49 後悔してやる!
2015.8.18
ネットでたまたま見かけた文章っていうのは、ちょっと心に残っても、少し時間がたつと、どこにあったのかもう分からない。だから、気になったらメモでもしておこうといつも思うけど、結局、次から次へと流れ去る言葉のなかに見失ってしまう。
ある若手の外科医が、鍼灸はほんとうに効くのかと疑問におもって自分で三ヶ月ぐらい鍼灸院に通って「治療」を試みたら、肩凝りや腰痛には効いたけど、風邪には効かなかったというような報告を書いていた。外科医というのはたいてい腰痛持ちだと言っていたのも、そうだろうなあと、かつてお世話になった外科医の勤務ぶりを思い出して、納得したのだが、さらに、その人の自己紹介のようなところに、「ぼくのモットーは、いつ死んでも絶対に後悔するように生きるということです。」というようなことが書かれていて、ひどく心を動かされた。
「いつ死んでも後悔しないように生きる。」というモットーなら、そこらじゅうに転がっているし、目新しいことではない。けれども、その逆は珍しい。珍しいものは、心をひきつける。
「いつ死んでも後悔するような生き方」というのは、「死ぬまで何かを目指して頑張っている生き方」ということになるだろう。死ぬ時に「あ、しまった! これはもっと早くからやってるんだった!」と後悔する。「わあ、参った。これで終わりなのか。それなら、せめてあそこには行っておくんだった。」と悔やむ。
残された家族も、「お父さんも、せめて、あと1年あれば、あれも完成したのにねえ、悔いが残るだろうねえ。」と気の毒がる。部下は「部長も、社長まであとひと息だったのになあ。」と悔しがる。
そういうすべてが嫌だから、なんかカッコ悪いから、人は「一日一日を一所懸命に生きて、いつ死んでも後悔しないようにしておく。」ことを願うわけである。しかし、考えてみれば、「いつ死んでも後悔しない。」ということは、死ぬ前に、「やりたいことが全部終わっている。」ということだ。死ぬときに「全部やりきったぜ。」と思えることだ。しかし、そんなことは実際にはないだろう。あるとすれば、死を意識した時点で、「これでいいや。」と諦めて、何かすることをやめた場合である。それはなかなかできることではないし、できたとしても、それほど立派なこととも思えない。
「いつ死んでも後悔しないように生きる」ことを目指すのは、「後悔する」ことが「よくない」「みっともない」というように負のイメージを持っているからだろう。けれども「後悔すること」は、そんなによくないことなのだろうか。
「我事において後悔せず」というのは宮本武蔵の有名な言葉だが、それは「後悔しないように生きる」ということとはかなり違った思想のように思える。武蔵の場合は、そもそも「後悔する」という意識のジャンルがなかったのではなかろうか。武蔵の思想をきちんと辿ったことはないが、そう思えてならない。武蔵は、「やることはやる、それだけだ。後でグダグダ考えないよ。」というだけのことではないのか。
それに対して「後悔しないように生きる」というのは、「後悔すること」を恐れているのだ。あるいは、人から「あの人後悔してるよ」って思われたくないのだ。一種の見栄である。
後悔したっていいのだ。そればかりか、人生を眺めてみれば、後悔することなんてそれこそ山ほどある。後悔の積み重ねが人生であると、気取って言い切ってもいい。井伏鱒二はある漢詩を訳して「さよならだけが人生だ」と書いたが、「後悔だけが人生だ」と言ったっていいくらいなもんだ。
つまり、人間、何かをしようとしたら、けっして満足のいく結果だけで終わることはない。何もしない一日でも、「ああ、今日は満足じゃ。」などとどこぞの殿様のようなセリフをはいて、床につけるものではない。「あ~あ、やんなっちゃった、あ~あ~おどろいた。」って牧伸二じゃないけど、それがだいたいの日々のぼくらの感慨である。
それならば、件の外科医の先生のように、思い切って居直って「オレはいつ死んでも後悔してやる!」って言い切ってしまったほうが、よほどすっきりするし、しかも、実情にあっている。
私事でいえば、書道を初めてまだ8年。いつもぼくの心の片隅に「あ~あ、なんで、もっとはやくからやらなかったんだろう。」という「後悔の念」が住み着いている。これはどうしようもないことだが、その「後悔」をしないようにすることはもうできない。それより、「後悔してなにが悪い」と居直って、進んでいけばいいだけのことなのだ。どっちみち死が「終わり」を持ってくる。その時、思い切って「後悔」してやろう。なんだバカヤロウ! もうちょっと時期を考えろ! って荒井注みたいに言ってやろう。
【付録】
ぼくが昔書いた詩です。「悔恨」とは「後悔」と同じです。ちょっと気取った言い方にすぎません。
悔恨
ぼくの人生の地層は
幾多の悔恨の
複雑な縞模様でできている
悔恨だけが
ぼくの生きてきた証だとでもいうように
新しい悔恨が
新しい地層をつくる時
古い悔恨の地層は
消えるのではない
むしろ新しい痛みをもって蘇る
そうしてあくことなく
日々に悔恨を重ね
その不思議な痛みによってぼくは
辛うじて今日のぼくの生を支えている
30年以上前の詩ですが、結局、言いたいことは、今と同じみたいです。現実の中で誠実に生きる以上、「悔恨=後悔」を避けることはできません。それは「痛み」を伴うものですがその「痛み」こそ、誠実に生きた「証」だということでしょう。
ぼくが果たして「誠実に生きている」かどうかはなはだ疑問ですが、「後悔=痛み」を感じていることで誠実に生きているらしいと、辛うじて信じることができる、というわけです。