ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

後だしは駄目よ

2013-11-29 11:58:00 | 経済・金融・税制

税法なんて、手続き規定に過ぎない。

ある民法の専門家がそのように税法をけなしていた。それを聞きながら私も、もっともな話だと頷いていたが、反面手続き規定だからこその怖さは決して軽視してはならないと自戒していた。

これは民法に限らないが、司法の世界では実態を重んじる。もちろん法形式を軽視するわけではないが、その中身を精査し立法の精神に立ち返って判断する。その判例の積み重ねにより、今日の民法は形作られてきた。

司法関係の書棚には、この民法の判例集が大きく場所をとっている。この先、民法が如何に改正されようと、弁護士と裁判官ら司法関係者の英知が積み重ねられた判例集の価値が墜ちることはない。

一方、税法にはこれほど重みのある判例集はない。非公開の判例が多いせいもあるが、とてもじゃないが民法が積み重ねてきた英知の実績には敵わない。

だからといって、税法の怖さが減じる訳ではない。

冒頭の専門家が税法を貶すのは、税法が国家権力が国民から財産を税として簒奪するための手続きを定めたものに過ぎないとの思いがあるからだろう。それは間違いないのだが、税収があるからこそ国家は存続できるし、その国家が認めるからこそ民法は重きをなす。

税を国民から獲る(納税させる、とも云う)ための手続きが税法であるならば、その手続きは公正かつ適切であり、厳格に運用されるべきだ。そうなのだが、税理士として観てみると、どうも厳格さだけが近年妙に強調され過ぎている気がしてならない。

その一例に上場株式の繰越損失の適用がある。

簡単に説明すると、平成21年に上場株式を売却し、売却損を出したとする。この売却損は同一の証券会社の口座内では、他の上場株式の売却益と通算できる。だが、その損失が大きくて、平成21年中の売却益だけでは相殺できなかった場合。

この場合、確定申告書に所定の書類を添付することで、その損失は3年間繰越すことが出来る。ただし、期限内(3月15日まで)であり、所定の書類の添付があり、なおかつ、毎年連続して確定申告書を提出することが必要となる。

ところが、ある納税者の方は平成21年はしっかり確定申告書を税務署に提出したが、翌平成22年では株の売買は一切しなかった。そのため、毎年の給与及び不動産所得の申告はしたが、株式に関する所定の書類を提出しなかった。

そして平成23年に株の売買を行い売却益を出した。もちろん源泉所得税が徴収済みではある。だが平成21年の売却損が繰り越されているはずなので、平成23年に確定申告をすれば平成21年の売却損と、平成23年の売却益は通算されて利益は0となり、源泉所得税は還付されるはずであった。

そう期待していたのだが、残念ながら税務署は認めてくれなかった。なぜなら平成22年の確定申告時に株式に関する所定の書類を提出していなかったからだ。

その納税者の方は憤懣やるかたないようだが、このケースは税務署側が正しい。税法は手続き規定であり、その定められた手続きを満たさなかった以上、上場株式の繰越損失の適用は認められない。

別に税務署は、納税者が脱税していると云っている訳ではない。また平成21年の売却損の事実を否認している訳でもない。ただ、定められた手続きの要件を満たしていないと云っているだけなのだ。

これが手続き規定の怖さだ。

これは裁判に持ち込んでも、まず勝ち目はない。手続きが複雑で難解で理解しづらいならともかく、簡単な手続きに過ぎない。それを失念した納税者の過失。それが結論となることは目に見えて明らかだ。税務署は正しい。

・・・本当かい?

普通の常識で判断するなら、この手続き規定はあまりに厳格に過ぎると感じるはずだ。税理士である私でさえ、いささか酷に過ぎると思っている。だが、この扱いが正しいことも分かっている。

でも、正しいからといって、それが適切だとは思わない。これは私一人の感想ではなく、税務署にかつて席を置いていた国税OB税理士でさえそう感じるらしい。あまりに杓子行儀で、適切な行政だとは思えない。

なんだって、このような厳格に過ぎる手続き規定を定めているのか。これは私の推測なので、証拠がある訳ではない。あくまで私の想像なのだ。

実は近年、税務署は納税者から訴えらえて裁判で負けるケースが頻発している。特に税法の瑕疵を狙った確信犯的な節税手法を争ったケースでは、税務署側の敗訴が相次いだ。もちろん全体の訴訟のなかでみれば、まだまだ税務署側が勝った訴訟のほうが多い。

しかし税務訴訟は、かつて国側(税務署側)が勝訴する割合が98%近かったはずだが、ここ十数年その勝率は9割を切っている。訴える側(納税者)が税法を真剣に研究し、その瑕疵をついて合法的な節税手法を利用した場合の訴訟では、国側の敗訴が相次いだ。

これに危機感を抱いた国税庁は、新たな税法改正をする際、その法令を徹底的に緻密に作り、形式的な要件を厳密にすることで訴訟に負けないよう努力していたようなのだ。その成果が、この手続き規定の厳密化であるらしい。

率直に言って、例として挙げた株の売却損の繰越の事例なんかは、期限後に提出したって事実関係に変わりはなく、租税回避とか脱税の匂いのするものではない。にもかかわらず、手続き規定のみを厳格化することに、どれだけの意義があるのか私には理解できない。

後だしだってイイじゃないか。本音ではそう思っている。だが税務訴訟に負けた政府のエリートたちの傷ついたプライドがそれを許さないのだと邪推している。

なんか筋違いの気もするが、税理士としては所定の書類の期限内提出を徹底するしかないと覚悟している。

行政の簡素化が聞いて呆れますがね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

煽動屋に過ぎず

2013-11-28 12:04:00 | 社会・政治・一般

ジャーナリストが聞いて呆れる。

元々は読売新聞社で活躍した故・黒田清の部下であり、黒田が独立した際に追随して退職し、以降黒田グループの一人として活躍していたことは私も知っている。だが、この御仁、師匠に遠く及ばないどころか、ジャーナリストでさえないと思う。

最近読んだ週刊誌の記事には呆れてしまった。

>慰安婦の強制連行があったか、なかったか、わからない段階で、今、日本が元従軍慰安婦の強制連行は「なかった」と言い張ること自体、間違っていると考えます。

強制連行がなかった事実を認めたくないだけでしょう。親家族が娘を人買いに売り払ったことに、娘さんの自由意思があったがどうかは当事者の問題。日本政府及び軍の問題ではないでしょう。

>、「河野談話」まで蒸し返して、口にすることは卑劣ではないでしょうか。

いい加減な談話だからこそ、真摯に検証することが卑劣なのですかね。むしろ自分たちの正義感、良心のアピールを阻害するからこそ卑劣だと思っているだけでしょう。

>加害者と被害者の双方を調べて徹底的に取材を行って、初めて正しい報道と言えます。産経新聞の報道は最初から「元慰安婦はデタラメでウソをついている」という意図に基づいているものです。

まったく同じ理屈で言い返すなら、「元慰安婦は正しくて、真実のみを口にしている」という意図に基づいているのが、大谷の主張でしょうに。

>科学的歴史の検証は、いつ、どこで、誰が調べても同じ答え、結論が出てこなければならない。

やっぱり唯物史観に基づくマルクス主義者なのですね。歴史は科学にあらず。事実をどう解釈するかで結論は如何様にも変わるのが歴史です。当然、同じ答えとなるとは限りません。

>吉田清治氏の著書が、ずさんでデタラメなのは確かでした。でっち上げから従軍慰安婦問題は始まっていますが、強制連行の事実がなかったとは言えません

科学的歴史の検証はどうなったのですかね。事実を無視して、自らの主張のみに固執するのがジャーナリストなんですかね。故・黒田清が泣きますぞ。

>従軍慰安婦の問題に関しては、ひたすら謝り続けないかぎり、日韓の溝は埋まらないのです。

あなたのような似非ジャーナリストの存在が、むしろ溝を深めているのが実情でしょう。後世のジャーナリストは大谷のような輩を煽動家もしくは情報工作員だと報じるならばまだマシ。多分狂信者と見做し、唾棄すべき存在、もしくは愚かな人間の具体例とするように思えます。

ちなみに掲載された週刊誌はアサヒ芸能・・・スケベなグラビアや下種な芸能情報で読者を楽しませる雑誌です。手に取る人は少ないとは思いますが、このような雑誌だからこそ似非ジャーナリストの本音が掲載されるのでしょう。実に興味深い記事でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キン肉マン ゆでたまご

2013-11-27 12:13:00 | 

案外、瓢箪から駒だった気がする。

連載当初は間違いなくコメディー漫画だった。ちょうど吉野家の牛丼がブームだった頃であり、吉野家がスポンサーについているのかと思うような設定が鼻についたぐらいだ。

だいたい落ちこぼれ超人という設定からして可笑しかった。相棒というか、参謀役あるいはコーチ役の名前もミート君である。たしか私が高校生ぐらいの時に週刊少年ジャンプで連載が始まっている。

私は当初、あまり面白いと思えず、流し読みしていた程度の漫画であった。コメディーとしては中途半端な笑いしか取れないし、ストーリーに矛盾が多すぎて素直に楽しめなかった。だから、ジャンプ独特の人気投票システムで、いずれ消えゆく漫画だと考えていた。

初めは落ちこぼれ超人のキン肉マンが、暢気に地球の生活を楽しみながら怪獣退治を時々やっているという、ほのぼのコメディだったように思う。ところが途中から妙にプロレス臭くなってきた。

このへんから読者から超人のイラストを募集したりして、そのイラストが超人として漫画に登場するようになり、不思議なほど人気が出た。超人トーナメント戦あたりになると、もうコメディ色は消えて格闘対決漫画となっていた。

やがて悪魔超人とか、完璧超人とかが出てくると、もう何が何だか分からない状況設定になっており、ストーリーにもかなりの矛盾が生じていた。私は案外、この手のストーリー上の矛盾が気になる性分なので、少し読むのが辛くなっていた。

しかし、驚くべきことに、あるいは呆れたことに、このストーリー上の矛盾はほったらかしにして物語は進んでいった。私は「おい、おい、いいのかよ、こんないい加減でさ」と毒づいていたが、ジャンプ編集部も公認のでたらめぶりであった。

後にジャンプ編集長の書いた手記などを読むと、とにかくストーリーに勢いがあれば多少の矛盾には目をつぶって話を進めさせたそうだ。そういえば、あの頃ジャンプで人気だったのは「ギャラクテイカ・マグナム!」と叫ぶと対戦相手が宙を舞う異端ボクシング漫画とか、攻撃こそ最大の防御なりを実践する暴力刑事漫画であった。

つっこみどころが多すぎて、つっこむ気持ちが萎えるほどバカバカしい破天荒なストーリー展開こそが、あの時代のジャンプの特徴であった。だからこそだろう、本来コメディ漫画であったはずのキン肉マンが格闘対決漫画へと変貌を遂げたのは。

ただ、この漫画にあまりに拘り過ぎたのか、作者のゆでたまごは一時期スランプに陥っていたらしい。しかし、同じ集英社の週刊プレイボーイ誌にキン肉マンの息子を主人公に据えた漫画を描きだして、再びブレイクする。

ジャンプと異なり、青年層から大人を読者層とするプレイボーイ誌に掲載されていたにも関わらず、お色気シーンは皆無の友情、努力、勝利の方程式に忠実なジャンプ路線の漫画であったが、やはり結構な人気を得た。

なぜなら、昔子供の頃にキン肉マンを読んでいた読者が大人になって手に取ったプレイボーイ誌に、昔懐かしいキン肉マンの息子が活躍しているのだから読まずにはいられない。

プレイボーイ誌の編集部の狙いは見事に当たり、二代目キン肉マンは見事なヒット作となった。

ただ、作者のゆでたまごの絵の力量は、デビュー当初とほとんど変わらず、またストーリーのワンパターン的進行も変わりはない。ちょっと呆れてしまうが、変わらないからこそ変わらぬ人気を得たのだとも思う。

その意味で稀有な作品だと思いますね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日頃気が付かないありがたみ

2013-11-26 12:06:00 | 社会・政治・一般

政府が必要な存在であることを自覚することは珍しい。

東日本大震災の際、世界はその災害の大きさに驚くと同時に、日本人の秩序ある態度に驚嘆と敬意を表したことは何度となく報道されている。災害の恐ろしさはともかく、災害時に見せた日本人の大人しさには、いささか気恥ずかしさと違和感を感じた。

災害時に冷静さを保つことは生き延びるために必要な行為だし、特段誇るようなことでもないと思っていた。むしろ政府の言いなりになる大人し過ぎる、自主性のない子羊に過ぎないのではないかと自虐的にさえ思っていた。

でも、それは外国から見ると、だいぶ違うらしい。

今月フィリピンを襲った台風による高波で、レイテ島を中心に壊滅的な被害が出たことは既にお聞きだと思う。私の許にも、被害への援助の連絡があった。ただ、妙だったのは、その後にフィリピン政府への援助や寄付はしないで欲しいとの連絡が来たことだ。

事情を訊いたら、現在レイテ島の災害救助はアメリカ軍のコントロール下にあり、フィリピン政府は事実上なにもしてないらしい。だからフィリピン政府に援助物資(シーツや衣料品)を送っても、途中で抜かれてしまい、レイテ島の被災者には届かないらしい。

御存じの方もいると思うが、フィリピンはカトリック教徒が大半を占める島国だが、レイテ島など北部の島はイスラム教徒が多く、必ずしもマニラ政府とは円滑な関係にない。マニラに復興のための本部を設立しても、レイテ島との円滑な連絡さえ上手くいってないのが実情らしい。

如何なる経緯かは知らないが、現在はアメリカ軍が事実上レイテ島の救援、救助、復興を仕切っているのが実情だという。武力を持つ軍隊でないと、とてもじゃないが当地の治安維持は出来ず、救助も復興も難しい。

しかし、当のフィリピン国軍はレイテ島では評判が良くない。これはイスラム武装勢力との紛争が少なくないため、致し方ない部分があるが、このような緊急時でさえ地元民と軍との関係は良好ではないという。

だから、かつて駐屯していたアメリカ軍が主体となって救援を仕切っているらしい。さりとて、自国の災害の救助と復興をアメリカ軍が主体となっている事実は、当のフィリピン国民にとっては複雑な気持ちであるのも確か。

私にこの情報をくれた方は、某NGOの主宰者の一人だが、配偶者がフィリピーナなのでこのような新聞TVには出ない微妙な情報を得られるのだろう。このNGOが集めた衣類やシーツは、このNGOを通じて直接レイテ島に米軍機で送ってもらう手はずになっているそうだ。

先日、私も車に衣類等を詰め込んで渡しにいったが、福生の米軍基地近くの広場は在日のフィリピン人で一杯であった。まァ、実に喧しく、泣いている人、怒っている人、宥める人と大混乱。

その際、知り合いの社長さんがいらしたので、雑談に応じた。その際感じたのは、自国の政府を信頼できない彼らの複雑な心境であった。

たとえ異国の地にあろうと彼らの郷土愛は強く、自国に誇りを持っている。それでいながらその政府を信用できないがゆえに、外国の軍隊に郷里の救助をお願いする複雑な気持ち。それがあの喧騒につながっているのだろう。

振り返ってみると、東日本大震災の際にも復興救助のための義捐金の配分や、公共事業支出の不鮮明さが問題になった。だが、概ね大半の義捐金は被災者に渡り、わずかではあっても被災者の一助になったと思う。

また復興援助を名目にしただけの妙な公共事業への転用もあったが、それを公に問題にするだけの良心は官民ともに持ち合わせている。決して十分だとは思わないが、一応は日本政府を信用している。

どうも、これは世界的にみれば幸せなことなのだろう。

現在、日本に滞在し生活している外国人は100万をはるかに超える。彼らの世界は口コミがなによりも優先される。もちろんインターネットやTVなども使うが、交際電話やEメールなどを駆使した自らの情報網を最も信頼している。

逆に政府の公式発表に対する信頼度は極めて低い。これはシナが特に顕著であるようだ。現在、シナの人たちが日本で不動産を買い漁っているが、これは本国だと何時政府に財産を没収されるか分からない不安が背景にあるらしい。

もちろんシナの人たちの愛国心は強い。きわめて誇り高い人々でもある。しかし、私の見るところシナ政府に対する信頼度はきわめて低い。むしろ嫌っている感さえある。それでいて、外に対して、とりわけ日本人に対して誇らしげにシナの強勢ぶりをアピールしたがるが、個人的な関係になるとむしろ日本への親密度を強くアピールしてくる不思議な人々でもある。

日本人は、日本政府が日本国民のために奉仕してくれることを当然のことだと信じきっている。その甘えを裏切られると感じると、反日自虐の姿勢に転じることがあるが、それでも心の奥底では日本を信じている。だから外国に移民しようなどとは考えもしない。

でも、世界の少なからぬ人たちは、必ずしも自国の政府を信用せず、生活のために異国に移ることも辞さない。郷土愛、民族愛は決して失わないが、政府に対する信頼は乏しい。

日本人はもう少し自国の政府を誇ってもいいと思う。まァ、個人的には小さな不満は沢山ありますがね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイタニア 田中芳樹

2013-11-25 12:10:00 | 

買おうか、買うまいか未だに迷っている。

今月初めだったと思うが、新聞広告に田中芳樹の新作が出ていた。あの20年以上も放置された長編SFである「タイタニア」の第四巻である。

気に入った作品は何度も読み返す習慣がある私だが、最後に「タイタニア」を読んだのは10年以上前だと思う。にもかかわらず、未だにストーリーを覚えている。イドリスとアリアバートの罵声の浴びせ合いや、リディア姫のしゃまっくれた科白や、ヒューリックの飄々とした軽口に潜む固い決意も覚えている。

こんな作品、そうそうあるものではない。極めて嗜好性の偏った私の記憶力ではあるが、これだけ印象的な登場人物たちと、その科白の洒脱さ、予想を嬉しくも裏切ってくれる変幻自在のストーリゆえに、未だに記憶は劣化せずに脳裏に留まっている。

早く続編が読みたくて仕方なかった。にもかかわらず、まったく音沙汰なし。創竜伝の後書きに作者がリディア姫の口を借りて「もう少し待つのじゃぞ」と書いてから、やはり10年は経っている。

いい加減、怒るぞ。

だから読みたくて仕方ないのだが、未だに書店で手にとることさえ躊躇っている。これだけ長い事放置されたファンの怒りは、そう簡単には収まらない。どうしてくれようか。

未だに怒りが溶けないので、私は依怙地になっている。いっそ古本屋の店頭に並ぶまで待とうか。

幸か不幸か、家には未読の本が再び山脈をなしている。ファンを裏切り続けた怠惰な作家を優先すべき理由はない。そんな訳で発売以来数週間、私は未だに買っていない。

でも本屋を巡回するたび、その視線が無意識に泳ぐのは避けられない。もちろん視線の先には「タイタニア」が棚積みされている。もうだいぶ残り少ない。やはり売れているのだろう。

嗚呼、じれったい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする