今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ペパーミントデー

2007-06-20 | 記念日
今日(6月20日)は「ペパーミントデー」
ハッカが特産品の北海道北見市まちづくり研究会が1987(昭和62)年に制定。
「はっか(20日)」の語呂合せ。「ペパーミントデー」のほかに、カネボウフーズが2000(平成12)年に制定した3月10日「ミントの日」(ミ(3)ント(10)」の語呂合)・・・がある。
ミント」(Mint)はシソ科ハッカ属の多年草の総称。名はギリシャ神話に登場するニンフ精霊あるいは下級女神)のメンテに由来する。和名はハッカ(薄荷)。
メンテは地上を見回っていた冥府の王ハデスに目を付けられ、攫(さら)われようとしていた。しかし自らも攫われて妻となったペルセポネがそれに気付き、彼女を香りの良い小さな草に変えて茂みへ隠し、ハデスの目から隠してやった。以来この草はミントと呼ばれ、今もなお陽光を浴びる度に芳香を放ち、人々に自分の居場所を知らせるのだという。
ハーブとして料理や菓子、薬用酒などの材料となるほか、精油(エッセンシャルオイル)は香料として食品や歯磨き粉に添加されたり、アロマテラピーに用いられる。また、成分として含まれるメントールを抽出する。メントールはミントの爽快味、冷涼感の主体となる成分である。漢方薬(生薬名:薄荷葉(はっかよう))として清涼、解熱、発汗、健胃などの目的で用いられる。
ユーラシア大陸原産で、変種が出来やすく600種を超えると言われるほど多種多様な品種があるそうだ。繁殖力が旺盛であり、畑地などに地植えすると駆除が容易ではなくなり、しばしば雑草扱いされるほどだという。
ミントを分類するときは、原種とその変種や栽培品種と種間雑種に分けたり、香りの特徴で分けたり、学名のABC順に分けたりいろいろされる。それを、「種間雑種ではないミント」と「種間の雑種によるミント」に分けるとすると、「種間雑種ではないミント」には、スペアミント(Spearmint)、ハッカ、アップル・ミント(Apple Mint)、ペニーロイヤル・ミント(PennyroyalMint)、コルシカン・ミント(Corsican Mint)、ホース・ミント(Horsemint )、変種のものに、 チリメン・ハッカ(オランダ・ハッカ)、パイナップル・ミント(Pineapple Mint)などが有り、 「種間の雑種によるミント」には、ペパーミント(Peppermint)、ボールズミント(Bowles'Mint)、ジンジャー・ミント(Gingermint)、変種のものにオーデコロンミント、カールド・ペパーミント(Curled Peppermint)といったものなどがある。ペパーミント、和名セイヨウハッカ(西洋薄荷)は、ヨーロッパ南部原産。日当たりの良い場所か少し日陰の場所を好み栽培種にブラック・ペパーミント(Black peppermint)と、ホワイト・ペパーミント(White peppermint)がありその中にも多くの品種があるそうだが、ペパーミントはスペアミントとウォーターミントが自然に交配してできた種類といわれているそうで、メントールを主体としてメントン、シネオール、リモネンといったさまざまな香気成分が混じり合い、多くの人々の鼻孔(びこう)をくすぐる独特の芳香があることから、栽培されているミントの代表的なものと言ってよいだろう。そして、欧米の人々が最も好んで飲むハーブティーの一つでもある。ペパーミントティーには、鎮静作用があるので感情のコントロールが利かない時や神経のたかぶり、なかなか眠れない時などに飲むと鼻の奥まで広がる香りが心を落ち着かせ、深い眠りにつくことが出来るといわれている。今、ハーブ人気で、結構,家で栽培している人が多いようだ。
私などは、余り園芸の関心がないのと鼻が悪いせいか、あまり、このようなハーブに興味がないが、そんな私が、ぺパーミント・・というと思い出すのは、余り関係のない、ピンク・レディーのデビュー曲「ペッパー警部」である。
♪ペッパー警部邪魔をしないで ペッパー警部私達これからいいところ・・・♪。
阿久 悠作詞、都倉俊一作曲のこの曲は、斬新な歌詞と覚えやすいメロディー、セクシーな衣裳と大胆な振り付けで、あれよあれよという間に大ヒット。ピンク・レディーは見事、その年の日本レコード大賞の新人賞に輝いたが、ショートパンツ姿の若い女の子がダンスで大胆に股を開く振り付け(以下参考の「Let'sDance!ペッパー警部」参照)は当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。作詞の阿久悠は、その曲名をドクターペッパーより引用したといっているそうだ。ドクターペッパーは、コカ・コーラより1年早く1885(明治18)年に歴史に登場した世界中で今も飲まれている最も古い炭酸飲料で、日本では、コカコーラ社が販売しているようだ。商品名の由来はモリソンズオールドコーナー・ドラッグストアーの店主「ウェード・モリソン」が、自分の店で働いていたチャールズ・ペッパー博士の名前に因んでこの商品名にしたそうで、実際にこの商品を調合し味を決めたのは、同じく店で働いていた「チャールズ・アルダートン」と言う名前の薬剤師だという。私は飲んだことがないので良くわからないが、なんか薬っぽい味で日本では余り人気がなかったそうだが、最近人気が出だしたとも聞く。映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』では、主演のトム・ハンクス演じる主人公のフォレストの好物として登場。パーティに招かれた主人公が大量のドクターペッパーを飲みすぎ、尿意を近くしてしまうシーンがあったね。・・・なんか、余り、植物や園芸のことは良く知らないので、脱線してしまった。コーラーもそうであったが、なんか薬品臭い味の物は、最初はいやだけれど、飲み続けているとくせになるようだね。
(画像は、ペパーミント。Wikipediaより)
参考:
ペパーミント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%88
北見ハッカ通商 - ハッカの種類
http://www.hakka.be/modules/tinyd0/index.php?id=1
ハーブの質問集No.2ーFAQ-
http://www.j-herb.com/HERBINFO-2.htm
ハーブのホームページ
http://www.myherb.jp/
NPO PLANT A TREE PLANT  LOVE/今月のハーブ
http://www.plantatree.gr.jp/index.html
ピンク・レディー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
あの伝説のソフトドリンクがあなたの家でも飲める? ドクターペッパー、全国発売か?
http://allabout.co.jp/gourmet/junkfood/closeup/CU20010512A/index.htm
Let'sDance!ペッパー警部
http://www.bunbun.ne.jp/~tetsu/pl_dance1.htm
ソフトドリンク・アーカイブ
http://softdrinks.org/
コカコーラ社HP
http://www.cocacola.co.jp/
フォレスト・ガンプ 一期一会 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10914/



ベースボール記念日

2007-06-19 | 記念日
今日(6月19日)は「ベースボール記念日」
1846(弘化3)年の今日(6月19日)、3アウト・3ストライクなどの現行のベースボールの基本的なルールによる初めての試合がニューヨークで行われたことに由来する。このルールの考案者は、アレキサンダー・カートライト2世だといわれている。そして、日本にベースボールが伝わったのは、1871(明治4)年にお雇い外国人として来日し、第一番中学(現在の東京大学)で教鞭をとったホーレス・ウィルソン。そのときに生徒に教えたものが、その後野球として全国的に広まっていったといわれている。
日本の野球に関する記念日を見ると「野球の日」( 8月9日 )、「プロ野球の日」( 2月5日 )、「プロ野球誕生の日」「12月26日」、 「草野球の日」( 9月3日 )とあり、日本に野球が根付いていることがよく判る。アメリカでいうベースボールが日本で言う野球であるといわれている。しかし、同じルールで試合をしているアメリカのベースボールと日本に広まった野球は「似て非なるもの」とも言われている。それは、野球に対する考え方の違いであるが、そのことは、本日のテーマーではないので、以下参考に記載の〔「野球とベースボールと戦争」物語〕を見るとよく判ると思う。
アメリカの国技であり、アメリカの代表的スポーツである野球はすでに、1850(嘉永3)年ごろにはニューヨーク地方である種の流行を見るようになっていたようだ。そして、この流行の先駆的存在となったのがニッカーボッカーズ・クラブの成立であり、ナショナル・リーグの3代目会長となったA.G.ミルズは、1907(明治40)年の野球の発生に関する彼のレポートで、「我々のナショナル・ゲームである野球が、1845(弘化2)年にニューヨークで結成された『ニッカーボッカーズ・クラブ』と、そのクラブがあの年に公にした基本的ルールとをもって始まったということである」と述べており、その基本ルールと言うのが、A.カートライト編集の野球規則である。しかし、このような見解とは別に、野球の起源に関する学問的定説は諸説有り、いまだに明らかにされていないようである。
ただ明らかなことは、すでに19世紀初頭には、アメリカの少年達が野球に類するボールゲームを色々行っていた中に、イギリスの「ラウンダース」(クリケットを変型した球技)というゲームがあった。このゲームでは、ペッカーやフィーダーと呼ばれる投手が小石を詰めた靴下などのボールを投げ、ストライカーと呼ばれる打者がそれを船の艪などのバットで打ち返し、杭や石でできた4つのベースを回るというものだった。さらには「オールド・キャット・ゲーム」(Old-Cat Game)などというものもあった。こちらは、打者が棒で球を打ち、打球をノーバウンドまたはワンバウンドでキャッチした者が次の打者になる、というものだったそうだ。これらは少しずつルールを変えながら遊ばれた。この時期には既に、投手が打者にボールを投げ打者が打ち返す、フィールドに適当に散らばった野手がその打球をキャッチしそれを打者走者にぶつければ打者はアウトになる、4つの塁があり走者がこれを全て回ってホームに帰ってくれば得点が認められる、など現在の野球に似通った部分が多く認められるという。
また、1830年代には、ボストンでは大人のいくつかのチームによって、「タウンボール」と呼ばれるこの種のゲ一ムが楽しまれていた。そして、フィラデルフィアのオリンピック・クラブのように,クラブ内の対抗戦を楽しむところも現われたという。ただし、この時代にはまだルールは地方によってまちまちで、定まったものではなかったが、基本的にはラウンダースのルールに準じていたようだ。
1834(天保5)年には、アメリカで「THE BOOK OF SPORTS」と言う本(著者ロビン・カーバー)が発行され、ラウンダースが「ベースボール(Base ball)」として紹介されているという。
1840年代にニューヨーク・マンハッタンでボランティア消防団を創設したアレキサンダー・カートライトという男がいた。彼は団員の結束を強めさらに彼らの運動不足を解消するにはどうすればいいか考え、「屋外でのスポーツ」という結論に至った。そして、彼が、消防団からメンバーを募り「ニッカーボッカーズ」というスポーツ団を発足させたのが1842(天保13)年であった。ニッカーボッカーズは近隣のマレー・ヒルという地域でタウンボールをするようになったが、タウンボールはまだ、ルールが厳格に定められたスポーツではなかったため、時や場合によってルールをいちいち変える必要があり、この煩わしさを解消するために彼はニッカーボッカーズメンバーと議論し、意見をまとめ新しいゲームのルールを作り、団員らはクラブを設立することにしたという。これが今のベースボールの原型と言われている。そして、1846(弘化3)年の今日(6月19日)、マンハッタンの対岸に位置するニュージャージー州ホーボーケンにおいて最初のベースボールの試合が開催されたが、カートライト率いるニッカーボッカ-ズはニューヨーク・ナイン相手に1-23で負けてしまったそうだ。予期せぬ大敗に彼等のクラブは解散同然になり、そのショックから立ち直ったのは、1849(寛永2)年にレギュラー・チームを編成し、1851(嘉永4)年にニューヨークのワシントン野球クラブと対戦し勝利を収めたころだという。この頃、、クリケットで用いられていた白シャツと青ズボンおよびストローハットといったユニフォームを整えたという。1850年代になると各地にクラブが出来、1858(安政5)年3月10日に「全国野球人協会」が結成された。このときの加盟クラブは22だったそうだが、2年後には約2倍に達したとか。この頃はユニフォームを着用し、会員制を導入することにより、社交クラブのチームとしての側面が強かったようだが、やがて社交クラブとしてのベースボールも、各地で野球が盛んになると、優秀な選手をチームに残留させるために、アマチュア競技でありながらも、多額の契約金が秘密裏で選手に支払われるケースが出てきた。その最初の報酬をもらってプレーした選手は、ジミー・クレイトン(Jimmy Cleiton)だそうで、1860(安政7)年に、ブルックリン・エクセルシアーズから報酬を受け取っているそうであり、彼が最初のプロ野球選手といわれる。そして、1862(文久元)年にホームランを放った際に内臓に出血を起こし、2日後に21歳で死亡したのだとか。しかし、この当時は選手が報酬をもらうことは許されていなかったので、彼を史上第一号のプロ野球選手とすることはできないとする考え方もあるという。
ルールの変遷を見るとこの当時の「試合進行について」は、 当初は21点先取制だったが、あまりにも時間がかかりすぎるために、1857(安政4)年に「9回終了時に得点が多かったチームの勝ち」になった。そして、「投球についてのルール」では、この当時は、投手には下手投げしか認められておらず、打者は投手にコースの指定ができたという。そして、1858(安政5)年、見逃しに「ストライク」(打て)のコールがされるようになったそうだ。 要するに、打つことが優先で、打者が打ちやすいように様に投げたのだ。このような時代に、1862(文久元)年の試合では、球に手首でスピンをかけ、打ちにくくしたことでセンセーションを巻き起こしたのだとか。それでだろう、1863(文久2)年には、真ん中付近を通らない球に「ボール」のコールがされるようになている。
そして、チーム全員が報酬を受け取ってする野球チーム、つまりプロ野球チームは、1869(明治元)年に誕生した「シンシナティー・レッドストッキングス(現レッズ)」だそうである。そして1871(明治4)年には最初のプロ野球リーグである全米プロ野球選手協会が結成された。アメリカの本格的なプロ野球(ベースボール)の始まりである。
(画像は、メジャーリーグの試合光景:イチロー対石井一久。ここをクリックすりと大きな画像で見れます。 Wikipediaより)
参考:
野球 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83
スポーツ文化史料情報館
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html
「野球とベースボールと戦争」物語
http://www.f6.dion.ne.jp/~yasujima/NewFiles/yakyu.html
アルフォンソパーク
http://alfonsopark.hp.infoseek.co.jp/index.html
玉木正之のこどもスポーツ研究所
http://www.spopara.com/magazine/tamaki/main.html
19世紀の野球興行
http://alfonsopark.hp.infoseek.co.jp/leagues.html
殉球者列伝
http://f55.aaa.livedoor.jp/~amaxanou/junkyu.htm
OCNスポーツ ESPA:I LOVE BASEBALL:記録と記憶
http://www.ocn.ne.jp/sports/espa/lovebaseball/memory/index.html

山本直純(指揮者,作曲家『男はつらいよ』)の忌日

2007-06-18 | 記念日
今日(6月18日)は、山本直純(指揮者,作曲家『男はつらいよ』) の2002年の忌日<69歳>
山本直純(やまもと・なおずみ)本名同じ。1932(昭和7)年12月16日、東京生まれ。父は作曲家・指揮者の山本直忠。妻は作曲家の山本正美、作曲家で千葉大学助教授の山本純ノ介は長男。チェロ奏者の山本祐ノ介は次男と音楽一家であった。幼いころから、父から音楽を学び、東京芸術大学作曲科に入学し、のちに指揮科へ転じる。指揮は斎藤秀雄に師事。同時期の同門に、小澤征爾岩城宏之秋山和慶がいる。今やウィーン国立歌劇場の音楽監督を務め、世界的に有名な指揮者として活躍している小澤征爾氏は斎藤門下になった最初の1年間、山本から指揮を教えて貰いそれ以来の友人であったようだが、山本から「自分は音楽の底辺を広げるので、お前は世界を目指せ」と言われたと語っている。 同じく、芸大時代から親交のあった岩城宏之氏も”小澤も僕も目標は、直純だった。日本であれほど才能にあふれた男を知らない。小説で言えば中間小説のような方向へ行ってしまったのが残念で、「お前を目指して勉強したのに、純文学に戻れ」と小澤と朝まで口説いたこともある”と語っていた。(朝日新聞)
山本は、大学在学中からテレビや映画の分野に進出、管弦楽・吹奏楽などクラシック音楽の分野はもちろん、映画音楽、テレビ・ラジオ番組の主題曲、歌謡曲、童謡、はては政党の党歌(以下参考に記載の自民党・党歌「われら」参照)に至るまで幅広く作曲・編曲活動を行うと同時に、テレビ・ラジオ番組やCF(Commercial Film)への出演もいとわなかった。
よく知られているものに、映画音楽「男はつらいよ」がある。映画は松竹によって1969((昭和44)年から1995(平成 7)年まで、主演の渥美清が亡くなる全48作が上映されるという人気シリーズであったが、「私生まれも育ちも葛飾柴又です・・・」の名せりふで始まる(作詞:星野哲郎)歌の曲(作詞:山本直純)もいいよね~。フーテンの寅さんが飄々と旅立っていく感じが非常によく出ている。また、
♪いちねんせい)に なったら 一年生に なったら 友(とも)だち100人(ひゃくにん) できるかな・・
「一年生になったら」(作詞:まどみちお)
よく知られているこんな童謡までも作っている。なかでも最も知られているのは、1973(昭和48)年から10年間放送されたTBSのテレビ番組「オーケストラがやってきた」の企画・音楽監督・出演である。クラシック音楽普及のためのテレビ番組で、レナード・バーンスタインヤング・ピープルズ・コンサートがモデルとされているそうだ。1分間指揮者コーナーなど、視聴者を参加させたり、各地を回ったりなどいろいろな形での普及につとめた。主に、新日本フィルハーモニー交響楽団が演奏を行った。そして、多くの著名な音楽家も出演した。また、1983(昭和58)年に落成した大阪城ホールのこけら落とし事業として、毎日放送の斎藤守慶とともに「サントリー1万人の第九」を企画。これは、毎年12月の第1日曜日に大阪城ホールで行われている一般公募型による大規模な「第九」イベント。1983(昭和58)年にスタートしたもので、1998(平成10)年の第16回まで連続して構成・総監督・指揮を務めてきた。それまでのクラシック音楽のコンサートの常識では考えられなかった巨大規模の「第九」コンサートとなっただけに、クラシック音楽界はもとより世間からも注目を集めた。(第1回公演の実現まで参照)
このほか、NHKのFMラジオ放送「FMシンフォニー・コンサート」(番組そのものは2005年時点迄継続)の司会を務めたほか、1972(昭和47)年には小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団を結成、指揮者兼幹事となる。1979(昭和54)年、1980(昭和55)年には2度にわたり、日本人として初めてボストンポップスを指揮している。
長髪と口ひげ、黒縁眼鏡と豪快な明るい笑い声がトレードマークであった。また、クラシックという分野での実力者であるにも関わらず、その自由奔放なキャラクターからタレントとしての一面も活かし、森永製菓「エールチョコレート」のCMソング『大きいことはいいことだ!!』などCM曲も手掛けるなど幅広く活躍をしたが、普通の人にはとっつきにくいクラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ功績は非常に大きい。
昔は、このようなきっちりとした基礎の出来た実力のある人がその使命感のようなものから、テレビなどに出てそのタレント性を生かして目的を遂げようとしている人が見られたが、最近のテレビではそのような人は見られなくなってしまった。局側の企画力もなくなったのか、斬新な番組も少なくなったし、出演している人たちにもきっちりと基礎をつんだ人の真面目な芸を見せるといった番組というものがなくなってしまったのは残念だね~。誰かが、テレビが出現した時に「一億総白痴化」が始まったと皮肉を言ったが、その後、良い番組もあり、ある面でテレビが見直された時期もあったが、今や、いよいよ一億総白痴化が始まったといった感じがする。
(画像は、新日本フィル第1回ペンション・ファンド・コンサートのチラシ。1990年12月)
参考:
山本直純 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%9B%B4%E7%B4%94
渥美清 男はつらいよ - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/cd/528894-1/index.html
二木紘三「MIDI歌声喫茶」
http://www.duarbo.jp/songs.htm
党歌「われら」(自由民主党)
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/touka/index.html
一億総白痴化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96



砂漠化および干ばつと闘う世界デー

2007-06-17 | 記念日
今日(6月17日)は、「砂漠化および干ばつと闘う世界デー(International Combat Desertification and Drought)」国際デーの一つ。
1994(平成6)年の国連総会において、「砂漠化および干ばつと闘う世界デー」を6月17日とする旨宣言した(決議49/115)。そしてその年の6月17日には「国連砂漠化防止条約」も採択された。各国はこの世界デーを、砂漠化および干ばつと闘うために、また砂漠化防止条約の実施に対しても国際協力が必要であるとの認識を広める日にするよう求められている。
外務省ホームページによると、"「砂漠」とは、降水がほとんどなく、植生も見られず、人間の生活が困難な地域である極乾燥地(乾燥帯参照)とされている。国連環境計画(UNEP:United Nations Environment Programme)の報告によると、全陸地面積に対する砂漠化地域の面積約7.2%とされている。(※UNEPHP)
また、砂漠化とは、植生に覆われた土地がその生産性を失うことにより、砂漠となっていく現象で、1994(平成6)年に採択された国連砂漠化対処条約においては、砂漠化を次のように定義している。
「乾燥地域、半乾燥地域及び乾燥半湿潤地域における種々の要因(気候の変動及び人間活動を含む。)による土地の劣化」
砂漠化は、重大な地球規模の環境問題の一つである。UNEPの調査によると、現在、2憶5千万人以上の人々が砂漠化の影響下にあり、100以上の国で10億人以上の人々が砂漠化の影響を受ける危険性があると指摘している。 ”・・・とある。
砂漠化が最も深刻な問題となっているのがアフリカであり、世界の耕作可能な乾燥地における砂漠化地域の割合を見ると、その約3割がアフリカで(UNEP, 1991)で、アフリカ大陸のほぼ3分の2が砂漠または乾燥地であり、この乾燥地における耕作地の4分の3がある程度の土地荒廃の影響をうけている。多くのアフリカ諸国は、深刻な干ばつにしばしば見まわれ、人々は生存のために自然資源の過剰採取を行わざるを得ないという悪循環が見られる。砂漠化問題の要因としては、過放牧、過耕作、薪炭材の過剰採取などがあげられるが、この背景として、貧困、人口増大、人口移動、食糧問題などがある。貧しい農民にとっては過剰耕作を行うという以外の選択肢はなく、土地がだんだんやせてくると、別の土地に移動していきく。そして、そこで、同じ様な問題を起こす。
アジアでの砂漠化は、地球規模土壌劣化評価会議(GLASOD)によると、過去45年間のうち、土地劣化の影響を受けている世界19億haの土地のうち、最大の面積である5億5,000万haはアジア太平洋地域に存在する。また、アジア地域内の人口の39%に当たる13億2,000万人が干ばつと砂漠化の影響を受けやすい地域に居住している。原因は農業活動、薪炭材採取や伐採などの森林減少及び過放牧、産業開発などが挙げられる・・・とある。
また、南アジア、東南アジアの砂漠化の詳細な分析は、国連環境計画が「世界砂漠化地図 World Atlas Desertification 1997」で述べており、それによると南・東南アジア土壌劣化評価(ASSOD1997)によると、乾燥地域の劣化により農業生産が相当量減少していることが明らかになっている。 中国では1億8000万ha(中国の草原の9割を含む)で土壌劣化が見られ、これは中国全体の乾燥、半乾燥、乾燥半湿潤地域の56%を占めているという。また、インドでは1億1000haが、パキスタンでは6200万haが劣化しており、それぞれの国の乾燥、半乾燥、乾燥半湿潤地域の57%、86%を占めているそうだ。 このように、多くの国々で土壌劣化による農業生産への悪影響が見られる。詳しくは以下を参照。
砂漠化の現状~アジアでは→http://www.gef.or.jp/desert/asia.html
国連総会は2003年12月23日、2006(平成18)年を「砂漠と砂漠化に関する国際年」と宣言することを決定し(決議58/211)、すべての国々に対して、国内委員会あるいはフォーカルポイント(focal point=焦点)を設置するとともに、適切な活動をもって同年を記念するよう呼びかけた。
2006(平成18)年4月UNEPの事務局長を退任したクラウス・テプファー氏は、「土地は──水と空気の次に──すべての生命の源にほかならない」と言っている。「しかし、浄化したり回復したりできる空気や水と違って、土壌がいったん失われると、自然がそれを再生するのには幾千年間もかかる。人間がもたらした土地の劣化は、今やすべての大陸に影響をおよぼしていて、緊急に取り組む必要がある」と。行動に移すのに、遅すぎるということはない。
また、2006(平成18)年、砂漠化及び干ばつと戦う世界デー(6月17日)に寄せるコフィー・アナン国連事務総長メッセージが出ている。
http://www.unic.or.jp/new/pr06-035-J.htm
「私たちが行動を起こさず、このままの状況が続けば、サハラ以南の砂漠化地帯から北アフリカやヨーロッパへ流出する人々の数は、2020年までに6,000万人に達するおそれがあります。全世界で見れば、実に1億3,500万人が移住を強いられるかもしれないのです。 」・・・と悲痛な訴えをしているが、どの国も自国の利害を優先し、反応は鈍いようだ。
地球が危ない! 世界の砂漠化は、刻々と進行している。
緑の大地が無くなる日まであと何日か???
以下参照
砂漠化リアルタイムカウンター → http://www.tottorisakyu.jp/kyou/real/index.html
国連環境計画(UNEP)のまとめによると現在、九州と四国とをあわせた面積とほぼ同じ土地が砂漠化していると言われている。 今のままでは、地球から人類は滅亡するだろう。人間は、他の動物に比してずば抜けた知恵を持っている。その知恵を使って、科学の名において、自然に逆らって生きてきた。お釈迦様はこう言っていたと教えられたことがある。「人間は、最後にはその知恵で滅びる」と・・・。
(画像は、国連砂漠化対処条約ロゴマーク。外務省HPより)
参考:
国連広報センター
http://www.unic.or.jp/schedule/futur.htm
砂漠化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E6%BC%A0%E5%8C%96
国際連合環境計画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%A8%88%E7%94%BB
国連環境計画 (UNEP)
http://www.unep.or.jp/japanese/
砂漠化リアルタイムカウンター
http://www.tottorisakyu.jp/kyou/real/index.html
砂漠化・土地荒廃問題のページ
http://www.gef.or.jp/desert/index.html
外務省:地球環境
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/sabaku/iydd/iydd_index.html
外務省: 砂漠化対処条約
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/sabaku/index.html
砂漠化/土地荒廃データブック
http://www-cger.nies.go.jp/cger-j/db/desert.html

麦とろの日

2007-06-16 | 記念日
今日「6月16日」は、「麦とろの日」
麦ごはんの会が2001(平成13)年に制定。「む(6)ぎとろ(16)」の語呂合せ。
栄養バランスが高く夏バテ解消効果もある「麦とろごはん」の普及を図る日として設けたそうだ。
麦とろご飯は麦飯にすりおろした自然薯(ヤマノイモ)の汁をかけて食べる料理である。
有名なものに旧東海道鞠子宿(現静岡県静岡市駿河区丸子)のとろろ汁がある。前に、3月8日「みやげの日」でも書いたが、江戸時代後期の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版される頃には、宿場や寺社のある所などには、みやげ物や名物の饅頭や餅などをを売る店が出来、旅人は、これを買ったり食したりした。例えば、東海道では、安倍川餅、丸子宿のとろろ汁、宇津谷(うつのや)峠の十団子、小夜の中山の飴の餅、日坂宿の蕨餅(よもぎもち)、桑名の焼きはまぐり、草津宿の姥ケ餅などがあり、中でも、鞠子のとろろ汁は、東海道を旅する人々にとっては、楽しみの一つといわれるほどの名物料理であった。
『東海道中膝栗毛』の弥次さんと喜多さんが府中宿を出て、にわか雨が降り出す中、昼飯にしようと丸子(鞠子)宿茶屋へ入り、名物のとろろ汁を食べようと、店の亭主に注文すると、女将と亭主が喧嘩を始め、すっていたとろろを床にこぼす。それをなだめようとした女までとろろ汁に滑って3人とろろだらけでぬるぬるになって、あっちへ滑り、こっちへころんで大騒ぎ。 これでは何時終わるか判らないと諦めて、弥次さん喜多さんは結局口にすることは出来ないまま店を出、先を急ぐことになるが、喜多さんがとろろ汁で一首詠む。
「喧嘩する夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ」(夫婦、ふうふう口をとがらす、鳶とろろ、とろろに滑る、と凝った組み立て)
この十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の鞠子宿の滑稽な様子は、以下参考に記載の原町商工会ホームページの十返舎一九の東海道中膝栗毛の丸子宿で見ることが出来る。面白いので、是非見られると良い。安藤広重(歌川広重)は、幕府の献上馬の行列に加わり(1832年)、初めて東海道の旅をし、その折のスケッチをもとに、出世作と言われる保永堂版「東海道五十三次」を残したが、その中の・丸子(鞠子)にも、「名ぶつ とろろ汁」の看板を掲げた小さな茶店が描かれている。丸子宿のとろろ汁や「丁子屋」は今も健在とか。このブログに貼付の絵と比べてみると良い。当時の雰囲気そのままだよ。以下参照。
「第六部 丸子(1/2) -広重五十三次をゆく- ニッポン彩発見」
http://doraku.asahi.com/earth/japan/hiroshige/060914.html
丁子屋の名物とろろ汁、美味しそうだよ。以下参照。
丁子屋の名物とろろ汁
http://twin-wings7.hp.infoseek.co.jp/chojiya/eat.html
松尾芭蕉も「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」の一句を残している。
新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ汁もおいしい季節を迎えていることだろう。といった意味で、芭蕉の『猿蓑』の中のこの名句は、門人の一人川井乙州(かわい おとくに)が江戸に公務で出発する時に詠んだ旅立ちへの激励が込められた餞別吟だそうだ。以下参考に記載の「芭蕉俳句全集」のここ参照)
このとろろ汁には、麦飯がよくマッチしたから、「麦とろ」として、現代にまで伝えられている。静岡は自然薯が有名。自然薯は自然生(じねんじょ)が転じたもの。ヤマノイモ科・ヤマノイモ属の植物、あるいはその芋として発達したもので、いわゆる山芋のこと。本来は標準和名ヤマノイモ、学名はDioscorea japonica。本州から四国・九州及び、朝鮮半島、中国に分布する。元来は野生のものであるから、山へ行って掘ってくるものであった。現在では、畑で栽培されており、畑の地下深く入る芋は収穫にはむかないので、最初から長いパイプの中に栽培する。野生のヤマノイモ(自然薯)以外に、畑で栽培される品種がいくつかある。よく出回っているものの多くは、ナガイモの品種である。
ナガイモ(長芋)は、円柱状の芋を持つ。芋の粘りは少なく、きめも粗いが、生産は比較的容易である。、我が地元、兵庫県丹波市篠山市で採れるツクネイモ(丹波ヤマノイモ:黒皮種)は、芋は丸みを帯びている。粘り、きめの細かさがナガイモやイチョウイモ(主な産地=群馬県太田市)よりも強く、ヤマノイモと並び、最も美味とされる。山芋やツクネイモは美味しいが、高いので、正月など特別な時以外、庶民には、なかなかしょっちゅう食べるというわけにも行かない。その点、ナガイモは、安価であるため、スーパーなどで常備売られている。少し、粘りはないが、逆に、こちらの方が、あっさりと食べれて良いという人も多い。私などは、歳をとったせいもあるのこちらで、十分である。
私は子供の頃から、余りこういったずるずるしたものを好まなかったので、食べなかった。要するに喰わず嫌いである。初めて食べたのは、若い頃、東京で仕事をしている時、よく仕事で千葉の房総の方へも出張したが、そこでは、毎朝、食膳にとろろ汁が出る。最初は食べなかったが、勧められて食べている間に、美味しいので好きになった。納豆も同じ。子供の頃食べなかったが、水戸の方へ出張すると毎朝、納豆が出るので、食べるようになったもの。
麦飯も戦時中はよく食べさせられたが、好きではなかった。しかし、若い頃、大阪の商社より、ある関東の衣料品関係のメーカーへ転職しその工場で、3週間ほど寮に泊り込みで研修を受けたことがある。そのメーカーには、東北の方から女工さんが数千人寮に入っており、毎日、朝・昼・晩と麦飯である。最初は、美味しくないので、余り食べなかったが、3週間もいると、食べないではいられない。兎に角、そこから、研修中は出してもらえないのである。それに、麦飯は腹持ちが少ないため直ぐに腹が減る。食べて慣れてくると、これが美味しいのである。いくら食べても、直ぐに腹が減る。3週間の研修を終えて、東京の本社へ出るようになった頃には、麦飯のファンになっていた。・・・といっても、それ以来、麦飯は、殆ど食べていない。
人気TV番組の「はなまるマーケット」の知ってい得する「とくまる」の番組で、「麦とろ」の美味しい食べ方の特集をしていた。薬丸君が本当に美味しそうに食べていた。彼は、美味しい時と層でないときがすぐにわかる。
「とくまる」バックナンバー、に6月14日(木)放送「麦とろ」
http://www.tbs.co.jp/hanamaru/tokumaru/t070614.html
それを、見ていて、食べたくなった。今日は、家人に麦とろをつくるよう頼んでおいた。米飯にかけて食べる場合は「とろろかけご飯」というが、今までは、とろろかけご飯ばかり食べていた。久しぶりに、麦飯にとろろ汁をかけて食べてみよう。山芋は“山のうなぎ”と呼ばれるほど精がつくと言われている。これからの暑い時期を乗り切るのにも良い食べ物だ。
また、6月16日の今日は、六本木ヒルズで、枝元なほみ先生の「全国の名物麦とろをたべちゃおう!」イベントも開催されるそうだ。全国47都道府県の麦とろレシピの中から、何品かを紹介してくれるという。以下参照。
麦とろの日イベント「これだ!日本の3大麦とろ2007」開催!
http://www.enjoytokyo.jp/OD004Detail.html?EVENT_ID=78237
(画像は、歌川広重の東海道五十三次・丸子「名物茶屋」。別冊・太陽浮世絵シリーズ「広重」より) 2007-03-08の画像を使うこと。
麦とろご飯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E3%81%A8%E3%82%8D%E3%81%94%E9%A3%AF
麦とろの日イベント「これだ!日本の3大麦とろ2007」開催!
http://www.enjoytokyo.jp/OD004Detail.html?EVENT_ID=78237
十返舎一九の東海道中膝栗毛/ 原町商工会ホームページ
http://www.hara-s.or.jp/yajikita/yajikita_flame.htm
第六部 丸子(1/2) -広重五十三次をゆく- ニッポン彩発見
http://doraku.asahi.com/earth/japan/hiroshige/060914.html
丁子屋の名物とろろ汁
http://twin-wings7.hp.infoseek.co.jp/chojiya/eat.html
芭蕉俳句全集
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm
麦とろ倶楽部
http://www.mugitoro-club.jp/
麦とろご飯 - レシピ | ウーマンエキサイト
http://erecipe.woman.excite.co.jp/detail/?recipe_id=6444e7919a0bee03be6b6af471443721
link chuden | エコライフ倶楽部 | 麦とろ
https://link.chuden.jp/ecolife/shun/shun082.asp
ロハスな和食レシピ(1)自然生料理の真髄は【麦とろ・とろろ汁】
http://www.maturi.co.jp/resipi/resipi01.html
はなまるマーケットの「とくまる」
http://www.tbs.co.jp/hanamaru/tokumaru/