今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

遠距離恋愛の日

2007-12-21 | 記念日
今日(12月21日)は、遠距離恋愛の日。
遠距離恋愛中の恋人同士が、クリスマス前にお互いの愛を確かめあう日。
12月21日の「1221」の両側の1が1人を、中の2が近づいた2人を表すそうだ。その形から離れている恋愛中の男女にエールを送る日とされているのだとか。
人が生まれ、育ち、亡くなるまでの一生を、同一地域で生活していた昔と違って、今の時代は、学生生活も大学になると、いや、良い学校へのこだわりのある場合などにおいては、中学・高校であっても家族と住んでいた所から離れて都市部の有名校などの遼に住んでいる人もいるだろうし、また、同じ学校であっても卒業すると、就職などで、色々な地域の会社へ勤務することになる。そして、就職してからも、ずっと同じところに居れるとは限らず、他所の地域への転勤などの移動も多いだろう。また、就職したからといっても、昔などと違って、終身同じ職場で勤務するという人も少なくなり、他の職場へ転職する人も多くなった。それに、今は、女性も男性と同じ様に仕事を持つのが当たり前のような時代になったのだから、恋愛関係にある人達でも、否応なく、遠く距離の離れた地域に暮らさなければならなくなることも多いであろう。
今、そんな遠距離に住んでいる人同士の遠距離恋愛 が増えているだろうからと検索してみると、ちゃんと「フリー百科事典Wikipedia」に「遠距離恋愛 」のことが掲載されていた。それだけそういう立場の人達が多いと言うことの証でもあるだろう。早速、見てみると、「遠距離恋愛」とは、”居住区における物理的距離が離れている状態での恋愛関係またはその状態のことをいう。しかし、物理的距離が離れている場合以外でも「遠距離恋愛」とされるケースが存在するため明確な定義は存在しない。”として、”恋愛をしている当事者本人が遠距離恋愛だと感じれば、物理的に近距離とされる距離であろうとも遠距離恋愛とされる。”・・・”言い換えれば「なかなか逢えない距離」が「遠距離恋愛」の定義となりうるものだと思われる。”・・・とあった。ま!確かに、ご互いに近い距離に住んでいたとしても、双方の仕事の関係で、また、片方であっても、仕事などが多忙であるとか、サービス業などであれば、休暇日が違う、また、勤務時間帯が違うとかいったことなどから、なかなか2人が会う機会の少ない立場にいる人たちも大勢いるだろう。
なんでも、アメリカの心理学者ボッサードにより発見された「ボッサードの法則」と言うものには、「男女間の物理的な距離が近いほど心理的な距離は狭まる」というものであるそうで、これは逆に言えば、”遠距離恋愛は成就しにくいことを示すものである。この法則を打ち破るには、頻繁に連絡をとる等して互いの心理的距離が遠くならないようにすることが必要である。”・・・としている。何か、心理学がどうのこうの、また、「○○の法則」などと小難しいことを言わなくても、2人の間が疎遠になればなるだけ急速に求心力を失ってしまうということは一般的にいって、当然のことであろうから、物理的であろうが、そうでなくとも、ご互いに相手に対して近くにいると感じさせるということは重要であろう。
2人の間でのコミュニケーションが減れば、2人の中が疎遠になれば次第に自然と別れなければならない確立も高くなるだろうが、この頃は画像も送信できる便利な『携帯電話』のようなコミュニケーションツールがあり、「ボッサードの原則」も最近では少し通用しなくなりかけているかもしれないね。
恋愛とは、人間が特に異性に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情で、又、その感情に基づいた一連の恋慕に満ちた態度や行動を伴うものである(フランス語のamour、英語のloveの翻訳語)とされているようだが、『広辞苑』では単に「男女が互いに相手をこいしたうこと」と定義されている。しかし、この恋愛の定義などについては、かならずしも明快な答が得られているというものではなく、国語辞典でも様々な解釈がなされており、『三省堂国語辞典』は、「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること。」と定義しているようだが、このように相互が、「毎日会わないではいられなくなる」存在となると、先の「遠距離恋愛」をしている人達にとっては、単に電話などでのコミュニケーションだけでは、ストレスが沸いてくるかもしれないね~。
特に、独自の記述で定評のある『新明解国語辞典』第5版では、「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」と表現されており、この記述では性愛の側面を重視しており、また一方的な片思いでも恋愛は成り立つと解釈できる。このように、恋愛の中に、性愛の側面が強くなってきたら、ますます、「遠距離恋愛」に於ける物理的距離や、近くても合えない状況によって合えないことが続くと、恋愛も破綻につながるのが早いだろう。
同辞典第6版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、2人だけでいたい、2人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」と改訂され、性愛についての記述は削除されたようで、何か、第5版のときよりは、少し、高尚な恋愛に代わってきたようだね~。(総じて国語辞典では異性愛を前提とした記述がされており同性愛についての記述は見られないようだ。)
「・・・十代の女の恋愛には、飛ぶ雲のような淡さがあり、二十代の女の恋愛には計算がともない、三十代の女には何か惨酷(ざんこく)なものがあるような気がする。
 本当の恋愛とはどんなのをさして云うのだろう。サーニン(※1)のようなものを云うのだろうか、エルテルの悩み(※2)のようなものだろうか、それとも、みれん(※3)、女の一生(※4)、復活(※5)、春の目ざめ(※6)、ヤーマ(※7)、色々な恋愛もあるけれども、どれもこれも古くさくてぼろぼろのようだが、また、考えれば、どれもこれも新らしいとも云える。――
美しくて朗らかで、誰にも迷惑を及ぼさない恋愛は童児たちでなければ望めないことかも知れない。精神的なものがあふれて来るほど、恋愛は悲劇的でものがなしくなって来る。恋愛の微醺とはどこの国へ行ったらあるのだろうか。どこの国でも、恋愛物語で埋れているようでいて、恋愛の微醺を説いた物語は皆無だ。恋愛は生れながらにして悲劇なのだろう。悲劇でもよいから、せめて浪漫(ロマン)的な恋をとおもうが、すでに、世の中はせち辛(がら)くなっていてお互いの経済の事がまず胸に来る。・・・」。
これは、林 芙美子の「恋愛の微醺」からの抜粋である。※1~※7については、私自身も一寸判らない小説の名も出てくるので調べた範囲でのことを以下に簡単に書いておこう。本の内容が判った方が、上記に書いた、林の文も理解し易いだろうから・・。
※1は、林 芙美子の『放浪記』の中に”私に「サーニン」 を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか”といった文が出てくるがこれは、ロシアの小説家アルツィバーシェフ〔Mikhail Petrovich Artsybashev,1878~1927〕の作品『サーニン 』〔Sanin〕。虚無主義者サーニンをめぐる恋愛を描いたもので、大胆な官能描写で有名。サーニズムの流行語を生んだ作品。また、※7も同『放浪記』に、こんな一節が出てくる”糊の抜けた三畳づりの木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してクープリンの「ヤーマ」 を読む。したたか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる。尨大な本だ、頭がつかれる。"とあり、このクープリン〔Aleksandr Ivanovich Kuprin,1870~1938〕はロシアの作家で、豊富な体験に基づいて写実的な作品を発表、『ヤーマ』は1910年作。「魔窟」と訳され、娼婦の悲惨な生活を冷静に描いたものとして異常なセンセーションをおこしたそうだ。(以下参考に記載の「放浪記・放浪記以前」参照)。※2は、あの有名なゲーテの『若きエルテルの悩み』。彼は14歳で、年上の少女に一目ぼれしたのを最初に、恋多き人生を送る。※3『みれん』は、シュニッツラーの作品で、ウィーン生まれで軍医や開業医をしながら多くの戯曲や小説を書いているそうだ。シュニッツラーと同年生まれの森鴎外が翻訳してつけたタイトルで原題は『死』だそうだ。当時不治の病であった肺結核で余命1年と宣告された男の死への恐怖、男女の愛蔵を描いたもので、「みれん」は、生へのみれん、女へのみれんをあらわしているのだとか。以下参考に記載「読書エッセイ|本の水脈004: 第4回 森鴎外からスタンリー・キューブリックへ」参照。また、「国立国会図書館/森鷗外 | 近代日本人の肖像」でこの本を読むことができる。※4は、有名なモーパッサンの『女の一生』。女癖の悪い男に騙され、放蕩息子の犠牲になる哀れな女の話である。※5は、トルストイの晩年の長編小説『復活』。若い貴族とかつて恋人だった女の、贖罪と魂の救済を描き、それを通じて社会の偽善を告発している。※6『春の目ざめ』は、森鴎外『沈黙の塔』の中で、"独逸文学で、Hauptmann(ハウプトマン) は「織屋」を書いて、職工に工場主の家を襲撃させた。Wedekind(ウェデキンド) は「春の目ざめ」を書いて、中学生徒に私通(しつう =夫婦でない男女がひそかに肉体関係をもつこと。密通。)をさせた。どれもどれも危険この上もない。"と書いている。内容などは以下参考に記載の「『春の目ざめ』 Frank Wedekind」を参照されると良い。
林 芙美子の言ってると同じ様な、ゲーテの名言がある。
「二十代の恋は幻想である。三十代の恋は浮気である。人は、四十代にして、初めて、純粋な恋愛に目覚める。」
また、シェイクスピアは、以下のように言っている。
「本を読んでも、物語や歴史に聞くところからでも、真実の恋は滑らかに運んだためしがない。」
「恋は、ほどほどにするものだ、そのような恋こそ、長続きする。」・・・と。
恋愛がどんなものかなんてことは、年代を得て、やっと判ってくるものだろう。それまでは、余り熱くならない方がいいような気がするのだが・・・。
モリエールも、以下のように・・・。
「結婚生活の中でこそ真実の愛が育ち、結実していくもので、いままでの恋愛を結婚生活の中で真実の愛へと育んでいくことを示唆します。」といっている。
最後に、遠距離恋愛中の恋人同士がお互いの愛を確かめあうのは良いが、その時は、ラクロ危険な関係」の以下の言葉を思い出しておいた方がよいかもしれない。
「分かっているでしょうが、手紙を書くのは相手に書くので自分に書くのじゃありません。だから自分の考えていることを言うよりは、なるべく相手を喜ばせることを書くようになさい。」・・てさ。これ、手紙だけでなく、話しをするときも同じだろうね。
最近は、ブログなども大流行で、ネットでの出会いなども多くなってきているだろうね。このようなネットでの出会いなどでは、実際の交流もなく、ただネット上だけで交信しているため、自分では気づかないうちに相手を美化していることが多いかもしれない。そのような中で、次第に恋が芽生えたりすると・・・。
(画像は、コレクションのチラシより映画「ユー・ガットメール」。絵本店を経営するキャスリーン〔メグ・ライアン。写真下〕とすぐその近くに大型書店チェーンを出す御曹司のジョー〔トム・ハンクス。写真上〕は最大のライバル同士。反目しあう2人だが、実はインターネットで知り合い、毎日の様にメールを交換する仲だった・・・。今の時代を反映した恋愛映画だ。)
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遠距離恋愛の日:参考

2007-12-21 | 記念日
参考:
恋愛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B
遠距離恋愛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E6%81%8B%E6%84%9B
ココロのカラクリ: 恋愛のココロ ~ボッサードの原則~
http://popminako.blog.ocn.ne.jp/kokoro/2007/04/post_5bab_1.html
林芙美子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90
林 芙美子「恋愛の微醺」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/42337_16286.html
放浪記・放浪記以前
http://etext.virginia.edu/japanese/hayashi/horoki/HayHoro.html#n50
恋愛心理学
http://i-shinrigaku.com/sinri/nagaku/bossa.html
---愛の格言・名言集---
http://kuroneko22.cool.ne.jp/loveword.htm
森鴎外「沈黙の塔」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/3336_23054.html
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86
森鴎外 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96
『春の目ざめ』 Frank Wedekind
http://www12.plala.or.jp/e-mokuba/frulings01.html
ギ・ド・モーパッサン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3
国立国会図書館/森鷗外 | 近代日本人の肖像
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/342.html
読書エッセイ|本の水脈004: 第4回 森鴎外からスタンリー・キューブリックへ
http://www.bunshun.co.jp/series/essay/dokushoyama004.htm
レフ・トルストイ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4
モリエール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB
ウィリアム・シェイクスピア - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2
コデルロス・ド・ラクロ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AD

直木賞作家で、前東京都知事でもあった「マルチ人間」青島幸雄の忌日

2007-12-20 | 人物
今日(12月20日)は、直木賞作家で、作詞家、タレント、放送作家、映画監督。その他、元参議院議員、元東京都知事などの政治家としても活躍。多彩な経歴を持つ「マルチ人間」青島幸雄の 2006(平成18)年の忌日である。
青島 幸男(あおしま ゆきお)は、1932(昭和7)年7月17日 東京都中央区日本橋堀留町の仕出し弁当店・弁菊の次男として生まれる。高校時代に結核を患い、1955(昭和30)年,早稲田大学商学部を卒業後、同大学院に進むが、肋膜炎を患い中退。療養中に書いた漫才の台本がきっかけで放送作家としての活動を始めるようになったようだ(以下参考に記載の「スペシャルインタビュー 青島幸男さん:がんサポート情報センター」参照)。フジテレビ開局翌日の1959(昭和34)年3月2日からハナ肇とクレージーキャッツが毎日の新聞記事を基にしたコントを演じた「大人の漫画」でテレビ脚本家に。翌・1960(昭和35)年からタレントに、「青島だぁ」のセリフで人気が得る。「おとなの漫画」に続いて、日本テレビで、1961(昭和36)年6月4日から放送開始された「シャボン玉ホリデー」(日曜夜6:30~7:00。1972年まで続いた)を手がけるなど草創期のテレビ界で活躍した。
「シャボン玉ホリデー」は、双子の女性デュオ・ザ・ピーナッツを主役に、ハナ肇とクレージーキャッツがレギュラーメンバーのミュージカル風のバラエティー番組(作・構成は前田武彦)で、毎回、歌謡界のスター歌手をゲストに迎えた。翌・1962(昭和37)年にこの番組で植木等が歌った「スーダラ節」が流行。作詞は、青島 、作曲は萩原哲晶
「スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ ♪」というフレーズをそのままに、ヒットチャートを急上昇した。「スーダラ節」に続き、植木の青島作詞・萩原作曲で作った曲はどれもヒットし、「わかっちゃいるけどやめられない」「ハイそれまでヨ」などのフレーズは、流行語にもなった。「スーダラ節」以下参照。
「スーダラ節」MIDI
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/suudarabushi.html
「スーダラ節」人気から生まれた映画「ニッポン無責任時代」(goo-映画参照)も大ヒットした。主人公のモットーは、無責任と不真面目。忍耐、努力なんて、お呼びじゃない。「コツコツやる奴ァご苦労さん」である。しかし、現実のサラリーマン稼業はそう気楽なものではなかった。満員電車で通勤し、帰りの屋台で飲む「チョット一杯のつもりで飲む」にしても、懐具合が気になる時代。自分と正反対の「無責任男」に、日本の働きバチは見果てぬ夢を託したといえるだろう。しかし、これ以降高度経済成長に入り、「こんなにうまくいくわけはないよ」と思いながらも「楽して儲ける」やり方に大衆は次第に引かれ始めた。青島作詞、萩原作曲によるクレージーキャッツの最後の曲は、1979(昭和54)年「これで日本も安心だ」である。"哀れな中年から今の幸せな若者へのメッセージ"らしいが、この曲のことは以下参考に記載の「これで日本も安心だ 」が詳しいので見られるとよい。日本の若者もかってとは大変身だこの歌の後日本がどうなったことか・・・。
「青島だあ!」と自ら番組に出演して以来、俳優としても活躍。1966(昭和41)年制作・脚本・監督・主演をした映画「鐘」は、翌年カンヌ映画祭国際批評家週間入選。1967(昭和42)年、日本テレビ系ドラマ「意地悪ばあさん」(長谷川町子原作) に主演の意地悪ばあさんの役(波多野タツ)で出演、お茶の間の人気を集めた。主演は最初、青島幸男だったが、1968(昭和44)年の参員選に立候補したため、8代目古今亭志ん馬(落語家)に交代した。また、このドラマは何度もテレビドラマ化されたりが、作者である長谷川町子は、漫画作品とは別と考えており「あれは青島幸男による青島ばあさんです」と述べるなど、テレビでの登場を快く思っていなかった節があるそうだ。
放送作家・作詞家・タレントとして多彩な才能を発揮した青島だが、政界でも活躍し、1968(昭和44)年、35歳の時参院選全国区に初めて立候補し2位で初当選するなど、タレント議員のパイオニア的存在となった。ちなみに、この時の全国区第1位は現・東京都知事である石原慎太郎であった。1974(昭和49)年7月7日の参議院戦では、全国区3位で再選を果たしたが、この時には、青島に続いて、大勢のタレント議員が誕生した。アナウンサーの宮田輝、女優の山口淑子、同じく山東昭子、漫才師のコロンビア・トップの各氏が全国区で初当選を飾っている。また、政界にもその存在感を示す傍ら、小説の執筆もはじめ、初めての小説「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま )」 を著す。「塞翁が馬」の「塞翁」(さいおう)は、北方の辺境の砦(塞)に住む老人のことで、人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえであり、出典は、中国前漢時代の思想書「淮南子(人間訓)」からであり、「人間万事塞翁が馬」とも(以下参考に記載の「人間万事塞翁が馬の解説」参照)。小説のタイトルは、これを引用したものであり、呉服問屋が軒をつらねる東京・日本橋堀留町の自らの生家である、仕出し弁当屋〈弁菊〉をモデルに、戦中から戦後へ、激動の時代をたくましく生きた庶民たちの哀歓を描き出した笑いと感動の下町物語である。この小説は1981(昭和56)年に直木賞を受賞している。
1989(昭和64)年には、参院議員4期目途中で消費税法案の強行採決に抗議して議員を辞職するが、直後に予定されていた参院選に立候補するものの落選。この行動は、中途辞職による比例代表名簿下位登載者の繰り上げ当選と、自身の当選によって所属会派の議席増をもたらすため、「比例代表制度を恣意的に利用するものである」と批判された。 それでも、1992(平成 4)年の第16回参議院選挙で、国会議員に返り咲く。1995(平成 7)年には、東京都知事選挙に初当選。2位の官僚出身候補石原信雄を50万票近く離しての圧勝だった。しかしながら、都知事時代は「めざせ開かれた都政」を掲げてはみたが、ビジョンもなく看板倒れに終り、めぼしい業績も残さなかったことや都市博中止以外の公約を反故にした行政をしたことにより、そのカリスマ性も薄れ、以後、、2001年参院選に比例区から、また2004年東京都選挙区から選挙に出馬するも落選が続いた。昨・2006(平成18)年12月20日死去。1991年に悪性リンパ腫が発見され当時の全てのレギュラー番組を降板し治療に専念。後に寛解するもこの時の抗癌剤治療が死因である骨髄異形成症候群の遠因となったと言われているそうだ。
多彩な経歴を持つ「マルチ人間」青島であったが、私個人としては、文化人としての能力面は評価するものの、こと政治に関してはこれといった選挙運動もせずに自宅にこもって選挙をしたり、後年、先にも書いたように体調がよくないにもかかわらずそのような身体で選挙戦に出馬するなど、チョット政治を嘗めているのかと思う節も見られ、少々小生意気で、不遜な感じの青島に対しては、余り好感はもてなかったが・・・。そういえば、青島作詞、中村八大作曲坂本九の歌で知られる「明日があるさ」。その後、ウルフルズなどによってカヴァーされ大ヒットした曲だが、テンポも良い曲で私も大好きな曲。最後にこの曲を聴いて終わろう。以下で聞けるよ。
明日があるさ ウルフルズ
http://homepage3.nifty.com/sinbunyadou/midi/room1/asita_8p_r.htm
(画像は、意地悪ばあさんを演じた青島幸男 。2006年12月21日朝日新聞より)
参考:
青島幸男 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B3%B6%E5%B9%B8%E7%94%B7
「スーダラ節」MIDI
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/suudarabushi.html
植木等 (ウエキヒトシ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/88301/
植木等 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1148246/index.html
明日があるさ ウルフルズ
http://homepage3.nifty.com/sinbunyadou/midi/room1/asita_8p_r.htm
これで日本も安心だ  
http://morioka.cool.ne.jp/mata326/dumb/hana.html
スペシャルインタビュー 青島幸男さん:がんサポート情報センター
http://www.gsic.jp/survivor/sv_06/02/index.html
人間万事塞翁が馬の解説
http://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html
世界都市博覧会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A
ウルフルズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%BA




イタリアの映画俳優マルチェロ・マストロヤンニ の忌日

2007-12-19 | 人物
今日(12月19日)は、20世紀のイタリアを代表する映画俳優であるマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Vincenzo Domenico Mastroianni)の、1996年 の忌日である。
1924年9月28日、イタリア北部の小都市に家具職人の息子として生まれる。幼い頃から映画や、演劇に興味を持ち、13歳頃からエキストラに出演そていたという。第二次世界大戦勃発と同時にイタリア軍兵士として参戦。戦時中は捕虜としてドイツの強制収容所も体験するが、からくも脱出し、終戦後までの間は、イタリア北部のヴェネツィアで隠遁生活を送っていたらしいが、戦後、ローマの夜間大学で建築学を学ぶかたわら、大学の演劇センターに参加し、1947(昭和22)年、23歳のときに、R・フレーダ(Riccardo Freda )監督『レ・ミゼラブル』に端役で出演、その名がクレジットに出る。この頃、無名時代のシルヴァーノ・マンガーノと出会って恋に落ちるが、彼女の『にがい米』への出演で幕切れになったとか。翌年、ローマ大学演劇センターの『アンジェリカ』の舞台でジュリエッタ・マシーナと共演。これがきっかけでイタリアを代表する巨匠ルキノ・ヴィスコンティにその才能を見出され彼の劇団に入り、ヴィスコンティ演出の『お気に召すまま』の舞台に立つ。以後は映画にも出演し、1959年に公開されたフェデリコ・フェリーニ監督の名作『甘い生活』で、ローマの上流階級を舞台に退廃的な生活を送るゴシップ記者を演じ一躍世界的なスターとなった。
その後もフェリーニ作品に頻繁に出演し、「8 1/2」(1963年)や「女の都」(1980年、goo-映画参照)、ローマにある巨大な映画撮影所「チネチッタ」のオープン50周年記念作品の「インテルビスタ」(1987年、goo-映画参照)など、多くの名作を残した。また、同じく多くの映画で典型的なイタリア美女を演じている女優、ソフィア・ローレンとの共演も多く、「バストで勝負」(1955年、(goo-映画参照) やヴィットリオ・デ・シーカ 監督の諷刺コミカルドラマ「昨日・今日・明日」(1963年、goo-映画参照)、「ひまわり」(1970年、goo-映画参照)、ロバート・アルトマン監督のパリ・コレクションを舞台に、デザイナーやカメラマン、モデルなどのファッション業界の人々と、それを取材するファッションマスコミの人々の群像劇を描く「プレタポルテ」(1994年、goo-映画参照)など多数の映画で共演している。その半世紀近い俳優生活の間に出演した映画は160本にのぼるという。1970年「ジェラシー」(goo-映画参照)、1987年「黒い瞳」(goo-映画参照)でカンヌ映画祭男優賞を受賞。他にもゴールデングローブ賞各賞を2回、ヴェネツィア国際映画祭各賞を3回受賞している。出演作品の多くがルキノ・ヴィスコンティやフェデリコ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ミケランジェロ・アントニオーニなどの名監督による作品であり、1960年代のイタリア映画全盛期日本にも多くのイタリア映画が入ってきたが、イタリア国内が政治、経済的に下降線をたどり不安定化した1970年代以降、イタリアの映画もパッタリと低調路線をたどるが、そんな中で、マストロヤンニに関しては、長年の俳優活動において「低迷期」と評される期間が全くないという、映画スターとして稀有な存在であったようだ。
私も、日本で、イタリア映画全盛期にはよく映画を見たがそのなかにソフィア・ローレンとの共演による「昨日・今日・明日」や「ひまわり」などの映画があるが、よくいい役者は、背中で演じることが出来ると言われるが、マストロヤンニもそうであり「ひまわり」など、戦争によって心に傷を負った男の悲哀を渋く演じている。そして、「甘い生活」の新聞記者役に代表されるような、典型的な「イタリア人プレイボーイ」的な役を演じさせたら右に出るものはいないと言われている半面で、2枚目であるにもかかわらず3枚目的な雰囲気を漂わせた、人間味溢れる俳優でもある。そのように、容姿、演技力の両方に恵まれた世界的な人気俳優である彼は、また、多くの浮名を流した人物でもあり、カトリーヌ・ドヌーブフェイ・ダナウェイなど大女優とのロマンスも有名だが、結婚は生涯で1回のみであった。こういうのを本当のプレイボーイと言うのだろう。恋することと結婚とはきっちりと区別している。その点見上げたもの・・・といえようか?。妻のフローラとの間に一女(バルバラ)をもうけたほか、長年の愛人カトリーヌ・ドヌーヴとの間にも一女(女優のキアラ・マストロヤンニ)をもうけている。
1996年の今日・12月19日にフランス、パリの自宅ですい臓ガンにより72歳で死去。昨・2006年には、没後10年を迎えたことから、そんな、マルチェロ・マストロヤンニについてのドキュメンタリー映画『マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶』がつくられている。 
私はこの作品を見ていないが、この映画では、2人の愛娘バルバラとキアラをはじめ、ヴィスコンティやフェリーニなど30人の映画人がマストロヤンニの魅力を語り、代表作は勿論未公開映像や秘話も盛り込まれ、彼がなぜこれほどまでに世界の人々から愛されたのかが伝わってくるという。カンヌ映画祭でも上映されたそうだ。 以下参照。
マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶
http://marcello.jp/
(画像は、コレクションの映画チラシ「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」)
イタリア人の一覧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
マルチェロ・マストロヤンニ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%8B
マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶
http://marcello.jp/
Marcello Mastroianni (マルチェロ・マストロヤンニ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/3292/
旧い映画を楽しむ。なでしこの棲家..。≪苦い米≫.
http://plaza.rakuten.co.jp/nadeshikosumika/14006
マストロヤンニ自伝 わが映画人生を語る(オンライン書店ピーケーワン)
http://www.bk1.jp/review/0000109671
修道女アンジェリカ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%81%93%E5%A5%B3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%AB


進藤英太郎 (俳優) の忌日

2007-12-18 | 人物
今日(12月18日)は、主に悪役を専門とした進藤英太郎 (俳優) の1977(昭和52)年の忌日。 進藤 英太郎、本名真藤辰五郎は、1899(明治32)年11月10日、福岡市大名町(天神に隣接する地域)にカムチャッカ漁業の経営者の1人息子として生まれ、生家の家業であるカムチャッカ漁業を継いだり、雑貨商や海産物商なども経験し成功していたという。しかし、生活が安定するに従い、幼少から好きであった芝居に再び興味を持つようになり、1925(大正14)年に劇芸術研究会に入り、そこで河内繁俊に発声法を教わり、翌・1926(大正15)年、劇団同志座に入り進藤英太郎の芸名で初舞台を踏んだという。その後、劇団の移籍を繰り返した後、豪快にして堅実な演技は次第に注目され、1930(昭和 5)年に人気スターの林長二郎(後の長谷川 一夫)と舞台で共演するまでになり、1936(昭和11)年からは本格的に映画の世界に入り、第一映画社(以下参考に記載の「第一映画撮影所」参照)で溝口健二監督の『浪華悲歌』(以下参考に記載の「※浪華悲歌」参照)、『祇園の姉妹』に起用される。この映画を私は見ていないが、進藤 この『浪華悲歌』でのえげつない大阪商人役(株の外交員)によりバイプレイヤーとしての声価を決定付けたといわれている。第一映画社解散後は、1937(昭和12)年に東宝の専属となり、時代劇や戦争映画に多数出演(以下参考に記載の「※進藤英太郎ー映画」参照)。1949(昭和24)年、フリーとなり、1951(昭和26)年の『お遊さま』以降、溝口健二作品の常連として、『武蔵野夫人』、『西鶴一代女』、『祇園囃子』、『山椒大夫』、『近松物語』、そして溝口の遺作となった『赤線地帯』に出演する。1950(昭和25)年に日本の映画賞ブルーリボン賞が創設されるが、『祇園囃子』(goo-映画参照)と新藤兼人監督の『女の一生』goo-映画参照)で1953(昭和28)年度の(助演男優賞)を受賞している。
しかし、私には、『山椒大夫』が一番印象に残っている。森鴎外の同名の小説『山椒大夫 』を映画化したもので、ベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した作 品である。確か、この映画は学校から団体で見に行ったと思う。森鴎外の小説『山椒太夫』は説教節『さんせう太夫』を下敷きにして書かれたものである。
暗い内容の映画なのでまだ当時小学生の私には、正直言って余り面白いといったものではなかったが、とにかく、山椒太夫を演じた悪役・進藤英太郎 の小憎らしさ、こんなに憎たらしい奴はいないと、そのことだけがものすごく印象に残っている。それだけの名優であったというべきだろう。成人し、歴史的なことが判った上で映画を見ると、非常に奥の深い味のある映画であるが・・・。この小説『山椒太夫』と説教節『さんせう太夫』ことは、以前のブログで詳しく書いたので、興味のある人は見てください。以下です。
1月16日「籔入り」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/3213935b5299058797be52907f034c09
1956(昭和31)年から東映の専属となり、『旗本退屈男』シリーズ(以下参考に記載の「図書カード:No.565作品名: 旗本退屈男 著者名: 佐々木 味津三」参照)を初め、数多くの映画に悪役として出演していた。この頃は、東映時代劇の黄金期であり、チャンバラ物大好きな私は、映画館に通いつめていた。時代劇というものは、悪役がいなければ映画にならない。その悪役が、憎々しければ憎憎しいほど、主役が引き立つというものだ。当時は、そんな悪役が東映には大勢いた。この当時の悪役3羽ガラスといえば、月形龍之介、山形勲、そしてこの進藤英太郎であろうか。他に、薄田研二、三島雅夫。柳永二郎、吉田義夫、原健策、神田隆、阿部九州男、加賀邦男、上田吉二郎、伊藤雄之助、遠藤太津朗、南原浩次など等、きら星のごとき個性派敵役がそろっていた。それも、それぞれに個性がある。中でも私は、進藤 英太郎が好きだった。憎たらしいヤクザの親分などやらせたらこの人にかなう人はいないね~。
1953(昭和28)年、片岡千恵蔵主演の多羅尾伴内シリーズは、昭和21年(1946年)~昭和23年(1948年)に時代劇がつくれない時に、大映が時代劇を現代劇に置き換えて作られた架空の探偵の名「七つの顔の男」シリーズと呼ばれていたものを東映が、千恵蔵主演により進藤英太郎ら東映時代劇初期の常連俳優たちが出演し再開したものであるが、千恵蔵が七変化の活躍をするという痛快無比な面白さが大評判となった。こんな現代劇でも進藤が敵役の犯罪団のボス役で光っていた。しかしこの進藤、悪役だけでなく「家光と彦左と一心太助」の大久保彦左衛門役などコミカルな善人役をやっても巧い。こんな主に悪役を専門とし、出演した総映画本数は620本に及ぶという。
1967(昭和42)年に、テレビへと活躍の場を移し、テレビドラマに多数出演するが、中でも阪東妻三郎の主演映画『破れ太鼓』のリメイク作であるTBSのドラマ『おやじ太鼓』は映画の悪役とはうって変わって、好々爺を演じ大ヒットした。
♪誰がつけたか大太鼓
雷親父の忘れ物
ドンドンドドンドドンドドド、ドンドンドドンドドンドドド・・・♪
ガミガミガミガミとうるさいカミナリ親父であるにもかかわらずどこか憎めない・・・これで、お茶の間の人気者となってしまった。余り、東映の時代劇など見ない人にとっては悪役のイメージなど沸かないのではないだろうか・・・。
このドラマの主題歌を歌っているのは・・・。元ジャニーズあおい輝彦だろう。このドラマがジャニーズ解散後、主に俳優として活躍しだした時の彼の俳優デビュー作だよ。
以下参考に記載の「YouTube - おやじ太鼓」で懐かしい画面と歌が聴けるよ。
進藤は、1976(昭和51)年のNETの『五街道まっしぐら』に出演中、心臓病のため入院したが、翌・1977(昭和52)年の今日・12月18日に心筋梗塞により死去した。享年78歳であった。それにしても、いつも思うことだが、今は、本当に、個性のあるいい役者がいなくなったよね~。
それと、昭和40年代には、日本には、まだこんな頑固親父が暖かく受け入れらる環境があったんだよね~。
(画像は、映画 『がんご親父と江戸っ子社員』〔1962年〕ポスター。向かって左端:進藤英太郎 、その隣:中村賀津雄 、その隣:佐久間良子)
参考:
進藤英太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E8%97%A4%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
進藤英太郎 (シンドウエイタロウ) - goo 映画
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke13.html
第一映画撮影所
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke13.html
※浪華悲歌
http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/sakuhin/naniwa.htm
歴史探訪 日本史編 第6回
http://www.kirihara.co.jp/scope/SEP98/tanbo1.html
「マヤの暦【人生の自由研究】」の昭和40年代テレビドラマ館へ
http://syowa40stvdrama.okoshi-yasu.com/
『木下恵介アワー』の世界 /テレビドラマ「親父だいこ」の世界
http://syowa40stvdrama.okoshi-yasu.com/page036.html
※進藤英太郎ー映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0204460.htm
図書カード:No.565作品名: 旗本退屈男 著者名: 佐々木 味津三 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000111/card565.html
Category:悪役俳優- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%82%AA%E5%BD%B9%E4%BF%B3%E5%84%AA
多羅尾伴内 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%BE%85%E5%B0%BE%E4%BC%B4%E5%86%85
破れ太鼓 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27208/
あおい輝彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8A%E3%81%84%E8%BC%9D%E5%BD%A6
YouTube - おやじ太鼓
http://www.youtube.com/watch?v=cGSZFXqX82Q