ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

襲われた元・厚生省事務次官事件のその後

2008-11-28 12:25:52 | 社会・政治・一般
私は少し頭がおかしいのかもしれない。

先月末より新聞紙面を賑わしている元・厚生省事務次官及び配偶者の連続殺人事件が批難されるのは当然だと思う。連休中に犯人と称する男性が自主したが、訳の分らぬ動機を語っているらしい。単独犯のようだが、やくざの鉄砲玉のような怪しい印象も無きにしも非ず。やはり年金行政の怠慢を憎んでの犯罪との予想が一番相応しい気がする。

だとしたら、巻き添えとしか言いようのない奥様の死は非業だと思う。

ただ、やっぱり私は異常なのかもしれない。この事件を知った時、小さな喝采を挙げてしまっていた自分に気がついたからだ。

率直に言って、社会保険行政はひどい。年金を単なる財源としか看做さず、公共事業の名の下に金をばら撒き、天下り先を増やしていった厚生省の高級官僚は万死に値すると思っていた。所得の再分配を名目に税金をばら撒くなら、それなりに名義は立つが、保険ならば運用益の確保と投資資産の時価算定は当然だと思う。しかし、厚生省及び社会保険庁は単にばら撒いただけだ。

当然に年金財源は不足して、今じゃ一般財源たる税金から補填されている有様。民間の保険会社ならば、これは破綻状態であり、会社更生や倒産などの処理が必要とされる事態だが、誰一人責任を取らず、感じずが今の厚生労働省及び社会保険庁の面々だ。

あれだけ失政失策を重ねながら、誰一人罪を問われず、追求もされず、のうのうと天下りを重ねる。そのたびに退職金を積み重ね、豊かな老後を満喫していた高級官僚の傲慢さは、いつかは罰せられるべきだと内心思っていた。

その罰が殺人というかたちで実現したことに、ある種にカタルシスを感じざる得ない。配偶者については、なにもそこまでと思わないでもないが、元・高級官僚当人は無理もねえと考えてしまう。

私が法治国家を理想に置くこととあい矛盾するとも思うが、失政失策の責任を決して取らないキャリア官僚たちを放置してきたことが、今日の行政の硬直化を招いた主要因だと思うがゆえに、このような異常なテロ行為に共感する気持ちを禁じえない。

もっとも、現時点では30年前の犬の処分を根拠だとか、胡散臭い情報が流されている。つまり行政テロではないらしい。でも、疑いを持つ人は多いらしい。根拠無き憶測で、いい気になって語るのも幼稚なので、少し冷静に考え直したい。

もし仮に行政の悪行を理由にしての殺人だとしたら、その影響は計り知れない。能天気に考えれば、これで官僚たちが襟を正し、真に国民を思う良き行政を心がけるようになるかもしれない。

日本では、伝統的にお役人に政を任せる傾向が強い。事実、大半の役人たちは、その期待に応えんと誠意を持って仕事をしてきた。基本的に真面目だもんね、日本人は。

ただ、権限ふるえど結果責任は取らずに済む慣行が、キャリア官僚たちを傲慢に育てたことは否定できない。減点主義の人事慣行が、事なかれ主義を蔓延させて、なにもしないこと。すなわち失敗がないことが出世への第一条件であることが、行政を慢性的な怠惰状態へと落とし込んだ。

そこに、今回の行政テロ事件だ。心を入れ替えた官僚たちが、緊張感をもって仕事に向かうようになれば、これはこれでありがたい。

・・・まあ、実際はそうなるわけがない。むしろ、後ろ向きの行政になる可能性が高いのが実際だろう。既にHP上の名簿を削除したりして、個人名がわからなくする行政に戻そうとしている。

今後は誰がどのような政策を考案し、実施したかが分らなくなるような密室型の行政が蔓延る方向に向かうとの予測が、一番現実的だと思う。

開かれた行政ではなく、密室での無責任行政が加速的に広がる可能性が高い。主権者たる国民は、そのことをよく認識したほうがいいと思う。

多分行政テロでないとしても、行政の密室化は進行すると思う。テロそのものより、こちらのほうが問題だと、私はけっこう危惧しています。
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四年目を迎えて

2008-11-27 12:24:59 | 日記
このブログも3年が経過して、ついに4年目に突入しました。

単なる独り言では、これほど続くことはなかったと思うので、いつも読んでいただける方あってのことだと感謝に耐えません。とりわけ、時折コメントをいただけるのは励みになります。本当にありがとうございます。

一応、読書日記のつもりですが、脱線が多く、本以外のことも書いて(吼えて)います。ですが、今後も読書を中心に書いていきたいと思います。「本」というカテゴリーで、どうやら480ほど書いてきましたが、目標として千冊は書きたいと考えています。多分、後3~4年はかかると思いますが、じっくりと書き続けようと思います。

私は読書を数では評価しません。あくまで、その本を読んで何を感じたかを大切にしたいと思うのです。ですから、自分がこれまで何冊本を読んだのか、さっぱり分りません。分らなくとも、私の心に深く刻まれた本は何冊もあり、それで十分だと考えています。

ただ、ブログを書き進めていくうちに、ある種の目標はあってもいいと思い、とりあえず千冊を目標に掲げたいと思います。ただし、数字目標を達成するために、無理な読書をするつもりはなく、あくまで自分を戒める鎖としての目標です。本質的に私は怠け者ですから、どこかで縛りをかけないと、きっとサボりだします。

これからも、素晴らしい本との出会いを願って止みません。今後とも、お付き合いのほど、宜しく御願い申し上げます。
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「歴史を学ぶということ」 入江昭

2008-11-26 12:15:03 | 
戦後の日本の歴史教育には三つの弊害があると思う。

一つ目は、歴史を科学だと規定(これは間違いだ!)して、事実関係の羅列に貶めたマルクス主義の弊害。

二つ目は、戦争に負けたことによる自信喪失と、それに付け込んだアメリカの戦後統治の弊害。

三つ目が、謝ればいいだろうという、安易というより誤魔化しの反省姿勢。

他にもあると思うが、今のところ私が思う弊害が上記三点だ。このおかげで、学ぶべき事実を教師は教えず、考えるべき事実を避けて終わらせ、単なる記号の暗記に堕したのが戦後の歴史教育だ。

例えば、○△年11月に桃太郎を名乗るリーダーに率いられた武装集団が鬼が島を襲撃して、鬼と称してその地域を支配していた勢力を駆除したとしよう。

この事実を歴史的にどう評価するか。

桃太郎を新たなる地域支配者と認め、英雄として書き残すのが通例だろう。やはり勝者こそが歴史を書き換える。

だが、鬼には鬼の言い分があったはずだ。元もとその地域を古くから支配していた正統な治世者として君臨していたかもしれない。そこへ新たな侵略者(桃太郎一派)がやってきて、武力により殲滅させられた悲劇の一幕である可能性は否定できない。

また、鬼に苦しめられたと称する貧しい農民たちの言い分だって再考の余地はある。旧来の治世者(鬼)には世話になってはいるが、最近要求が厳しすぎる。なんとかしたいが、自分達の手を汚したくはない。誰かやってきて、この状況を変えて欲しいと思っていたのではないか。あるいは口にはださねども、桃太郎よりも鬼を慕っているかもしれない。

中央政府にしてみれば、自分達の支配下に属さない鬼という地方勢力を駆逐して、新たな支配地域を増やす功績を挙げた桃太郎一派を持ち上げざる得ない。たとえ、桃太郎が単なる乱暴者に過ぎないとしてもだ。

様々な見地から事実を眺め、その関係を明らかにして、歴史上の事実を解釈するのが歴史学だと私は思う。ところが、戦後の日本の歴史教育は、単に鬼を悪いものと決め付け、桃太郎の行為を正しいと結論付けて、その事実だけを覚えこませる。考えることなく、暗記させることだけの歴史教育をやってきた。

これでは正しい歴史感覚は身につかない。

表題の本の著者は、アメリカに留学して歴史を学び、シカゴ大学、ハーバート大学で長く国際関係史を教えていた歴史学者です。マルクス主義の影響の強い歴史教科書で育った私には、この方の書かれた論文などは異世界の歴史書でしたが、面白さではこちらの圧勝です。

この本は、まだ夢も大志も定かならぬ日本での学生時代から、留学して歴史に目覚めた入江氏の半生が綴られています。本格的な歴史教育とは縁が浅かった私としては、憧れざる得ない学習環境。

仕事を引退したら、再び大学に戻って歴史の勉強をやってみたい。今の私の密かな願いなのです。
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「みどりのマキバオー」 つの丸

2008-11-25 09:05:30 | 
サラブレッドの走る姿は美しい。

競馬を題材に漫画を描く以上、サラブレッドの姿は雄々しく華麗であるべきだ。しかし、この漫画はその期待を見事に裏切った。

ライバルの馬たち(一部例外はいるが)の姿は悪くない。筋骨逞しく、強靭にして繊細な細い脚と、生けるエンジンのごとく強力な脚力を生み出す体躯を、逞しくも勇壮に描いている。

ところがだ、主人公が凄まじく不細工だ。馬というよりロバ、やもするとカバと間違える風貌だ。決して格好良くはない。しかしながら、泥臭い勝負根性を持っている。小さな体躯を振り絞って、競馬場を駆け抜ける姿は「白い奇跡」の名が相応しい勇姿だ。

日本の公営ギャンブルでは、最も集客力があり、大きな金が動く競馬は不思議なぐらい漫画の題材には選ばれなかった。しかし、少年を対象とした「週刊少年ジャンプ」は、その壁を打ち破った。これだから、ジャンプは油断できない。

決して綺麗な絵柄ではないが、気力を振り絞り、体力の尽きる限りの頑張る姿は心をうつ。脇役であるチュウ兵衛や勘助たちも主人公を見事に盛り上げる。激しい体力の消耗で、目を空ろにしながらも、ライバルの姿を心に描きながら、気力でダービーを駆け抜けるその白い馬体は輝かしささえ感じられる。

本気で願えば、夢は叶うのだと力強く語りかけてくる。単なる夢に終わらないのは、無様なくらいの努力と、周囲の期待に応えんと実力以上の力を出し切る壮絶な苦闘の裏づけがあるからだ。

見るだけなら夢は夢で終わる。汗を流し、涙をこらえ、気力を振り絞って駆け抜ける努力があってこそ、夢は実現する。ある意味、少年漫画の王道だと思う。

甘ったるい夢なんざ大嫌いな私でも認めざる得ない、そんな漫画でした。
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「異域の人」 井上靖

2008-11-21 12:19:01 | 
人生が二度あるなら、何がしたいか?

私は異国の地で生きてみたい。言葉も風習も違う世界で、新たなる人生を築いてみたい。

多分、離別した父の影響だと思う。離婚した後、父は会社を辞めて遠くヨーロッパの地で働いていたらしい。その事を知ったのは、父が帰国してからだが、その頃から異国の地で生きることを密かに夢見ていた。

実際、働いて金を貯めたら、クライミング修行をかねてアメリカへ渡るつもりだったし、世界各地の山を登ることに憧れていた。言葉?なせばなるで、なんとかなると思っていた。白人の子供と喧嘩ばかりしていた幼少時の経験からして、本気で言い合えば、意味は分らずとも気持ちは通じると知っていたからだ。

しかし、残念ながら難病が私の夢を奪った。ただ生きていくことさえ難しかった長期の療養生活が、私の冒険心を朽ち果てさせた。今はもう、悔やむことは少ない。むしろ冷静に考えてみて、無謀な夢をみていたものだと呆れている。

表題の作品は、古代東アジア最大の帝国であったシナの漢王朝にあって、一時期成功した中央アジア支配の立役者として知られる班超を主人公としている。

漢王朝は、その創設期から匈奴をはじめとして、西域の異民族に悩まされてきた。それゆえ、歴代の王朝のなかでも中央アジア進出には熱心な帝国であった。

しかしながら、漢民族とは異なる風習を持つ西域の異民族を支配することは、極めて困難な事業であったようだ。世界史を勉強した方なら、この班超の名前は記憶にあるかもしれない。シナの中央アジア支配の最初の成功者である。ただし、事実上班超一代で終わりを告げる。

おそらくはずば抜けた指導力を持つ人材であろうと思っていたが、そこに着目した井上靖の慧眼が素晴らしい。30名たらずの少数の部下を信じ、時には武力で、時には知力で異民族を支配下に置いた手腕は驚異的だと思う。

しかし、その信じていた部下も長い年月の間に数を減らし、遂には最も信じていた部下にも去られ、気がついたら老齢の域に達していた班超は、もはや漢人ではなくなっていた。

帰国を許され、首都に戻るも、そこではもはや異邦人となっていた班超の孤独は深い。

私の憧れた異国での暮らしは、しょせん短期滞在者の夢なのだろう。長く異国に暮らせば、その異国の風習に染まらねば生きてはいけない。そして染まってしまったら、自らの意識が如何に故国にあろうとも、元には戻れぬ異国人の自分に気がつかざるえないのかもしれない。

それでもだ。一度は経験してみたかった異国での生活。人生が二度あることは、在り得ないと分っているのですがね。
コメント (8)
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