今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

上野~高崎間の開業式を挙行

2007-06-25 | 歴史
1884(明治17)年の今日( 6月25日)、上野駅で日本鉄道・上野~高崎間の開業式を挙行した。
日本鉄道は、日本初の私鉄であり、現在の東北本線高崎線常磐線など、東日本JRの路線の多くを建設・運営していた会社である。もともと政府では井上勝をはじめとして鉄道は国が敷設して国が保有すべきであるという意見が強かったが、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまったこともあり、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになった。
政府の事業として計画された中山道沿いの鉄道区間のうち、東京~高崎間の測量が開始されたが、財政難から工事は着工されなかった。これに対して、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、1881 (明治14)年 12月 、日本鉄道の設立に結実した。
そして、1882 (明治15)年 6月、高崎線である上野~高崎間のうちの 川口~前橋間から建設を開始し、1883(明治16)年7月28日に上野~熊谷間(61,2km)が日本で初めての私設鉄道として仮営業開始。上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷の6駅も開業した。そして、翌1884(明治17)年5月1日には日本鉄道の路線が高崎まで延伸し、6月25日、 明治天皇臨席のもと、上野駅において上野~高崎間鉄道開業式が挙行 された。
その後、順次路線を増やし、1891年9月1日に現在の東北本線全線(上野~青森間)が開業。その他に、日暮里~岩沼間の常磐線(日本鉄道での路線名は海岸線)や赤羽~品川間の山手線を開業させ、水戸鉄道(現水戸線)・両毛鉄道(現両毛線)を買収した。日本鉄道は、私鉄ではあったが、路線の建設や運営には官設鉄道(国鉄)が関わっており、半官半民の会社であった。以後、山陽鉄道九州鉄道北海道炭礦鉄道など同じような私鉄会社が続々と創設され、日本の鉄道は多くが私営で建設されることになる。1906(明治39)年公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された。
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしやば)の人ごみの中に
そを聴(き)きにゆく
石川 啄木満24歳の時刊行した第一歌集『一握の砂』より。
この三行分けによる散文的なスタイルの短歌は、故郷盛岡の家族と遠く離れて東京で生活をし、苦労の末にやっと、『東京朝日新聞』の校正係となり、函館から家族(妻子と母)が到着し生活するようになるが、1910(明治43)年10月4日、長男真一が誕生、しかし27日には病死する。そんな失意の時の12月に書いたものである。第二章「煙」は「一」と「二」に分かれており、「一」は、盛岡中学校時代の青春の日々を回想する歌であり、「二」は子供時代を過した渋民村望郷の歌である。ここには、冒頭の歌のほか、「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」の歌もある。石川 啄木「一握の砂」(いちあくのすな) 【青空文庫】参照。
冒頭の歌の「停車場」とは、上野駅のことである。上野駅は、東京と行き来する東北地方北陸地方の人々にとって長らく東京の表玄関の役割を果たして来た。そのために文学や歌謡曲の分野で上野駅を扱った有名な作品が幾つもあるが、 啄木のこの歌は、特に有名である。また、 今年(2007年)1月17日に亡くなられた井沢八郎が歌った『あゝ上野駅』がある。
どこかに故郷の 香りをのせて  入る列車の なつかしさ
上野は俺らの 心の駅だ  くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった

就職列車に ゆられて着いた  遠いあの夜を 思い出す
上野は俺らの 心の駅だ  配達帰りの 自転車を
とめて聞いてる 国なまり
作詞:関口 義明、作曲:荒井 英一「あゝ上野駅」の曲は以下で聞ける。
井沢八郎・「あゝ上野駅」(おやじの唄)
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/AhAh_UenoEki.htm
井沢は、1963 (昭和38)年に「男船」でレコードデビュー。翌1964(昭和39)年にリリースした「あゝ上野駅」が、東北地方からの集団就職者の愛唱歌として爆発的にヒットした。
農家の次男以降の子が、中学校や高校を卒業した直後に、都市部の工場などへ集団就職する例は第二次世界大戦前にもあったが、戦後の高度成長期には、臨時の集団就職列車に乗っての大規模な集団就職者が上野駅へやってきた。それらの集団就職列車は1954(昭和29)年に運行が開始され、1975(昭和50)年に運行が終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かった。こういった若年の労働者は、将来性が高いという意味と、安い給料で雇えるという意味から金の卵と呼ばれてもてはやされた。1999(平成11)年に使用を停止した後に線路を撤去した上野駅の18番線は、集団就職で「金の卵」ともてはやされた東北地方からの若者を乗せた上京列車の到着ホームであった。「あゝ上野駅」作詞の関口義明は、上野駅で見かけた集団就職の少年たちを題材に詞を書き上げたものであり、当時の情景をよく表している。
丁度この歌が大流行する前の年に、私は、大阪から東京の会社へ転職した。まだ、東海道新幹線が開通する前の年であるため、地元の神戸駅から夜行列車の「銀河」での旅であった。東京へ行ってから、会社仲間に東京の色々なところへ案内して貰ったが、その中に、上野駅もあった。記憶では、陰気で汚い駅といった印象が強かった。そして、駅には、何か妖しげな男達がうろうろしていたが、仲間の者に聞くと、上記のような集団就職者ではなく、単独で家出などをして東京へ出てきたものを待ち構えているのだと言っていた。高度経済成長期に求人をしても人の集まらない中小の業者などに斡旋して金にしたり、女の子などはどこかへ売り飛ばされてしまうのだと言っていた。上野駅は、当時そんな物騒な駅であった。今では、北へ向かう各路線の優等列車と新幹線が発着する東京の「北の玄関口」として栄えている。
2003(平成15)年には上野駅広小路口に「あゝ上野駅」の歌の歌碑が建てられている。(ああ上野駅歌碑)その当時集団就職された方々も、私同様、定年で第二の人生を歩まれていることだろう。
当時、故郷を遠く離れて東京で就職した人たちにとっては忘れられない歌であろう。
(画像は、コレクションの絵葉書より「上野停車場」。賑わいを見せ始めた明治末年頃のものと思われる)
参考:
上野駅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%A7%85
駅の記憶・第02話 上野駅|今、むかし
http://ekitan.com/kioku/ueno/now.shtml
おやじの唄
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/Frame/JapaneseTraditionalSongs.htm
試聴:井沢八郎 (いざわはちろう)(イザワハチロウ)
http://listen.jp/store/artist_1148651.htm
井沢八郎さん(演歌歌手)が食道がんのため死去(nikkkansports.com)
http://www5.nikkansports.com/general/obituary/2007/20070119-29512.html
高崎線の歴史
http://park2.wakwak.com/~genzo/takasakisen/history/index.html
ときエクスプレス [ときの歴史]-[特急〔とき〕誕生前史(上)]
http://www.fujii7.info/toki-exp/history/history01.html
電子図書館 #石川啄木
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/04chosya_ai.htm#石川啄木
啄木勉強ノート・啄木短歌を楽しむ啄木短歌勉強室
http://www.echna.ne.jp/~archae/tanka.html
銀河 (列車) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
ときエクスプレス [ときの歴史]-[特急〔とき〕誕生前史(上)]
http://www.fujii7.info/toki-exp/history/history01.html

空飛ぶ円盤(UFO)目撃第1号があった日

2007-06-24 | 歴史
1947(昭和22)年 の今日(6月24日) 米国アイダホ州で、実業家ケネス・アーノルドが自家用機を操縦中に空飛ぶ円盤を目撃した(空飛ぶ円盤(UFO)目撃第1号)。
空飛ぶ円盤は、本来は英語の未確認飛行物体である Flying Saucer の訳語であり、現在は未確認飛行物体(Unidentified Flying Object)の頭文字をとって、UFO(ユーフォー)という名称に変更された。宇宙人の乗り物・宇宙船というイメージが強いが、本来はそういう意味に限らない。アメリカ合衆国空軍の公式用語UFOは、あくまでも「正体を確認できない飛行物体」のことである。
Flying Saucer という名称は、1947(昭和22)年6月24日のケネス・アーノルドの目撃をきっかけに生まれたもので彼は、カスケード山脈にあるレーニア山付近の上空を自家用飛行機で飛行していた際に、当時としては信じられないほどの高速で編隊飛行を行う9つの物体を見たという。(ケネス・アーノルド事件)それについて新聞記者に語る際、水面を受皿(Saucer)が撥ねながら飛んで行くような独特の飛び方をしていたと語ったことから、この名前が生まれた。アーノルドは形状について Saucer と述べたのではなかったが、この言葉をきっかけに円盤形の飛行物体というイメージが定着することになったのだが、彼が実際に見たUFOの形状は三角形型、もしくは丸みをおびたブーメラン型だったそうだ。以下を見られるとよい。
~空飛ぶ円盤~→http://www.fitweb.or.jp/~entity/ufo/body.html
UFOの目撃談は遠く中世から多数報告がされており、現在でも世界中で目撃されているが、初めてUFOが一般的に知れ渡るようになったのは、1947(昭和22)年6月24日のケネス・アーノルドの目撃情報を地元アメリカのマスコミが、その物体を「空飛ぶ円盤」と名付けて大々的に報道したことから、その後同様の目撃談が相次いで報告された。この事件を受け、アメリカFBIジョン・エドガー・フーヴァー長官が、直後の6月30日にUFOの目撃例を調査するプロジェクトを発足させたという。この事件以降、目撃談が多く報告されるようになり、冷戦下のアメリカでは一大UFOブームとなったようだ。
そして、ケネス・アーノルド事件の直後、7月初めに起きた、いわゆる「ロズウェル事件」が起こるが、これは、アメリカ・ニューメキシコ州ロズウェル近郊に「UFOが墜落し、その残骸が軍によって回収され秘匿されている」というものである。そして、事件が30年以上経過してから「ロズウェル事件の際に回収した異星人の解剖フィルム」なるものまでが現れている(さすがにこれは余りにもいかがわしいもので、ほとんど信用されていない)といい、この事件は、ロズウェル - 星の恋人たちなど複数のフィクションにおいて何度も題材にされている有名な事件である。ロズウェル事件参照。
また、1948(昭和23)年1月8日(現地時間では1月7日の午後)には、アメリカ合衆国のケンタッキー州にてUFO(未確認飛行物体)目撃とそれに伴って起こったアメリカ空軍機の墜落事件が発生した(マンテル大尉事件参照)。この事件における未確認飛行物体とアメリカ空軍機墜落の関連性が公式には否定されたにもかかわらず、この事件直後に正式に発足したアメリカ空軍内の未確認飛行物体調査機関は、その後20年以上存在し続けたという。
そして、1952(昭和27)年7月19日から27日にわたって首都ワシントンD.C上空に68機ものUFOが現れ、大勢の市民の目の前で飛び回り、ナショナル空港に着陸する旅客機を追跡、迎撃に上がったアメリカ空軍のロッキードF-94B戦闘機を取り囲んだりするという事件が発生した。この際、レーダーにもそれらしき反応があったという。その後、アメリカ当局はこれを逆転層による気象現象と説明したという。一説にはロズウェル事件で墜落した、UFOから回収した通信機器がワシントンD.C.にある政府研究機関に運ばれ、通信機器をいじった際に信号を発信し、受信を傍受したUFOが飛来したと言われているのだとか・・。
その後も、1954(昭和29)年6月、 BOAC機事件、1957(昭和32)年12月トリニダーデ島事件が起きている。
1998(平成10)年には、日本版「サイエンス」誌9月号に、観測・調査の複数の専門家が目撃証言した科学的記録として、水産庁調査船「開洋丸」の遭遇記録が掲載された。1度目の遭遇は、1984(昭和59)年12月18日に、南アメリカ大陸南端付近のフォークランド島付近で 不規則な運動をする発光物体を観察。
2度目の遭遇は、1986(昭和61)年12月21日に、北緯26度の日付変更線付近において、船の周囲でマッハ4の速度で音もなく飛行し180度ターン等の不規則運動をする、巨大タンカーほどのレーダー映像を確認したが、肉眼では見えない不可解な現象に遭遇した。飛行物体は「船の真上を通過したとき自動車ほどの音を出した後、最後に発光して消えた」との記録を残しているという。
そして、直近では、2004(平成16)年3月5日に、メキシコのカンペチェ州南部で通常の麻薬取引警戒任務を行っていたメキシコ空軍機の上空に十数機の未確認飛行物体が出現したという。(メキシコ空軍UFO事件
このように、多くのUFOが目撃され中には、UFOを撮影したという写真も数多くあるが、これらについてはその多くが気象現象の誤認、もしくはトリック写真であると判明しているそうだが、一方、そのような結果とならなかった残りの写真を「UFOが実在する」証拠であるとする人々も少なくない。しかし、残りの写真の中には、軍や政府機関が撮影したり目撃したと報告された結果、公式に未確認飛行物体と認められているものも多いことがさらに謎を深める結果になっているという。・・・最近は、余り話題にはならなかったが、一時は、UFOブームがあった。日本では、イギリスのAPフィルムズ(後の21世紀プロダクション)が製作したSF特撮ドラマが『謎の円盤UFO』(原題UFO)が、1970(昭和45)年10月3日から1971(昭和46)年3月27日まで日本テレビ系列にて放送され、「UFO」という言葉を一般に紹介する先駆的役割を果たしたが、このときは、「UFO」を「ユー・エフ・オー」と読んでいたようだ。日本でUFOを「ユー・ホー」と呼ぶようになったのは、UFOの存在の謎を、実際に撮影されたとされるフィルムをもとに実写と動画で描いた作品を1975(昭和50)年3月21日に公開した東映まんがまつりで上映された映画「これがUFOだ!空飛ぶ円盤」だという。
ニューヨーク・ロイター通信によると、60年前に「空飛ぶ円盤」が墜落したことで知られるロズウェルの町に、UFOを題材にしたテーマパークが建設される見通しとなったという。宇宙人による誘拐が体験できる乗り物なども計画されているそうだ。科学が進歩してくるほどに、未知の世界があっても良いと思うようになるものだね~。以下参照。
UFOの町に新名所 テーマパーク建設へ↓
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200706030005.html
(画像は、1952年にアメリカ・ニュージャージー州で撮影された空飛ぶ円盤【UFO】。Wikipediaのもののカット。)
参考:
空飛ぶ円盤-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E9%A3%9B%E3%81%B6%E5%86%86%E7%9B%A4
超常現象最前線
http://www.fitweb.or.jp/~entity/
世界10大怪奇
http://jajatom.moo.jp/kyoufu/2006/sekai03-01.html
七不思議の世界・現代の七不思議(1)
http://www002.upp.so-net.ne.jp/sgun/nana/naM01.html
ケース22.メイン州ハーバーサイド,1947年7月8日(未確認飛行物体)
http://www.sspc.jpn.org/ufo/book/ufobook004/ufo2293.html
逆転層 - 環境goo
http://eco.goo.ne.jp/word/ecoword/E00349.html
ミステリー用語の基礎知識・UFO
http://www.gakken.co.jp/mu/library/wufo.html
水産庁 漁業調査船 開洋丸
http://www.mirc.jha.or.jp/knowledge/survey/vessels/kaiyo.html
UFOの町に新名所 テーマパーク建設へ
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200706030005.html

北天佑(元大関)の忌日

2007-06-23 | 記念日
今日(6月23日)は、北天佑(元大関)の2006(平成18)年の忌日。
北天佑勝彦(ほくてんゆう かつひこ)、本名・千葉 勝彦は、1960(昭和35)年8月8日、北海道室蘭市出身、三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士である。
最高位は大関。昭和から平成にかけて足掛け8年もの長きに渡って大関を務め、大関在位数は貴ノ花千代大海に次ぐ歴代3位、44場所の記録を持つ。のち年寄13代・二十山となった。
四股名は「北の天に生まれ人の右に出る」の意味だそうだ。体格に恵まれ、スカウトした先代三保ヶ関親方(元大関初代増位山)のみならず角界関係者からは大いに期待され、将来は横綱間違いなしと太鼓判を押される程の逸材だった。
1976(昭和51)年 3月に初土俵を踏み、1980(昭和55)年 5月十枚目、同年11月 新入幕,、1981 (昭和56)年 3月場所、横綱若乃花の必殺右上手投げを土俵際、左下手投げで切って返し大物の名を不動にした。7月小結となって3場所保ったが、1982(昭和57)年1月、右足首を怪我をし幕下に下降するも、11月には、小結に復帰、翌1983(昭和58)年 1月には、新関脇に昇進。新関脇になってからは、3場所連続10勝以上の好成績で、3場所目の1983(昭和 58)年5月場所には14勝で優勝し、大関昇進の目安条件の33勝を大幅に上回る、37勝8敗で見事大関に推挙された。
均整の取れた柔軟な体格で足腰が強く、握力が左右ともに100kg近くあり、角界で3本の指に入る程の怪力でも知られた。上位力士に対する強さにも際立つものがあり、当時の横綱若乃花千代の富士に対してもたびたび横綱相撲を展開して土俵を沸かせた。特に千代の富士に対してはがっぷり四つからの吊り・寄りを武器に一時期は5連勝(ただし不戦勝1を含む)しており、大関2年目時点での対戦成績は不戦勝を除いても9勝9敗と、全くの互角だった。同じく怪力で千代の富士を圧倒した隆の里と似た戦法ながらも、隆の里とは一味違う大胆かつ豪快な取り口を身上とし、「北海の白熊」と呼ばれたその均整のとれた体とパワーは、当時の九重親方(元横綱北の富士)をして「うちの幕下全員と北天佑を交換したいぐらい」と言わしめたという。
特に記憶に残る試合は、1984(昭和59)年5月場所13日目の試合である。北天佑が隆の里に勝てば、14場所ぶりに兄弟子・北の湖の優勝が決定するという一番で、北天佑が見事援護射撃を果たした試合である。その瞬間北天佑は、控えに座っていた北の湖の方を振り返り、思わず土俵上でニッコリ微笑んだ。すると、なんと北の湖の方も、弟弟子の北天佑を見て笑みを返すというひと幕があり、このなんとも言えない場面はテレビ中継でお茶の間にも流れた。
また同年11月場所では、前9月場所で急激に成長し上位力士を圧倒した小錦と対戦。堂々たる相撲で210キロの巨漢の挑戦を寄り切りで退けた。以後も小錦に連勝するなど、その強さを見せ付けた。
1985(昭和60)年7月場所、千秋楽、北尾、大乃国がそれぞれ勝ち12勝を守り、12勝の北天佑は朝潮と対戦することとなった。破れれば三つ巴戦となる取組を、上手出し投げで朝潮を下し、13場所ぶりに2回目の優勝を決めた。
以下では、「1984(昭和59)年5月場所13日目の試合:対隆の里戦」と「1985(昭和60)年7月場所、千秋楽1985(昭和60)年7月場所、千秋楽対朝潮戦」の懐かしい動画が見れるよ。
北天佑 勝彦 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/hokutenyu.html
この優勝で、いよいよ待望の綱取りかといわれたが、結局昇進には至らなかった。
得意は左四つ寄りと左下手投げとなっているが寧ろ右上手投げの方が強かったのではないかと思われ、攻防兼備型の取り口ではあったが、「こうなれば絶対」に負けないという自分の型を持っていなかったのが泣き所であった。そして、豪快な技が多い反面、取り口が力任せだった事も災いして負傷による休場も少なくなかった。1987(昭和62)年3月場所の小錦戦で膝を負傷してからは、大関昇進前及び昇進直後の荒武者のような大胆な取り口があまり見られなくなり、糖尿病を患ったこともあってか相撲も小さくまとまってしまった。そのようなことから、大関となってからの北天佑には関脇時代の荒武者のような荒々しさがなくなり、おとなしい試合が多くなり、下位との取りこぼしも多かったことから、大関としての成績そのものは平凡なものであった。
2回目の優勝以降、怪我や病気で思うように勝ち星があげられない事については本人も重圧に感じており、本人の考えていた大関として望まれる最低10勝以上の勝ち星が1990(平成2)年1月場所での試合が最後となり、同年9月場所途中に引退を表明することとなった。引退会見では2連勝の後の4連敗で引退を決意したと語り、あと6場所で大関在位記録1位の50場所に並ぶと言われながらも、退き際の美学にこだわった「潔い引退」として惜しまれつつ土俵を去った。
引退後は二十山部屋を興し、ロシア出身の白露山を関取に育てたが、2006年3月場所中に体の不調を訴えて緊急入院。精密検査の結果は多発性脳梗塞と発表されたが、同時に腎臓癌を発病していた事が判明したという。それからわずか3ヶ月後の2006(平成18)年6月23日、腎臓癌のため東京大学医学部付属病院で死去。45歳の若さだった。
当時、私の一番好きな関取であった。性格も明るく、大関になるまでの関脇時代は、本当に強く、必ず横綱になると思ったのだが、成れず残念であった。病気や怪我で持ち前のパワーが発揮できなくなったことが大きい。特に、大きな外国人力士を相手に力相撲をして足を怪我したことは大きかった。
今や日本の相撲界は両横綱が外人になってしまった。やがては、三役以上は外人が占めてしまうのではないだろうか。相撲は勝つことだけを目的のスポーツではない。本当は、それぞれに、これが自分の相撲だという型を持って、その型で相手を倒す。それが、面白かった。もう、強さだけを争うような競技になってしまった。私は、大の相撲ファンであったが、もともと、人気取りの為に日本の国技に外国人を入れることには大反対であった私は、若乃花(花田勝)や舞の海など身体の小さな力士が、大きな外国人力士を相手の相撲に体力の限界を感じて角界を退いてからは、もう、相撲を見ることはなくなった。
(画像は、まな弟子の白露山【左】と共に、入幕を喜ぶ元二十山親方(北天佑)。2005年6月27日写真。2006年7月31日朝日新聞写真より)
参考:
北天佑勝彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A9%E4%BD%91%E5%8B%9D%E5%BD%A6
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
大相撲 記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm



滝沢修(俳優,演出家)の忌日

2007-06-22 | 人物
今日(6月22日)は滝沢修(俳優,演出家)の 2000(平成12)年の忌日。 <93歳>
滝沢脩(おさむ)・本名は、1906(明治39)年11月13日、東京都生まれである。1924(大正13)年6月13日、土方与志と、小山内薫が、東京の築地に地名を採った小劇場「築地小劇場」を開設した。これが、日本初の新劇の常設劇場である。また、築地小劇場とは劇場付属の劇団名でもあった。演劇の実験室としての役割を果たした。小山内の主張であった俳優の養成にも力を入れたため、日本の新劇運動の拠点となった。築地小劇場の出身者には千田是也滝沢修らがおり、第2次世界大戦後の演劇界に活躍する多くの人材を輩出した。滝沢は、開成中学卒業後の、1925(大正14)年に築地小劇場研修生となり、小山内薫の指導を受ける。1929(昭和4)年、左翼劇場に加わるが、激しい弾圧を受け、1934(昭和9)年に新協劇団結成に参加する。その第1回公演「夜明け前・第一部」で旗揚げ公演、重厚な演技で注目された。しかし、1940(昭和15)年伊藤3兄弟(演出・伊藤道郎舞台装置・伊藤熹朔[舞台美術家]、賛助出演・千田是也)を看板に、「大仏開眼」が2月2日、新地小劇場で幕を開けた。役人が奴隷を虐待しているシーンが「農民の搾取を連想させる」として、警視庁を刺戟し、8月19日、滝沢他宇野重吉、細川ちか子、千田是也ら新劇人100人以上が検挙された。しかし、この件の報道は禁止され、8月23日の新聞記事には当局の勧告で自発的に「新協」と、「新築地」両劇団が解散になったと報道されている。この辺の事情は以下が非常に詳しいので参照されるとよい。
法政大学大原社研_戦時中の新劇運動/第五編 言論統制と文化運動
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-216.html
1947(昭和22)年、宇野重吉らと「民衆芸術劇場 」を組織し、1950(昭和25)年からは劇団民藝 として再発足して代表となる。三好十郎作「炎の人-ゴッホ小伝」やアーサー・ミラーの「あるセールスマンの死」の名演技が知られている。映画、「霧の旗」、また1964(昭和39)年1月から始まったNHK大型時代劇「赤穂浪士」では長谷川一夫の大石内蔵助に対して、その敵役吉良上野介でいかにも憎たらしい役を演じるなどテレビでも活躍した。1970年代から演出も手掛け、1997(平成 9)年9月の東京芸術劇場での「あっぱれクライトン」が最後の舞台となった。
2000(平成12)年6月22日東京都三鷹市の病院で死去。93歳の大往生であった。芸術祭賞、芸術選奨文部大臣賞などの受賞のほか、1977(昭和52)年に紫綬褒章、1986(昭和61)年には勲三等瑞宝章も受章している。
滝沢は、リアリズムの演技を日本にどう根付かせるかを徹底的に追求した人だといわれている。1943(昭和18)年の芸文座(東宝劇団部、滝沢修・宇野重吉ほかが旗上げ公演をもった)公演、武者小路実篤『三笑』で異形の画家を主演したとき、滝沢は背中に詰め物をして、夕方、自宅近くの住宅街を歩き回った。人は異形の者を見たときどう反応するか、どんな歩速や歩き方がふさわしいか。気味悪がる通行人を下からねめあげながら冷静に観察した。そして、この芝居の体験を1冊の本『俳優の想像』にまとめるほど工夫は緻密を極めていたという。また、「夜明け前」では、彼の青山半蔵が精神を病んでフキの葉を頭にかぶり庭先を歩く有名な場面では、舞台を横切るのだが下駄の音が全然しない。演劇評論家の尾崎宏次がその方法を聞くと「お能の足遣い。下駄を足の裏に吸い付かせてしまうの」と答えたそうだ。レーニンを演じた時は、レーニン全集を読みきり、「炎の人」でゴッホ主演したときは南仏にゆき、ゴッホの使ったトイレまで実験したという。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)
こんな滝沢だがデビューのころは、悪声で悩んだのだという。それを、独学で矯正し、新協劇団で主演するときにはリアリズム演技を手に入れたという。
第一次世界大戦(1914年から1918年)後には、知識人、芸術家も参加したプロレタリア文化運動(プロレタリア文学参照)が盛んになる。この運動は1921(大正10)年の小牧近江の『種蒔く人』創刊をもって出発したとされている。そして、1925(大正14)年には日本プロレタリア文芸連盟が結成される。滝沢が築地小劇場研修生となった年である。この団体には次第にマルクス主義の影響が及ぶようになる。そして、1929(昭和4)年2月10日には日本プロレタリア作家同盟が結成された。以下参考に記載の「法政大学大原社研_『戦前日本社会運動の足あと』」にもあるように、20世紀芸術の世界的動向は、確実に日本にも影響が及んでいた。それがフォービズムであり、フィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンらの後期印象派、あるいはロシアに起こった造形運動の構成主義であった。そしてこれらを信奉するものたちによる大正期新興美術運動が生まれ、1924(大正13)年村山知義柳瀬正夢などにより三科会が結成され、翌年には築地小劇場で「劇場の三科」という前衛劇が開催された。これはダダイズムの頂点となったものであるが、20年代後半になると、彼らはしだいにリアリズムに向かうようになる。こうして彼らはプロレタリア文化運動に接近したのである。 劇団民藝での演目には当然そのような思想の反映されたものが上演されることが多くなっているはずである。以下参照。
法政大学大原社研_「戦前日本社会運動の足あと」
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/museum/kaisetsu.html
滝沢亡き後、劇団民藝の現在の代表は大滝秀治奈良岡朋子の2名。
そう言えば、大滝秀治は、個性の強い、演技力のある俳優であったが、昔は、頭のてっぺんから声を出すような甲高い変な声で、私は、余り好きではなかった。それが、何時ごろからだろうか、突然のように声が野太いしゃがれ声になっていた。私の気がついたのはそう古いことではない、いい年になってからである。それから、彼の演技に深みが出てきたように思う。最近の「やずや」のCMでは、大滝が台本を読んでいる、舞台風景で、大滝の「「お前の声は壊れたハモニカだと言われた。だから、役者には向いていないと思う、とね。」・・・と、ぼそりとつぶやいているナレーションのものがある。これは、昔、アクの強い顔立ちと、独特の声が不評を買い、劇団民藝の主催者宇野重吉から言われたことばらしい。それで、役者人生を諦め舞台演出への道を歩みかけたが、役者への夢が捨てきれず創意工夫をしながら役者を続けたという。これは、同じ劇団民藝の創立者滝沢と同じ様だね~。やはり、役者であれ、歌手であれ、落語家であれ、何であれ、言葉で物事を表現するものにとって、最も大切なのはなんと言っても声であろう。最近は、声も出来ていない歌手や役者が多すぎる。このような職業を目指す者は先ず、声作りから始めるべきであろうと思うが・・・。
(画像は滝沢修演出・主演『終末の刻(とき)』チラシ。1993年10月シアター・ドラマシティーにて公演)
(画像は、1965年8月「夜明け前(第2部)」で主演の青山半蔵を演じる滝沢修。朝日クロニクル「週刊20世紀」掲載写真より)
参考:
滝沢修 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E4%BF%AE
築地小劇場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%B0%E5%B0%8F%E5%8A%87%E5%A0%B4
法政大学大原社研_戦時中の新劇運動/第五編 言論統制と文化運動
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-216.html
滝沢修 (タキザワオサム) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/95190/index.html
劇団民藝
http://www.gekidanmingei.co.jp/index.html
昭和から平成までの歴史年表
http://www.fuchu.or.jp/~stock/chrono/yeartop.html
日刊スポーツ・訃報・滝沢修さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2000/seikyo000624.html
作家別作品リスト・島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html
千田是也 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E6%98%AF%E4%B9%9F
昔の新聞切抜き・0459=民芸 関西公演評 セールスマンの死=
http://homepage3.nifty.com/le-village/news/nwsppr/kiji451/459KB.htm
プロレタリア文学- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%96%87%E5%AD%A6
法政大学大原社研_「戦前日本社会運動の足あと」
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/museum/kaisetsu.html
大正期新興美術運動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E6%96%B0%E8%88%88%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%81%8B%E5%8B%95
フォービズム
http://www.asahi-net.or.jp/~cq7a-ymmz/fobi.html
画家 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%AE%B6

川田晴久 (歌手,コメディアン) の忌日

2007-06-21 | 人物
今日(6月21日)は、川田晴久 (歌手、コメディアン) の1957(昭和32)年の忌日 。
戦前に一世を風靡した音楽コントグループ「あきれたぼういず」で同じメンバーであった「坊屋三郎(俳優)の忌日 」について書いたので、川田晴久 について書いてみようと思った。
「地球の上に朝がくる~その裏側は 夜だろう~♪」・・ラジオから流れてきた川田晴久(ダイナブラザース)の明るい歌・川田節は当時一世を風靡したものだ。
1907(明治40)年3月15日生まれ。東京生まれ。本名は、岡村 郁二郎。昭和10年代にギター片手にナンセンスな浪花節調の歌で人気を得る。はじめは、エノケン一座と並んで、当時の絶大な人気を博していた古川ロッパ徳川無声らと結成していた劇団「笑いの大国」の下っ端俳優をしていたが、1935(昭和10)年11月、吉本興業浅草六区に浅草花月劇場をオープンし、レビュー「吉本ショウ」が始まり、川田はその中心メンバーとして活躍するようになる。当時は川田義雄という芸名だった。しかし、ショーのマンネリ化に嫌気がさし、1937(昭和12)年5月に若手を中心に音楽コントグループ「あきれたぼういず」を結成する。歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月には、川田義雄、坊屋三郎と芝利英の兄弟、益田喜頓の4人を正規メンバーとする「第1次あきれたぼういず」を結成。 映画の実演、レコード発売、映画出演など一世を風靡する。
1938(昭和13)年、ビクターの上山敬三があきれたぼういずの演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかける。同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、次第に軍靴の音が近づいてくる時代、テスト盤が内務省検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まる。日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めたそうだ。 1939(昭和14)年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いたため、川田を除いた3人が新興に移り、第1次あきれたぼういずは消滅する。一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。このとき「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなる。
しかし1942 (昭和17 )年に川田は脊椎カリエスが悪化し倒れる。1944 (昭和19 )年に、病床から復帰した川田は「川田義雄一座」を結成。そして、終戦を迎え、戦後はしばらく療養に努めたが、1947(昭和22)年、川田を慕って弟子入りした灘康次らと共に「川田義雄とダイナ・ブラザーズ」を結成。芸名を川田晴久に改名したのは、1949 (昭和24)年2月日劇に出演した時からのようである。ステージの傍ら、ピン芸人として、映画出演、ラジオのレギュラー番組「遠山の金さん」などでも活躍。昭和の大スター美空ひばり(本名:加藤和枝)は12歳でデビューしたが、その後もなかな売れなかった。1948(昭和28)年2月、加藤和枝(ひばり)は神戸新開地の松竹劇場に出演し、山口組三代目田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、川田にその才能を見込まれ、川田一座に参加。美空ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っており、こぶしは川田節から学んだと言う。そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。この後、同年9月に横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。そして、1949(昭和24)年1月、日劇のレビュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦)で笠置の「セコハン娘」、「東京ブギウギ」を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として正式にレコードデビュー(7月30日)を果たすことになる。続いて『悲しき口笛』が大ヒット。同年、同名の映画も松竹で製作され、わずか12歳で映画主演を果たした。生き別れになった兄妹が再会するまでの物語で、すごく単純なメロドラマだったのだが、ひばりがスターへの道を歩みだす実質的第1作といえる。そして、1950(昭和25)年5月、ひばりは川田と共に5月16日、日系ニ世部隊の招きでハワイ公演に出発した。ハワイ公演の後アメリカに渡り、1ヶ月の休暇を楽しみ7月24日、アメリカから帰国するや、映画「東京キッド」のクランクインに入る。撮影の合間を縫って、8月1日からは1週間、浅草國際劇場でひばりは、川田と「ハワイ・アメリカ珍道中」を公演している。
そして、「美空ひばり米国帰朝第一作」と銘打たれ公開された「東京キッド」も前作同様の生き別れになった兄妹が再会するまでの物語であるが、これをどたばた喜劇でパロディーかしたものである。ひばりのためにギターを弾くのは彼女のスターへの道を準備した川田であり、他にも当時の人気コメディアンが多数出演していた。ひばりの人気をますます沸騰させた記念碑的作品となった。それから、ひばりは大スターへの道を驀進。そんなひばりの公私に渡るよき理解者であり、ひばりの売り出しに一役買った川田は、その7年後の1957(昭和32)年、6月21日、死去。享年51歳であった。翌・1958(昭和33)年、灘康次は、島影正人ら新メンバーでモダンカンカンを結成、川田節を継承し現在に至っているようだ。
(画像は、米テレビ出演時のひばりと川田。1950年、アメリカに渡ったひばりは、同行したボードビリアンの川田晴久とともに7月6日夜、ロサンゼルスのテレビ番組に出演した。ハリウッドの新人らを紹介する番組で、2人の歌は、大もてだったと朝日新聞は伝えている。画像等、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
あきれたぼういず - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%9A
あきれたぼういず part.1
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta.html
Okason's room
http://homepage3.nifty.com/okason/
川田晴久 (カワダハルヒサ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/115442/index.html
美空ひばり- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
美空ひばり (ミソラヒバリ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/100105/index.html
ボーイズバラエティ協会 灘 康次とモダンカンカン
http://bo-vara.com/000pro-modankankan.html
ピン芸人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E8%8A%B8%E4%BA%BA