今日(12月16日)は、昭和期に活躍した、日本を代表する洋画家・小磯良平の 1988年の忌日
小磯良平は、岸上家の次男として、1903(明治36)年7月25日、我が地元・兵庫県神戸市中央区中山手通に生まれる。当時の神戸は、旧外国人居留地を中心に発展しており、小磯はそんな洋館の立ち並ぶ街で「西洋的な空気」を吸い、幼年期をクリスチャンの家庭で育ったそうだ。兵庫県立第二神戸中学校(現県立兵庫高校)に進学、生涯の親友となった竹中 郁と出会う。後に神戸を代表するモダニスト詩人となる竹中の影響もあり、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925(大正14)年に、『兄妹』が帝展(現・日展)入選、1926(大正15)年、『T嬢の像』で(兵庫県立美術館蔵)が帝展特選を果たすなど、23歳にしてその才能を発揮し注目される。1927(昭和2)年、規定課題の『自画像』(東京芸術大学大学美術館蔵)、竹中郁をモデルにした『彼の休息』(東京芸術大学大学美術館蔵)の2作品で98点という最高得点をとり、首席で卒業後の1928(昭和 3)年フランスに留学してから竹中とパリ滞在をともにし、西欧各地を旅行する。滞欧期には、アングルやマネ、コロー、クールベ、ドガ他多くの西洋絵画の実作に触れてその本質を吸収すだけでなく、広くヨーロッパ文化を見聞することによって自己の絵画世界を深めた。1930(昭和 5)年に帰国し、1932(昭和 7)年29歳にして、初めての個展を神戸で開催。『裁縫女』が第13回帝展で特選となる。同年結婚し、神戸・北野の山本通にアトリエを新築する。その後、帝展騒動を機に、1936(昭和 11)年、猪熊弦一郎らと共に純粋芸術の確立を唱えて「新制作派協会」(現 新制作協会)を結成する。
小磯は、1938(昭和13)年から軍の命令で4度、上海やジャワ島、ビルマ(現・ミヤンマー)などの戦地に行って戦争画を製作した。1941(昭和16)年に日中戦争を題材に北京南西で描いた群像画「娘子関(じょうしかん)を征(ゆ)く」で、芸術院賞を受けた。また、同じ年に少女群像画の傑作『斉唱』を相次いで発表している。1945(昭和20)年6月の神戸空襲でアトリエを失う。戦後は東京芸術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も赤坂迎賓館大広間の壁画『絵画』『音楽』を制作するなど、長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献した。小磯のすぐれた画業に対し1979(昭和5)年文化功労者に選ばれ、1982(昭和57)年 、日本芸術院会員となり、翌1983(昭和58)年に文化勲章を受章。また、神戸市名誉市民の称号が贈られた。1988(昭和63)年12月神戸で亡くなり、日本基督教団神戸教会で葬儀が行われる。享年85歳であった。
1989(平成4)年、ご遺族から自宅に残されていた作品などが神戸市と兵庫県立近代美術館(現 兵庫県立美術館)に寄贈されたが、同年11月3日、神戸市に受贈された2000点以上の作品及びアトリエ・所蔵図書等をもとに、六甲アイランド公園内に、神戸市立小磯記念美術館が開館した。回廊でかこまれた中庭を配し、中庭には小磯のアトリエ(昭和24年当時のもの=戦後北野山本通のアトリエが消失し、現・神戸市東灘区住吉山手に新築していたもの)を移築・復元し、作品だけでなく、創作の場となった雰囲気が味わえるようになっている。その芸術が多くの人々に愛されているという点においても無類で、このことは近代的市民の立場を貫いた小磯芸術の特質の一面を示すものと言えるだろう。
太平洋戦争を挟み活躍した多くの画家が戦意高揚のために戦争画を描かされた。 小磯は、戦後、これら絵のことは一切語ることも無く、戦争画の展示を断り、画集にも収録しなかった。2007(平成19)年8月15日、小磯の戦争画についての文書が発見されたと神戸市立小磯記念美術館が発表した。「戦争を描いたが当時の心境を明らかにした記録が見つかったのは初めてとのこと。洋画家・内田巌(内田巌のことについては以下参考に記載の『没後50年 内田巌遺作展』参照)に宛てた手紙のうちの1つに、戦争画に対する言及がされていたもので、内田の次女が自宅で発見し神戸市立小磯記念美術館に寄贈されたものとか。その中には、「戦争画も純粋芸術と称する絵も同じく多少とも病気にかかっている。戦争画を悪口いう人たちの気持ちもよくわかるし、純粋芸術を悪く言うのもまたわかる。同じだ。皆どうしてよいのかしらないだけだ。知っていてもできないだけだ。(中略)今さらの重点的な戦争美術のタイコをヂャンヂャンたたいても何もならない」と軍部の圧力にこうし切れなかった頃の苦しい心境を明かす貴重な資料である。以下参照。
「戦争画、何もならない」 洋画家・小磯良平の書簡発見 産経新聞
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/76830/
手紙で小磯が言及した藤田嗣治は、戦争画を描いたことが遠因で戦後に日本を離れざるを得なくなり異国で死んでいる。ただ、戦争画にも色々あるが、新聞の報道時に掲載されていた小磯の『娘子関を征く』の群像画を見る限り、戦意を煽るような絵とも思わない。同年その後に描かれた女群像『斉唱』で、少女たちが歌っているのは、どうみても軍歌ではない。小磯は敬虔なクリスチャンの家庭で育ったというから、彼自身は、不本意な従軍画家としての制作を経験した後、反省を込めて祈るような思いで、この絵を描き上げたのではないかと思う。(貼付の画像参照)
小磯良平の芸術は多くの人々に愛されているが、小磯は単に神戸に生まれ育ったというだけではなく、神戸とは本当に深い因縁のある人なのである。そのようなことから、神戸に住んでいる者には特に、深い関心を持っているファンが多いだろう。
小磯良平は、旧三田九鬼藩の旧家で、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれたといわれている。少し永くなるが、旧三田九鬼藩の府とたちと神戸の関わりを見てみよう。
1582(天正10)年、荒木村重が織田信長に討たれたことで、代わって信長の家臣であった山崎片家(堅家)が三田の領主となり三田に藩が成立した。その後、時を経て、 1633(寛永10)年、志摩国鳥羽藩の九鬼氏の家督争いを理由に、幕府は九鬼氏の5万6千石を分割し、九鬼久隆を3万6千石で三田藩に、九鬼隆季を2万石で丹波国綾部藩に移封されたのが、三田・九鬼藩の始まりであり、九鬼氏三田藩は、廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになる。最後の13代九鬼隆義は藩政改革を行い、軍隊を洋式に改めた。1867(慶応3)年藩論が倒幕に統一され、鳥羽伏見の戦いにおいても洋式軍隊を率い官軍方として参戦。 また、明治維新が起ると、近代港として神戸港が整備されると知るや、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、藩士の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)、小寺泰次郎(以下参考に記載の「※小寺泰次郎」参照)らとともに「志摩三商会」という神戸初の輸入商社を設立する。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発や神戸女学院の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼしている。新開地を境に、東を九鬼隆義、西を小寺泰次郎が買っていったと言う。又、氾濫の続いていた生田川改修後の土地、今の三宮1丁目から4丁目に至る繁華街のほとんどを泰次郎が買い取り所有していたという。泰次郎は土地投機による儲けで1876(明治9)年、神戸中山手5丁目に広壮な屋敷を建築し、これを蘇鉄園と名付けた。この屋敷は1941(昭和16)年神戸市が譲り受けた際、中国の『易経』の一節「各得其願和悦相楽」(オノオノソノ願イヲ得テ和シテ悦ビ相楽シム)から、相楽園と名づけられ市民に開放されている。相楽園については、以下参考に記載の「月刊・きんもくせい」の神戸のみどり『相楽園異聞』(上)、(中)、(下)が詳しい。)
この屋敷(蘇鉄園)が出来た翌年誕生した長男小寺謙吉(以下参考に記載の「※小寺謙吉」参照)が1947(昭和22)年、終戦後公選導入後の初代(歴代11代)神戸市長に選出された人である。
小磯良平は旧姓を「岸上良平」といい、岸上家は旧三田藩士で小磯の祖父岸上角次(以下参考に記載の「※岸上角次」参照)は三田から神戸に出てきた藩侯九鬼隆義の祐筆だったそうだ。1922(大正11)年小磯は東京美術学校西洋画科(現・東京芸術大学)に入学したが、その頃、小寺謙吉は衆議院議員で憲政会の領袖で、屋敷は東京青山南町にあった。謙吉は小磯の祖母の甥にあたる。謙吉が大伯父であることや旧三田藩士の子弟ということからか、小磯は東京の小寺邸から上野に通学し、そのさなか小磯は父文吉を失ったという。父の死後、小磯は学費も生活全般に渡っても、謙吉の庇護を受けていたそうで、関東大震災のあった1923(大正12)年には、謙吉一族の経営する朝鮮の農場へスケッチ旅行をしたりしていたという。彼が岸上から小磯姓になったのは大正14(1925)年、良平の養子縁組を渇望していた義父小磯吉人が死の床にあったときだという。遠縁(祖父岸上角次の妻は小寺泰次郎の妹りき)の小磯吉人の養嗣子となる。養父吉人は大日本製薬社長、養母英は小寺謙吉の姉で、良平の祖母の姪である。少々ややこしいが、岸上家も小磯家も神戸の経済界で活躍した人たちであり、共にキリスト教徒であった。良平は、日本聖書協会の求めに応じて聖書物語りをテーマとして32点に及ぶ絵を描いているという。
(画像は、向かって左:『娘子関を征く』(朝日新聞掲載時のものより。右:。『斉唱』、マイコレクションより、NTT小磯良平テレホンカード)
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小磯良平は、岸上家の次男として、1903(明治36)年7月25日、我が地元・兵庫県神戸市中央区中山手通に生まれる。当時の神戸は、旧外国人居留地を中心に発展しており、小磯はそんな洋館の立ち並ぶ街で「西洋的な空気」を吸い、幼年期をクリスチャンの家庭で育ったそうだ。兵庫県立第二神戸中学校(現県立兵庫高校)に進学、生涯の親友となった竹中 郁と出会う。後に神戸を代表するモダニスト詩人となる竹中の影響もあり、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925(大正14)年に、『兄妹』が帝展(現・日展)入選、1926(大正15)年、『T嬢の像』で(兵庫県立美術館蔵)が帝展特選を果たすなど、23歳にしてその才能を発揮し注目される。1927(昭和2)年、規定課題の『自画像』(東京芸術大学大学美術館蔵)、竹中郁をモデルにした『彼の休息』(東京芸術大学大学美術館蔵)の2作品で98点という最高得点をとり、首席で卒業後の1928(昭和 3)年フランスに留学してから竹中とパリ滞在をともにし、西欧各地を旅行する。滞欧期には、アングルやマネ、コロー、クールベ、ドガ他多くの西洋絵画の実作に触れてその本質を吸収すだけでなく、広くヨーロッパ文化を見聞することによって自己の絵画世界を深めた。1930(昭和 5)年に帰国し、1932(昭和 7)年29歳にして、初めての個展を神戸で開催。『裁縫女』が第13回帝展で特選となる。同年結婚し、神戸・北野の山本通にアトリエを新築する。その後、帝展騒動を機に、1936(昭和 11)年、猪熊弦一郎らと共に純粋芸術の確立を唱えて「新制作派協会」(現 新制作協会)を結成する。
小磯は、1938(昭和13)年から軍の命令で4度、上海やジャワ島、ビルマ(現・ミヤンマー)などの戦地に行って戦争画を製作した。1941(昭和16)年に日中戦争を題材に北京南西で描いた群像画「娘子関(じょうしかん)を征(ゆ)く」で、芸術院賞を受けた。また、同じ年に少女群像画の傑作『斉唱』を相次いで発表している。1945(昭和20)年6月の神戸空襲でアトリエを失う。戦後は東京芸術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も赤坂迎賓館大広間の壁画『絵画』『音楽』を制作するなど、長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献した。小磯のすぐれた画業に対し1979(昭和5)年文化功労者に選ばれ、1982(昭和57)年 、日本芸術院会員となり、翌1983(昭和58)年に文化勲章を受章。また、神戸市名誉市民の称号が贈られた。1988(昭和63)年12月神戸で亡くなり、日本基督教団神戸教会で葬儀が行われる。享年85歳であった。
1989(平成4)年、ご遺族から自宅に残されていた作品などが神戸市と兵庫県立近代美術館(現 兵庫県立美術館)に寄贈されたが、同年11月3日、神戸市に受贈された2000点以上の作品及びアトリエ・所蔵図書等をもとに、六甲アイランド公園内に、神戸市立小磯記念美術館が開館した。回廊でかこまれた中庭を配し、中庭には小磯のアトリエ(昭和24年当時のもの=戦後北野山本通のアトリエが消失し、現・神戸市東灘区住吉山手に新築していたもの)を移築・復元し、作品だけでなく、創作の場となった雰囲気が味わえるようになっている。その芸術が多くの人々に愛されているという点においても無類で、このことは近代的市民の立場を貫いた小磯芸術の特質の一面を示すものと言えるだろう。
太平洋戦争を挟み活躍した多くの画家が戦意高揚のために戦争画を描かされた。 小磯は、戦後、これら絵のことは一切語ることも無く、戦争画の展示を断り、画集にも収録しなかった。2007(平成19)年8月15日、小磯の戦争画についての文書が発見されたと神戸市立小磯記念美術館が発表した。「戦争を描いたが当時の心境を明らかにした記録が見つかったのは初めてとのこと。洋画家・内田巌(内田巌のことについては以下参考に記載の『没後50年 内田巌遺作展』参照)に宛てた手紙のうちの1つに、戦争画に対する言及がされていたもので、内田の次女が自宅で発見し神戸市立小磯記念美術館に寄贈されたものとか。その中には、「戦争画も純粋芸術と称する絵も同じく多少とも病気にかかっている。戦争画を悪口いう人たちの気持ちもよくわかるし、純粋芸術を悪く言うのもまたわかる。同じだ。皆どうしてよいのかしらないだけだ。知っていてもできないだけだ。(中略)今さらの重点的な戦争美術のタイコをヂャンヂャンたたいても何もならない」と軍部の圧力にこうし切れなかった頃の苦しい心境を明かす貴重な資料である。以下参照。
「戦争画、何もならない」 洋画家・小磯良平の書簡発見 産経新聞
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/76830/
手紙で小磯が言及した藤田嗣治は、戦争画を描いたことが遠因で戦後に日本を離れざるを得なくなり異国で死んでいる。ただ、戦争画にも色々あるが、新聞の報道時に掲載されていた小磯の『娘子関を征く』の群像画を見る限り、戦意を煽るような絵とも思わない。同年その後に描かれた女群像『斉唱』で、少女たちが歌っているのは、どうみても軍歌ではない。小磯は敬虔なクリスチャンの家庭で育ったというから、彼自身は、不本意な従軍画家としての制作を経験した後、反省を込めて祈るような思いで、この絵を描き上げたのではないかと思う。(貼付の画像参照)
小磯良平の芸術は多くの人々に愛されているが、小磯は単に神戸に生まれ育ったというだけではなく、神戸とは本当に深い因縁のある人なのである。そのようなことから、神戸に住んでいる者には特に、深い関心を持っているファンが多いだろう。
小磯良平は、旧三田九鬼藩の旧家で、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれたといわれている。少し永くなるが、旧三田九鬼藩の府とたちと神戸の関わりを見てみよう。
1582(天正10)年、荒木村重が織田信長に討たれたことで、代わって信長の家臣であった山崎片家(堅家)が三田の領主となり三田に藩が成立した。その後、時を経て、 1633(寛永10)年、志摩国鳥羽藩の九鬼氏の家督争いを理由に、幕府は九鬼氏の5万6千石を分割し、九鬼久隆を3万6千石で三田藩に、九鬼隆季を2万石で丹波国綾部藩に移封されたのが、三田・九鬼藩の始まりであり、九鬼氏三田藩は、廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになる。最後の13代九鬼隆義は藩政改革を行い、軍隊を洋式に改めた。1867(慶応3)年藩論が倒幕に統一され、鳥羽伏見の戦いにおいても洋式軍隊を率い官軍方として参戦。 また、明治維新が起ると、近代港として神戸港が整備されると知るや、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、藩士の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)、小寺泰次郎(以下参考に記載の「※小寺泰次郎」参照)らとともに「志摩三商会」という神戸初の輸入商社を設立する。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発や神戸女学院の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼしている。新開地を境に、東を九鬼隆義、西を小寺泰次郎が買っていったと言う。又、氾濫の続いていた生田川改修後の土地、今の三宮1丁目から4丁目に至る繁華街のほとんどを泰次郎が買い取り所有していたという。泰次郎は土地投機による儲けで1876(明治9)年、神戸中山手5丁目に広壮な屋敷を建築し、これを蘇鉄園と名付けた。この屋敷は1941(昭和16)年神戸市が譲り受けた際、中国の『易経』の一節「各得其願和悦相楽」(オノオノソノ願イヲ得テ和シテ悦ビ相楽シム)から、相楽園と名づけられ市民に開放されている。相楽園については、以下参考に記載の「月刊・きんもくせい」の神戸のみどり『相楽園異聞』(上)、(中)、(下)が詳しい。)
この屋敷(蘇鉄園)が出来た翌年誕生した長男小寺謙吉(以下参考に記載の「※小寺謙吉」参照)が1947(昭和22)年、終戦後公選導入後の初代(歴代11代)神戸市長に選出された人である。
小磯良平は旧姓を「岸上良平」といい、岸上家は旧三田藩士で小磯の祖父岸上角次(以下参考に記載の「※岸上角次」参照)は三田から神戸に出てきた藩侯九鬼隆義の祐筆だったそうだ。1922(大正11)年小磯は東京美術学校西洋画科(現・東京芸術大学)に入学したが、その頃、小寺謙吉は衆議院議員で憲政会の領袖で、屋敷は東京青山南町にあった。謙吉は小磯の祖母の甥にあたる。謙吉が大伯父であることや旧三田藩士の子弟ということからか、小磯は東京の小寺邸から上野に通学し、そのさなか小磯は父文吉を失ったという。父の死後、小磯は学費も生活全般に渡っても、謙吉の庇護を受けていたそうで、関東大震災のあった1923(大正12)年には、謙吉一族の経営する朝鮮の農場へスケッチ旅行をしたりしていたという。彼が岸上から小磯姓になったのは大正14(1925)年、良平の養子縁組を渇望していた義父小磯吉人が死の床にあったときだという。遠縁(祖父岸上角次の妻は小寺泰次郎の妹りき)の小磯吉人の養嗣子となる。養父吉人は大日本製薬社長、養母英は小寺謙吉の姉で、良平の祖母の姪である。少々ややこしいが、岸上家も小磯家も神戸の経済界で活躍した人たちであり、共にキリスト教徒であった。良平は、日本聖書協会の求めに応じて聖書物語りをテーマとして32点に及ぶ絵を描いているという。
(画像は、向かって左:『娘子関を征く』(朝日新聞掲載時のものより。右:。『斉唱』、マイコレクションより、NTT小磯良平テレホンカード)
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