ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ダメなものはダメ

2014-09-30 12:04:00 | 社会・政治・一般

週末に飛び込んできた意外な訃報、それが社会党のマドンナ党首こと、土井たか子の逝去であった。

既に引退した政治家であり、特段懐かしむ相手でもなく、また敬意を払うべき偉人でもない。

だが、女性政治家としては戦後史に名を遺した女傑であることを認めるのには、やぶさかではない。もっとも意地の悪い私は、女性政治家の悪しき典型だとも思っていた。

せっかく連立とはいえ与党になれたので、やるっきゃない!と勇ましく出陣したものの、議長に祭り上げられて、それで満足してしまった程度の政治家である。


極めつけは、ダメなものはダメ!と消費税廃案に気勢を上げたものの、結果としては社会党を潰してしまったのだから、笑うしかない。まァ、社会党は確かにダメな政党ではあったけど。

結果、社民党というダメ政治家のゴミ捨て場を作り、反日自虐の政治家を集結させるのに成功した点だけは評価してやってもいい。

想像だが、個人としては善人であり、真摯に戦後の日本の平和と、貧しき人たちの生活を考える良心はもっていたと思う。ただ、観念に縛られ過ぎて、現実を動かすことが致命的に出来ない政治家に育ってしまった。

脳裏に描く理想に縛られて、現実の人間のすることを直視しない、あるいは見て見ぬふりをしてしまう政治家でもあった。それを優しさだと美化する向きもあるだろうが、私からみれば卑怯に他ならない。

何故にベルリンの壁が壊れて、露呈した社会主義の現実から目を逸らしたのか。クウェートにイラクが侵略したときに、平和を掲げて勇ましくイラクに行っても、まるで相手にされなかったとき、武力なき政治力の無力さを正面から受け止める勇気がなかったのは何故か。

自らの失敗を直視せず、その原因から目を逸らし続けた結果、口先だけのダメ政治家になってしまった。社会党や土井氏の政治的主張が何故に多数派になれないのか。その反省をしてこなかったが故に、遂には落選により引退を余儀なくされたのは自業自得としか言いようがない。

真面目な話、消費税廃案に失敗したことは土井氏個人の責任ではない。しかし、社会党が掲げ、実現しようとした政策が有権者の多数から評価されなかった冷酷な現実から目を逸らしたのは、間違いなく土井たか子個人の責任である。まァ、取り巻き連中も性質が悪かったとはいえ、そんな奴らで周囲を固めれば、市井の声は耳に入らないのは当然だろう。

死者に鞭打つのは好ましいことではないが、私はこの人を美化するかのような訃報報道には断固納得しえない。非常識と謗られるかもしれないが、私は黙っている気になれない。

でも、忘れてはいけない。このようなダメな政治家がいたことは政治史に銘記されるべきだと思っています。

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ダッシュ勝平 六田登

2014-09-29 11:58:00 | 

漫画の世界において、絶対的な人気を誇るのがスポーツものである。

野球、サッカー、ボクシング、テニスといったスポーツ漫画が掲載されていない漫画雑誌は稀である。かくも人気が高いスポーツ漫画であるが、スポーツによっては人気のない不遇なものもある。その代表がバスケットボールであった。

先だって週刊少年ジャンプで連載終了し、アニメ化もされた超人気漫画「黒子のバスケ」の人気を思えば、バスケ漫画が人気がなかったなんて信じられないかもしれないが、これは歴史的な事実である。

バスケ漫画は人気が出ない。このジンクスを打ち破ったのは、やはり週刊少年ジャンプで絶大な人気を誇った「SLUM DUNK」であった。私はこの漫画を、日本の漫画史に残る金字塔だと認識している。

だからこそ、「SLUM DUNK」以前、バスケットボールを描いた漫画が、まるで人気がなかったことが信じられない。実は惜しかった漫画もあった。それが今回取り上げた「ダッシュ勝平」であった。

週刊少年サンデーに掲載されていたのは、私が十代前半の頃だが、前半がコメディ漫画であるかのような設定が多く、それゆえに後半にバスケに真剣に取り組んでいたにも関わらず、スポーツ漫画としては正当に評価されなかった。

なにせ、白いパンティが大好きなスケベ少年が主人公で、その白いパンティを履いたバスケ部の女性コーチに惹かれて入部したという救いようのない設定で始まった漫画なので、コメディ漫画として定着したのも無理はない。

実際、私なんかはこの漫画をコメディ漫画として捉えていて、後半真面目にバスケの試合をしていることに不満を感じたくらいだった。致命的に身長が足りない勝平が、様々なアイディアをひねり出して、なんとか勝とうとする場面は笑えるものが多い。

しかし、今読み直してみると、主人公が勝とうとする気持ちに偽りがないことが分かる。ただ、ところどころにギャグネタが入るので、どうしても真面目なスポーツ漫画にはなりきれない。

おそらく、それはサンデーの編集部の意向を酌んだものだろうと思う。作者の六田登はコメディ漫画を描いていたが、おそらく作者の本質はシリアス路線ではないだろうか。それは、その後の作品に顕著に顕れている。

ただ週刊少年サンデーでは、コメディ路線で取り上げられており、その路線から大きく踏み外すことが出来なかったのだろう。実際問題、この漫画はコメディ漫画として人気があり、アニメ化まで果たしている。

それだけの人気がありながらバスケットボールというスポーツ漫画とはなり得なかったのは、コメディ路線が強すぎたからだろう。だが、この漫画以前にバスケットを取り上げた人気漫画がなかったことを思えば、先駆者として、また露払い役としての役割は果たしたのだろう。

正当なバスケ漫画が既に定着した以上、忘れ去られるのも無理はない。でも、こんな漫画もあったことを思い出していただければ幸いです。

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国家の度量

2014-09-26 14:52:00 | 社会・政治・一般

統治者は懐が深くなければならない。

人類の歴史においては、様々な国が興り、栄え、やがて滅んでいく。長く栄えた国もあれば、短期間で滅んだ国もある。栄えたのには理由があるし、滅んだのも理由がある。

栄えた国をよく観察してみると、その懐の深さに感心する。よく出来た統治機構なのだが、必ずどこかに綻びがある。抜け道であり、欠陥でもある。

その国の政治家たちは、その綻びを知らないのではない。時には法制度を改善して埋めようとしている。官僚の統治方式を変更して、綻びを法制度のなかに組み込もうともしている。

しかし、決して完璧にはやらない。四角い枠を丸く拾い上げるように、必ず拾い残しが出るようになっている。

それは400年余りの太平の世を築いた徳川幕府にもあった。江戸時代といえば、厳格な身分制度、世界に類を見ない戸籍制度などでガチガチに固めた封建時代とのイメージを持つ人は少なくないと思う。でも、それは表向きのこと。

厳格な身分制度にしたところで、養子縁組などを利用した事実上の抜け道があった。関所を設けて勝手に人々が動けないように制限する一方で、例外的にお伊勢参りのような抜け道を平然とつくる。

同時代のヨーロッパも封建時代ではあるが、日本のような身分移動や、庶民が数百キロを旅行するなんてありえなかった。これは島国で治安が安定していたという事情もあるが、徳川幕府の治世技術の根幹において、人を完全に縛ることを意図的に避けていたとしか言いようがない。

車の運転でいえば、ハンドルの遊びのようなものだろう。この遊び部分があるからこそ、神経質にならずに済む。嘘だと思うのなら、遊びの部分がまったくないレース用の車を運転してみると分かる。私はカートぐらいしか経験がないが、ほんの数ミリハンドルを動かしただけで、カートは敏感に反応する。これはレースではいいのだろうが、普通に運転するには過敏しぎて疲れてしまう。

人間ってやつは好き勝手に生きたがる。縛れば縛るほど、抜け出そうとするのが人間だ。そんな人間の本質を分かっている統治者は、厳格に政治を施行する一方で、どこかに遊びの部分を残しておく。

もう少し具体例を挙げておこう。ヨーロッパの諸都市には、城壁に囲まれたものが多い。現在は邪魔でしかない城壁が壊され、そこが広く快適な道路となっている。実は城壁があった頃、その城壁には別の役割があった。

城壁の内部は、王城があり、行政機関が立ち並び、飲食店や小売店が立ち並び、防衛のために曲がりくねった道の両脇が居住区となっている。ここは法が厳密に施行され、役人が徘徊して庶民を看視している。

ところが城壁を出ると、賭場や売春宿が並び、貧民街が広がっている。そのため城壁との境の門は、番兵が立ち、出入りを厳しく監視している。しかし、その貧民街や売春宿を取り壊すようなことはしない。せいぜい、小役人が賄賂目当てにえばり散らす程度だ。

城壁の中も、外も同じ国であり、同じ法が施行されているが、両者はまるで別世界のように同時並行で存在していた。これを矛盾とか、政治の手抜きと思ってはいけない。この外の歓楽街があるからこそ、城壁の中は栄えた。実際、城壁の内部の住人こそが、この歓楽街の最大の顧客なのだから。

これは現代でも通用している。その典型例がブラジルの首都ブラジリアだ。この超近代的な造形物が並ぶ未来都市は、ジャングルにナパーム弾を投下して焼き払った跡地に建設された。SF映画のような先進的な建築物が立ち並ぶブラジリアは、その立派な見かけとは裏腹に、当初20年ぐらいは過疎の首都であった。

どんなに立派な街を作っても、息抜きの場所がなく、それゆえにブラジリアに住みたがる人はいなかった。官僚たちでさえ、週末にはブラジリアを離れて郷里の町に戻っていった。生活に必要なものは一切揃っていたが、必要ではない安っぽい飲み屋や賭場、女性をはべらせたクラブ、そして売春宿がないことが、ブラジリアを過疎の首都としてしまった。

ちなみに現在のブラジリアは、人口も急増し大都市の片鱗をみせている。当然であろう。近代的な都市の周辺、ジャングルとの境目あたりに行けば、バラック建ての飲み屋、クラブ、そして売春宿が立ち並び、週末の夜ともなればドンちゃん騒ぎ。これこそが、人間の自然な在り様なのだろう。

このことが分からない人は少なくない。そんな人が立案したと思われるのが、二年後に施行されるマイナンバー制度である。要するに納税者番号であり、社会保障番号でもある。

ご存じない方も多いと思うが、実はこのマイナンバー制度は既に国会を通過している。現在は政省令の整備の段階に入っており、平成28年からの実施に向けて現実的な準備が始まっている。

一言で云えば、国民総背番号制度である。この統一された数字に基づき社会保障、納税徴収、福祉医療、災害対策などに使われる予定である。

もう想像はつくと思うが、これは大変なことである。国民すべての情報が、国家により一元管理されるのである。霞が関の官僚たちは、財産、家族、仕事といったすべての情報を入手して、より効率的な国家運営を考えているようである。

私も現在、いろいろと勉強中であるが、かなり危惧している。あまりに厳格な管理は、むしろ弊害が大きい。お勉強エリートの霞が関の高級官僚たちは、果たしてそのことが分かっているのだろうか。

人間が、すべての人間を管理するなんて不可能である。無理をすれば、どこかに無理が来て破綻する。神ならざる人間の限界を心得ておいて欲しいものだと、私は心配しているのです。

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ドブ板を渡れ

2014-09-25 14:43:00 | 社会・政治・一般

最近の政局をみていると、野党再編の動きが目立つ。

だが、所詮は話題作りに過ぎない。維新の党を始めとして、新しい野党が湧きあがったのは、あの民主党政権という憲政史に残るダメ政権があったからこそだ。

つまりアンチ民主という土壌があったからこそ咲いたアダ花に過ぎない。自民党公明党連立政権が生まれれば、当然にその存在意義をなくす。だから、彼ら野党が如何に再編されようと、政治を動かす風とはなり得ない。

しかし、だからといって自公政権が安泰な訳でもない。如何にアベノミクスの成果を高々と語ろうと、その効果は株価と不動産売買において目立つだけで、国民全体からみると、さして好況感がないのが実態だろう。

もちろん、それであったとしても民主党政権時代とは雲泥の違いである。それは私も認める。しかし、実質賃金の手取り額はさして増えていない。大企業と公務員においては、多少の増額があるのは事実だが、過半を占める中小の民間企業や個人事業者の懐は寒いままである。

なにせ消費税は上がるは、社会保険は上がるはで、多少の賃金増なんざ、あっという間に消えてしまう。おまけに来年には消費税10%が待っている。当然のように消費を手控え、貯蓄に回す。いや、貯蓄は切り崩す一方で、そのペースが多少落ちた程度の景気回復が実態である。

既に財務省は、素直に言うことを聞く谷垣を自民党の要のポジションに配置することで、消費税の増税を断固として進めるつもりである。霞が関の御用聞きと化した大手マスコミ様は、財務省から渡された資料を国民に分かりやすく説明するぐらいしか能がない。

誤解しないで欲しいが、私は消費税増税には賛成である。従来の儲けに対する課税方法(法人税、所得税)では捕捉でききれぬ経済活動が増えている以上、流通段階での大型間接税は必然の流れだと理解している。

私が納得いかないのは、消費税増税の一方で、法人税減税がされていることである。減税するなら、所得税、住民税だと思う。消費税増税は確実に消費者の財布を直撃する以上、その対応として消費者の所得への課税を減じるべきだ。

ところが政府は、法人税の減税で誤魔化している。それどころか、東北大震災復興のための復興特別税を法人のみ廃止して、個人への復興特別税は残り23年続けるつもりである。

このおかしな状況に対して、日ごろ反日自虐報道を繰り返す大手マスコミ様は沈黙を守っている。弱きものの味方であることを矜持としているはずの大手マスコミ様は、大企業減税、庶民増税には知らん顔である。

政権与党である自民党は、この歪んだ状況を理解しているのだろうか。地方再生はけっこうだが、まず自分の足元をその目で見て、その耳で聞いてまわるべきではないか。

私はこの状況が続けば、政治に期待しなくなった有権者が自暴自棄的な投票行動を起こすのではないかと危惧している。出来もしない、やり方も分からないが、有権者に耳触りがいい玉虫色の政策だけを口に出す泡沫政治家を当選させてしまうのではないか。その結果、再び民主党政権並みの愚かな政治が行われるのではないか。

これは私の選挙区において既に起こっている。幸い区長選挙だったが、造反有理(反対することに意義がある)しか能がない保坂という左寄りの泡沫政治家が、まさかまさかの当選であった。

世田谷区には原発はなく、反原発の政策なんざ採れる訳がなく、本来区政でやるべき政策が滞っているのが現状である。あまりに馬鹿らしく、私としては脱力するしかない。

これは本命である自民党が、区と都で対立したためにできた空隙を縫って、反原発、それだけを口にした保坂に投票した間抜けな有権者が多数いたことから起きた珍事であった。本来なら保守的な地盤であり、自民党で鉄板のはずが、中央と地方の対立という有権者無視の政争にとりつかれた自民党候補に嫌気がさしたからこそ起きた現象でもある。

はっきり言うが、アベノミクスは一部の資産家(株持ちか、土地持ち)にしか効き目がない。一般庶民には無関係の経済政策である。一部で加熱しているだけの好況なんざ、みせかけに過ぎない。

今こそ政治家は、かつて行われたようにどぶ板を自らの足で渡って、有権者の本音に耳を傾けるべきだ。役所がつくったお仕着せの統計数値は捨て、役所の広報誌と化した新聞は読まず、ろくに取材もしないTVは置き捨てて、直に市井の声を拾うことをするべきだと思う。

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仏陀の鏡への道 ドン・ウィンズロウ

2014-09-24 12:54:00 | 

滅多にないことだが、私はたまにタイトル買いをしてしまうことがある。

著者も知らないし、書評も知らない。売れていたかどうかさえ知らない。しかし、そのタイトルの奇抜さに惹かれて、古本屋の書棚から思わず手に取ってしまい、勢いで買ってしまう。

間抜けな買い方だと思うが、実はけっこう当りを引くことが多い。ただし、気の抜けた、ありふれたタイトルながら中身は逸品もあるので、タイトル買いはあまりしないように努めている。

ところで表題の書だが、これもタイトル買いの典型であった。タイトルがあまりに奇抜で、それだけで読む気になった。ただ、続編であることもすぐに分かったので、未読の本の山脈に埋めておいた。まずは、一作目を読んでから・・・そう考えたからだ。

早く読みたい気持ちはあったが、まずは一作目と決めたのが不味かった。見つからないのだ。古本屋を何件も回ったが、なぜか見つからない。しかも悩ましいことに、その間に著者ドン・ウィンズロウの評価は高まるばかりであり、次々と他の作品が発表される始末である。

おかげで、三作目、四作目も入手してしまった。しかし肝心要の一作目が見つからない。こうなると意地っ張りの私は、むきになって古本屋巡りに精を出す。ネットで検索すれば、新作も中古も入手可能なのは分かっていたが、意地でも古本屋で見つけたい。

私の執念は二年越しで実を結び、この夏にようやく入手した。この満足感はなにものにも代えがたい。で、間抜けな私は、読むのを先日まで忘れていた。たまたま部屋の聡怩オていたら、未読山脈の陰に放置してあったのを発見した次第である。

で、ようやく読みだしたわけだが、前作「ストリート・キッズ」を上回る激しい展開と、奇抜なストーリーに満腹である。なかなか古本屋に出回らないのも納得の秀作。

唯一の難点は、続いて読みたいと思っている三作目が、またしても未読山脈のどこかで遭難していることだ。どこに行ったのだ?どうも、私は探偵には成れそうもないのは、確かなようですがね。

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