12月7日右近の橘
959(天徳3)年 紫宸殿の前庭に「右近の橘」が植えられる
959(天徳3)年の今日(12月7日)は、紫宸殿の前庭に「右近の橘」が植えられるた日である。
794(延暦13)年10月、桓武天皇により長岡京からの遷都令が出され、日本の首都として平安京が造営された。
平安京は、中国の長安城をモデルにしたもので、大きさは長安城の約3分の1。平安京は、京域の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に分けられ、左京と右京が置かれた。(左京と左京区参照)。朱雀大路を中心として南北約5.2km、東西約4.7kmの長方形となっている。大内裏は、内裏の周囲に、国家的行事が行われる場所や諸官庁が置かれたところであり、内裏は、大内裏の中央東寄りにおかれた、天皇の私的な住居であり、中央政庁である「朝堂院」の北側に位置し、周囲を築地に囲まれ、広さは、東西約200m、南北約300mほどあった。内裏の内部は北側に後宮、南側に天皇の政務所である紫宸殿(ししんでん)や日常生活の中心地である清涼殿などがあった。
紫宸殿は、天皇の私的な在所であった内裏において、天皇元服や立太子、節会(せちえ)などの儀式が行われた正殿であり、天皇の普段居住する殿舎である清涼殿に対し公的な意味合いが強かった。
その正殿である紫宸殿の前庭には959(天徳3)年の今日(12月7日)、天皇のいる位置から見て西側に「橘(たちばま)」が植えられ、東側の桜と対になった。
その木を先頭にそれぞれの近くに名門の御曹司からなる左近衛と右近衛が配陣されていたため、「左近の桜」、「右近の橘」と称されていた。紫式部の『源氏物語』の主人公である光源氏も、恋に目覚めたころはそこに並ぶ一人であった。960(天徳4)年3月30日には、「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」が村上天皇の主催により清涼殿で催された。当代一流の12人の歌人と応援の方人(かたうど)たちが召されての超豪華な大歌会で、12の題で20番が合わされた。結果は、判者藤原実頼は優劣を決めかねたが、天皇より判を下すよう命じられ、困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、天皇のご様子を窺うと、ひそかに平兼盛の「しのぶれど…」を口遊まれた。そこで右の勝と決したという。(以下参考に記載の「百人一首 平兼盛〔千人万首〕参照)。源高明は、一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており『源氏物語』の主人公光源氏のモデルの一人とされているそうだ。
中国文化を習い花を見ながら歌を読んだ万葉人。屋敷の庭に花を植えて楽しむ風潮は、平城京時代に広まったとされているが、この時代、花といえば梅をさしていた。万葉集には、萩は141首、梅は118首あるが、桜はわずか44種しか詠まれていない。しかし、橘を詠んだ歌は73種もあり(以下参考に記載の「万葉集:橘(たちばな)を詠んだ歌」参照)、梅とともに多く詠まれている。
では、何故左近の「梅」ではなく、「桜」なのか?。
それは、左近の「桜」は、もともとは梅の樹で桓武天皇の遷都のときに植えられていた。しかし、承和年間(834年-847年)枯死したため、仁明天皇の時「桜」に植替えたことが鎌倉初期の説話集『古事談』に書かれている。(詳しくは、以下参考に記載の紫宸殿前の左近の梅がなぜ桜に変わったのか?。 を見られるとよい)
遣唐使の廃止以後、独自の文化を形成していく上で、この時代には、中国的な花ではなく、日本固有の花が好まれたのか、梅は桜と交代し、平安後期にも入ると、宮廷を中心として、梅よりも桜が様々な行事に出始める。
また、右近の「橘」も959(天徳3)年12月に植えられたものは、日本に自生していた「タチバナ」ではなく、中国からの渡来で、食用とされた漢名の「橘」、つまり、今日の「キシュウミカン」に近い柑橘類だった可能性が高いとされている。
万葉の歌人大伴家持は、以下のように橘を詠んでいる。
「橘は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶し見が欲し」(大伴家持 巻18-4112)
「時じくに」は、絶え間なくという意味で、”橘は、花も実も見るのですが、いつもいつも見ていたいものですよ。”といったところである。 ただ、出世した橘氏にたいするお世辞かやっかみの歌かもしれない。
「時じくに」は、古事記からの引用である。
11代垂仁天皇の命により、常世の国(祖先の国である新羅のこととも)から「時じくの香(かぐ)の木の実(非時香果:時を定めずいつも黄金に輝く香しき木の実)」 と呼ばれる不老不死の力を持つ霊薬 をタジマモリ(田道間守)に持ち帰らせたという話があり、彼が持ち帰った「非時の香菓」を、古事記では「是今橘也」(これ今の橘なり)としている。
ミカン科ミカン属の常緑小高木は、いずれも南方系のもので、熱帯や亜熱帯には多くの種が自生し、また、栽培されるが、タチバナは、その中で最も北に分布し、和歌山県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。樹高は2-4m、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3-6cm。濃い緑色で光沢がある。果実は直径3cmほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かない。橘に含まれるクエン酸には血行促進、疲労除去の作用があり、ビタミンCも多いから風邪など感染症に対する自然治癒力を強化する働きがあり、それが”老化防止の霊菓”とみられた理由ではないだろうか。
日本では、実より花や常緑の葉が注目され、マツなどと同様、常緑イコール「永遠」ということで尊ばれたのだろう。
また、『橘』が菓子の祖であることは、以前に毎月15日「お菓子の日」で書いた。詳しくは、ここで見てください。
お菓子の神社としては、兵庫県豊岡市・中嶋神社、和歌山県下津町・橘本(きつもと)神社に祀られて、分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。この菓祖神として祀られているのが田道間守である。
「タチバナ」という名前自体、タヂマバナ(田道間花)が転じたものとする説もあるという。 また、橘の常緑にあやかってこの姓を与えられたと考えられている。源平藤橘と呼ばれる源氏、平氏、藤原氏、それに橘諸兄を祖とする橘氏が奈良時代に生まれている。聖武天皇の以下の歌がある。
(しもつき)、左大弁(ひだりのおほきおほともひ)葛城王(かづらきのおほきみ)等(たち)に、橘の氏(うぢ)を賜姓(たま)へる時、みよみませる御製歌(おほみうた)一首
「橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木」(聖武天皇 巻6-1009)
葛城王が臣籍に下り、橘姓を賜った際に、橘家がいつまでも栄えることを願って詠まれた歌であり、天皇は、常緑樹の橘が青々と繁る様に橘氏が栄えていくことを望んでこのを歌に詠んだのであろう。天皇にとっては、橘諸兄を重用することで藤原家を牽制ししょうとしていた。そして、諸兄は743年(天平15年)には左大臣として最高位にもついた。大伴家持も橘諸兄とともに宮廷や和歌の世界でも親密な関係を保っていたが、次第に藤原氏が勢力を盛り返し、橘家、大伴家共に厳しい命運をたどり、諸兄は失意の底で757(天平宝字元)年 没してしまった。大伴家持と親好があった、諸兄も『万葉集』の撰者の一人といわれている。
(画像は、紫宸殿前庭の「右近の橘」と「左近の桜」)
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959(天徳3)年 紫宸殿の前庭に「右近の橘」が植えられる
959(天徳3)年の今日(12月7日)は、紫宸殿の前庭に「右近の橘」が植えられるた日である。
794(延暦13)年10月、桓武天皇により長岡京からの遷都令が出され、日本の首都として平安京が造営された。
平安京は、中国の長安城をモデルにしたもので、大きさは長安城の約3分の1。平安京は、京域の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に分けられ、左京と右京が置かれた。(左京と左京区参照)。朱雀大路を中心として南北約5.2km、東西約4.7kmの長方形となっている。大内裏は、内裏の周囲に、国家的行事が行われる場所や諸官庁が置かれたところであり、内裏は、大内裏の中央東寄りにおかれた、天皇の私的な住居であり、中央政庁である「朝堂院」の北側に位置し、周囲を築地に囲まれ、広さは、東西約200m、南北約300mほどあった。内裏の内部は北側に後宮、南側に天皇の政務所である紫宸殿(ししんでん)や日常生活の中心地である清涼殿などがあった。
紫宸殿は、天皇の私的な在所であった内裏において、天皇元服や立太子、節会(せちえ)などの儀式が行われた正殿であり、天皇の普段居住する殿舎である清涼殿に対し公的な意味合いが強かった。
その正殿である紫宸殿の前庭には959(天徳3)年の今日(12月7日)、天皇のいる位置から見て西側に「橘(たちばま)」が植えられ、東側の桜と対になった。
その木を先頭にそれぞれの近くに名門の御曹司からなる左近衛と右近衛が配陣されていたため、「左近の桜」、「右近の橘」と称されていた。紫式部の『源氏物語』の主人公である光源氏も、恋に目覚めたころはそこに並ぶ一人であった。960(天徳4)年3月30日には、「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」が村上天皇の主催により清涼殿で催された。当代一流の12人の歌人と応援の方人(かたうど)たちが召されての超豪華な大歌会で、12の題で20番が合わされた。結果は、判者藤原実頼は優劣を決めかねたが、天皇より判を下すよう命じられ、困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、天皇のご様子を窺うと、ひそかに平兼盛の「しのぶれど…」を口遊まれた。そこで右の勝と決したという。(以下参考に記載の「百人一首 平兼盛〔千人万首〕参照)。源高明は、一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており『源氏物語』の主人公光源氏のモデルの一人とされているそうだ。
中国文化を習い花を見ながら歌を読んだ万葉人。屋敷の庭に花を植えて楽しむ風潮は、平城京時代に広まったとされているが、この時代、花といえば梅をさしていた。万葉集には、萩は141首、梅は118首あるが、桜はわずか44種しか詠まれていない。しかし、橘を詠んだ歌は73種もあり(以下参考に記載の「万葉集:橘(たちばな)を詠んだ歌」参照)、梅とともに多く詠まれている。
では、何故左近の「梅」ではなく、「桜」なのか?。
それは、左近の「桜」は、もともとは梅の樹で桓武天皇の遷都のときに植えられていた。しかし、承和年間(834年-847年)枯死したため、仁明天皇の時「桜」に植替えたことが鎌倉初期の説話集『古事談』に書かれている。(詳しくは、以下参考に記載の紫宸殿前の左近の梅がなぜ桜に変わったのか?。 を見られるとよい)
遣唐使の廃止以後、独自の文化を形成していく上で、この時代には、中国的な花ではなく、日本固有の花が好まれたのか、梅は桜と交代し、平安後期にも入ると、宮廷を中心として、梅よりも桜が様々な行事に出始める。
また、右近の「橘」も959(天徳3)年12月に植えられたものは、日本に自生していた「タチバナ」ではなく、中国からの渡来で、食用とされた漢名の「橘」、つまり、今日の「キシュウミカン」に近い柑橘類だった可能性が高いとされている。
万葉の歌人大伴家持は、以下のように橘を詠んでいる。
「橘は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶し見が欲し」(大伴家持 巻18-4112)
「時じくに」は、絶え間なくという意味で、”橘は、花も実も見るのですが、いつもいつも見ていたいものですよ。”といったところである。 ただ、出世した橘氏にたいするお世辞かやっかみの歌かもしれない。
「時じくに」は、古事記からの引用である。
11代垂仁天皇の命により、常世の国(祖先の国である新羅のこととも)から「時じくの香(かぐ)の木の実(非時香果:時を定めずいつも黄金に輝く香しき木の実)」 と呼ばれる不老不死の力を持つ霊薬 をタジマモリ(田道間守)に持ち帰らせたという話があり、彼が持ち帰った「非時の香菓」を、古事記では「是今橘也」(これ今の橘なり)としている。
ミカン科ミカン属の常緑小高木は、いずれも南方系のもので、熱帯や亜熱帯には多くの種が自生し、また、栽培されるが、タチバナは、その中で最も北に分布し、和歌山県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。樹高は2-4m、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3-6cm。濃い緑色で光沢がある。果実は直径3cmほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かない。橘に含まれるクエン酸には血行促進、疲労除去の作用があり、ビタミンCも多いから風邪など感染症に対する自然治癒力を強化する働きがあり、それが”老化防止の霊菓”とみられた理由ではないだろうか。
日本では、実より花や常緑の葉が注目され、マツなどと同様、常緑イコール「永遠」ということで尊ばれたのだろう。
また、『橘』が菓子の祖であることは、以前に毎月15日「お菓子の日」で書いた。詳しくは、ここで見てください。
お菓子の神社としては、兵庫県豊岡市・中嶋神社、和歌山県下津町・橘本(きつもと)神社に祀られて、分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。この菓祖神として祀られているのが田道間守である。
「タチバナ」という名前自体、タヂマバナ(田道間花)が転じたものとする説もあるという。 また、橘の常緑にあやかってこの姓を与えられたと考えられている。源平藤橘と呼ばれる源氏、平氏、藤原氏、それに橘諸兄を祖とする橘氏が奈良時代に生まれている。聖武天皇の以下の歌がある。
(しもつき)、左大弁(ひだりのおほきおほともひ)葛城王(かづらきのおほきみ)等(たち)に、橘の氏(うぢ)を賜姓(たま)へる時、みよみませる御製歌(おほみうた)一首
「橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木」(聖武天皇 巻6-1009)
葛城王が臣籍に下り、橘姓を賜った際に、橘家がいつまでも栄えることを願って詠まれた歌であり、天皇は、常緑樹の橘が青々と繁る様に橘氏が栄えていくことを望んでこのを歌に詠んだのであろう。天皇にとっては、橘諸兄を重用することで藤原家を牽制ししょうとしていた。そして、諸兄は743年(天平15年)には左大臣として最高位にもついた。大伴家持も橘諸兄とともに宮廷や和歌の世界でも親密な関係を保っていたが、次第に藤原氏が勢力を盛り返し、橘家、大伴家共に厳しい命運をたどり、諸兄は失意の底で757(天平宝字元)年 没してしまった。大伴家持と親好があった、諸兄も『万葉集』の撰者の一人といわれている。
(画像は、紫宸殿前庭の「右近の橘」と「左近の桜」)
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