夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

gooお題「財布はどんなの使ってる?」

2018年03月12日 10時53分47秒 | 「思うこと」
さいふはスーパーで買った二つ折りの普通の財布です。
テレビで金運が上がるさいふといったものを見たことがありますが、金運もこうも貧乏をしていると宝くじ頼みとなってしまいますから財布にはこだわったことがありません。
増え続けるポイントカードが財布を厚くしています。
たまるレシートが財布を厚くしています。
福沢諭吉はその中で窮屈にしています。。。。
そういえばがま口というのは見なくなりましたね。昔お袋が夜の蜘蛛を見つけるとがま口の中に入れていました。何でも金運が高まるという事のようでした。
しかし、貧乏だった。
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2018年 3月11日(日)「政治主導」

2018年03月11日 22時07分41秒 | 「思うこと」
ロイターに興味深い記事がありました。  出口を語れない黒田日銀、将来の波乱「増幅」の恐れ
この中で次のように書かれている。太字引用
「日銀は、2019年春頃までに動かなければ、長期にわたり動けない状況にある。2019年10月の消費税増税の実施が予定されていること、2020年以降は東京オリンピック関連需要の一巡による景気下押し圧力が加わることを念頭に置く必要があるためだ。」
政府は法的にも2019年に消費増税10%を行わなければならない。翌年はオリンピックがありオリンピック後の景気の後退の心配がある。このためには今年出口に向かわなければ相当長く出口は行えないようになるという事でしょう。
経済の状態によって出口に向かえない状態は2%目標を達成するような景気の好転を異次元緩和では行えなかったことが示している。それに加えて政府が約束する消費増税とオリンピックの成功という政治の都合が重なる。
日銀緩和もリフレ派の失敗というだけではなくて政治主導として政府の失敗であったことが明らかであり、さらにこの政治主導が日銀の手足を縛り付けることになった。日銀は忖度をして政府の政治主導に従うでしょう。
壮ならば将来に経済矛盾のツケを先送りすることと変わりはない。
政治面では官僚の忖度があったのではないかというものを拭い去れない状態。経済においても日銀は政府に対して忖度しなければならない。こういうものが政治主導でしょうか。政治面でボロが出始めています。経済面でも政府の今回の国会の目玉である労働の規制緩和にほころびが出ている。
間違った正しい政策ではない力だけの政治は自己矛盾に陥って自己崩壊をはじめる。
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池に浮かぶ月70【3月11日】

2018年03月11日 19時58分04秒 | 「池に浮かぶ月」
去年の今頃はトランプさんが北朝鮮への先制攻撃も辞さずという報道があったようです。
安倍内閣は平和を言いながらもその平和を作り出すのは「積極的平和主義」だとしてアメリカの中東での軍事政策による安定を模擬したような軍事力を背景にした安定を言っていました。このような両国ですから日米安保は軍事的同盟国というものに走りました。
日本は一時アメリカへのミサイル攻撃を撃ち落とすことも辞さずと発言しました。
一気に戦争の危機は深まったのかと思います。
しかしオリンピックを境に南北の対話が始まり、米朝会談の実現できる雰囲気となっています。日本は上げたこぶしをどうするのか。。。。。
中国は米朝会談を歓迎するでしょう。
一応最悪の事態は遠のいたように思います。
平和は平和憲法があるからではなくて、その憲法の理念に沿って外交も含めて政策的に行動するから平和を維持できるわけです。これに対して憲法で平和は守れない、敵が攻めてきたら9条を出して日本を守れるのかという素朴すぎる反論が出ています。過程の話はいくらでも危機を作り出すことができますし、相手国へ危機を与えるでしょう。ですから憲法に沿って平和を維持する行動が必要なのです。

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

3月11日という日

【2017年】ツイッターつぶやきトランプさんが北朝鮮への先制攻撃をにおわせている。 仮にこの先制攻撃が日米安保のして日本国内のアメリカ軍が行うとすれば、そして日本がそれを承認す......

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2018年 3月10日(土)「HAIKU」

2018年03月10日 21時58分54秒 | * 俳句 *
俳句のユネスコ無形文化財登録に向けては頭語の方法論ではないの続きです。
福田さんがご自身の俳句論というものを開示せずにいることから俳句についての討議からの有馬さん批判が尻切れトンボになっていますが、世界遺産の登録を使用としている有馬さんも、もちろん有馬さんという方がどのような俳句論をお持ちか走りませんが、世界遺産登録に向けてのご発言だけを見ればその俳句論は「五七五の定型有季」であることははっきりしますが、世界遺産に向けての世界化が急務になっていることあるいは広がっていることの強調に走り、それも政界などの有名人が俳句をたしなんでいるといったところからの国際化だというものが目立つ。そういう流れで国内においても多くの正解の人たちを集めたり俳句の歴史に関わりのある自治他を集めている。その中で「HAIKU」という国際語を強調する。
このような構図ができているように見えてしまう。
しかし世界遺産に向けての俳句論となると心もとない状態である。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。
俳句の普遍性……(中略) 一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」 
( ユネスコ登録に向けてより引用)
世界遺産に向けてだいぶその俳句論は敷居を低くして
「俳句の持つ魅力をより多くの人に知ってもらうことがまず大切なことだと思います。」 (同引用)
たしかに敷居を低くすることは「まず大切」であることに間違いはないのですが、一方ではこの敷居を低くした中身において俳句が世界遺産に登録をされてしまうわけです。敷居を低くして世界中から「HAIKU」愛好家や文化人を呼べるという世界遺産の負の部分が出てしまうでしょう。
有馬さんは世界のHAIKUでHAIKUのルールについて
「単語にするとせいぜい10~12単語で読んだ3行詩ですが、心は俳句そのもの。身近にある自然がテーマです。単語数が少ないので誰でも気楽に作りやすい」 (引用)
と、やはり敷居を低くしてHAIKUを語ります。
「単語にするとせいぜい10~12単語で読んだ3行詩で」「身近にある自然がテーマです。」 (引用)
まさに「五七五の定型有季」的な詩として俳句を語ります。
敷居を低くして誰でも簡単に作れる詩ですよ、ただ「五七五の定型有季」は守りましょうという中にHAIKUを単に自然詩とするような誤解が生まれます。この誤解が広まらないように危惧するのもまた福田さんの有馬さんへの批判でもあるでしょう。
数は少ないですが、もしかしたら外国人で日本人以上に俳句の定義を研究されている方がいるかもしれない。。。。。日本人以上に日本を知っている外人がいるように。日本人が外国の方に俳句とは何かを教えられることもないとは限らない。こんな状態を作り出すのが俳句のユネスコ無形文化財登録の俳句論不足からだったら皮肉な結果です。
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池に浮かぶ月69【3月10日】

2018年03月10日 20時27分59秒 | 「池に浮かぶ月」
3月10日は東京大空襲で10万人ともいわれる人々が亡くなりました。
もちろん無差別的な空爆ですから民間人が多くなくなりました。現在も生鮮とか正義の戦争とかという美談化された戦争が後を絶ちません。ここでも多くの民間人が犠牲になっています。
戦争が起きても戦地に行くのは自衛隊だからといった認識にいる方が多いのではないでしょうか。。。。
戦争の危機は平和憲法だからではなくて、戦争ができる国になることにあります。聖戦とか正義の戦争とか、それは戦争ができる国に存在します。


「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

3月10日という日

【2017年】ツイッターつぶやきgooお題「最近卒業したものは?」に参加中! 最近卒業したもの?なんか、毎日平凡に生活していると卒業しなくてはならないものというのが見つからな......

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池に浮かぶ月68【3月9日】

2018年03月09日 18時02分31秒 | 「池に浮かぶ月」
夏目漱石「夢十夜」
内田百閒「東京日記」
川上弘美「東京日記」
銀色夏生「夕方らせん」
この不思議な物語が「夕螺の東京日記」へ(笑)
冗談はともかく、これらの作品は好きです。心の世界を表現するのですから不思議な世界となります。心は自分のものであっても自由にはできない。自分の心の動きに戸惑うことがあるでしょう。それを文字に表せばいいのかなと思う。もちろんそうは赤裸々に履けない弱さが多くの人にはあるのでしょうが。
(ちなみに僕のハンドルネーム「夕螺」は、夏生さんの「夕方らせん」を「夕方螺旋」と漢字にして「夕」と「螺」をお借りしました。)

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

3月 9日という日

strong>【2017年】ツイッターつぶやき昨日か書きました「東京日記」の続きです。 内田百閒は夏目漱石の弟子です。 漱石からはいろいろなものを吸収したようです。 奇妙な......

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2018年 3月 9日(金)「俳句のユネスコ無形文化財登録に向けては討議の方法論ではない」

2018年03月09日 13時13分10秒 | * 俳句 *
先日書いた俳句はなぜ自由であり得るか(2)の続きです。
「俳句はなぜ自由であり得るか(2)」の最後は
次は福田さんへの批判について見てみましょう。【3月8日追記:これについては複雑ですなぁ】
としました。
なぜ福田さんへの反論が複雑なのか?それは俳句とは何か、定型有季など肝心な議論がそらされてしまったからです。この肝心な議論がなくなって世界遺産登録に反愛反対する方法論になってしまったからです。ですからすでに「福田さんへの批判について見てみましょう」とはならなくなりました。
言えることは肝心な議論がなぜどこかに消えてしまったのかです。
福田さんの有馬朗人氏に反対するーー俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってに対して、小津夜景さんという方が福田若之「有馬朗人に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって」について思ったこと。」としてその思いをお書きになっている。
小津さんは
「ん? だったらネットで有志を募って、さっさと四協会に公開質問状出しちゃいなよ♡」ってこと。(引用)
と、冒頭に書いて俳句の定義づけなどはパスして、福田さんの有馬さんへの批判の方法論になってしまっている。言葉悪く言えば、論理のすり替えです。福田さんもご自身の俳句の定義づけはあやふやですからこの方法論での議論に巻き込まれる。ですから、小津さんからしてみれば、福田さんの俳句の定義のあやふやさを見て反批判のようなことはできかねたのかもしれません。小津さんの優しさからしても?
これに対して福田さんは滑って転んじゃった話において方法論的なものでの反省の弁ともいえる返事を書いてそこでも俳句の定義づけをせずに俳句が世界遺産になることで定型有季の自然詩が俳句という定義になってしまう心配と怖さをお書きになっている。そして2018年に入って、俳句を遺産としてしまうことについて新たな見解に向かう。
そして西原さんという方は、
週刊俳句に、福田さんが今回の記事を書いたことに大きな意義がある。最初に言ったように、これが要点。アクセス数も多いようで、たくさんの人が、有馬インタビューを知ることになりました。
福田記事のダメなところについては、また後日。

と。
結局肝心なところの議論はそのままに。。。。。これでは俳句自体も発展しませんし、世界遺産に向けての議論も深まりません。多数派結集が力となって俳句のためと言って猪突猛進するのかもしれません。。。。。
うん?僕も最後は方法論に(笑)

HAIKUにつづく

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2018年 3月 8日(木)「もうすぐ7年」

2018年03月08日 22時31分28秒 | 「思うこと」
福島原発の事故からもうすぐ7年ですね。
凍土壁による汚染水の解決は無理かもしれません。凍土壁の効果に疑問符が出ているようです。
今でも海に気が遠くなる核物質が流れているのでしょうか。
車や飛行機の事故は一周の時間の中で終わります。もちろん事故の処理は必要ですが。しかし原発事故は事故自体が7年間も続いているという事が出来るかもしれません。それは核物質は消えないからです。
原発事故さえなければ。。。。。
テレビや新聞などを見ているとこう強く感じます。
「死の町」発言で民主党政権時代人が辞任しましたが、7年たっても人が住めない町があります。帰還してもよいといわれても多くの若い人は帰らない。自主避難の方の生活が今後どうなっていくのかという問題もあります。
食料などの安全基準は核汚染時の緊急の基準ではないでしょうか?その意味でも原発事故は7年たった今も続いているのです。
太陽光などの自然エネルギーへの経済的理由が言われてすすみませんが、その中で原発の再稼働が続いています。原発の電力は安い?結果は事故の終息や廃炉を考えればとんでもない費用が。それは国民あるいは消費者に回ってきます。
あらためて脱原発を考えないといけないです。
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池に浮かぶ月67【3月8日】

2018年03月08日 18時53分09秒 | 「池に浮かぶ月」
去年はgooのお題「好きな水木しげる作品は?」について書いていました。
西洋でも神と悪魔は一体のようなものとなっていますが、水木作品を読むと八百万の神と妖怪というものは一体となったものかと思います。
自然も人間に恵みを与えてくれる反面災いをもたらします。また人の心もまた愛と憎しみは反面としてあります。
下手をすればその妖怪を信仰してしまう勘違いが出るかもしれない。

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

3月 8日という日

【2017年】ツイッターつぶやきgooブログお題「好きな水木しげるの作品は?」水木しげるの作品と言えば。。。。。やはり『ゲゲゲの鬼太郎』と「悪魔くん」ですね。。。。どちらも......

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2018年 3月 7日(水)「俳句はなぜ自由であり得るか(2)」

2018年03月07日 21時01分52秒 | * 俳句 *
俳句はなぜ「有季」出なければならないか?
こう考えるよりも俳句は「有季」であることから発展をしてきたと見た方がよいのかもしれません。
季語があることから17文字という短い詩が生まれるのかもしれません。季語(呼び名は違いますが)の歴史は平安時代にさかのぼるともいわれます。和歌も短い詩の含まれるでしょう。
なぜこのように季語にこだわるのか?
日本は唯一の神が自然も人も支配をしているような神ではなくて八百万の神々やそれぞれの村の氏神様や道祖神やら自然のすべての現象に神が宿り、この自然に働きかけることにより八百万の神々に感謝したり時には荒ぶる神を鎮めたりしていたと見えます。この中で古代から自然のすべてに対するとらえ方というものが出来上がってきたのではないかと思います。その延長線上に季語も含まれるのではないかと思います。
同時に季語が出来上がる中で、その季語が持つ自然そのものや自然との関わりに人が感じ取るものの共通性というようなものやその心の動きの共有性というのでしょうか、そのようなものが出来上がり一つの季語でそれを表現できることが俳句という短い詩が成り立つ条件だったのではないでしょうか。
例えば今は啓蟄です。啓蟄という季語により俳句を「詠んだ人」とそれを「読んだ人」との心に共通性ができる。ここで多くの言葉(文字数)を使わずとも伝えることが来ます。同時に啓蟄をどのように心に描くかで残りの13文字が違ってくるわけで、同じ啓蟄という季語でも無限の表現ができ、それを読んだ人は感じとれ、その俳句の面白みを感じられるのです。春の訪れの切実な気持ちもあれば、滑稽味を帯びたものとしても。
このように見れば季語があることにより俳句は成り立つのではないでしょうか。
しかし、季語は自然そのものの美しさや季節の移り変わりそして農村の素朴さだけを表現しているわけではなくて、そもそも季語を生み出したりまとめたりしているのは俳人という文化人でその当時の都市に住む人々です。ですから都市に住む人々が自然に親しむあるいは農村風景や行事をスケッチする中で年の人々の感情が詩になるのだと思います。
俳句を詠むには自然を見つめなければなりませんが、自然がたくさんあれば詠めるというのではなくて都会にいてもそこから眺める風景はあるはずです。もちろん自然を守らねばならないのですが、かといって俳句を通じて自然を守ることとすることは無理があるでしょう。季節の風物詩は都会にもある。その中で人々の中に残る伝統的な季語や新たに新しい季語が生まれてくるでしょう。言葉は生きている。その中に俳句の自由さがあり、俳句が自由であり得るのです。
大根はいつ行ってもスーパーの棚に並んでいます。
時々妻と大根の季節っていつごろだっけ?と話になります。もう大根といっても季語と感じることが薄れています。しかし、値段が安くなる季節は感じ取れますし、みずみずしさにうまいなぁと感じる時がある。この安くなったなぁ、うまいなと感じ取れる心を大切に持つことで大根は冬なんだと季語が自分の中で納得がいく。この納得がいく中で俳句も詠めるのではないかなと思います。
次は福田さんへの批判について見てみましょう。【3月8日追記:これについては複雑ですなぁ】

「俳句のユネスコ無形文化財登録に向けては討議の方法論ではない」につづく
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池に浮かぶ月66【3月7日】

2018年03月07日 18時43分34秒 | 「池に浮かぶ月」
去年は用事があり駅に向かう商店街に行ったら、昔懐かしい活気のある商店街に戻っていた。。。。。ちょっと不思議な物語。東京日記です。

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

3月 7日という日

【2017年】ツイッターつぶやきそうだ、クリーニングに出したものを受け取りに行くよう妻に頼まれていたんだ。。。。 久しぶりに歩く商店街。いつも行く床屋さんまでは時々......

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2018年 3月 6日(火)「俳句はなぜ自由であり得るか。」

2018年03月06日 21時45分25秒 | * 俳句 *
昨日書いた俳句と自由の続きです。
「俳句と自由」では俳句が持つ規制の中におて自由は存在するという事を書いた。同時に17文字だから誰でも簡単に書ける詩だといったものを違いとも書きました。
俳句は「十七文字の定型有季」という規制の中において自由でなければならない。
では なぜ「十七文字の定型有季」という窮屈な俳句の世界に無限の自由が存在するか。窮屈さの中の自由という面では、俳句の窮屈さ季語の窮屈さの中で少しふれました。しかしもう少し福田さんの有馬さんへの批判を見てみることにします。
福田さんは次のように書いています。
「俳句」を「自然詩」として規定してしまうことになるだろうこうした動きに対して、僕は、僕自身の意志にしたがって、反対の意を示さざるをえない。
ただ自然の美しさなどをスケッチするだけに俳句を閉じ込めてはならないというようにとらえられます。
一方で福田さんの俳句感は、
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
「何かを是非「俳句」と呼んでみたくて仕方がないという妙な執心によって、そのつどかろうじて「俳句」と呼ばれるのではなかったか。」

と。俳句は自然の美しさだけではなくて人の心の表現だというようにとらえられます。
以上の整理は待ったまったくこの僕の主観ですが、俳句を自然の美しさを17文字でスケッチするという「自然詩」とすることも間違いですし、人の心を17文字で表現して詩にすれば俳句と呼んでもよいのではないかというのもまた間違いでしょう。
有馬さんの主張と福田さんの主張が混然と一体化した世界が俳句となります。月の美しさ。月の美しさは季語としてもたくさんあります。同時に同じ月を見ても見る人ごとにその月の姿のとらえ方が違うでしょう。恋人とデートの時に見る月と恋人と別れた後に見る月は違います。ですから俳句はその月そのものをスケッチするのではなくて、見ている人の心を同時にスケッチをしているのです。また楽しい気持ちの時には月でなくて花を見て句を詠むかもしれません。悲しいとき星を見て句にするかもしれません。今の気持ちを自然の中の何に写しているかも人それぞれです。
ですから「十七文字の定型有季」自然と人の営みや心の現れと混然と一体化する中で無限の表現的自由さを持つことができるのです。この上に立って俳句は自然詩と言えます。
ではなぜ「有季」か?次はここを考えたいと思います。

俳句はなぜ自由であり得るか(2)につづく

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池に浮かぶ月65【3月6日】

2018年03月06日 19時37分35秒 | 「池に浮かぶ月」
去年はこくさいじょせいでーにおいての「Dear Girls」について書いていました。
日本はジェンダー指数値において144か国中114位だそうです。
安倍政権は女性が輝く社会を目指すとしてきましたが、結果は国会議員も企業役員もそうは増えず、一般勤労女性の賃金格差の是正もままならず、働き続けることも相変わらず困難です。その他セクハラやパワハラなど女性の地位向上には程遠いものとなり輝く女性はとん挫しています。
女性だけの問題ではなく、女性の問題は男性の問題でもあります。子育てや保育園の迎え、学校とのかかわりが父親は薄くなっています。それだけ子育てに参加できずに労働時間が長くなっているという事もあります。もちろん「男は仕事」という社会常識に精神的に侵されています。
同時に女性の敵は女性ともいわれていますが、女性同士の支え合いも社会常識や競争社会に中で分断がされているのでしょう。

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

3月 6日という日

【2017年】ツイッターつぶやき朝日新聞では3月8日の国際女性デーに向けて「Dear Girls」という企画を進めるそうです。 女性が社会の中で置かれている実態を見直し改善する......

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池に浮かぶ月64【3月5日】

2018年03月05日 19時09分24秒 | 「池に浮かぶ月」
去年は待機児童の問題が表面化しました。
安倍総理は輝く女性を言っていましたが、働く一般女性を支援する政策ではなくて女性議員や企業の役員といったものだけに目を向けていました。結局これも頓挫して現在の国会も女性議員の数は後進国です。働く女性の支援といっても頓挫をしています。
働く女性の支援といった場合、保育所となりますが、日本ではいまだに保育所は福祉の場であり教育の場ではありません。ここから様々な偏見が生まれます。この偏見は女性同士の対立ともなります。昔から「保育園の子」といった見方がされていました。福祉ですから家族への風当たりも強くなりますし女性が誇りを持って働き続けるための弊害にもなっています。
という事で、去年は、保育所を福祉から切り離して幼稚園と同じ教育の場にすべきと書いていました。

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

「3月 5日という日」

【2017年】ツイッターつぶやき以下、ツイッターからの転載です。「待機児童解消へ、安倍首相「6月に新プランを決定」 (TBS) 保育園は福祉から切り離すべきです。幼稚園と一......

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2018年 3月 5日(月)「俳句と自由」

2018年03月05日 11時37分46秒 | * 俳句 *
先日書いた俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とはなにか(3)の続きです。
俳句のユネスコ無形文化財登録に向けての俳句と自由を考える場合、福田若之さんの有馬朗人氏に反対する
ー俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってー
【週刊俳句】を見てみましょう。
これは有馬朗人さんのインタビュー記事そこが聞きたい!世界のHAIKUへの批判として書かれています。
結論から先に書くと、福田若之さんの「俳句とは?」の考え方が見えておらず、「近代に読み返された俳諧の発句から、ジョン・ケージの五七五拍子のピアノの小品にいたるまで、僕たちはそのつど、僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」(引用)と、書いていますが、ここでは俳句とは「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」という事だけです。これでは有馬さんへの批判としては成り立たないでしょう。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。(3)」でも引用した有馬さんのお考えでえある
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
と、福田さんの
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
とは違いがないのです。
俳句の自由さを求める中で、自由が大衆迎合的になし崩し的な拡大解釈がされはじめてしまいます。
僕たちは自然に働きかけながらも自然の法則の中で規制されて生きています。ここには観念論的なまったくの自由はありません。自然の法則にその都度従う中で自由は貫徹されています。自由になりたいなら、自然に対して自由に働きかけたいならば、自然法則をしっかり見つめなければその自由を手に取ることができないでしょう。
それと同じように俳句には一つの法則のような決まりごとがあります。ここからはみ出せばすでに俳句ではなくなります。同じ5・75でも川柳とよばれる表現形態が独立しました。俳句から影響された絵画では俳画が生まれました。これらは俳句ではありません。福田さんがおかきの俳句から影響された音楽も俳句ではなくてひとつの表現方法であり「俳楽」ととでも呼ぶ新しい表現方法として広まればよいのです。
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」というだけでは誤りです。
同時に俳句をみじかい詩あるいは誰でも簡単に作ることができるとだけ規定をしてしまうと、それは季語さえ入れれば交通安全標語も俳句となります。これを俳句ではないと切り離して俳句的言葉遊びあるいは俳句的標語などという分野に置くべきでしょう。
次は俳句の世界で規制されている中での自由を書きたいと思います。

 俳句はなぜ自由であり得るか」につづく
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