今日(10月17日)は「カラオケ文化の日」。
全国カラオケ事業者協会が制定。1994(平成 6)年10月17日が同協会の設立記念日であることから。同協会によると、それ以後、文化専門委員会が中心となり、カラオケを通した文化活動の支援や、カラオケを媒介とした国際文化交流などの行事を開催しているそうだ。
「カラオケ」は、もともと、歌を歌う際、またはメロディパート(主旋律)を担う楽器を演奏する際に、オーケストラによる生演奏ではなく事前に録音されたテープやレコードで伴奏を再生することにより演奏を再現することをいう。つまり、「カラオケ」のカラは「空」、オケは「オーケストラ」の略で、「生伴奏なし」と同義で、「カラオケね」は「伴奏なしでやろう」という意味で、放送業界ではじまったことで、それは今でも続いている。一説によればNHK交響楽団員らの雑談から出た言葉だという。これは、ラジオ、テレビでの放送などが当初の生放送時代から、後には、映像記録が可能なビデオが導入される時代となるが、その中間期の、映像が生放送だったが音響は録音でまかなえるようになった時代に誕生したことばである。
今、我々が言っているところの「カラオケ」が正式に何時始まったのかはよく判らないらしいが、その原型ができたのは1972(昭和47)年ごろのようである。その発祥の地は、我が地元神戸市内であり、井上大佑さんが、音源製作、再生装置、販売方法をセットにした「エイトジューク」というサービスとして一般に提供したのが広まり「カラオケ」とよばれるようになったという。以下参考に記載の有限会社イノウエ(井上大佑 HP)を見ると、その経緯を以下のように書いてある。
”当時三ノ宮で弾き語りとしてクラブに出演していた井上は、音痴な客に合わせて演奏するのが得意だった。何故なら彼自身、楽譜が読めなかったのだという。高校時代、見よう見まねで始めたドラムを皮切りに、彼は芸術ではなく商売(井上の言葉で言えば“小商い”)としてバンドマンを続けていた。ある日店でなじみの社長が社員旅行用に演奏をテープに録音してほしいと言って来た。いつものようにキーやテンポを社長に合わせた演奏を録音すると、これが大好評だった。「ならばこういうテープを酒場に置いたらいいじゃないか」。閃いた井上は、当時登場していた8トラックのテープにオリジナル演奏を吹き込んで空演奏のテープを作った。同時に再生装置にコインボックスを付け、100円で5分間マイクの音声と演奏が流れるように設定した。これがカラオケの原型だ。”・・・と。
このころから、徐々に、一般人にもカラオケというものが広まっていくわけだが、関西で火がつき、これがたちまち酒場で大流行し「カラオケ」ブームになり、「カラオケ」も言葉が流行語にさえなったのは、1977(昭和52)年のことである。流行る演奏に合わせ、自慢のノドを競う。順番待ちしながら歌詞カードと首っ引き。この当時、カラオケ装置の値段は130曲付きで一式40万円程度だったそうだ。ブームのおかげで弱ったのが演奏家たち、生バンドアルバイトの口が激減したという。また、同年12月には、川崎市のサパークラブで客同士がマイクを奪い合い18人が大乱闘の末4人がけがするなどという騒動が起こる。そして、翌1978(昭和53)年4月には横浜市のスナックで4人連れのパチンコ店員が「自慢ののどを聞かせたのに、知らぬ顔で拍手もしない」と食事に来て居合わせていた運転手をなぐりつけた上、川に放り込んで1週間のけがを負わせる。そして、同年6月長野県のスナックでは、2人の客が酒を飲んで気分がのったところで、マイクを手に「時には娼婦のように」を歌いだすと、店の片隅で1人酒を飲んでいた男がやおら立ち上がり「歌が下手だ。個性のない、ガキのような歌だ。止めろ」と叫びだす。そして口論の末、歌をうたっていた2人連れが叫んだ男を外に連れ出し、ナイフで刺し殺すという、とうとう日本で最初のカラオケ殺人までが起こってしまった。1978(昭和53)年には、カラオケ公害(周囲の騒音被害が深刻化する)が、流行語にもなっている。
この当時、夜の酒場でカラオケを絶唱するのは、30~40代のサラリーマンが中心。愛唱歌は「夜霧よこんやもありがとう」(歌:石原 裕次郎)「おまえに」(歌:フランク永井)など歌謡曲が中心だ。ビデオのある店、録音したテープを土産に渡す店、カラオケ・バスまで登場するようになり、「一億総歌手」と化した。歌っている人も、番を待っている人も、いわば思考停止(以下参考に記載の「※思考停止とは - はてなダイアリー」参照)状態だからカラオケ蛮行は日常茶飯事。深夜早朝の「カラオケ騒音」は、騒音被害のトップに躍り出た。
そして、1979(昭和54)年1月、東京の北区の酒場では、○○系の暴力団員がカラオケで歌っていた別の客××組の暴力団員に拍手したことから、「あの歌はへただ」「いや上手だ」と口論に。挙句にビール瓶や花瓶で大立ち回りとなったが、ご互いに暴力団だとは知らなかったようだ。そして、同年11月、東京都墨田区錦糸町のパブ「エントリー」で、第2のカラオケ殺人が起こった。その日、同店に6人の客が押しかけた。おりしも常連であつた運転手が歌いだしたところ。運転手が「おれの歌をなぜ聴けない」といったことから口論に。一度はママの仲裁でおさまったが、午前2時過ぎ、店を出た運転手を追いかけて、「さっきはいいたいことをいってくれたな。お前1人の店ではないだろう」と袋叩きにした。運転手は倒れた拍子に後頭部を打って脳挫傷で死亡したのだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
内輪の楽しみが他人を怒らせる。「カラオケ公害」は 1980年代半、カラオケを専門的に提供するカラオケ・ボックスの登場とともに消えた。しかし、それはまた別の犯罪を生むことになる。1992(平成 4)年ごろから、新曲が早く歌える通信カラオケの登場などもあって高校生などの若年層が良く利用するようになる。しかし、カラオケ・ボックスの密室性・防音性が高くなっているという特徴は、性犯罪の舞台ともなり得るという問題を併せ持っていた。この点を考慮し、現在は全てのカラオケボックスで、ドア自体や通路側の壁に大型のガラス窓が設置され、また一部店舗では室内に防犯カメラが設置されているようだ。
技術としては様々な変遷があるものの、カラオケという装置およびビジネスモデルは井上がセットで生み出したものだ。彼は1999(平成11)年アメリカの週刊誌「タイム」において「今世紀、アジアにもっとも影響のあった人物20人」という特集の中で「毛沢東やガンジーがアジアの昼を変えたならば、井上はアジアの夜を変えた男だ」と紹介された。また2004(平成16)年には、井上は、 イグノーベル平和賞受賞している。このイグノーベルの名は、「ノーベル賞」に反語的な意味合いの接頭辞を加えたもじりであると共に、「卑劣な、あさましい」を意味する"ignoble"と掛けている。その名で分かる通り、ノーベル賞のパロディ的な賞で、1991(平成3)年に創設されたもの。毎年10月、風変わりな研究をおこなったり社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与される。
因みに、井上大佑の平和賞 受賞理由は「カラオケを発明し、人々がお互いに許容しあう、全く新しい方法を提供したことに対して(歌によって相手に苦痛を与えるためには、自らも相手の歌による苦痛を耐え忍ばなければならない)。 」だったという。
このような賞の性質上、名誉と考える受賞者もいれば、不名誉と考える者もいるはずだ。果たして、受賞した、井上はどう考えているのだろうか???
受賞の理由を考えてみると、外国人から見ると確かにそのように見えているのかもしれないね~。アジアでは、結構、流行っているようであるが、カラオケの設置している店の、サービス内容は日本のキャバクラに近く、日本人クラブの一種とされているようだ。アジア以外の国の人から見れば、「歌の余り上手でもない人が、よく、人の前で歌いたがる」「なぜ聴きたくもないのに金を払って飲みに来てまで素人の下手な歌を聞かされなければいけないのか?」と考えるかも知れない。事実、私も、余り歌は上手でないので、人前では歌わないし、バーなどにカラオケを設置するようになってからは、現役時代など、交際上止む無く、そのような店に行くことはあっても、一人で行く時は、カラオケを置いていないところ、また店が暇で、客がいそうにないとき以外は行かないようにしていた。確かに、最近の人たちは、歌が好きで、歌う機会も増えたことから、昔の人たちに比べれば相当上手にはなったとは思う。大きな声を出して歌うのは、健康的にもよいことだろう。しかし、聞いていると、最近は、マイクも非常によくなったせいで、歌は、口先だけで器用にマイクに囁いているといった感じのものも多いようである。私も音楽を聴いたり歌をうたうこと事態は好きなので、昔、会社のコーラス部にも参加していたし、歌声喫茶が流行っていたころは、仲間とよく歌いにいったものである。よく行われた宴会などでは酔いに任せて茶碗を箸でたたきながら「ちゃんちきおけさ」など歌ったものである。歌の好きな気の合う仲間同士だけで、カラオケボックスの中などで歌う段には、トラブルも起こらずいいのではないか。
それはそうと、歌手の森進一と作詞家川内康範氏との「おふくろさん騒動」から、川内は、森に対して自作の歌唱を禁止した。もう森の「おふくろさん」は聞けないが、カラオケで歌うのは自由だろうね~。本当に上手な人が歌うのなら、私も聴いてみたいが・・・。
しかし、これだけカラオケブームを起こした井上は特許を申請していなかった。もし特許を申請し取得できていたとしたら、年に100億円の特許権収入が発生するという試算があるそうだ。惜しいことをしたよね~。その24年後の1996(平成 8)年に、「携帯電話着信音のMIDIデータ化とその配信及び課金」構想を発表した若者がいる。後にいう「着メロ」である。当時、電子楽器・通信カラオケ業界のメーカー系業界団体である社団法人音楽電子事業協会(AMEI)の著作権委員会業務用通信カラオケワーキンググループ委員、ソフトウェア委員会マルチメディア研究部会副部会長であった松川政裕氏である。彼も、特許を持っていないそうである。
井上は特許なんて考えてもいなかったそうだが、松川は知っていたが、特許など申請できる業界の環境でなかったことなどかららしいが、本当に惜しいね~。このことは、以下参考に記載の※カラオケと着メロにみる特許貧困国ニッポンを参照されると良い。
産業となっていくカラオケの詳しい歴史のことは、全国カラオケ事業者協会の「カラオケ歴史年表」で見れるので省略した。
(画像:この節酒場で流行るものはカラオケ。昭和52年東京・新宿で。朝日クロニクル「週刊20世紀より)
参考:
全国カラオケ事業者協会
http://www.japan-karaoke.com/
カラオケ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B1
カラオケの歴史
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/7987/karaoke/rekishi.html
有限会社イノウエ(井上大佑 HP)
http://www.inouej1.com/
※カラオケと着メロにみる特許貧困国ニッポン
http://www.taxcom.co.jp/news/keiei/2002/2002_05/keiei2002_05_13_003.htm
※思考停止とは - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF
歌声喫茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%A3%B0%E5%96%AB%E8%8C%B6
川内康範 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84
全国カラオケ事業者協会が制定。1994(平成 6)年10月17日が同協会の設立記念日であることから。同協会によると、それ以後、文化専門委員会が中心となり、カラオケを通した文化活動の支援や、カラオケを媒介とした国際文化交流などの行事を開催しているそうだ。
「カラオケ」は、もともと、歌を歌う際、またはメロディパート(主旋律)を担う楽器を演奏する際に、オーケストラによる生演奏ではなく事前に録音されたテープやレコードで伴奏を再生することにより演奏を再現することをいう。つまり、「カラオケ」のカラは「空」、オケは「オーケストラ」の略で、「生伴奏なし」と同義で、「カラオケね」は「伴奏なしでやろう」という意味で、放送業界ではじまったことで、それは今でも続いている。一説によればNHK交響楽団員らの雑談から出た言葉だという。これは、ラジオ、テレビでの放送などが当初の生放送時代から、後には、映像記録が可能なビデオが導入される時代となるが、その中間期の、映像が生放送だったが音響は録音でまかなえるようになった時代に誕生したことばである。
今、我々が言っているところの「カラオケ」が正式に何時始まったのかはよく判らないらしいが、その原型ができたのは1972(昭和47)年ごろのようである。その発祥の地は、我が地元神戸市内であり、井上大佑さんが、音源製作、再生装置、販売方法をセットにした「エイトジューク」というサービスとして一般に提供したのが広まり「カラオケ」とよばれるようになったという。以下参考に記載の有限会社イノウエ(井上大佑 HP)を見ると、その経緯を以下のように書いてある。
”当時三ノ宮で弾き語りとしてクラブに出演していた井上は、音痴な客に合わせて演奏するのが得意だった。何故なら彼自身、楽譜が読めなかったのだという。高校時代、見よう見まねで始めたドラムを皮切りに、彼は芸術ではなく商売(井上の言葉で言えば“小商い”)としてバンドマンを続けていた。ある日店でなじみの社長が社員旅行用に演奏をテープに録音してほしいと言って来た。いつものようにキーやテンポを社長に合わせた演奏を録音すると、これが大好評だった。「ならばこういうテープを酒場に置いたらいいじゃないか」。閃いた井上は、当時登場していた8トラックのテープにオリジナル演奏を吹き込んで空演奏のテープを作った。同時に再生装置にコインボックスを付け、100円で5分間マイクの音声と演奏が流れるように設定した。これがカラオケの原型だ。”・・・と。
このころから、徐々に、一般人にもカラオケというものが広まっていくわけだが、関西で火がつき、これがたちまち酒場で大流行し「カラオケ」ブームになり、「カラオケ」も言葉が流行語にさえなったのは、1977(昭和52)年のことである。流行る演奏に合わせ、自慢のノドを競う。順番待ちしながら歌詞カードと首っ引き。この当時、カラオケ装置の値段は130曲付きで一式40万円程度だったそうだ。ブームのおかげで弱ったのが演奏家たち、生バンドアルバイトの口が激減したという。また、同年12月には、川崎市のサパークラブで客同士がマイクを奪い合い18人が大乱闘の末4人がけがするなどという騒動が起こる。そして、翌1978(昭和53)年4月には横浜市のスナックで4人連れのパチンコ店員が「自慢ののどを聞かせたのに、知らぬ顔で拍手もしない」と食事に来て居合わせていた運転手をなぐりつけた上、川に放り込んで1週間のけがを負わせる。そして、同年6月長野県のスナックでは、2人の客が酒を飲んで気分がのったところで、マイクを手に「時には娼婦のように」を歌いだすと、店の片隅で1人酒を飲んでいた男がやおら立ち上がり「歌が下手だ。個性のない、ガキのような歌だ。止めろ」と叫びだす。そして口論の末、歌をうたっていた2人連れが叫んだ男を外に連れ出し、ナイフで刺し殺すという、とうとう日本で最初のカラオケ殺人までが起こってしまった。1978(昭和53)年には、カラオケ公害(周囲の騒音被害が深刻化する)が、流行語にもなっている。
この当時、夜の酒場でカラオケを絶唱するのは、30~40代のサラリーマンが中心。愛唱歌は「夜霧よこんやもありがとう」(歌:石原 裕次郎)「おまえに」(歌:フランク永井)など歌謡曲が中心だ。ビデオのある店、録音したテープを土産に渡す店、カラオケ・バスまで登場するようになり、「一億総歌手」と化した。歌っている人も、番を待っている人も、いわば思考停止(以下参考に記載の「※思考停止とは - はてなダイアリー」参照)状態だからカラオケ蛮行は日常茶飯事。深夜早朝の「カラオケ騒音」は、騒音被害のトップに躍り出た。
そして、1979(昭和54)年1月、東京の北区の酒場では、○○系の暴力団員がカラオケで歌っていた別の客××組の暴力団員に拍手したことから、「あの歌はへただ」「いや上手だ」と口論に。挙句にビール瓶や花瓶で大立ち回りとなったが、ご互いに暴力団だとは知らなかったようだ。そして、同年11月、東京都墨田区錦糸町のパブ「エントリー」で、第2のカラオケ殺人が起こった。その日、同店に6人の客が押しかけた。おりしも常連であつた運転手が歌いだしたところ。運転手が「おれの歌をなぜ聴けない」といったことから口論に。一度はママの仲裁でおさまったが、午前2時過ぎ、店を出た運転手を追いかけて、「さっきはいいたいことをいってくれたな。お前1人の店ではないだろう」と袋叩きにした。運転手は倒れた拍子に後頭部を打って脳挫傷で死亡したのだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
内輪の楽しみが他人を怒らせる。「カラオケ公害」は 1980年代半、カラオケを専門的に提供するカラオケ・ボックスの登場とともに消えた。しかし、それはまた別の犯罪を生むことになる。1992(平成 4)年ごろから、新曲が早く歌える通信カラオケの登場などもあって高校生などの若年層が良く利用するようになる。しかし、カラオケ・ボックスの密室性・防音性が高くなっているという特徴は、性犯罪の舞台ともなり得るという問題を併せ持っていた。この点を考慮し、現在は全てのカラオケボックスで、ドア自体や通路側の壁に大型のガラス窓が設置され、また一部店舗では室内に防犯カメラが設置されているようだ。
技術としては様々な変遷があるものの、カラオケという装置およびビジネスモデルは井上がセットで生み出したものだ。彼は1999(平成11)年アメリカの週刊誌「タイム」において「今世紀、アジアにもっとも影響のあった人物20人」という特集の中で「毛沢東やガンジーがアジアの昼を変えたならば、井上はアジアの夜を変えた男だ」と紹介された。また2004(平成16)年には、井上は、 イグノーベル平和賞受賞している。このイグノーベルの名は、「ノーベル賞」に反語的な意味合いの接頭辞を加えたもじりであると共に、「卑劣な、あさましい」を意味する"ignoble"と掛けている。その名で分かる通り、ノーベル賞のパロディ的な賞で、1991(平成3)年に創設されたもの。毎年10月、風変わりな研究をおこなったり社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与される。
因みに、井上大佑の平和賞 受賞理由は「カラオケを発明し、人々がお互いに許容しあう、全く新しい方法を提供したことに対して(歌によって相手に苦痛を与えるためには、自らも相手の歌による苦痛を耐え忍ばなければならない)。 」だったという。
このような賞の性質上、名誉と考える受賞者もいれば、不名誉と考える者もいるはずだ。果たして、受賞した、井上はどう考えているのだろうか???
受賞の理由を考えてみると、外国人から見ると確かにそのように見えているのかもしれないね~。アジアでは、結構、流行っているようであるが、カラオケの設置している店の、サービス内容は日本のキャバクラに近く、日本人クラブの一種とされているようだ。アジア以外の国の人から見れば、「歌の余り上手でもない人が、よく、人の前で歌いたがる」「なぜ聴きたくもないのに金を払って飲みに来てまで素人の下手な歌を聞かされなければいけないのか?」と考えるかも知れない。事実、私も、余り歌は上手でないので、人前では歌わないし、バーなどにカラオケを設置するようになってからは、現役時代など、交際上止む無く、そのような店に行くことはあっても、一人で行く時は、カラオケを置いていないところ、また店が暇で、客がいそうにないとき以外は行かないようにしていた。確かに、最近の人たちは、歌が好きで、歌う機会も増えたことから、昔の人たちに比べれば相当上手にはなったとは思う。大きな声を出して歌うのは、健康的にもよいことだろう。しかし、聞いていると、最近は、マイクも非常によくなったせいで、歌は、口先だけで器用にマイクに囁いているといった感じのものも多いようである。私も音楽を聴いたり歌をうたうこと事態は好きなので、昔、会社のコーラス部にも参加していたし、歌声喫茶が流行っていたころは、仲間とよく歌いにいったものである。よく行われた宴会などでは酔いに任せて茶碗を箸でたたきながら「ちゃんちきおけさ」など歌ったものである。歌の好きな気の合う仲間同士だけで、カラオケボックスの中などで歌う段には、トラブルも起こらずいいのではないか。
それはそうと、歌手の森進一と作詞家川内康範氏との「おふくろさん騒動」から、川内は、森に対して自作の歌唱を禁止した。もう森の「おふくろさん」は聞けないが、カラオケで歌うのは自由だろうね~。本当に上手な人が歌うのなら、私も聴いてみたいが・・・。
しかし、これだけカラオケブームを起こした井上は特許を申請していなかった。もし特許を申請し取得できていたとしたら、年に100億円の特許権収入が発生するという試算があるそうだ。惜しいことをしたよね~。その24年後の1996(平成 8)年に、「携帯電話着信音のMIDIデータ化とその配信及び課金」構想を発表した若者がいる。後にいう「着メロ」である。当時、電子楽器・通信カラオケ業界のメーカー系業界団体である社団法人音楽電子事業協会(AMEI)の著作権委員会業務用通信カラオケワーキンググループ委員、ソフトウェア委員会マルチメディア研究部会副部会長であった松川政裕氏である。彼も、特許を持っていないそうである。
井上は特許なんて考えてもいなかったそうだが、松川は知っていたが、特許など申請できる業界の環境でなかったことなどかららしいが、本当に惜しいね~。このことは、以下参考に記載の※カラオケと着メロにみる特許貧困国ニッポンを参照されると良い。
産業となっていくカラオケの詳しい歴史のことは、全国カラオケ事業者協会の「カラオケ歴史年表」で見れるので省略した。
(画像:この節酒場で流行るものはカラオケ。昭和52年東京・新宿で。朝日クロニクル「週刊20世紀より)
参考:
全国カラオケ事業者協会
http://www.japan-karaoke.com/
カラオケ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B1
カラオケの歴史
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/7987/karaoke/rekishi.html
有限会社イノウエ(井上大佑 HP)
http://www.inouej1.com/
※カラオケと着メロにみる特許貧困国ニッポン
http://www.taxcom.co.jp/news/keiei/2002/2002_05/keiei2002_05_13_003.htm
※思考停止とは - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF
歌声喫茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%A3%B0%E5%96%AB%E8%8C%B6
川内康範 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84