ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

坊ちゃん 夏目漱石

2009-02-27 12:15:31 | 
坊ちゃん育ちの奴は、時として妙なことをやらかす。

私の母校は、坊ちゃんお嬢ちゃんが通うので有名な大学だ。育ちの悪い私なんざ、そのお上品な雰囲気に違和感を抱き、大学選びを間違えたと頭を抱えた覚えがある。

ちなみに私の大学選びの基準は、通学時間が短ければ短いほど良いといったものだった。自業自得といえば、まったくその通りだ。

お父上が某上場企業の社長であるMは、良くも悪くも育ちが良い。一年の時に同じクラスで出会い、同じクラブに入ったため、必然的に学内で一緒に過ごす時間が多い奴でもある。

小学校から高校まで、坊ちゃん育ちの連中とは、ほとんど付き合いがなかったので、面白いといえば面白いが、時折イラついたり、呆れたりすることが多かった。

バカ真面目なMは、ひねくれ者の私に向かって「お前は俺が更正させる!」などと、真面目腐って公言していたものだ。私はヘラヘラと鼻で嗤って、むしろ悪い遊びに引き込んでやろうと狙っていた。おかげで喧嘩が絶えなかった。

世間知らずというか、よくぞそこまで純粋に育てるものだと呆れたものだが、反面手におえない一途さがあった。それを思い知らされたのが、二度目のクラブの合宿だった。

はっきり言って、一年をしごくための合宿であった。メインテーマは克己、己に克つである。ところがこのMの奴、説明会の席でこの克己を大声で「かつこ」と読み、失笑を買う始末である。どこかの国の首相と同じで、坊ちゃん育ちだと漢字の読み取りに問題が生じることがあるらしい。

失笑で始まった6月合宿だが、いざ山に入れば鬼のしごきが待っていた。朝に食べたものを吐き戻すほどの過酷な合宿で、山の初心者であったMはボロボロにばてていた。

ところが、このMの奴は胃液を吐きながら、四つんばいでずり上がって来る。経験のある方は分ると思うが、極度の疲労から胃液を吐くような状態で身体を動かすことは難しい。大概が四つんばいで身体を丸めて、吐く度に身体を震わせて動けなくなる。

しかし、Mの奴はよだれと胃液を垂らしながら、諦めずに登ってくる。その姿に私は、ある種の脅威を覚えずにいられなかった。この手の根性者には勝てない。いずれ抜かれると予感したものだ。

不器用ながら驚異的な体力で、地道な努力を重ねる姿は上級生に可愛がれ、その一途な実直さで、失笑を買いながらも下級生からも慕われる。お坊ちゃま、恐るべしである。

ひねくれ者で、要領よくズルをする癖のある私とは対極にあるかのような生き方に、奇妙な羨望と対抗意識を持たざる得なかった。おかげで4年間喧嘩が絶えない仲でもあったが、刺激になる相手でもあった。

お坊ちゃま育ちの奴に、隔意をもっていた私が、その素直さを見直す契機になったことは確かだ。不器用だと思うが、あの真直ぐさは貴重なものだと言わざる得ない。

表題の作品を初めて読んだのは、中一の夏の課題図書だったと思う。あれから30年あまり、久々に読んでみて思い出したのが、Mのことだった。

ところで「坊ちゃん」といえば四国だ。四国といえば道後温泉だ。映画やTVで取り上げられることの多い、その温泉に行った時のことだ。はしゃいでいたMは、素早く服を脱ぎ捨て温泉に入らんと、先頭をきって勢いよく木の引き戸を開けた。ん?木戸!

真っ裸のMの前を、車が通り過ぎていく。木戸は非常口だった。

どわっ!み、見られた~!と騒ぐM。あぁウルサイ!温泉くらい、ゆったりと入れ。Mの喧しさが思い出されて、夏目漱石論が書けなくなってしまったではないか。
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朝日新聞の脱税

2009-02-26 12:48:39 | 社会・政治・一般
新聞紙面を賑わした朝日新聞の脱税報道。

朝日新聞によると5億円を超す修正申告を既に提出済みだという。うち3億ちかくが重加算税の対象だというから、悪質な脱税だとも言える。・・・まあ、政府的見解ではあるが。

私のその脱税の中身については、新聞が報じる以上の情報は持たない。だから推測でしかないが、おそらくはそれほど悪質なものではないだろうと思っている。

通常、重加算税のつく脱税は、納税者の意図的な仮装隠蔽により所得が誤魔化された場合に課される。だから悪質だというのが税の世界の常識である。

だが、税の世界の常識が、世間一般の常識と一致するかどうかは別問題だ。税理士の私が言うのもなんだが、税法にはいささか世間の常識と乖離した条文がある。実際、顧客に説明するのが嫌というか、どこの誰だ、こんな税法作りやがったのは!と唾棄したくなることさえある。

もちろん、そんなアホな税法でも我らが有権者の信任をえた国会議員様が認めた以上、それは悪法であっても法は法。適正な法律に決まっている。日本国の国民として従わねばなるまい。

ところで新聞などのマスコミでは、当然に情報提供者の氏名などは隠蔽するのが常識だ。いくら税務署に名前を教えろと言われても、言ったらマスコミとしてお終いである。だから意図的に隠したとして重加算税のつく悪質な脱税だと判じられれば、従うしかあるまい。その意味で、マスコミに脱税はつきものだと言える。

また、地方の支局に怪しい支出が多いようだが、おそらくこれは販売奨励からみの支出だと思う。税法では厳格な基準に合致しないと、やれ交際費だ、やれ寄付金だと課税対象とされる。これは全ての業種に当てはまるけど、致し方ない出費だと思う。

もちろん、一部の悪質な社員が私的な飲食に会社の金を流用したケースもあると思うし、隠し給与、隠し賞与などもあったかもしれない。このような悪質な行為は、税務署にガンガン調べて欲しいものだ。

総じて私はマスコミの脱税は必然だと考えている。逆に脱税がまったくないようなマスコミでは困る。官僚の作った作文横流し報道や、企業の広報部からの情報を裏どりなしで垂れ流す報道ならば、脱税などする必要が無い。

重要な情報を入手するには、それなりのコストがかかる。これが当たり前だと思う。しかし、新聞紙面の7割近くは、横流し、垂れ流し報道で埋まっている。株価情報や商品市場情報などの数字は横流しで当然だし、記者クラブ発の情報も流さざる得ないことは、私でも分る。

しかし、マスコミ独自の取材による独自の紙面作りこそ、報道人としての真価が問われるものだと私は信じている。そして、この独自の取材にはコストがかかる。当然に情報源を明かせないケースも出てくる。よって、脱税は必然的に生じる。

マスコミは脱税を浮黷トはならない。ただし、私的流用などを戒める倫理観は絶対に必要不可欠だ。そこさえ守られるなら、脱税は致し方ないと思う。
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塩の世界史 マーク・カーランスキー

2009-02-25 12:16:05 | 
塩がないと食事は不味い。

23の時に腎臓の機能が著しく低下して、いわゆる腎毒症に陥った。本来、尿として体内の有害物質を排出する機能が低下しているので、人工腎臓を使って尿を濾過する。これを透析と言う。

この状態が2ヶ月ほど続き、その間に食べさせられたのが、無塩食もしくは低塩食だった。

私は食べ物に好き嫌いは無いし、出された食事は残さず食べるのがマナーだと祖母に叩き込まれた。だから大概のものは食べるし、いわゆる食わず嫌いはない。

その私にしたところで、この無塩食の不味さにはめげた。低塩食は多少はマシだったが、あまりの薄味に閉口した。残さず食べたのは、食べなくては体力がつかないとの切実な想いがあったが故で、意地で食べていただけだ。

実を言うと、科学の進歩した今日でさえ腎臓の濾過機能を回復させる医薬品は存在しない。身体が持つ自前の治癒力に頼るしかない。人工透析は未だ腎臓の機能の一部を補うに過ぎない。

塩を制限するのは、塩が腎臓にかける負荷を減らすためだと主治医から説明を受けた。幸いにして私は入院3ヶ月目にして、少しずつ回復をみせ、透析を離脱することが出来た。これでようやく本来の難病の治療に専念することができた。

ただ、腎臓にダメージは残っており、そのため低塩食の習慣はつけたほうがいいとアドバイスされ、今日にいたるまで塩は控えめに使うように心がけている。

海から陸上に上がった生物の末裔だけに、我々人類は塩なしでは生きられない。ところが過剰な塩分の摂取は、むしろ健康を損なう。困ったことに、人間は塩味が大好きだ。

生きていくために必要なばかりでなく、熱烈な嗜好品でもある塩は、人類の歴史に深く関る。塩を巡り戦を起し、塩を支配して権力を維持する。

その塩に焦点を当てて人類の歴史を振り返ってみたのが表題の本だ。学生の頃は、塩の重要性なんて、まるで意識しなかったが、塩分の制限を受けてみて初めて分った。人間の食生活には塩は欠かせない。

だからこそ、歴史の多くの場面で、塩が重要な役割を果たしていたのだ。近代は、人間の活動が飛躍的に広まった時代でもある。その移動には塩は欠かせない役割を持っていた。魚の保存はもちろん、肉の保存、野菜の保存にも塩は必需品となる。戦争だって、十分な塩を確保しなければ戦うことも出来ない。

塩に着目して歴史を見直した著者の慧眼には敬服するばかりです。
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プロレスってさ ハーリー・レイス

2009-02-24 12:21:19 | スポーツ
久々にプロレスねたをば

プロレス技の一つに、ブレーンバスターがある。直訳すると、頭みそ砕き。ところが、実際には背中から落とすタイプと、頭から落とすタイプの2種類がある。

本来は後者の技こそがブレーンバスターの名に値するのだが、この技は受身が難しく、70年代までは前者のブレーンバスターが広く使われた。これはアメリカではヴァーティカル・スープレックスという。背面そり投げの一種であるので、こちらの名称のほうが的確だと思う。

このブレーンバスターほどプロレス技らしい技はない。なにしろ、投げ手と受け手の呼吸が上手く合わないと、まず投げられない。受け手が投げられることを嫌がったら、まず成立しない技なのだ。

それだけに、上手く決まった時は美しい。しかし、なかなか難しい技で、私も高飛び用マットの上で何度も練習したが、なかなか綺麗に投げることは出来なかった。

その原因の一つに、投げ手に強靭な背筋力が求められることがある。なにせ、相手の頭を脇の下にはさみ、相手の腹に手を差し込んで持ち上げる。そのまま一直線に抱え上げ、後ろに反りながら投げる大技なのだ。

そして、投げられる受け手にも抜群の受身が求められる。なにせ空中逆立ちのような状態から、背面に落とされるので、受身をしくじると危険な技でもある。

もっと言えば、投げ手を引き立てる技でもある。上手く決まれば、観客から歓声が上がる名物技でもあるので、受け手と投げ手の呼吸が大事でもある。

ぶっちゃけ、嫌な奴とはやりたくない技であったらしい。

そんなブレーンバスターの名人が、NWAチャンピオンであったハーリー・レイスだ。独特のガイゼル髭がトレードマークの渋い中年男だ。ハンサムとは程遠い風貌だが、酒場の用心棒を思わせる凄みの有るレスラーであった。

カーニバル・レスラーの出身だと噂されたが、事実喧嘩は強かった。レイスにブレーンバスターを掛けられて、それに協力しないレスラーは稀だった。喧嘩番長のあだ名にふさわしく、怒らすと怖いので有名だった。レイスの見せ場であるブレーンバスターには、協力せずにはいられなかった。

だからこそ、一番美しい放物線を描くブレーンバスターの使い手だった。最近は知らないが、当時は弱いレスラーが使いたくても使えない技が、このブレーンバスターだった。

だからこそ、白人嫌いで知られるブッチャーが、このレイスのブレーンバスターを拒否した時は大変だった。プロレスの試合は忘れ去られ、通路から控え室、あげくに外まで二人は殴りあい続け、慌ててジャイアント馬場が駆けつけ、強引に分けたらしい。

私はこの試合を、下北沢のパチンコ屋の街頭TVで見ていたが、空っぽのリングと右往左往する若手レスラーたちに呆れた覚えがある。はっきり言ってツマラナかった。やっぱりプロレスは演劇でなくてはならない。確たるシナリオのない、即行演技ではあるが、試合を演じてくれねば面白くない。

レイスとブッチャーの喧嘩は、周囲の慌て具合からして、偶発的な事故だったようだが、プロの仕事としては失敗だと思う。本気の喧嘩なんて、素人がみて面白いものではない。

プロレスを八百長だとバカにするよりも、格闘演技の面白さを楽しむことを知って欲しいものです。本気の喧嘩は、観て楽しむには残虐すぎますから。
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牡蠣礼賛 畠山重篤

2009-02-23 13:08:12 | 
ゴルフ場の綺麗なグリーンをみて、自然は素晴らしいなどと言わないで欲しい。

綺麗に刈りそろえられたゴルフ場の芝は、その芝を管理する苦労の成果でもある。除草剤を撒き、肥料を与え、草刈機で整備しなければ、とてもじゃないがあのような美しい芝生は維持できない。

あれは自然とは程遠い、人工的な風景そのものなのだ。ゴルフ場だけではなく、牧草を食む牛たちののどかな風景が拡がる牧場だって、やはり人工的な存在だ。意図的な努力なくして、あのような不自然な風景はありえない。

高度成長期に数多作られたゴルフ場と牧場が、海から豊かな自然を奪った。伐採される以前の原始の森では、栄養豊富な土壌が育まれ、それが雨により大地に浸み込み、やがて川の流れにしたがい海にたどり着く。

栄養分豊富な川の水は、海に流れ込むと大量のプランクトンを繁殖させる。このプランクトンを餌に、ニシンや牡蠣が大量に育つ。

かつて豊かな森を構えた北海道の沖合いには、ニシンがあふれ、その漁獲で御殿が建ったと言われる。河口域には牡蠣が大量に育ち、豊かな海産物を提供し、水の浄化に役立った。

しかし今、北海道の海からニシンは消え去り、牡蠣は激減した。観光客が綺麗と声を上げる牧場や、ゴルフ場では森の代わりになりはしない。森を伐採したことで、豊かな海が失われた。

皮肉なことに、牧場やゴルフ場にするには起伏が激しすぎ、また地形も複雑で開発に取り残された三陸では豊かな森が残された。この森が豊かな海洋資源を支えてくれた。

表題の本の著者は、「森は海の恋人」と宣した植林運動の提唱者として知られる。三陸の豊かな海を守るには、なにより山に木を植えることが必要だと考えて、それを実践してきた。山村の子供達を浜に呼んで、海の幸に触れさせて、山を守ることが海を守ることだと教えた。

その活動は多くの賛同者を呼び、水産庁の研究機関や民間の養殖業者たちの間を駆け巡る。私はこの本を読んで、日本の牡蠣がフランスやアメリカ、タスマニアで移植されて、多くの人たちの味覚を楽しませていることを知った。

ゴルフ好きの方には申し訳ないが、ゴルフ場は自然破壊の一つのかたちであることは、頭の片隅に置いて欲しい。率直に言って、日本にはゴルフ場が多すぎる。なにも産まないと思われた山林が、実は豊かな海の幸を育んでいる実情を知って欲しい。

あの美味しい牡蠣は、森の恵で育つ。森に感謝して牡蠣を食べよう。美味しさ、ひとしおだと思う。
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