮 に淡路から御神霊を迎えて合祀されている。)
参考:
Category:日本の天皇- 淳仁天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87
Wikipedia - 淳仁天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/淳仁天皇
続日本紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
J-TEXTS 日本文学電子図書館・続日本紀(国史大系本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が大隅国へ配流された日http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20070925
官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro02a.html
恵美押勝の乱
http://www.kaho.biz/main/nara/osikatu.html
はあとふる淡路島(淡路人物誌~ここに人あり~淳仁天皇)
http://www.eonet.ne.jp/~heartful/jyunnin.html
淳仁天皇の怨霊
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/jyuonryo.html
白峯神宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E5%AE%AE
元官幣大社・白峯神宮
http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/
-天皇陵-淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/047/index.html
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、奈良時代・733(天平5)年、天武天皇の皇子・舎人親王(母は大夫人・当麻山背=たぎまのやましろ)の七男として生まれる。名は大炊王(おおいおう)。
日本の第47代天皇であるが、『淳仁天皇』とは明治時代になってから明治天皇によって追号(ついごう。以下に出てくる諡参照))されたもので、続日本紀などでは天皇を廃された後は、廃帝(はいたい)・淡路廃帝・淡路公などと称されていた。
諡、あるいは諡号(諡参照)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のことであるが、諡号として和風諡号(国風諡号)・漢風諡号・追号の種類がある。和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=殯(もがり)の一環として行われてきた。また、漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶え、これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。これらはいずれも非業の死を遂げた霊を慰め、怨霊化を防ぐための意味から「徳」の字を奉られたものである。
江戸時代に、光格天皇の時に第58代光孝天皇以来、千年近く絶えてなかった漢風諡号選定が復活し、仁孝天皇、孝明天皇の3代を数えた。
そして、明治時代に入って、明治天皇によって、3人の天皇に追号が奉られた。世に廃帝などと呼ばれていた人たち、つまり、今回のテーマーの御仁である淡路廃帝を47代淳仁天皇に、承久の乱の時に、順徳天皇から譲位された懐成親王は即位の礼や大嘗祭も行われないまま3 ヶ月で退位させられた九条廃帝を85代仲恭天皇とし、壬申の乱で天武天皇軍に敗れた大友皇子を即位したものとして39代弘文天皇としたもである。(→大友皇子即位説)。
さらに大正時代には、南朝の寛成親王の即位の事実が判明したとして98代長慶天皇としている。
明治以降に追号されたこれら天皇は「万世一系」の大義を明確化するために、なされたものであるが、以下、淳仁天皇が、淡路廃帝となった経緯を以下に簡単に書いてみよう。
淳仁天皇は、天武天皇の皇子・舎人親王の子として生まれながら、3歳で父が没したこともあり、天皇の孫でありながら官位を受けることも注目される事もなかったが、757(天平宝字元)年、聖武天皇の遺言によって立太子した道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだったが、大炊王は仲麻呂の子・真従(まより)の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていたようだ。翌・758(天平宝字2)年に孝謙天皇から譲位され即位したが、この皇位継承には、橘諸兄を失脚させて絶大な権力を身につけて行く仲麻呂の意向により孝謙天皇が退位させられたと見る方が良さそうだ。しかし、実際に皇位につけば、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。仲麻呂は唐で安禄山の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなど、派手な政策を採り、専横が始まる。この時、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。
760(天平宝字4)年、光明皇太后が死去すると、後ろ盾を失った淳仁天皇と押勝の勢威は蔭りを見せ始める。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになり、危機感を抱いたのは淳仁天皇よりもむしろ押勝だった。
押勝は天皇を通じて上皇に苦情を申し入れたが、それを批判したとして上皇は激怒。上皇は762(天平宝字6)年、”国家の大事は自分が行い、天皇(と押勝は)は小事のみを行えばよいとの宣言を行った。押勝・淳仁天皇と孝謙上皇・道鏡との政争の始まりである。光明皇太后の後見を無くして、上皇の専制政治に焦りを感じた押勝謀反の噂を耳にした、上皇は遂に小納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院に派遣して鈴印(りょういん)を没収させた。この鈴印とは駅馬(やくめ)(公用通信網の使用に必要な使用許可証明)のことで、軍の発動権と文書による命令権の所在を示すものとして必須なものである。天皇の意思ではなかったようであるが、山村王が中宮院から帰る途中、押勝の手勢が襲ってきた。もはや完全な反乱である。764(天平宝字8)年9月に押勝は挙兵(恵美押勝の乱)するが、孝謙・道鏡側に先手をうたれ、近江の国で捕らえられ斬首された。この時、鈴印がものをいった。押勝は太師でありながら近江守を兼任し、父の武智麻呂も長年ここの国守をつとめていた近江に入った押勝軍は鈴印を手中にした上皇方によって、完全に動きを封じられてしまったのである。
恵美押勝の乱のとき、淳仁天皇は、最大の後見人である筈の押勝と行動をともにしていない。押勝は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた。その原因については不明だが、淳仁天皇が、既に上皇側に拘束されていたからだとも、押勝を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われているようだ。押勝が打ち首になった1ヵ月後の同年10月9日、邸宅にいた淳仁帝は、上皇より「押勝と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇をもって、母とともに淡路島へ流された。翌・765(天平神護元)年2月に道鏡の新政権側から現地の国司に警戒の強化が命じられている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際は処刑されたか、あるいは自害した可能性が高いという。近代を除く歴代天皇の御陵のほとんどは都やそれぞれの天皇の宮のあった近くに作られているが、淳仁帝の墓は淡路国三原郡(南あわじ市の天王森丘とされる)に作られ、即位していながら、孝謙上皇(淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇)の意向によって長らく天皇の一人とはされず廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
この孝謙上皇と道鏡のことについは、以前に、弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が大隅国へ配流された日でも触れたので、興味のある人はそこでも見てほしいが、この「道鏡事件」も天皇の「万世一系」と関わりのあるものと思われる。この事件を教訓に朝廷はその後、皇位継承について一段と「男系」の原則を守ることに腐心するようになる。(皇室の系図一覧 。天皇の一覧)
また、奈良時代は、日本が国家としての体制を整えていった時代であるが、非常に血塗られた時代であったとも言える。天智天皇は、息子の大友皇子に皇位を継がせたかったと日本書紀は伝えるが、天智の死後に起きた壬申の乱により、弟の大海人皇子(天武天皇)が勝利して即位した。つまり、壬申の乱によって、天智から天武に代わった王朝を、天武系を排斥することによって、また、元の天智天皇系に戻していった時代であったとも言えるだろう。
(画像は、淳仁天皇淡路陵(場所:兵庫県南あわじ市賀集)。1873〔明治6〕年、明治天皇は廃帝に淳仁天皇の追号をした際、同時に、京都市上京区今出川通にある白峯神宮 に淡路から御神霊を迎えて合祀されている。)
参考:
Category:日本の天皇- 淳仁天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87
Wikipedia - 淳仁天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/淳仁天皇
続日本紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
J-TEXTS 日本文学電子図書館・続日本紀(国史大系本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が大隅国へ配流された日http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20070925
官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro02a.html
恵美押勝の乱
http://www.kaho.biz/main/nara/osikatu.html
はあとふる淡路島(淡路人物誌~ここに人あり~淳仁天皇)
http://www.eonet.ne.jp/~heartful/jyunnin.html
淳仁天皇の怨霊
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/jyuonryo.html
白峯神宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E5%AE%AE
元官幣大社・白峯神宮
http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/
-天皇陵-淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/047/index.html