ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

タヌキの祠 (再掲載)

2023-10-13 13:21:58 | 旅行

下記記事は、10年近く前に拙ブログに投稿したものです。先日の投稿で「お狸様」って何かと問い合わせがあったので再掲しました。

 

深夜の国道を歩きながら、こんなはずじゃなかったとぼやいていた。

ほんの一時間前には、スケベな妄想に浮かれ、期待で胸がはずんでいた。暖かな布団と、艶かしい夜を過ごせるとニヤついていたのだ。

まだ春というには肌寒い四国の中央部を、ブラブラと歩き巡っていた大学3年の時のことだ。例によって宿には泊まらず、野宿で済ませていたが、その分食事には金をかけていた。

その夜も町外れの国道沿いの居酒屋で、遅めの夕食を豪勢に食べていた。私の食べっぷりの良さを盛んに感心していた給仕の女性が、いろいろと話しかけてきた。

既に客は私一人だし、厨房の奥の店主は片付けを始めていた。給仕の女性に勧められた地元の酒を飲み交わしながら、この後うちで飲まないと誘われた。年は30?いや40代かもしれないが、妙に色っぽい女性だった。旦那は今夜は帰ってこないはずだからとの言葉が、私を舞い上がらせた。

店を出て信楽焼きのタヌキの像の前で少し待ってから、彼女の車で家にむかったまでは良かった。ところが家の前にはトラックがあり、女性の顔色が変わり、ちょっと様子をみてくると言い残して車外に出た。

気になって車の窓から覗いていると、なにやら怒鳴り声がする。こりゃ、ヤバイと思い、車を出て来た道を歩いて戻ることにした。十分ほど車で走ったから、徒歩なら一時間程度で街まで戻れると踏んだ。

そんな訳で、灯りの乏しい深夜の国道を、とぼとぼと歩いていた。その気になれば、エアマットを膨らませて寝袋に潜り込めばいいので気楽なものだ。ただ、曇りがちの空が気になる。野宿であっても、やはり屋根は欲しい。

嫌な予感は当たるもので、小雨が降ってきた。まだ街は遠い。折りたたみの傘を広げて歩くものの、街の明かりはいっこうに近づかない。車で10分だと思っていたが、どうやら酔っていた私の勘違いらしい。

そんな時だった。私の目の前を小さな陰が横切った。その陰は街路灯の下で立ち止まった。なんとタヌキであった。

本来警戒心の強いタヌキがなぜ、車道に出てきたのか分らないが、そのタヌキは私の前10メートルほどを歩き続けた。そして、なぜか私を振り返って見やるのだ。

深夜の山のなかだし、多少酔っていた私は、タヌキにバカされているのかと憤慨したが、正直言うと少し嬉しかった。なんとなく運に見放されて、寂しい気持ちだったので、タヌキの存在が気持ちを癒してくれたからだ。

既に時計の針は0時をまわっており、私も眠気に襲われだした頃だ。急に立ち止まったタヌキが、再び私を振り返ったのち、急に山側に入り込んだ。

その場所に追いつき、横を見ると踏み固められた小道があった。不思議に思い、その小道に分け入ると、その先に祠があった。ありがたいことに屋根があり、私が潜り込める程度のスペースもあった。

全身を伸ばすほどの広さはなかったが、それでも雨に濡れずに一夜を過ごすことは出来そうだ。で、ふと気付くと、タヌキの姿はどこにもない。礼ぐらい言っておくべきだったと思うが、睡魔には勝てずそのまま寝込む。

翌朝、日の明るくなったことに気付き、寝袋を出て祠の外に出てビックリ。昨夜夕食を食べた居酒屋の裏手だった。寝袋を片して、駅へ向かうため国道を下り、居酒屋の前に出ると店主に出くわした。

「あんた、大丈夫だったのかい」と尋ねられたので、事情を聞くと昨夜遅く給仕の女性の旦那が怒鳴り込んできて、私を探していたらしい。怒鳴り込んだ時刻は深夜零時過ぎだというから、丁度私が祠に潜り込んでいた頃だ。

どうやらタヌキに助けられたらしい。その話しを店主にすると、嬉しそうに「そうかぁ、まだ居たのか」と信楽焼きのタヌキ像をなでながら肯いている。緑豊かなこのあたりでも、タヌキはそうそう見かけるわけでもないらしい。「学生さん、はやく電車に乗って行っちまいな」と言われたので、早々に立ち去ることにした。

なにもしてないのに恨まれても困る。こんな時は逃げるに限る。唯一、タヌキにお礼が出来なかったことだけが残念だ。
私は駅に着くと、すぐに電車に飛び乗り、金比羅様に向かった次第。お賽銭に色をつけたのは、恩返しのつもりだ。

あれから20年あまり。街で蕎麦屋の軒先に信楽焼きのタヌキを見ると思い出す。以来、困った時の神頼みの際は、「神様、仏様、おタヌキ様」と唱えることにしている。おタヌキ様様である。

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世界一危険な山

2021-02-19 12:48:00 | 旅行
二十歳の頃、私は登山に夢中だった。

生涯かける価値のある趣味だと思っていた。まさか数年後にその夢を奪われるだなんて考えてもいなかった。難病がこれほど恨めしいものだと知りもしなかった。

白状すると、衰弱して長く病に伏せていても、再び山に登り出すことを諦めるのは難しかった。完全に断念したのは、社会復帰を果たしてからだ。当時は絶対に弱音を吐いてたまるかと依怙地になっていた。

でも苦しかった。歩く速度が明らかに遅い。走るなんて以ての外であり、ふらつく身体を必死の思いで支えていた。走るのが嫌いだった私は、走ることに恋い焦がれるなんて思いもしなかった。

諦めざるを得なかった。私の身体の衰弱は、日常生活を普通に送ることさえ困難なものである現実が、私の心を打ちのめした。それでも、まだ自分に出来ることはある。せっかく苦労して身に付けた資格を活かして生きていくことに集中するしかなかった。

だから、自分の部屋の本棚を埋め尽くしていた本を、皆段ボールに詰めて押し入れの奥に仕舞い込んだ。年末に大聡怩オた時、その段ボールを見つけた。もう、いらないものばかりなので、捨てる積りだが、古本屋に売れるものもあるので、時間をかけて選別している。

その中に大学ノートがあった。なにかと思い、開いてみると自宅での病気療養中に図書館で調べて、身体が元気になったら登りたい山のリストアップと下準備が記載されていた。

オレ、こんな事していたのかといささか呆れた。同時によく忘れたものだと自分の能天気さに感心した。当時はインターネットなんざないので、調べものがあれば図書館に行くか、神田の古本屋の店主たちに訊ねるかしていた。

そのなかに、世界一危険な山と私が書き込んだページがあった。読みながら、我ながら良く調べたものだと感心した。多分、毎日寝てばかりの鬱屈した気持ちを晴らすためにやっていたのだと思う。

エベレストより難しいと言われるアンナプルナ山とか、非情の山K2、ネパールの恐父Wャヌーなんかを調べている。はて?寒いのが嫌いで、冬山登山を嫌がる私がなんで、これらの高所登山の難関ばかり調べていたのだろうか。当時の自分の心境が分からない。

ページをめくっていくうちに目についたのがレーニア山。これは覚えている。セント・ヘレナ山に連なるカスケード山脈の最高峰4392メートルの成層火山である。

アメリカは西海岸ワシントン州にある山だ。全米屈指の難峰として知られている。メモ書きに死者800人超とある。そうそう、この山は遭難者が多いのでも有名だったはず。たしか当時、谷川岳よりも死者数が多いと知って驚いた記憶がある。

もう30年近く前のことだから確認しようと思ってネットであれこれ検索したら驚いた。レーニア山に対する否定的な情報がほとんどない。はて?30年前に調べたあの数百人の遭難者は、いったい何だったのだ?

推測だけどけっこう観光を売りにしているので、遭難死者数などの否定的なデーターは隠しているのだろうか。でもアメリカはそのような情報操作はしないと思う。多分、30年前の私の調べがおかしいのだと思う。

ただ、このレーニア山が難易度の高い山であるのは確かだ。なんといっても体力が必要な山で、私が調べたところ体力が充実している時にこそ登るべき山だと書かれていた。特にリバティリッジと呼ばれる山稜は、氷結と強風で遭難が多発するのは確かなようだ。特に大雪が降った時は、進も退くも困難となる難易度の高い山として警告されている。

私のノートには、航空料金やら登山ガイドやらの料金を書いたりしてある。当時の私はけっこう真剣にこの山を登ることを検討していたらしい。そこまで執着しているとは思わなかった。あの頃の私は、こんなことを調べることで、病苦から逃れようとしていたのだと推測できる。

ちなみに2020年現在、世界で最も遭難死者数の多い山は、日本の谷川岳である。

ただ、この情報は補足が必要だ。谷川岳は夏の時期に稜線を登るだけならばハイキングコースである。ただし、日本海から太平洋側に風が通り抜けるルートにあたるため強風には覚悟が必要だ。

また世界屈指の豪雪地帯であり、谷川岳周辺では積雪5メートル以上は珍しくない。冬山登山の対象としては、体力面も含めてかなり難易度が高いのは確かだ。あの細い稜線上で、吹雪によるホワイトアウトなんぞに遭遇したら恐浮ナ動けなくなること請け合いである。

でも谷川岳を世界一の遭難死者数で有名にしたのは、普通の登山者ではない。谷川岳南面の一ノ倉沢を中心にした岩稜地帯に挑むクライマーたちが、遭難者の大半を占める。

この一ノ倉は、登りがいのある岩壁である。多分、日本国内では最大の岩壁だと思う。もちろん穂高周辺や、剣岳周辺の岩場も大きいが、一ノ倉ほど危険ではない。

私も森政弘氏の登攀教室に参加して何度か登っているが、あの迫力には身震いする。一ノ倉が人気の理由の一つは、アプローチが容易だからだ。岩壁下部まで車で行ける。駐車場で車を降りて、見上げた一ノ倉の岩壁の凄味は、観た人にしか伝わらない思う。下部まではスニーカーでも行けるので、観光がてらに観に来ると良い。首が痛くなるほど、見上げてしまう迫力は国内屈指の眺望だと思う。

もっともそれは夏のシーズンだけ。豪雪地帯で強風が吹き荒れる冬の一ノ倉は、死の関門でもある。太陽の輝きを受けて白く輝く一ノ倉岩壁は神々しいほどに美しい。でも、その美しさは死の恐浮ワとっている。

この岩壁に挑み、命を散らしたクライマーは現時点で800人を超える。文字通り死の岩壁である。登攀をやらない人からすると、なぜにそんな愚かしいことをするのかと思う。

でもあの恐浮フ岩壁に挑み、乗り越える悦楽はこの世のいかなる娯楽をも超越した至福の心境をもたらす。死を身近なものに感じるとき、人は生きていることを実感する。死があるからこそ、生きる喜びが貴重なものに思える。

ただ幸か不幸か、かつては真冬でも登山者があふれるほど活況を呈した一ノ倉岩壁も、今ではかなり人が減っている。また技術というか登攀用具の進歩も著しく、以前よりは安全に登れるようになったとも聞いている。

それでも、あの豪雪と強風の恐浮ェ減った訳ではない。標高2千メートルに満たない谷川岳ではあるが、危険性は今でも世界トップクラスの岩壁を擁する。まだまだ当分は世界一の危険な山との看板は下ろせないと思います。

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キャンプ

2020-11-24 11:49:00 | 旅行
キャンプが好きかと問われると返答に窮する。

学生の頃、特に大学の時はキャンプが当たり前であった。なにせ一年のうち2か月あまりは山暮らしであり、当然にテント暮らしである。山小屋に泊まることは稀であった。

なぜなら、あまりお金がないので、山小屋の宿泊費を払うよりも、幕営料を払ったほうが長く山に登れるからだ。私にとってキャンプとは登山のための手段であり、目的ではなかった。

だから昨今のキャンプ・ブームにはいささか閉口する。私が毎日の習慣である本屋巡りをしていると、大型書店ならば必ずキャンプ関連の書籍を置いてあるコーナーがある。

さらっと立ち読みしてみたが、正直言えば私はキャンプするためにキャンプをやる気は起きなかった。もっと言うと、キャンプを美化しすぎにさえ感じた。

さりとてキャンプを馬鹿にしている訳ではない。あのテントの薄い布一枚で得られる安心感は痛いほどによく分かっている。実際、数多くの山を登ってきた私だが、テントなしのビバーク(緊急露営)は可能な限り避けてきた。

だって浮「もの。野外での暗闇の浮ウ、吹き付ける風に奪われる体温、寒くて関節が震えすぎて痛くなる辛さ。ビバークは心も体力も削られる。だから日帰り予定のハイキングでも、ザックの底にビバーク用にツェルトと呼ばれる簡易テントを忍ばせておいた。

テント無しで野外で一晩を過ごすのは苦行に近い。朝、起きれば夜露でビッショリで、この不快さは布で拭いた程度では直らない。また、岩の上で眠る寝苦しさも嫌だった。背中の筋肉がひきつるほどにダメージが残る。

実際、大型のテントに泊まっても、ある程度の寝苦しさは避けられない。数百を超える私のキャンプ経験のなかで、一番快適だったのは、対馬の海岸でキャンプした時だ。

下地が砂なので、おそろしく寝心地が良い。また煩いのではと危惧した波の音が、実は子守唄のように快適だと知ったのもこの時だ。もっとも津波や高潮がきたらお終いである。

やっぱりお家で、本の山に囲まれて過ごす寝床が一番である。私はやはり基本ナマケグマなのである。
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新緑の輝き

2018-05-08 12:35:00 | 旅行
緑が映えるこの時期は、野山に足を運ぶと、眩しいほどの美しい光景が迎えてくれる。

緑と一言で書いたが、実際は輝く黄緑から、深い濃緑、青に近い薄緑と多種多様な色彩を堪能できる。春は花が咲き乱れる季節なので、ついつい可憐な花に目がいってしまう。でも、緑が美しい季節でもあるので、葉っぱの輝きにも注目して欲しい。

大学受験に失敗した私を山に誘ってくれたのは、高校ワンゲル部のOBのYさんだった。当時、Yさんは、某登山スメ[ツ店でアルバイトをしながら、ある社会人山岳会にも参加して、登山に明け暮れていた。

季節は丁度今頃、GWの連休前、まだ山が静かな時期に行こうと誘われた。上越国境付近のわりとメジャーな山だが、たしか少し前に遭難事件があったはず。上野発の夜行列車の中で、遭難事件のことを尋ねると、まだ見つかっていない遭難者が気になるので企画された山行だと教えてくれた。

ビールを飲みながら「でも、本格的な捜索をするわけじゃないから心配いらないぞ」と云われたので、安心した。この冬は大雪で、各地で雪崩事故が相次いていたので、少し気になっていたからだ。

遭難が起きた現場とは、遭難が起きやすい場所であり、たとえ時期がずれていても、決して油断するべきでないことは、諸先輩方から口酸っぱく教え込まれたいた。山の遭難現場は、断じて軽い気持ちで足を踏み入れるべきではない。

明け方に駅に着いて、バスが来るまで待合室で少し仮眠をとる。その後、寝ぼけ眼でバスに乗り、目が覚めたら新緑の美しい溪谷が目の前であった。ここで、2パーティに分かれた。

渓谷沿いに登って行く上級者パーティと、稜線伝いに登る我々若手メンバーである。もう4月とはいえ、沢沿いにはまだまだ残雪が残っており、また雪崩の影響でルートが荒れているので、冬山経験の浅い若手にはキツイということで分けられた。

もっとも稜線伝いのルートも、北面や日陰部分には残雪というより氷の塊が残っており、おまけに場所によっては雪崩のせいで道が崩壊しているから、気の抜けるルートではない。

しかし、新緑と残雪の映える景色は美しく、気持ちが洗われるかのような新鮮な感動をもたらしてくれた。四時間ほどかけて稜線まで登り、後は合流地点である山小屋までゆっくりと歩く。

山小屋に着いて、夕食の準備をしていると、沢伝いに登ってきたパーティと合流する。やはりルートが一部崩壊していて、迂回などして時間がかかったそうだ。その後、夕食後の話では、行方不明者は見つからなかったそうであった。

翌日は稜線の反対側に降りて、上野駅で解散した。悩んでいたり、気持ちが落ち着かない時は身体を動かすに限る。私としては気分一新できたので、新たに受験浪人生としての覚悟を決めることが出来たと思っている。

ところで、件の行方不明者のことだが、発見されたのはその年の晩秋であったそうだ。まだ関係者が生存しているので、多少フェイク混じりでの話になりますがご容赦のほどを。

その遭難事件は、元々は冬季登山中に雪庇を踏み抜いて滑落した登山者を自力で救出したものの、怪我の度合いが大きくテントから動かせないことから、パーティから2名が離脱して、麓に救援を求めに行き、その二名が行方不明となったものだ。

ちなみに、滑落した遭難者は他の登山者からの通報で翌々日に救助されている。結局、助けを求めに下山した二人が発見されたのは、10か月以上後のことであった。奇妙なのは、その二人は、別々のルートで発見されたことであった。

12月の雪山で、救助を求めるために下山した二人が、同時にテントを出発して、別々のルートで発見されるなんて、普通ではありえない。先にも書いたとおり、遭難が発生した状況というのは、遭難が発生しやすい状況であり、第二の遭難が起こりやすいことは登山者ならば常識である。

にもかかわらず、何故に二人は別々のルートを採ったのか?

私は部外者であったので知らなかったが、後で聞いたところでは、この二人は一人の女性会員を巡っての三角関係にあったという。元々は仲の良い2人であったらしいのだが、その女性を巡って陰湿なさや当てを繰り返していたので、周囲は気にしていたらしい。

よくよく話を聞くと、私が登った稜線沿いのルートは難易度は低いが時間がかかるルート。沢沿いの上級者が登ったルートは、難易度は高いが下る時間は短いルートだそうだ。救助を求めて下山するルートを巡って、二人の意見が食い違った結果、両者ともに遭難したのではないかとの説が、一番可能性が高いと思われているようだ。

私はそれほど冬山経験がないけれど、この二人のとった行動が非常識であることは分かる。目的は遭難者の救助を伝えることであり、早さよりも確実さを優先するのが当然だと思う。まして危険な状況下で、二人に分かれるなんて本末転唐ナあろう。

当時はそのように憤ったものだ。もっとも、あれから30年以上経つと、実はこの手の異性絡みの事件が意外と多いと分かる。どうも人間という奴の性は、理性を押さえつけても、情理に左右されるものらしい。

新緑の季節は気持ちも浮かれることが多い。異性が妙に魅惑的にみえてくる季節でもある。これも、おそらくは生物としての本能に影響を受けているのだろうと思うと、ちょっと複雑な気持ちになりますね。
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地図は怖い

2017-06-16 13:20:00 | 旅行

前にも書いたが、私は本好きであるだけでなく、地図好きでもある。

ただ、地図は怖いとも思っている。といっても、オカルト系の話ではない。むしろ、お化けなんぞよりも、もっと怖い話を知っているからだ。

1970年代は、学生運動の盛んな時代であった。でも、全ての学生がそうだったわけもなく、大学受験という牢獄から解放された喜びから、見聞を広めようと、世界に飛び出す若者も多かった。

ジャーナリスト志望のAさんもその一人で、バイトを頑張って資金を貯め込むため、学生運動には参加しなかった。そして、折り畳みの出来る自転車を相棒に、世界各地のユースホステルを巡り、自転車旅行で世界を駆け巡った。

私も当時の写真を見せてもらったことがあるが、アメリカ、ヨーロッパ、南米と4年間で世界各地を駆け巡ったそのヴァイタリティには驚かされたものだ。

Aさんは大学4年の秋、かねてから希望していた東欧を自転車で回った。ビザの関係で、なかなか難しかったらしいが、当時ある国での学生大会に参加するのを理由にビザ申請をして認められたとのこと。

当時は、まだまだ社会主義が輝きをもっていた時代だけに、Aさんは未来の日本の理想を夢見て向かったのだが、結果は失望に近かった。確かに共産党の指導のもと、平等な社会があるように思えた。

しかし、気が付くと生活物資が足りない。西欧はもちろん、日本でも当たり前のように入手できる日常用品が容易に手に入らない。ユースホステルで知り合った、日本人のBさんも同様で、あるものが手に入らず困っていた。

Bさんは山岳部出身の冒険家志望の青年であった。ヨーロッパ各地の山を登り、金がなくなるとレストランなどでバイトして稼ぎ、登山を繰り返していたらしい。そして、かねてより狙っていた東欧の山々を登る絶好の機会として、今回の学生大会に参加した。

そのBさんが探していたのは山の地図であった。本屋に行けばあるだろうと軽く考えていたら、まず本屋がない。日本に当たり前にある駅前の本屋がない。あっても、地図が売ってない。困り果てていたところ、地図を扱っている本屋があると聞き込み、この町へやってきたとのこと。

その話を聞いたAさんも、地図の入手には難儀していたので、Bさんの悩みに大いに同感したそうだ。Aさんには、サイクリングに同行している北欧の友人がいて、彼のつてで地図をどこからか入手していた。

その話を聞いたBさんが、自分にも地図を回して欲しいと、その北欧の方に頼んだ。最初は気軽に、OKと返事したのだが、欲しい地図の場所を聞くと、表情を曇らせ、そこはダメだと英語で断わってきた。

その地域には、軍の基地があるから、一般には入手できないと説明してきた。ジャーナリスト志望のAさんは、それを聞いて納得したが、登山への情熱に囚われたBさんは、どうにも納得できなかったようだ。

翌日、Bさんは街の図書館を求めて外出したのだが、その日は帰って来なかった。次の目的地に向かう予定があったAさんは、伝言を残してそのユースホステルを立ち去った。

今回の旅でヨーロッパの大半を自転車で廻ったAさんは、意気揚々と帰国し、その後は某通信社に務め、幾つかの国に駐在した後に、ヴェトナムで赤痢にやられて帰国。

あまり日本国内では見られない熱帯性の赤痢であったようで、長期間の療養生活を止む無くされた。その際、かねてから気になっていた、あの失踪したBさんの消息を尋ねたところ、とんでもないことが分かった。

東欧の某国で行方不明となったBさんは、数年後東アジアで偶然発見された。しかも、重度の麻薬中毒患者としてだ。AさんとBさんは大学こそ違ったが、郷里は同じであった。そこで共通の友人と共々、Bさんを帰国させることに協力することになった。

病気療養で休業中ではあったが、務めている通信社のつてで、Bさんが保護されているキリスト教の救護施設に連絡をとり、また現地の日本大使館の協力を得て、紛失したらしいパスポートの再交付や、ビザなどの手続きをすませた。

ただ、けっこう費用がかかり、またある理由から飛行機での帰国は無理で、貨物船に同乗させてもらっての帰国となった。実はBさん、身体がかなり不自由になっていた。

日本大使館付きの医師の診断では、全身に骨折の跡が十数か所。それも満足に治療された様子がなく、指などは不自然に曲がったまま。また歯の大半が、紛失しており、無理やり抜かれた可能性があること。要するに、拷問を受けた可能性が高いらしい。しかも、数年たっている。

自分一人では、満足に動けないBさんが、何故に数千キロ離れた東アジアの、それも阿片窟のような場所に居たのかも分からない。本人も、まともな意識を保てないほどの重度の精神疾患である。

発見されたのも偶然に近く、日本の演歌がラジオから流れている時に、普段感情を見せないBさんが涙を流した。それを見た救護院のスタッフが日本に滞在経験があったことが幸いした。

もしかしたら日本人ではないかと疑いを持ったことが契機で、呼ばれた日本人のNGOスタッフが、必死でコミュニケーションをとり、その名前を本人の手書きの文字で確認できたらからこその発見であった。

Aさんや、Bさんの友人たちの協力がなかったら、日本に帰国するための手続きは、まずとれなかったろう。このようなケースでは、日本大使館はあまり積極的に助けてくれないからだ。

その帰国の船旅も終盤のことであった。遠州灘から駿河湾に至る航路の最中、富士山の姿を見たBさんは、大声で泣き、その場から動かなくなってしまった。事情を知っていた船員さんたちも、無理ないと思い、その場にそっと置いておいた。

日が沈み、富士山の姿が見えなくなるまでBさんは、その場を動かなかったそうだ。日も暮れて、寒くなってきたので心配してデッキに出てみると、Bさんの姿はなかった。忽然と消えてしまった。

大騒ぎになり、船内をくまなく捜索したが、Bさんの姿はみつからず。そうなると海に落ちた、あるいは身を投げたとした考えられない。海上保安庁にも連絡をとり、数日間捜索したのだが、結局発見することは出来なかった。

結局、彼の僅かな遺品だけが、日本の土を踏んだ形となり、関係者を大いに失望させた。

この話を語ってくれたAさんとは、私が二十代の時に長期入院した病院で知り合った。病棟は違ったのだが、よく談話室で出会う方であったので、知己になった。

Aさんは、あの時、Bさんに軍事基地のある場所へ近づかないよう、強く警告しなかったことが俺の痛恨のミスだ、と言っていた。おそらく、Bさんはスパイとして捕まってしまったのだろう。まだベルリンの壁が厳然とそそり立つ時代であり、水と平和はタダの日本の常識は通用しないのが、世界の現実であった。

なんとしても、真相を突き止めたいが、俺も家族持ち。無理は出来ないだよなァとAさんは寂しげにつぶやいていたのが記憶に残る。ベルリンの壁が崩壊したのは、その数年後であった。

たかが地図ではある。でも、日本ぐらいですよ、地図に軍隊の基地が平然と記載されている国なんて。日本の常識は、世界では通用しないことが少なくない。そのことが、幸せなことなのか、どうか、私は未だ判じかねます。

この話、関係者が未だ生存している為、かなりのフェイク入ってますので、ご了承のほどをお願いします。

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