ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

また一軒、馴染みの店が・・・

2016-04-28 12:00:00 | 健康・病気・薬・食事

また一軒、馴染みの店を失いそうだ。

仕事帰りの途上で、一人の女性に声をかけられた。すぐには分からなかったが「大黒の家内です」と云われて、すぐに行き着けの「とんかつ屋さん、大黒」のお上さんだと気が付いた。

先週、ご主人が脳梗塞で緊急入院したので、当分お店は開けられないとのこと。ビックリして、常識的なお見舞いの言葉だけ交わして、その場を離れた。

この店は、私がかれこれ30年は通っている、とんかつ屋さんである。小さな店ではあるが、私を十分に満足させるトンカツであり、月に一度は足を運んでいた。

トンカツ料理は、けっこうお店により違いが出る。私が一番美味いと認めているのは、上野の蓬莱屋であるが、ここのトンカツは2000円を超える。一方、大黒さんは、1000円前後で、肉の厚みもあり、カラッとあげてくれるので、私は十分満足していた。

昔、まだご主人が若い頃は、よく鳥撃ちの猟に出かけていたようで、季節になると美味しいカモ鍋などが振る舞われることもあった。また、焼酎に拘りがあり、日本各地の銘酒を揃えて、一杯500円前後で出してくれた。

どこにでもありそうで、簡単には見つからない地元の心安く立ち寄れる店であった。ご主人は、まだ老け込むほどではないと思っていたので、特に心配していなかったが、今月初頭に食べたロースかつ定食が最後の味になってしまったかもしれない。

詳しい病状は訊かなかったが、なにせ脳梗塞である。完治するほうが珍しいし、手足に後遺症が残ることも珍しくない。なんとか無事でいて欲しいが、お店の再開は難しいかもしれないと予測している。

実を云えば、この店以外では、地元では馴染みの店といえるところが他にない。あまり外食をしないせいでもあるが、かつて食べに行っていた店も、大半が閉店しており、4割がたは駅前がシャッター通りと化しているからでもある。

出来る事なら、元気で再開して欲しいものである。

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報道の自由度

2016-04-27 11:49:00 | 社会・政治・一般

完全なる報道の自由なんて、ありえない。

私は日頃から、そう思っているので、国連の特別報告とやらが日本の報道の自由度が大幅にランクダウンしたところで、特に気にはしない。

だいたい、国連自体、決して褒められた存在ではない。元々は、第二次世界大戦の戦勝国の既得権保護団体に過ぎない。戦勝国が勝ち得た権利を守るための存在であるために、国際的な主導権をもっているかのように錯覚している人もいるが、それは完全に認識違い。

米ソの冷戦に対して、まったく機能不全に陥った過去の実績をみれば、それは明白過ぎる現実である。ただ、ややこしいのは、米ソ主導の国際政治に納得できないフランスが、国連の場を利用して自国の権威を高めるよう、米ソの間隙を縫って、ユニセフやらUNTACやらを押し込んだ。

その結果、国連を将来の人類の世界政府の前身と錯覚する輩がいることが、事態を面倒にしている。今回の国連の特別委員会とかいう胡散臭い組織から派遣された人物も、日本に来て調査した際に面談したのは、反日自虐の報道関係者ばかり。

これでは、まともな評価になるわけない。

ただ、外国の報道関係者からすると、日本における活動に不満を感じているのは確かだと思う。

日本の大手新聞社、TV局は一切報道していないが、外国の報道関係者にとって、取材における最大の障壁は「記者クラブ」の存在である。この記者クラブに入っていないと、官公庁の取材はかなり制限される。

大手のマスコミ様は、この閉鎖的な記者クラブを活用することで情報を寡占化することが出来る。また、官公庁にとっても、都合の悪い報道関係者を排除するのに好ましい仕組みであるのが、記者クラブである。

この記者クラブの存在を、多くの外国人報道関係者は取材の障壁だと見做している。しかし、日本のマスコミ様は、見事に彼らの不満を報道しない自由を行使されたわけである。

日本において、報道の自由度が低いとされるのも、ある意味当然ではないかと思いますね。

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ズートピア

2016-04-26 12:18:00 | 映画

素直に楽しんでは、いけない作品だと思った。

肉食動物も草食動物も、みんな仲良く暮らす理想の世界ズートピア。そこでウサギ初の警察官となったヒロインと、詐欺師の狐のコンビがズートピアをパニックに追い込んだ事件を追いかける。

もちろん、結果はハッピーエンド。夢は必ず叶うと誇らしげに歌い上げられる。

そんな作品なら、取り上げる気はない。それほど単純ではないからこそ、この作品は面白い。映画を観ているうちに、自然と気が付くのは、人種差別や偏見が、この作品の根底にあることだ。

公にはいけないことだとされる差別や偏見が溢れている現実に、傷つき、夢を諦める人は実在する。か弱いウサギの警察官なんてありえないと、端から決めつける警察署長。狐は狡賢いと決めつけて、チャンスすら与えようとしない善良な市民たち。

その冷たい、残酷な仕打ちは心を傷つけ、心を歪めてしまう。比較的人種差別に遭遇することが少ない日本にだって、似たような偏見、差別は必ずある。

この映画は、子供が観ても楽しめるように作られた娯楽作品である、が、従来のディズニー映画とは一線を画すのは、単なるハッピーエンドではなく、考えさせられるところだろう。

親子で観て、いろいろと話し合って欲しい映画。なかなか良かったと思います。

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プリンスの死去

2016-04-25 12:53:00 | 音楽

どこがイイのか、さっぱり分からなかった。

それが、先週亡くなったアメリカの歌手プリンスに対する最初の印象であった。私が十代後半の頃にアメリカの音楽界に彗星のごとく現れて、たちまちスターの座に上り詰めた。

当時はマイケル・ジャクソンをも超えるニューヒーロー扱いする音楽メディアもあり、曲そのものよりも、ファッションや先鋭的な発言の話題の方が多かった。ところが私には、この人のどこがいいのか分からなかった。

大ヒットとなった「パープル・レイン」もさして感銘を受けず、ロックでもポップスでもレゲエでもない曲風に戸惑うばかり。話題先行のスター作りの一環かと冷淡に思っていた。

その印象が一転したのが、映画「バットマン」の音楽であった。最初、プリンスが映画音楽を担当すると聞いた時は、それだけで失望したくらいだ。私のなかでは、そのくらい評価が低かったからだ。

ところが、いざ映画を観てみると、その才能に驚かされた。今でこそ、昔の子供向けヒーローのリバイバル作品は珍しくないが、当時はあの古臭いバットマンの映画化であり、しかも実写版であるだけに、最初っから期待はしていなかった。

実際、映画をみてもバットマンの持つある種のノスタルジーに変わりはなかった。でも、この映画の最大の魅力は敵役であるジョーカーであった。ジャック・ニコルソン演じるジョーカーの狂気ぶりは、古臭いバットマンに新風を吹き込んだ。


そして、このジョーカーの登場場面で流れるプリンスの音楽は、まさに新しいバットマン映画に相応しいノリであった。これには驚いたし、プリンスを見直した。と、同時に自分の音楽センスというか、時代の潮流を読めぬ流行音痴さを恥じた。

歌手プリンスは、私の古臭い感性を超越した音楽家であった。その巨星プリンスが先週、突然に亡くなったとの報が出た。まだ50代である。早過ぎる死であったと思う。


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海上自衛隊の海外訪問

2016-04-22 12:51:00 | 社会・政治・一般

坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。

それが、日本のマスコミ様であり、反日自虐の政治家や政治評論家なのだろう。現在、海上自衛隊という名の日本海軍の軍艦が、フィリピン、タイ、ヴェトナムなどを訪問し、現在はオーストラリアに寄港中だという。

この日本海軍の軍艦の動きは、当然ながら共産シナの南シナ海侵略に対する動きである。もっとも興味深いことに、大半の国では親善を強調したものとなっている。これは外交的配慮なのだろう。

ただ、現在アメリカは、対シナ政策は融和的なものなので、それだけにシナに対する牽制として日本海軍の軍艦の寄港を歓迎する国々が多い。日本海軍の東南アジア歴訪は、確実にシナの侵略政策に対する牽制となっている。だからこそ、かつて日本の侵略を受けた国々でさえ、歓迎している。反対の論調はいつもの反日3か国だけだ。

奇妙なのは、日本のマスコミ様の報道の仕方だ。どの国でも、日本海軍の軍艦帰港を好意的に受け入れていることは事実である。ゆえに、東南アジア各国が、日本の軍事的拡張だと警戒しているといった偏向あるいは偽装報道はできずにいる。だから、淡々と事実を伝えるだけ・・・で済ませない。

その代りに、識者とかのコメント「軍靴の音が高まっている」とか「若者を戦場に送るかもしれない親の悲痛な叫びが聞こえてくる」を載せて、将来を危惧する賢者の振る舞いを演じている。

断わっておくが、私は戦争賛美者ではない。平和な日本で、気楽に人生を楽しめれば、それが一番だと思っている。いくら嫌いな国があろうと、日本の若者たちが戦場で散っていくのを望んでいる訳ではない。

だが、その一方で、平和を讃美しているだけで平和は守れない現実を認識している。一見、矛盾しているようだが、平和を守るためには、戦争をする力が必要となる。それが軍隊であり、武器であり、諜報機関である。

ところが、日本では、戦争をなくすこと=平和であり、武器をなくすこと=平和であり、スパイ=戦争である。全ての日本国民がそうだとは云わないが、大雑把に観て3割くらいは、そう思っている、信じたがっている。

まったく逆であることは、歴史が証明する事実なのだが、この似非平和主義者たちは、事実を直視するより、脳内お花畑で平和の舞に酔い痴れている。夢を見て、呆けているだけらいい。

でも、夢から覚めれば、そこには認めがたい現実がある。だから、現実を憎む、とにかく反対する。反対することに意義を見出しているから、事実をみようとしない。

日本の海軍の各国歴訪を、軍事的野心の表われだと言うのなら、その東南アジア各国の海軍が、日本に返礼のために軍艦を寄越したのなら、それも軍事的野心の表われだと云わねばおかしい。

でも、今年の初頭にインド海軍が日本に寄港したさいは、そんな論調は皆無だった。インド海軍と日本海軍の連携こそ、シナが一番嫌がるものの代表なのだが、それを批難する論調は紙面で見かけることはなかった。

こんな矛盾だらけの報道をしているから、読者からの信用を失うのだと思いますがね。

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