ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

カラハリ砂漠 木村重信

2010-07-30 13:40:00 | 
未開人という呼称が、どうも好きになれない。

どうも上から目線の印象が拭いきれない。そんなに文明人が偉いのか?

たしかに清潔な都市からアフリカのカラハリ砂漠にやってきて、そこで暮らすブッシュマンたちを見れば、自然と蔑視の感情が生まれるのは分らないでもない。

風呂に入ることも、シャワーに入ることもない。不潔な身体と着の身着のままのようなボロ布を身にまとう彼らの身体からは、表現に尽くしがたい悪臭が漂うという。

数は3っまでしか数えることが出来ず、それ以上は沢山と表現して終わってしまう。一箇所に定住することなく、草を編んだだけの粗末な小屋を即席で作り、家族単位で砂漠をうろつく野蛮人。それがブッシュマンだという。

そのブッシュマンが砂漠の山岳地帯の岩壁に描いたのではと疑われている壁画の真実を求めて、カラハリ砂漠を彷徨った記録が表題の書だ。

なぜに疑われているといえば、そこには野蛮人であるブッシュマンに絵が描けるわけがないとの偏見が渦巻いているからだ。年代測定が極めて難しく、また複数の部族の生息域がまたがるがゆえに、作画者をブッシュマンだと断定することが出来ないと著者は嘆く。

その嘆きの背後には、欧米の未開人への蔑視があると著者は密かに匂わす。別にブッシュマンに対してだけではない。近代以降の欧米には、未開の地への根深い蔑視感情があることは事実だと思う。

だが改めて問いたい。あの過酷な地で生きていくのに文明人である必要があるのか。数を数えることが出来なくても、生活は出来る。粗末な道具だけで火を興し、僅かな水で生き延びる生活は、ほとんどの文明人には出来ない。

財産と呼べるものは、ほとんど持たず、しかも家族で共有するため私有の別さえ曖昧なブッシュマンは、驚くほど無駄をしない究極のエコな生活を営む。多くの資源を浪費して、優雅な生活を満喫する文明人こそ、むしろ野蛮ではないかと思わせる。自然と調和して生きていくブッシュマンの生き方を、資源を多量に浪費する文明人に批難する資格はあるまい。

人は誰でも自分が暮らす世界を基準に、他の世界を判じてしまう。それは仕方のないことではあるけれど、あまりに一方的で他者への理解が酷薄に過ぎることが少なくない。

ついでだから書いておくと、ブッシュマンは当初からカラハリ砂漠に住んでいたわけではない。欧米の侵略と、奴隷狩りにより崩壊したアフリカのサバンナを追われて、欧米の文明人が住み着かないカラハリ砂漠に逃げ込んだ人たちだ。

その彼らを上から目線で蔑むなんて、あんまりだと思う。
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角界いじめに思うこと

2010-07-29 13:37:00 | スポーツ
お客様は神様です。

そう言ったのは、歌手の三波春夫ではなかったか。また、ある会社経営者は語る。「お金を貸してくれる人には、後光が射して見える」と。

これが現実だと思う。お金を出してくれる人は、ただそれだけでありがたい。たとえその人がヤクザのような反社会的勢力の人であろうと、金は金であることに変わりない。

先月から相撲界が揺れている。ヤクザに升席を優遇したり、はたまたヤクザの関係者のビルを使っていると、善良なる方々からの批難が絶えない。野球賭博以来、角界いじめが流行なようだ。

まったくもって、マスコミ様は弱い者いじめが好きだ。もし本当にヤクザのような反社会的勢力とかかわりを持つことを批難したいなら、まず法曹界を攻撃してみろ。

元・最高裁判事、元・検察庁幹部が、ヤクザや右翼のような反社会的勢力の顧問弁護士として高給を食んでいるぞ。そのことを満足に批難できないくせに、弱り目に祟り目の相撲界をいたぶるあたりが厭らしい。

この夏の猛暑にはウンザリしているが、それ以上にマスコミの偏った正義感ぶりには反吐が出る。もし本気でヤクザのような反社会的勢力を排したいなら、まず自ら率先して範を示すべきだ。

ヤクザには新聞は売らない。ヤクザにはTVを観て欲しくないと言ってみろ。自分が出来もしないことを他人に求めるな。
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少数意見の傲慢さ

2010-07-28 12:22:00 | 社会・政治・一般
少数意見ならば、なにを言っても許されるのか?!

参議院選挙の最中であった。日頃あまりTVを観ない私だが、さすがに選挙のニュースは見るようにしていた。まあ、アイロンかけの最中に見ている(聞いている)ので適当だが、社民党の福島みずほ党首の発言には驚いた。

曰く「社民党はリストラによる解雇はしません、許しません~!」

おい、社民党が小泉・衆議院選挙で大幅に議席を減らした時、議員秘書などを大量解雇したこと忘れたのか?まぁ、当時の党首は土井さんだった気がするが、社民党によるリストラであることには間違いあるまい。

未来への公約を破るならともかく、過去の実績を忘れて平然と「リストラは許しません」などと口に出来る面の皮の厚さには呆れてものが言えない。

更に呆れたのは、翌日以降の新聞等の報道だった。どの紙面にも福島党首の大嘘を批難する記事は出てなかった。少なくても産経、日経、朝日には出てなかった。

ただし、さすがに週刊誌には少し出ていた。でも、たいして話題にもならなかった。当然、問題視されるはずもなく、平然と投票日を迎えてしまった。

それにしても、社民党は国会にわずかな議席を占めるだけの少数政党だ。だからといって、党首が公然とウソをつくのをマスコミは見落としていいのか?

本来、批難すべきマスコミが、少数政党のウソを見逃すからこそ、少数政党は出来もしない公約を平然と繰り返すのだろう。こうして役に立たない政治家が反省もせずに温存される。その温床はマスコミが育んだものだ。

マスコミは、今回の与党の敗北を菅総理の安直な消費税増税容認だと判じるが、本当にそうなのか?私の周囲では、むしろあれだけのばら撒きをやる以上、増税は必然だとの認識でいる連中のほうが多かった。

先進国でも飛びぬけた財政赤字を抱えており、この先少子高齢化のため経済規模が縮小することを思えば、消費税の増税は避けて通れぬはず。それが敗因なのか?

私には、むしろ出来もせぬ政策を声高に叫ぶ少数政党に、政治を壟断された醜態からの失望により、議席を大幅に減らしたように思えてならない。

日本のマスコミは、少数政党の主張に甘すぎると私は思うね。
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オシムの辛口コメント

2010-07-27 12:15:00 | スポーツ
もう既に余韻に浸る時期ではないと思うが、それでもワールドカップの想い出は切れることはない。

私は試合中継の大半を地上波ではなく、スカパーのCS放送で観ていた。お目当ては、オシム前日本代表監督のコメントであった。

元々オシム氏は、JEF千葉の監督であった当時から、試合後のコメントが有名であった。今日のオシム語録なんて感じでHPにもアップされる人気ぶりだった。辛辣で、それでいてユーモアが入り混じった知性を感じるコメントには、私も読み惚れたものだ。

ところが、今大会でのオシム氏の発言には厳しいものが多かった。曰く「勇気が足りない」「退屈だ」「これが世界トップレベルだとしたら寂しい」などの辛辣な発言には、TVの司会者やコメンテェイター達を困惑する他なかった。

スカパーをはじめマスメディアは、大会を盛り上げようとの意図を強くもっていたので、その空気を読まないオシム氏の発言には困っていたようだった。

正直、私も苦笑せざる得ない辛口のコメントの多さには閉口した。だが、今にして思うと、やはり退屈な凡戦が多かったのは否定しがたい。

日本代表だって、デンマーク戦を除けば守備偏重のつまらない試合がほとんどだった。緊迫感はあれども、サッカーという競技の持つ優美さや繊細さとは無縁の、無愛想で無骨で不器用な戦いぶりであった。

それでも勝利という結実をもたらしたからこそ、その不様な戦いは褒め称えられる。それはそれで評価してもいい。でも、やっぱり物足りない。

大会中、終始辛口のコメント続きであったオシム氏だが、決勝の後のコメントは意味深であった。オランダの戦い方に失望を隠せなかったオシム氏だが、それでも「オランダを責めないで欲しい」とコメントしたことが印象に深い。

オランダが、本来のサッカーをやっていたのなら、違った結果が出ていたかもしれない。私はオランダのサッカーを、世界指折りの優美で激しい進歩的なものだと認めている。今でも98年のフランス大会の準決勝の優美な試合は思い出せる。

DFのデブールからの70メートル近いロングパスを優美にトラップしたベルカンプが、相手ゴール前で待つクライファートへどんぴしゃのセンタリングを上げ、それをヘディングで叩き込む。延長試合でどの選手も疲れきっているはずの時間帯で、あれほど優美なプレーが出来るチームなんて滅多にない。

これはクライフ以来のオランダ・サッカーの伝統ともいっていい。88年の欧州選手権でのフリット、ライカールト、ファンバステンらの圧涛Iな攻撃力は他の追随を許さぬ先進的なものであった。この時の優勝戦は伝説とも言える圧倒的な勝利だった。

しかし、オランダはワールドカップでは賜杯に届かないチームでもあった。あの優美な攻撃サッカーでは、優勝には手が届かない。だからこそ、今回の決勝では中盤でスペインの攻撃を潰して、固い守備からのカウンターサッカーに舵を切ったのだろう。

皮肉なことに、相手のスペインはバルセロナの中心選手たちを中核に据えたチームであり、バルサに優美で攻撃的なパスサッカーを根付かせたのは、他ならぬオランダ人のクライフだった。

だからこそ試合後にクライフは、母国であるオランダ・チームを批難した。誇り高きクライフには、あの決勝でのオランダの戦いは許せないものであったのだろう。

一方、オシムのオランダの戦いぶりへの評価は、クライフとそう変るものではなかった。しかし、オシムはオランダが優勝を切望していたことをよく分っていた。だからこそ、試合後のコメントで言い添えた。

「オランダを批難しないで欲しい」と。誰だって優勝したい。その切なる想いのために、敢えて本来の攻撃サッカーを捨ててまでして闘ったオランダチームを責めることは、あまりに酷だと思ったのだろう。

過去のワールドカップにおいて、オランダはいつも美しき敗者であった。今回、敢えて美しさを捨ててまでして優勝を求めたオランダを責めるのは、辛口のオシムでさえ控えたのだと思う。
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ミリオンダラー・ベイビー F・X・トゥールー

2010-07-26 12:25:00 | 
不自由だからこそ、可能性が深まった。

なんでもできる、なにをしてもいい、自由にやっていい。魅力的な科白だが、実のところ自由に過ぎることは、むしろ不自由だと思う。

多くの人は、この自由を与えられると、最初は喜び好きなことをやる。しかし、時間の経過とともにやることがなくなり、ついには怠惰に時間を潰す。

皮肉なことに、制約があるほうが人は充実した時間を過ごす。

ボクシングが格闘技であることは間違いない。しかし、これほど制約がある格闘技も稀だ。建前はともかく、格闘技の目的が相手を倒すことにある。

倒すためなら、何をしてもいいはずだ。その点、ボクシングはおそろしく不自由だ。なにせ拳による攻撃しか認めていない。しかも、攻撃する部位は上半身の表側だけに限定される。

これほど不自由な格闘技があるだろうか。

しかし、理不尽な制約があるがゆえにボクシングは極度に高度な格闘技へと進化した。ただ殴るだけ、それだけなのに恐ろしく精密で複雑な攻撃体系、守備体系を整えた恐るべき格闘技となった。

私はボクシングを最強の格闘技だとは考えていない。だが、極めて有効な格闘技だとは思っている。トレーニングのシステムは合理的で科学的。単純が故に奥が深く、制約が多いがゆえに細心の精緻さが求められる。

なかでも体重制限こそが、ボクシングを精神的な崇高さの域まで高めている。カロリーや栄養のバランスを考慮した上で、体重を絞り込む過酷さは他の格闘技にはない。

ある種の求道的カタルシスさえ感じることがある。そのせいであろうか、ボクシングには不良を更生させる力がある。単に腕っ節が強いだけの乱暴者が、ボクシングにのめりこみ、人格までもが磨かれることは実際にある。

またボクシングは一人では強くなれない。トレーナーやカットマンといったリングサイドに陣取る仲間も必要だ。だからこそ、年をとってリングでは闘えなくなっても、ボクシングの世界に残るものは少なくない。良くも悪くもボクシングの魅力に憑かれてしまったのだろう。

表題の作品では、ボクサーよりもトレーナーやカットマンといった人たちを主人公に据えた珠玉の短編集だ。なかでも「ミリオンダラー・ベイビー」はクリント・イーストウッドが主演して映画にもなっている。幾つもの賞を取った名作であり、目にした方も多いと思う。

映画は観たが、この短編集は読んでいないようでしたら、是非ともお薦めします。それだけの価値はあると思いますよ。
コメント (9)
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