毎月9日は「クジラの日」だそうだ。「く(9)じら」の語呂合せ。
大日本水産会や日本捕鯨協会等25団体が、京都で国際捕鯨委員会年次総会が開催された1993(平成5)年に制定したそうだ。
クジラ(鯨)は哺乳類のクジラ目に属する水生動物の総称で、比較的小型(成体の体長が4m前後以下)の種類をイルカと呼ぶことが多いが、この区別は明確なものではないそうだ。
万葉集には鯨魚(いさな)を詠んだ歌が多く歌われているが、鯨魚(いさな)は、おもに鯨(くじら)のことで歌の中では、「いさなとり」として浜・海・灘(なだ)を導く枕詞として使われているようだ。
「いさな)取り 浜辺(はまへ)を清み 打ち靡き 生ふる玉藻に 朝凪に 千重(ちへ)波寄せ 夕凪に 五百重(いほへ)波寄す 辺(へ)つ波の いやしくしくに 月に異(け)に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻(めぐ)れる 住吉(すみのえ)の浜」 (車持朝臣6-931)
この住吉の浜は、現在の大阪市住吉区の住吉大社(大阪市住吉区)があるあたりの浜を言うようだ。
飛鳥時代には、難波(大阪の古い呼称である難波〔なにわ〕については#「大坂」地名発生以前の大坂を参照)は大陸との交流の表玄関となり、難波津、住吉津などの名が文献にみえ、大和政権(ヤマト王権参照)の手により官道の整備もすすめられた。住吉津は、仁徳天皇が開いたといわれ、海の神である住吉大神を祀る住吉大社が管轄する大社の南方の住吉の細江と呼ばれた入り江にあった。住吉大社の前には、鎌倉時代末まで南北に細長いラグーン(潟)があったようだ。住吉大社の反橋は、豊臣秀頼が造営したものと伝えられているが、古くは船大工の人々の奉仕で維持されてきたという。
万葉集ではむしろ「住吉の岸」「住吉の岸の埴生」を詠んだ歌が目立ち、当時は、住吉の海岸には、赤土の露出した断崖があったようだ。(以下参考に記載のやまとうた雑記/万葉集にあらわれる地名について(3)/難波の海」と「住吉の岸」参照)
大坂には川が多く、今でも浪速の名橋50選として知られている中に、鯨に関連のある面白い橋が東淀川区にある。天然山瑞光寺(てんねんざん ずいこうじ)の境内にある弘済池に架かっている、「雪鯨橋」(せつげいきょう)と呼ばれている橋は、クジラの骨で出来ているのである。「雪鯨橋」は、1756(宝暦6)年、和歌山県の太地でクジラ漁を営む村から、同寺の知忍 禅師への報恩として納められた鯨骨でつくられたという。(詳しくは、以下参考に記載の「大阪・瑞光寺・雪鯨橋がリニューアル」参照)
南紀(歌山県)太地浦の人々は古来より捕鯨によって生計を立てていた。
北ノルウェーにあるロイドの岩壁には紀元前約2200年頃の石器時代と見られるイルカまたは鯨を描いた洞窟壁画が発見されているという。かつて捕鯨は主に油用(燃料源)として欧米諸国で盛んに行われていたが、近年は日本及び漁業文化が日本と似ており捕鯨推進国の1つでもあるノルウェーやフィリピン・フェロー諸島などの国や、北極圏に住む先住民族などが食用に行っている。
日本の紀州の太地は熊野灘に突き出た二股の崎に位置しており海岸線はリアス式、森浦湾と太地湾のため森浦・太地と二つの良港に恵まれた(Yahoo!地図情報 - 和歌山県太地町(東牟婁郡)森浦参照)。また、この地は古式捕鯨発祥の地として名高い。(日本の古式捕鯨〔網取り式捕鯨〕参照)。当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元(ちゅうべえよりもと)が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めた。その後、1675(延宝3)年、和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展したという(以下参考に記載の「太地・くじらの博物館」より)。これが、日本の捕鯨産業のはじまりであると考えられている。その後も古式捕鯨から近代捕鯨へと移りかわっていくなかで,太地とそこにくらす人びとが重要な役割を担ってきた。(日本における捕鯨史参照)
日本で海上において鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていない。15世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。例えば、”1570(永禄13・元亀元)年1月13日織田信長、禁裏へ鯨を献上。山科言継・倉部、禁裏より織田信長が献上した鯨肉を拝領〔『言継卿記』四〕した”ことなどが記されている。これらはいずれも冬から春にかけてのことであった。クジラには一定の生息場所は無いが、元来は比較的暖海のものと考えられており、冬は北から南へ、春は南から北に回遊する。捕鯨は肥前の五島・平戸の辺りでは節分前後に盛んとなり、紀州の能野浦では仲冬(冬3か月の中の月。陰暦11月の異名)頃が盛んとなる。この頃には、南から北へと日本列島沿いに北上する鯨を常習的に捕鯨が開始されていたと見られる。江戸時代にはいると、鯨組と称される捕鯨専門の漁師集団により捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする水軍・海賊出身者たちであった。そして、紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元の綱を結びつけた銛を利用する突取法の考案により、捕鯨法としてきちんと組織化した捕鯨が行われるようになるなど、古式捕鯨から近代捕鯨へと移りかわっていくなかで太地は重要な役割を担ってきた。
その後、明治時代になり、近代捕鯨法が導入され、沿岸捕鯨が近代化され沖合捕鯨へと漁場を拡大するのと平行して、日本も昭和にはいってからは南氷洋(南極海)まで船団を派遣して捕鯨を実施するようになり昭和中期まで続いた。この間、乱獲による資源枯渇が明らかになり、次々と禁漁種の指定が行われる(1937年セミクジラが禁漁に、1947年コククジラが禁漁に、1966年ザトウクジラとシロナガスクジラが禁漁に、など)。それでも捕獲鯨種の転換をしての乱獲がとまらなかったため、1970年代には、もうこれは基本的にクジラは全部禁漁にした方が良いのではないかとする捕鯨反対論が台頭。国際捕鯨委員会(IWC)においても捕鯨禁止が議論されるようになり、1988(昭和63)年、日本はついに商業捕鯨から撤退、生態系調査名目の調査捕鯨に切り替えたものの、これも「擬似商業捕鯨」として非難を浴びている。日本は沿岸捕鯨の復活を訴え続けてきたが、本・2007(平成19)年のIWC総会でも認められず未だに捕鯨問題 は続いているようだ。
捕鯨推進国は、冒頭に述べた主に食糧として捕鯨をしている国々であり、捕鯨反対国は、かつて灯火燃料や機械油の供給源として捕鯨をしていた元捕鯨国である欧米諸国が中心であり、1859(昭和60)年:石油の大量生産が始まったことから、鯨油から石油への転換が始まったことにより鯨油を余り必要としなくなった国々であるが、これに与するNGOも多い。
環境問題や動物の権利を理由にこの種の活動を行うことをエコテロリズム、もしくは環境テロリズムと呼ぶ。
クジラ(鯨)は我々人間と同じ哺乳類のなかのクジラ目に属する水生動物であり、コミュニケーションを目的として音(声)を発生することを「クジラの歌」という。以下ではクジラの声を聞くことができるよ。
クジラの声紋
http://www24.big.or.jp/~kyusoku/whalvoic.htm
クジラ類の小型のイルカなどを見ていると、本当に賢いし可愛い。動物愛護の観点から論ぜられると、殺して食べるのは、酷で忍びないように感じるが、殺して食べている動物は何もクジラだけではない。確かに、日本人は、何においてもやり始めると、トコトンやりすぎる嫌いがある。捕鯨においても、過去に行き過ぎがあったことは事実であるが、生態系を維持しながら適正な範囲でやることに反対することは、その国の文化を否定することにもなるので慎重にやって欲しいものである。
ところで、余談ではあるが、福井県には、日本初の『福井県立・恐竜博物館』がある。今年。10月、特別展で「クジラが陸を歩いていた頃」を開催していた。アンブロケタス・ナタンスの化石が展示されていたようだが、この恐竜の名前の意味は「アンブロ」は歩く、「ケタス」はクジラ、そして「ナタンス」は泳ぐという意味があることから、「泳ぎ歩くクジラ」ということになり、半水生、半陸生のクジラということである。
どんな生物も海で誕生したと考えられており、何十億年もの時間を経て今から約5億年前に、脊椎動物(背骨のある動物・・・魚類、両棲類、爬虫類、鳥類、哺乳類)の祖先がやはり海の中で生まれた。それから1億年、原始的な魚類の仲間で陸上に進出したものがあった。 これが両棲類の始まりで、両棲類・爬虫類・哺乳類、これらはいずれも長い時間をかけて陸上での生活に適した身体の構造や機能を獲得してゆく。しかし、そういった陸棲脊椎動物の中から、再度生活の場を求めて水中(海中)に展開 していったものたちがいた。爬虫類では魚竜や頚長竜などが海に戻っていった。 哺乳類にも、同じような「ヘ ソ曲がり」がいた。脊椎動物が初めて上陸して以来4億年近くの間少しずつの変化を積み重ねて陸上での生活に適応してきた歴史をなげうって、海に戻っていったものたちがいる。それが、イルカ・クジラの仲間(鯨類)、ジュゴン・マナティの仲間(海牛類)達であるという。
詳しくは以下参考に記載の「福井県立恐竜博物館」で見られるとよい。
福井県立恐竜博物館/物館の出版物/特別展図録「クジラが陸を歩いていた頃 -恐竜絶滅後の王者-」
http://www.dinosaur.pref.fukui.jp/museum/publication/walkingwhale.html
海棲哺乳類情報データベース
http://svrsh1.kahaku.go.jp/index.php
(画像は、福井県恐竜博物館出版「クジラが陸を歩いていた頃 ―恐竜絶滅後の王者」冊子の表紙画像)
このブログの字数制限上参考は別のページの書きました。以下をクリックするとこの下のページに表示されます。
クリック → クジラの日参考
大日本水産会や日本捕鯨協会等25団体が、京都で国際捕鯨委員会年次総会が開催された1993(平成5)年に制定したそうだ。
クジラ(鯨)は哺乳類のクジラ目に属する水生動物の総称で、比較的小型(成体の体長が4m前後以下)の種類をイルカと呼ぶことが多いが、この区別は明確なものではないそうだ。
万葉集には鯨魚(いさな)を詠んだ歌が多く歌われているが、鯨魚(いさな)は、おもに鯨(くじら)のことで歌の中では、「いさなとり」として浜・海・灘(なだ)を導く枕詞として使われているようだ。
「いさな)取り 浜辺(はまへ)を清み 打ち靡き 生ふる玉藻に 朝凪に 千重(ちへ)波寄せ 夕凪に 五百重(いほへ)波寄す 辺(へ)つ波の いやしくしくに 月に異(け)に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻(めぐ)れる 住吉(すみのえ)の浜」 (車持朝臣6-931)
この住吉の浜は、現在の大阪市住吉区の住吉大社(大阪市住吉区)があるあたりの浜を言うようだ。
飛鳥時代には、難波(大阪の古い呼称である難波〔なにわ〕については#「大坂」地名発生以前の大坂を参照)は大陸との交流の表玄関となり、難波津、住吉津などの名が文献にみえ、大和政権(ヤマト王権参照)の手により官道の整備もすすめられた。住吉津は、仁徳天皇が開いたといわれ、海の神である住吉大神を祀る住吉大社が管轄する大社の南方の住吉の細江と呼ばれた入り江にあった。住吉大社の前には、鎌倉時代末まで南北に細長いラグーン(潟)があったようだ。住吉大社の反橋は、豊臣秀頼が造営したものと伝えられているが、古くは船大工の人々の奉仕で維持されてきたという。
万葉集ではむしろ「住吉の岸」「住吉の岸の埴生」を詠んだ歌が目立ち、当時は、住吉の海岸には、赤土の露出した断崖があったようだ。(以下参考に記載のやまとうた雑記/万葉集にあらわれる地名について(3)/難波の海」と「住吉の岸」参照)
大坂には川が多く、今でも浪速の名橋50選として知られている中に、鯨に関連のある面白い橋が東淀川区にある。天然山瑞光寺(てんねんざん ずいこうじ)の境内にある弘済池に架かっている、「雪鯨橋」(せつげいきょう)と呼ばれている橋は、クジラの骨で出来ているのである。「雪鯨橋」は、1756(宝暦6)年、和歌山県の太地でクジラ漁を営む村から、同寺の知忍 禅師への報恩として納められた鯨骨でつくられたという。(詳しくは、以下参考に記載の「大阪・瑞光寺・雪鯨橋がリニューアル」参照)
南紀(歌山県)太地浦の人々は古来より捕鯨によって生計を立てていた。
北ノルウェーにあるロイドの岩壁には紀元前約2200年頃の石器時代と見られるイルカまたは鯨を描いた洞窟壁画が発見されているという。かつて捕鯨は主に油用(燃料源)として欧米諸国で盛んに行われていたが、近年は日本及び漁業文化が日本と似ており捕鯨推進国の1つでもあるノルウェーやフィリピン・フェロー諸島などの国や、北極圏に住む先住民族などが食用に行っている。
日本の紀州の太地は熊野灘に突き出た二股の崎に位置しており海岸線はリアス式、森浦湾と太地湾のため森浦・太地と二つの良港に恵まれた(Yahoo!地図情報 - 和歌山県太地町(東牟婁郡)森浦参照)。また、この地は古式捕鯨発祥の地として名高い。(日本の古式捕鯨〔網取り式捕鯨〕参照)。当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元(ちゅうべえよりもと)が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めた。その後、1675(延宝3)年、和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展したという(以下参考に記載の「太地・くじらの博物館」より)。これが、日本の捕鯨産業のはじまりであると考えられている。その後も古式捕鯨から近代捕鯨へと移りかわっていくなかで,太地とそこにくらす人びとが重要な役割を担ってきた。(日本における捕鯨史参照)
日本で海上において鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていない。15世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。例えば、”1570(永禄13・元亀元)年1月13日織田信長、禁裏へ鯨を献上。山科言継・倉部、禁裏より織田信長が献上した鯨肉を拝領〔『言継卿記』四〕した”ことなどが記されている。これらはいずれも冬から春にかけてのことであった。クジラには一定の生息場所は無いが、元来は比較的暖海のものと考えられており、冬は北から南へ、春は南から北に回遊する。捕鯨は肥前の五島・平戸の辺りでは節分前後に盛んとなり、紀州の能野浦では仲冬(冬3か月の中の月。陰暦11月の異名)頃が盛んとなる。この頃には、南から北へと日本列島沿いに北上する鯨を常習的に捕鯨が開始されていたと見られる。江戸時代にはいると、鯨組と称される捕鯨専門の漁師集団により捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする水軍・海賊出身者たちであった。そして、紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元の綱を結びつけた銛を利用する突取法の考案により、捕鯨法としてきちんと組織化した捕鯨が行われるようになるなど、古式捕鯨から近代捕鯨へと移りかわっていくなかで太地は重要な役割を担ってきた。
その後、明治時代になり、近代捕鯨法が導入され、沿岸捕鯨が近代化され沖合捕鯨へと漁場を拡大するのと平行して、日本も昭和にはいってからは南氷洋(南極海)まで船団を派遣して捕鯨を実施するようになり昭和中期まで続いた。この間、乱獲による資源枯渇が明らかになり、次々と禁漁種の指定が行われる(1937年セミクジラが禁漁に、1947年コククジラが禁漁に、1966年ザトウクジラとシロナガスクジラが禁漁に、など)。それでも捕獲鯨種の転換をしての乱獲がとまらなかったため、1970年代には、もうこれは基本的にクジラは全部禁漁にした方が良いのではないかとする捕鯨反対論が台頭。国際捕鯨委員会(IWC)においても捕鯨禁止が議論されるようになり、1988(昭和63)年、日本はついに商業捕鯨から撤退、生態系調査名目の調査捕鯨に切り替えたものの、これも「擬似商業捕鯨」として非難を浴びている。日本は沿岸捕鯨の復活を訴え続けてきたが、本・2007(平成19)年のIWC総会でも認められず未だに捕鯨問題 は続いているようだ。
捕鯨推進国は、冒頭に述べた主に食糧として捕鯨をしている国々であり、捕鯨反対国は、かつて灯火燃料や機械油の供給源として捕鯨をしていた元捕鯨国である欧米諸国が中心であり、1859(昭和60)年:石油の大量生産が始まったことから、鯨油から石油への転換が始まったことにより鯨油を余り必要としなくなった国々であるが、これに与するNGOも多い。
環境問題や動物の権利を理由にこの種の活動を行うことをエコテロリズム、もしくは環境テロリズムと呼ぶ。
クジラ(鯨)は我々人間と同じ哺乳類のなかのクジラ目に属する水生動物であり、コミュニケーションを目的として音(声)を発生することを「クジラの歌」という。以下ではクジラの声を聞くことができるよ。
クジラの声紋
http://www24.big.or.jp/~kyusoku/whalvoic.htm
クジラ類の小型のイルカなどを見ていると、本当に賢いし可愛い。動物愛護の観点から論ぜられると、殺して食べるのは、酷で忍びないように感じるが、殺して食べている動物は何もクジラだけではない。確かに、日本人は、何においてもやり始めると、トコトンやりすぎる嫌いがある。捕鯨においても、過去に行き過ぎがあったことは事実であるが、生態系を維持しながら適正な範囲でやることに反対することは、その国の文化を否定することにもなるので慎重にやって欲しいものである。
ところで、余談ではあるが、福井県には、日本初の『福井県立・恐竜博物館』がある。今年。10月、特別展で「クジラが陸を歩いていた頃」を開催していた。アンブロケタス・ナタンスの化石が展示されていたようだが、この恐竜の名前の意味は「アンブロ」は歩く、「ケタス」はクジラ、そして「ナタンス」は泳ぐという意味があることから、「泳ぎ歩くクジラ」ということになり、半水生、半陸生のクジラということである。
どんな生物も海で誕生したと考えられており、何十億年もの時間を経て今から約5億年前に、脊椎動物(背骨のある動物・・・魚類、両棲類、爬虫類、鳥類、哺乳類)の祖先がやはり海の中で生まれた。それから1億年、原始的な魚類の仲間で陸上に進出したものがあった。 これが両棲類の始まりで、両棲類・爬虫類・哺乳類、これらはいずれも長い時間をかけて陸上での生活に適した身体の構造や機能を獲得してゆく。しかし、そういった陸棲脊椎動物の中から、再度生活の場を求めて水中(海中)に展開 していったものたちがいた。爬虫類では魚竜や頚長竜などが海に戻っていった。 哺乳類にも、同じような「ヘ ソ曲がり」がいた。脊椎動物が初めて上陸して以来4億年近くの間少しずつの変化を積み重ねて陸上での生活に適応してきた歴史をなげうって、海に戻っていったものたちがいる。それが、イルカ・クジラの仲間(鯨類)、ジュゴン・マナティの仲間(海牛類)達であるという。
詳しくは以下参考に記載の「福井県立恐竜博物館」で見られるとよい。
福井県立恐竜博物館/物館の出版物/特別展図録「クジラが陸を歩いていた頃 -恐竜絶滅後の王者-」
http://www.dinosaur.pref.fukui.jp/museum/publication/walkingwhale.html
海棲哺乳類情報データベース
http://svrsh1.kahaku.go.jp/index.php
(画像は、福井県恐竜博物館出版「クジラが陸を歩いていた頃 ―恐竜絶滅後の王者」冊子の表紙画像)
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