今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

伴淳三郎 (喜劇俳優) 忌日

2007-10-26 | 人物
今日(10月26日)は、1981(昭和56)年 の伴淳三郎 (喜劇俳優) の忌日<73歳>
伴淳三郎(本名・鈴木寛定)は、1908(明治41)年1月10日、山形県米沢市に南画家の息子として生れる。以下参考に記載の「米沢市芸術文化協会ホームページ」にあるプロフィールなどによると、父の絵が一向に売れず父の旅絵師家業に従って米沢から東京・山形・米沢・熊谷へと転々としていたらしい。小学6年のとき東京の呉服問屋へ丁稚奉公に出されるが、すぐ熊谷の家に戻り、高等科1年(14歳)で役者を志して家出、上京して新派の門を叩いたが、入門を許されず、関東大震災後に新劇研究所に入ったが、どうしても矯正できない東北弁を自覚して新劇への道を諦め、浅草の軽演劇界を渡り歩くことになる。1926(大正15)年、松竹キネマ(松竹)に入り、翌年日活に移って伴淳三郎の芸名で登場。しばらく、端役での出演が続いたが、1929(昭和 4)年、渡辺邦男監督の『竜巻長屋』で大役をもらう。以後、渡辺監督に喜劇俳優として重用されるようになったそうだ。
以後、大都映画(大映)・新興キネマ(戦後の大映現在の角川映画))と移籍し、1931(昭和6)年頃からトーキー映画に出演、東北弁を逆手にとって喜劇俳優としてスタートを切ったのだそうだ。その後も人気タレントの引き抜きを業としたり、劇団を創設したりと、色々なことをしていたらしいが、この辺のところは、よく分からない。
終戦後は、清川虹子笠置シヅ子らと浅草で活動、1949 (昭和24)年、「アジャパー」が流行語となるが、これは、伴淳が浅草の軽喜劇で使って流行したもので、 山形弁で驚きを表す「あじゃー」と終りの「パー」が合体したものだとか。因みにこの年、内海突破の「ギョッ」も流行語となっている。これは、驚き、感嘆を大げさに表現した言葉。NHKラジオ番組「陽気な喫茶店」で使われたギャグである。
そして、1951(昭和26年)頃から本格的に映画に復帰する。1953(昭和28)年には、主役映画『アジャパー天国」が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られ売れっ子スターとなる。1955(昭和30)年からは、松竹で、「二等兵物語」シリーズ、「駅前旅館」(1958年) に始まる、森繁久弥フランキー堺と共演による「駅前シリーズ」が大ヒットする。この頃になると、私も「バンジュン」の映画を沢山見ているのでよく知っている。
戦前・戦中の戦争映画と言えば、プロパガンダ作品であったが、敗戦後につくられた映画は、逆に、旧軍隊を断罪する反戦映画1色であったが、戦後も10年経つと、軍隊生活に懐かしさを感じるようになるのかバンジュンと花菱アチャコ主演の戦争喜劇は兵役体験者に受けて大当たりした。映画化を企画したのは、梁取三義(やなとりみつよし)の原作タイトルに引かれ、松竹に企画を持ち込んだバンジュンだったそうだ。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)軍隊生活をコミカルに描いて笑わせたが、関心をもたれたのは、悪徳上等兵たちによる劇中での初年兵いじめのシーンであった。戦後10年も経つと、軍隊時代のつらい思い出を懐かしがるほどに、戦争が遠い出来事になりかけていたと言うべきだろう。兎に角、「二等兵物語」シリーズの古山源吉二等兵は、東北出身であった俳優・伴淳三郎の当り役となった。
喜劇俳優から性格俳優へ飛躍するのは1964(昭和39)年の内田吐夢監督の「飢餓海峡」からである。水上勉原作の社会派推理映画だが、殺人犯を10年にわたり追いつづける老刑事の執念を見事に演じ、シリアスな演技にも独特な味わいを見せた。このあとも映画やテレビで、労働者や老巡査役などで出演、いぶし銀のような演技をみせた。
しかし、私などは、バンジュンと言うとアジャパーの喜劇俳優としての印象が大きい。どちらかと言うと、B級の映画が多い。映画など、所詮娯楽であり、私など、余り理屈っぽいものよりも楽しければそれでいいと思っている。東北弁まるだしの台詞は回しは味があっていい。
バンジュンは、1935(昭和10)年に自分の一座を結成し、ここで日本を代表する喜劇女優清川虹子と出会う。彼女とは同棲もしていたらしいが、1952(昭和27)年には結婚もしたが、1959(昭和34)年に離婚している。バンジュンはかなり女癖が悪かったようでもありそれが離婚の原因のようだが、それでも、バンジュンの最後を看取ったのはかつて世話になりながら手酷い別れ方をした恋人清川虹子だった。聞くところによると、彼は、成功した喜劇役者とは裏腹の屈折した己の性格のゆえに、私生活では生涯不遇で孤独だったらしい。
(画像は、「二等兵物語」1955年松竹。伴淳三郎 と花菱アチャコ。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
伴淳三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E6%B7%B3%E4%B8%89%E9%83%8E
伴淳三郎 (バンジュンザブロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/85955/index.html
梁取三義- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/118298/index.html
伴淳三郎-映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0327010.htm
Category:演劇
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%BC%94%E5%8A%87
東北方言 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%96%B9%E8%A8%80
米沢市芸術文化協会ホームページ/米沢文化の先人たち/伴 淳三郎
http://www9.ocn.ne.jp/~yngeibun/geibun-yonezawabunka-no-senjintati.htm

島原の乱(原城の一揆)が勃発した日

2007-10-25 | 歴史
1637(寛永14)年の今日(旧暦10月25日=新暦12月11日)、島原の乱(原城の一揆)が勃発した日。関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた徳川家康は、1603(慶長8)年江戸幕府を開いた。徳川幕府は政治体制の安定を求めて、政治的、文化的な体外接触を最小限にとどめ、さらに経済面では貿易についても厳しく統制管理をして、日本を国際的に孤立した体系を鎖国の中に置いた。それゆえ、鎖国は一挙に完成したものではなく、段階的な各種の制限令によって成立した。当初の政策は、キリスト教の宣教(宗教を教え広めること。伝道。布教)は厳禁するが外国貿易は認める方針をとっていた。しかし、貿易船を利用しての宣教師の潜入は相変わらずであった。そこで、幕府はついに両者ともども禁止することになった。
1633(寛永10)年、幕府は、幕府の許可を得ている奉書船以外の海外渡航を禁じた。また、キリスト教の禁止を全国に布令し、神父の訴人には銀100枚を与えることにした。また、貿易面では、オランダ船の滞在は50日、出発は9月20日を期限とし、中国船についても同様とした。そのほか海外渡航5年未満の者はその帰国を許可した。
1634(寛永11)年、さらに、日本人の海外往来や通商を禁止するとともに、長崎の海中に出島の建設を開始し、在留ポルトガル人をここに隔離する方針をとった。ついで、翌・1635(寛永12)年には、海外在留の日本人の帰国を禁止し、500石以上の大船建造をも禁じた。これによって、東南アジア方面に発展していたいわゆる南洋日本人町(日本人町参照)も、衰亡の一路をたどることになり、一方で、大船建造の禁止は、外国への渡航を不可能とするものとなった。また、中国船の来航地も、長崎のみに限定された。出島は、1636(寛永13)年5月に完成し、ポルトガル人はすべてここに移住させられた。また、ポルトガル人との間に生まれた混血の男女、実に287人をマカオに追放するなど、その政策は次第に強化されていった。
その翌・1637(寛永14)年の今日(10月25日=新暦12月11日)、島原で、キリスト教徒や農民が島原藩領主・松倉氏 (松倉重政と次代の松倉勝家)の圧政に対して叛乱(一揆)を起こし、廃城となっていた原城に立てこもった。彼等は、その翌々年・1638(寛永15)年2月28日(新暦4月12日)まで、激しい抵抗をみせた。これが、島原の乱と言われるものである。
島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、領主の庇護のもと、宣教師の積極的な布教が行われ、領民のキリスト教への信仰も盛んな土地であった。
しかし一方では、キリシタンは、仏教など“異教徒”に力づくで改宗を迫っていた。こうした改宗活動を扇動していたのが宣教師だった。
豊臣秀吉や徳川政権の時代に禁教政策がはじまり、有馬氏が転封となり、代わって有馬氏の後を受けたのが、松倉重政である。重政は1618(元和4)年、一国一城令により、従来あった原城と日野江城を廃して島原城の建築を始める。石高に見合わない壮大な規模の島原城建築のために過重な年貢の取立てに加えて、幕府も徳川秀忠から家光が将軍になると、キリシタンの禁制はますます厳しくなり、重政もこれに応じて厳しいキリシタン弾圧を始めるが、その弾圧の残酷さは俊烈を極めたという。
そのような、過酷な取立てと種々の拷問に耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化し(この組織化自体が一揆)、1637(寛永14)年10月25日、代官・林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発する。
天草も島原同様キリシタン大名小西行長の土地であったが、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、次代の寺沢堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われていた。
この島原半島の口の津付近で発生した農民たちの一揆はたちまち天草諸島に伝わり、肥後天草でもこれに呼応した領民達が、総大将として宗教的カリスマ性を持つ当時14歳と言われる少年天草四郎を総大将に蜂起。四郎に率いられた天草勢は天草で戦った後、島原に向かい島原の一揆勢と合流し、一揆の勢力は3万7千人に達したという。この一揆勢が、廃城となっていた島原の原城で籠城する。
この島原の乱(原城の一揆)は、島原・天草一揆とも呼ばれる。農民たちの叛乱はいよいよ幕府にキリスト教弾圧の方針を固めさせた。
そのため、島原の乱は、キリシタン弾圧に対する宗教戦争と見なす向きもあるが、その弾圧は、何もキリシタンに止まらず、松倉氏の領する島原藩のある肥前・島原半島と、寺沢氏の領する肥後・天草諸島の農民をはじめとする諸領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害も加わり、両藩に対して反乱を起こした乱なのである。
事の重大さに慌てた幕府は、島原の一揆鎮圧に12万4千人もの兵を投入。1638寛永15)年2月28日、幕府軍の総攻撃によって一揆勢はすべて討ち死し、未曾有の惨事となった。この乱の後、幕府は1639(寛永16)年第5次鎖国令を発布し、ポルトガル船の入港を禁止。 1640(寛永17)年、マカオより通商再開依頼のためポルトガル船が来航するが、幕府は使者61名を処刑したといわれている。 残酷なようだが、天草四郎たちは、カトリックの援軍を頼りにしていたと言われており、幕府側にしてみれば、カトリックの国ポルトガルは、災いの種を蒔くだけという判断があったからであろう。そして、1641(寛永18)年オランダ商館も出島に移し、鎖国体制が完成した。
キリスト教信徒であった有力大名小西行長が没落してから、大名の間では次第にキリスト教の同情者は減っていた。当時ヨーロッパを多きく引き裂いた宗教戦争によって、プロテスタント国となったオランダやイギリスの船が17世紀のはじめ、来航し、平戸(長崎県)の商館で貿易を開始することが許可された。スペインやポルトガルの宣教師による布教活動が盛んであったにもかかわらず、この両国はキリスト教の布教には関心がなく、貿易の利益のみを求めていた。家康に面会し世界の情勢を説いたのはイギリス人ウイリアム・アダムス(後の三浦按針)である。
当時は、ポルトガルとスペインという2つの競合する国家を背景とするイエズス会フランシスコ会ドミニコ会といったカトリック内部の教派の対立、加えて、ヨーロッパの宗教改革によって、プロテスタントに生きる新興のイギリス、オランダの進出といった複雑な対立のなかに日本は巻き込まれつつあった。これを打開し、同時に徳川政権の全国支配体制の確立を目指すために、各地のキリスト教徒の弾圧を開始したのであり、スペイン船の来航を禁止し、日本船の渡航も次第に制限を加え、厳しい鎖国政策へと進んで行ったのである。
「鎖国」はなにも日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東アジア諸国においてもとられた「海禁政策」であり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東アジア史を視野に入れてこの「海禁政策」という用語を使う傾向がみられるようだ。
鎖国といっても、日本には4つの窓口が開いていた。オランダ・中国は長崎会所で、 李氏朝鮮対馬藩経由で、 琉球薩摩藩経由で、 アイヌ松前藩経由での4つである。
このような島原の乱の起こる原因となった当時の日本の背景など、以下参考に記載の※「新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・近世の日本:15 鎖国の背景」などを見るとよく分かるのではないか。
(画像は、島原籠城軍の最後。熊本城主細川忠利の軍勢は本丸に乗り込んで、天草四郎の首を取ったが、忠利は松平忠勝宛の書状で、一揆勢の最後を「焼け候燠(おき)を手にて押し上げ、中へはいり死に候者、逃げ申す者は見申さず候、」「さてさて不思議なる仏法(宗教)」「きとく(奇特)なる下々の死、言語に絶し候」と述べているという。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
Wikipedia - 島原の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱
原城
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kyushu/hara/hara.htm
島原の乱を訪ねて(南島原市)
http://www.city.minamishimabara.lg.jp/icity/browser?ActionCode=genlist&GenreID=1000000000045&ParentGenre=1000000000044
鎖国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・近世の日本:15 鎖国の背景
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-15.htm
出島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%B3%B6
島原の乱異聞
http://blog.tatsuru.com/2007/02/23_1353.php
キリシタン史 禁教・潜伏時代
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi4.html
日本人街 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%A1%97
龍宮城はベトナムだった
http://www2m.biglobe.ne.jp/~saigon/ibn/cafe12.htm
黒田長興 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E8%88%88


ツーバイフォー住宅の日

2007-10-24 | 記念日
今日(10月24日)は、「ツーバイフォー住宅の日」。(社)日本ツーバイフォー建築協会が制定。10月24日を「ツーバイフォー住宅の日」としたのは、10月が住月間であることと24日はツーバイフォー(2×4)にそれぞれ因んだもの。
同協会は、毎年、その特徴などを深める活動の一つとして“ツーバイフォー住宅の日キャンペーン”を実施し、同協会のホームページ上に掲載するコンテンツに従い、簡単なクイズに回答することで抽選により賞品をプレゼントされるそうだ。
2×4(ツーバイフォー)住宅は19世紀初めの開拓時代に北米で生まれた建築工法である。日本では、その名称を1973(昭和43)年に、『学術用語集 建築学編』に「木造枠組壁構法」と定義された建築構造の木構造の構法の一つである。
日本で古くから発達してきた在来工法である木造軸組構法が、(はり)といった軸組材(線材)で支える構造であるのに対し、ツーバイフォー工法では、フレーム(骨組み・枠組み)状に組まれた木材に構造用合板を直接打ち付けた耐力壁および耐力床で建物を一体化した構造が特徴である。この枠材と面材とが一体となった『面』で支える構造は、四辺の壁、床、天井などの6面相互の緊結により家を形づくっており、そのことによって、地震や台風などの力を建物全体で受け止め、荷重を一点に集中させることなく全体に分散してしまうので、外力に対して抜群の強さを発揮する。
特に耐震性に優れていることは、私自身、神戸に住んでいるので、阪神・淡路大震災の被害を受けたが、周りの家が倒壊・壁が崩れたりしている中で、家がツーバイフォー工法で建築したものであったため、建物壁に亀裂が入った程度で大きな被害を生じなかったことから、ツーバイフォー工法が以外に耐震性のあったことを知っている。阪神・淡路大震災が起こったのが1995(平成7)年1月のこと、私が、今住んでいる家を建てたのが、今から約32年も前のことだから、1975(昭和50)年のことである。だから、米国式のツーバイフォー工法が日本式呼称として、木造枠組壁構法として、認知された1973(昭和43)年から、2年後のことである。その当時、まだ、当時では日本式の従来工法で建てられた家が殆どであり、ツーバイフォー工法の家など余り知られておらず建っているのをまだ殆ど見ない時代であった。家を建てようと、モデルハウスを見に行った当時は、まだ、私も若く経済的にゆとりのない年代であったので、在来工法の家より比較的安価で、デザイン的に斬新であったツーバイフォー建築の家の魅力に惹かれて建てることにした。建築後何年か経って、子供の部屋にクーラーを取り付けたとき、取り付け工事に来た電気屋さんが、外壁にクーラー用の穴を開けるのに参ったと聞いた。どうしたのかと聞くと、私の家の外壁は普通の住宅用家の壁に比べると倍ぐらいの厚さがあり、穴を開けるのに苦労したと言うのである。まるで、鉄筋コンクリート作りの家のようだというのである。家を建てて10年後くらいに一部をリフォームしたが、その時の建築業者も言っていた。これは、最近のツーバイフォーではなく、初期のカナダの建築方法とよく似ていると言っていた。内部の壁が石膏ボードを使用しているので非常に、外壁を分厚くしているのだとか・・・。丁度、阪神・淡路大震災が起こった年の前年に、家を建てて、20年目であったので、この時も、外壁や屋根のペンキ塗り他、大掛かりなリホームをした。しかし、その翌年に、震災に遭ったわけであり、最初は、折角、リホームしたものが、台無しと情けなく思ったが、周りの家が、大きな被害にあっているのに、我が家は、小さな被害しかなかった。被害が少なかった理由は、後で、検証してみると色々合ったが、先ず1番目には、家の地盤が軟弱ではなく、しっかりとした地盤の土地であったことである。これは、若い頃より、誰に教わったかよく覚えていないが家を建てるときには、しっかりとした地盤の土地でなければいけないことを教わっていたので、家を建てるときに土地を調べて買っていた。そして、2番目に、偶然であったが、たまたまツーバイフォー工法で家を建てたことであろう。それに、ツーバイフォーでも昔の古い形式の外壁の分厚い建物に、リフォームで、2回ほど、ペンキを上塗りしており、壁が補強されている。また、内装を改装した時に、石膏ボードをベニヤに変えたので、余計に強くなっている。しかも、屋根は人工屋根瓦カラーベストなので、瓦にくらべてかなり軽い為、家に負担がかからないなどである。
ただ、ツーバイフォー工法は、室内にのびのびとした開放感を演出してくれる吹き抜け空間も得意技としているようだが、内装工事をしていて困ったのは、家が出来上がってからの、間取り変更や、内装のクロス張りが大変だ。我が家では余り大きな間取り変更はしなかったが、クロスの張替ええでは、貼ったクロスをはがす手間が大変であり、張替え後も余り綺麗に仕上がらない。そのため、改装の時に石膏ボードをベニヤ板に張り替えた上で、クロス張りをしたのである。
在来工法のような、重量感はないが、阪神・淡路大震災以降我が家の周辺にも、非常にツーバイフォー工法で建てた家が多くはなっている。
札幌の名所として有名な時計台は、明治初期に建てられたツーバイフォー工法の代表的な建造物。メンテナンスさえすれば永く使用できるようだ。因みに、先ほども書いたように我が家も筑後32年たち、今3度目の大改装をしている。恐らくこれが最後の改装となるだろうが、これで、私たち夫婦が亡くなるまでには大きな改装はしなくても快適に住めるだろう。
(正面から撮影した時計台。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
日本ツーバイフォー建築協会
http://www.2x4assoc.or.jp/
木造枠組壁構法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%80%A0%E6%9E%A0%E7%B5%84%E5%A3%81%E6%A7%8B%E6%B3%95
札幌市時計台 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E5%B8%82%E6%99%82%E8%A8%88%E5%8F%B0

津軽弁の日

2007-10-23 | 記念日
今日(10月23日)は、「津軽弁の日」
津軽弁の日やるべし会が制定。この日が青森県の方言詩人・高木恭造の命日でもある。
以下参考の津軽弁の日オフィシャル・サイトによると、「津軽弁の日」を作った理由は、”なもかもうるめ(あじのある)津軽弁も、遣ねでればだんだネ忘えらさてまて(使わないでいれば、だんだん忘れられてしまって)、そのうぢあンずましぐ(心地よく)喋エねぐなったりへば(しゃべれなくなる)。方言詩人高木恭造さんの、「まるめろ」の朗読ごと聞いて、えぱだに気持コじゃわめだ人もずンぶいだズごどだ(変に心がざわめいた人も随分いたようだ)ろうから、「津軽弁の日」ズのをこへで(作って)、みンなしてその味コ消さねにすべし”・・ということらしい。(詳しくは以下参考に記載のオフィシャル・サイト「津軽弁の日って」を見られたい。また、恭造の方言詩集「まるめろ」は以下で見れるよ。
方言詩集「まるめろ」→http://fweb.midi.co.jp/~munakata/marumero/marumero.html
そして、1987(昭和62 )年の この日が青森県の方言詩人、高木恭造の命日であることから、その翌年から毎年10月23日に青森市文化会館で、青森県津軽地方で話されている津軽弁をテーマとした催し物が行われているようだ。今年・2007(平成19)年で20回目を迎えた。一般の人から津軽弁に関する「短歌、俳句、川柳」「体験記」「詩」を募集し、優秀な作品は伊奈かっぺい(いな かっぺい、本名・佐藤 元伸(さとう もとのぶ)を始めとする面々が会場で朗読する。作品は青森県内からだけでなく県外からも多数寄せられているそうだ。
私は伊奈かっぺいと言う人を知ってはいるが、それ程良くは知らないが「北の伊奈かっぺい、南のばってん荒川」と言われるほどのローカルタレントだと言われているそうだ。
昨年亡くなった九州・熊本のお笑い芸人・ばってん荒川のことは、昨日ブログで採りあげたので、そちらで、見てください。→「10月22日ばってん荒川こと米崎一馬の 忌日」
方言(ほうげん)とは、ある1つの言語の中の亜種・変種のことである。
言語は変化しやすいものなので、地域ごと、話者の集団ごとに必然的に多様化していく傾向があり、発音語彙俚言など)、文法に相違が生じる。そのために、差異の程度が別の言語までには広がっておらず同じ言語の変種と認められるものの、部分的に他の地域の言葉と異なった特徴を持つようになったものを方言と呼び、また、方言には同一地域内にあって、社会階層の違いによって異なる変種もある。
日本の地形は険 しい山々や流れの激 しい川が多く、昔は、その自然の壁に遮られ自由に交流することが出来なかった。その結果、地域ごとに違った方言が生まれた。また江戸時代には、日本はいくつもの に分かれ、それぞれの藩の交流がなかった。こういった制度も方言の成り立ちには大きな影響 を与えていた。
かつての文化の中心地から同心円状に、異なった方言語形が分布している状態を周圏分布という。柳田国男は、蝸牛考で、中央から同心円(中心が同じで、半径が異なる円)状に同じような語彙や言い回しが存在し、辺境に行くほど中央で古い時代に使用されていたものが分布していることがあると指摘しており、そのような分布を「周圏分布」といい、その好例として、京都でカタツムリの方言がナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシ のように変化し、それぞれが東西南北に広がっていったと推測している。
以下参考に記載の『日本言語地図』は、全国各地の方言で、どのような語形や発音がどこに現れるかを項目ごとに表示した地図で、言語地図あるいは方言地図と呼ばれているものであるが、「方言の日本地図―ことばの旅」 (講談社、真田 信治著)にも、”方言形の残存率がもっとも高い沖縄(これは沖縄の歴史、琉球王国の経緯からして当然)についで、11位までを九州と東北の県が占めているというが、これは、地理的に中央から遠く隔たっているためその影響を受けにくく、それだけ固有の方言を残しやすく、標準語が浸透しにくい地域であったからだと考えられている。”・・・とある。
例えば、東北方言、俗に東北弁とも言われているものは、江戸時代の西廻り航路(北前船)の港町がある藩は京言葉大阪弁など上方方言の影響がみられ、東廻り航路の港町がある藩や主要街道が通っている藩は江戸言葉の影響があると言われている。 上方の影響がある方言には、 津軽弁下北弁秋田弁庄内弁があり、江戸の影響がある方言 には、南部弁盛岡弁仙台弁福島弁 がある。
私は、現役時代、出張するのが仕事のようなものであったが、あるとき山形県・旧庄内藩領内である酒田にもよく行ったが、冬の時期には、仕事が終わった後は、地元の特産であるハタハタ田楽で1杯やるのが楽しみであった。行きつけの店には、庄内弁の中の京言葉に近いものを壁面に張り出していた。それを見て本当に今でも京都で通用するような言葉が沢山あったので驚いたが、これらは、昔、何らかの理由によって、酒田に流されてきた京の公家達の使っていた言葉が広まったものとの店主の説明であった。同じ京言葉にちかいものでも、色々あるようだ。
明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語共通語と比較)を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられた。そのため、方言を話す者が劣等感を持ったり、差別されるようなこともあり、現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口は確実に減っている。関西地方では、今でも比較的方言を使っているが、それでも純粋なものではなく、地域性が失われる傾向にある。特に若者の間でその傾向が著しい。
山口県が観光案内に「おいでませ山口へ」と山口弁を用いた事などをきっかけに、近年は観光ポスターや駅前の歓迎塔などで方言が積極的に用いられるようになった。方言には、その土地の独特の雰囲気が漂っているのでいいものだ。余り、訛りが強くて土地の者にしか分からないものを日常に使われると困るが、相手に通じるものであれば、方言を使うと面白いよね。どうせ、今の標準語と言われているものも、各地方の方言の寄せ集めと言ってよい。標準語は東京の中流階級の山の手言葉を規範として造られたとされているが、この言葉自体、江戸時代に参勤交代で江戸に滞在していた様々な地方の人の方言が混合して成立したものであり、下町などでは江戸言葉(江戸弁)を母語とし続けた。これも、方言の1つである。
(画像は、(講談社「方言の日本地図―ことばの旅」 、真田 信治著)
高木恭造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%81%AD%E9%80%A0
津軽弁の日オフィシャル・サイト
http://tsugaruben.jp/
日本の方言
http://contest2005.thinkquest.jp/tqj2005/80278/hogen.html
10月22日ばってん荒川こと米崎一馬の 忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20071022
方言詩集「まるめろ」(津軽書房、昭和28(1953)年、棟方志功装丁版)
http://fweb.midi.co.jp/~munakata/marumero/marumero.html
Category:言語学- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6
全国方言コンバータ
http://www.netricoh.com/contents/variety/hougen/
津軽弁対訳集
http://www2d.biglobe.ne.jp/~oga/tsugaru/ben.html
ふるさとの方言~方言ページの道しるべ~
http://nlp.nagaokaut.ac.jp/hougen/
『日本言語地図』地図画像/日本語情報資料館
http://www5.kokken.go.jp/dash4/laj_map_main.html
ハタハタ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%83%8F%E3%82%BF
庄内のやさしさ ぬくもりの庄内弁心理学/どげだ?何ともながろ?
http://www3.ocn.ne.jp/~efukushi/shounaiben.htm
東京方言 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E8%A8%80


お笑い芸人・ばってん荒川の忌日

2007-10-22 | 人物
今日(10月22日)は、お笑い芸人で「肥後にわかの巨匠」と言われたばってん荒川こと米崎一馬の 2006年の忌日。
ばってん荒川と言っても、九州地方の人意外で、知っている人は今では、もう、年配者意外では少ないのではないか。
1937(昭和12)年2月8日、熊本県熊本市出身で、本名は米崎一馬(よねざきかずま)。 熊本県や福岡県を中心に九州地方で長年に渡り活躍したローカルタレント舞台役者であり、鼻の下に大きなほくろ、独特の熊本弁で口うるさい「おばあさん」を演じていた。戦後、存続が危ぶまれた肥後にわかを復活させ、支えた事から「肥後にわかの巨匠」と評されていたそうだ。また、演歌歌手として演歌も吹き込んでいた。
ばってん荒川は中学を卒業後、様々な職を転々とした後に父(荒川九州男・漫才師)と同じ芸能界へ入ることを決意、1955(昭和30)年18歳の時に、熊本県の郷土芸能「肥後にわか」の劇団「ばってん組」に入団したのが芸暦の始まり。このころ、にわかは熊本でのラジオ局開局と合わせて放送もされ、地元で大人気となる。
1年後の19歳のときに早くもチャンスがおとずれおばあさん役を割り当てられた。「肥後にわか」は、熊本で生まれた俄狂言(にわかきょうげん)のことで、日常のことをネタにする「肥後にわか」にとって、お人良しのおばあさんは欠かせない存在であったらしい。喜劇役者である故三木のり平の演技を参考にして独自の「およねばあさん」を生みだす。この時、芸名を、肥後ばってんから、父の苗字をもらい、ばってん荒川と改名。「ばってん劇団」の団長で、“がね政”ことばってん太郎とコンビを組み、主に和服姿の扮装と、軽妙な熊本弁でのしゃべりで、「肥後にわか」の中心的人物として人気を集めた。
当時、にわかのスターとしては、博多の2代目博多淡海(はかたたんかい)、佐賀の筑紫美主子(ちくし・みすこ)。筑紫のことはよく知らないが、2代目博多淡海(本名・木村平三)は、「博多にわか」の素人役者からプロ役者に転じた初代淡海(本名・木村平三郎)の死後跡を継ぎ、松竹芸能に所属して東京進出を果たし、おばあさんの格好で正座したまま1mもジャンプする曲芸なみのギャグや藤山寛美との共演で有名であったのを思い出す。ただ、木村平三の息子木村進は、3代目淡海襲名後、福岡市にて、脳内出血で倒れ重体となり、その後、一命は取り留めたものの、左半身に重い障害が残り、その結果、新喜劇を退団し、吉本興業を退社し、マスコミの前からは姿を消し、同時に3代目博多淡海の屋号を自ら返上する事となったが、結局は、元は「父の重圧」に耐えかねて・・のことであるようだ。
荒川がこの2人に遅れて、世に出た頃には、テレビの普及でにわかは廃れつつあった。1970(昭和45)年、「火の国一代」でレコードデビュー。これを機に熊本弁で語るピン芸人となり活動の場を福岡県にも広げる。そして、福岡、熊本のテレビ、ラジオを中心にマルチタレントとして活躍。全国ネットでも活躍するようになり、東京進出の誘いを受けたこともあるが、「九州にこだわる者がおってもよか。芸があれば声がかかるはず」と九州に残り、地方で活躍。それでも、全国区でも知られるようになった珍しいローカルタレントだ。しかし、今の時代は、このような本当の芸人と言える人は少なくなってしまったよね~。
ばってん荒川亡き後、ラジオ番組のばってんのふれあい天国(KBCラジオ、土曜14:20~14:50頃)は、英太郎が引き継ぎ、また、ばってん荒川 ぴら~っと登場!(RKKラジオ、月曜20:00~21:00)は、共演者二人により「ラジオおもしろ肥後狂句工房」として続行しているようだ。
肥後にかわの題材(笠)は、その時々のさまざまな庶民的話題。その笠にあった話言葉を七・五と普段話すように付けて、おもしろおかしく風刺する。 なかなか、面白いものなので、興味のある人は以下を覗いてみるとよい。
ばってん荒川 ぴら~っと登場!(熊本放送)
http://www.rkk.co.jp/piratto/higokyouku.html
ばってん荒川 ぴら~っと登場!(RKK Podcasting)
http://podcast.rkk.jp/arakawa/
(画像は、おばあさんに扮した・ばってん荒川さん2005年11月撮影。2006・12・11朝日新聞より)
参考:
ばってん荒川 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%93%E8%8D%92%E5%B7%9D
ばってん荒川公式サイト
http://www.sawayanagi.co.jp/batten/
MyWay/笑いを愛して熊本を愛して
http://www.daiichi-koutsu.co.jp/ones/ones13/myway.html
博多にわか
http://www.tsubasa-inc.com/sonota/profile/niwaka/niwaka.htm
木村進 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%80%B2
三木のり平 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E3%81%AE%E3%82%8A%E5%B9%B3