ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

坊ちゃん 夏目漱石

2015-06-30 13:43:00 | 

ここまで違うと、別作品と考えたほうが良くないかと思う。

その典型が、文豪・夏目漱石の代表作の一つ「坊ちゃん」だ。

おそらくは、TVドラマや映画の影響かと思うが、快活な江戸っ子気質の若き青年教師が、四国の城下町に赴任して、恋に友情に大暴れで、さわやかに去っていく。そんなイメージをもって原作を読むと、あまりの違いに唖然とする。

自意識過剰で、若さ故の未熟な思慮のなさを自覚できずに、それを周囲のせいにして騒動を起こす愚かな青年。主人公である坊ちゃんは、そう評したほうが適切だと思う。

ドラマでは可憐なイメージのマドンナは、原作では碌に出てこないし、山嵐とは陰険な付き合いでしかなく、先輩でもある赤シャツには単に暴力をふるっただけ。さわやかでもなければ、快活でもない。

原作と、その映像化したドラマや映画とが、これほど違う作品になることも珍しいと思う。もし夏目漱石が見たら、ビックリすると思う。

だが、確かにこの暴走気味で、自己中心的で、騒動ばかり起こして周囲に迷惑かけまくる坊ちゃんこそ、青年期には誰にでもある愚かさであり、だからこそ身近な存在として親しみがわくのかもしれない。

若き日の夏目漱石がそうだったか、どうかは知らないが、思索の世界にこもりがちで、往々にせいて現実から逃避気味であった漱石は、決して快活でもなく、さわやかな青年でもなかった。

その思索は深く、濃く浸透し、欧米から押し寄せる文化に圧唐ウれつつも、日本独自の在り方を求めて、遂には遠く英国留学までしてしまった漱石。呆れたことに、ロンドンのアパートと、大英博物館にある図書館にこもりきりで、数百冊の書物をひたすら読みふけるだけの欧州留学。

同じ文豪でも森鴎外が、現地の娘と恋に落ちて、妊娠させ、遂には日本にまで引っ張り込む無軌道ぶりを発揮しているのに対し、ひたすら書物を読み漁り、思索の世界に引きこもる漱石。

異文化に対する接し方が、かくも違う二人だが、欧米文化に負けぬ日本の新しいあり方を模索した知の巨人であることに変わりはない。

TVドラマでは快活な青年教師であった坊ちゃんであるが、もし、その後の坊ちゃんを漱石が書いたとすれば、それは書庫にこもり、書物の山に埋もれ、現実社会から逃避する姿であったと思います。

もし原作を未読ならば、是非試してみてください。きっと驚くと思います。

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日本共産党 筆坂秀世 その三

2015-06-29 12:09:00 | 

まともな野党って、今じゃ共産党だけでしょう?

最近、そう思っている人が増えているようだ。もちろん原因は、民主党政権3年間の日本の低迷にある。民主党政権に期待をかけた人は多かった。慢性化した自民党政権の停滞ぶりを打破してくれると期待したのだろう。

だが、あまりに期待外れの3年間であった。その反動が、日本共産党への評価につながっている。

思わずため息が出てしまう。なにも分かっていない。民主党がダメだったのは、変化を期待する民意ではなく、長年満たされなかった万年野党の執念を実現しようとしたからに他ならない。民意を国政に反映する気なんぞなく、ただただ、善意溢れる現実離れした政策を実現しようとしてコケた。それが民主党政権であった。

断言するが、もし万が一、日本共産党が政権の座についたら、日本の低迷は民主党政権の比ではない。

民主主義社会でありながら、日本共産党は民意を政治に反映させる政党ではない。賢明なる日本共産党幹部の意向を実現するために、党員一丸となって政治活動をすることを求めてきた政党である。

日本共産党のいう民主集中制とは、民意を共産党幹部の意向に沿わせることに他ならない。ならば、その共産党幹部の意向は常に正しかったのか?

そこに最大の問題がある。

前回、前々回と執拗に書いてきたが、私が共産党の問題に気が付くのには、かなりの時間がかかっている。唯一、私がその政治理念に共鳴し、熱く情熱をたぎらせたのが共産主義であった。それだけに、裏切られた傷は深く、その原因を直視するのは辛かった。

60年代までの日本共産党は、まさに次の連立政権の一翼を担えるだけの実力をもった政党であった。しかし、70年代に入ると次第に低迷し、それは今日まで続く。その原因となったのは、共産党幹部たちの指示に間違いがあり、なおかつ、その間違いを決して認めなかったからだ。

60年安保闘争、つづく70年安保闘争の主役は、学生運動家であった。日本共産党が強い影響力をもったこれら学生運動家の集まりである全学連は、その若さ故に過激な行動に出ることがあった。中野明大がそのカリスマ的な指導力を発揮して、国会に強引に攻め込んだりして、そのやり過ぎに共産党は焦りを隠せなかった。

この頃から、日本共産党は内部では、それまで密かに進めていた武力革命路線には消極的になり、代わって大衆を前面に出した穏健な共産主義革命、すなわち選挙での議席数拡大を目指すようになった。しかし、これが首尾一貫しておらず、その結果、中野は全学連から身を引き、武力革命路線を捨てきれない学生運動家たちは、革マル派として共産党の指揮下を離れた。

熱い理想を信じて日本共産党についていったのが間違いと知った若き学生運動家たちの離反は、日本共産党に大きなダメージを与えたと私は思う。それは学生だけでなく、労働組合にも大きく影響した。

この頃から革マル派に牛耳られた国鉄の労働組合は、意図的なサボタージュやストの乱発により国民の支持を失していた。そのことが国鉄の分割民営化につながるのだが、日本共産党は無力であった。武力革命に期待を抱いていた組合活動家は、もはや共産党の手足とはなり得なかった。

失望した学生運動家と労働組合員は、本来日本共産党の活動を支える次世代の柱となるべき人材であった。しかし、共産党の指導力不足により、失望し、離反し、結果的に日本共産党は国会において大きく議席を減らすこととなる。

繰り返すが、この原因は完全に武力革命路線を捨てきれなかった宮本議長の判断ミスだ。しかし、党の無謬性を絶対とする日本共産党は、その誤りを認めることを避け、当然に反省もしなかった。

しかも、宮本議長を引退させたのち、こっそりと武力革命路線を命じたコミンテルン・テーゼを否定し、大衆革命路線に完全に舵を切り替えたのは1990年代である。決して自らのミスを認めないが故に、反省もしない。それが日本共産党。

最近、日本共産党こそが唯一憲法9条を守ってきたなどと、ぬけぬけ言って支持者を集めている。それが嘘であることは、1985年発表の日本共産党の政策指針を読めば分かる。

その当時、日本共産党は既に自衛隊を容認し、自衛軍として活用することを明言している。執筆者は他ならぬ不破委員長である。自衛隊は違憲!なんて主張も、その時々でコロコロ変わっている。

ただ、決して自らの政策転換をミスだとは認めない。知らん顔して善人ぶりをする。それが日本共産党。

表題の本の著者は、長年日本共産党の内部にいただけに、私ほどは辛辣になれないようだ。しかし、私よりも遥かに冷静に、日本共産党の実態を解説してくれている。

次の選挙では、日本共産党に投票してみよう、期待を賭けてみようなどとお考えの方は、是非とも読んで欲しい。読めば分かる。読めば、宣伝文句と、本当の実態が乖離していることに気が付けると思います。

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日本共産党 筆坂秀世 その二

2015-06-26 12:05:00 | 

転校が多く、両親の離婚などの影響もあり、私は情緒不安定な傾向が強かった。それを心配した母は、私を某キリスト教の集まりに連れて行ったのは、小学校5年生の時であったと思う。

大人への不信感が強かった私ではあるが、自分でも意外なことに、この教会の仲間との触れ合いは心地よいものであった。後々分かったのだが、その教会で子供たちを担当していたお兄さん、お姉さんたちは民青のメンバーであった。

民青とは、民主青年同盟の略称であり、日本共産党の下部組織でもある。もっとも私が民青という組織のことを知ったのは、中学2年以降であり、当初はまるで知らないし、かかわりもなかった。

私が親しんだキリスト教のメンバーに誘われて、毛語録の読書会に参加したのは、小学校6年の時であった。元々読書好きであり、当時既に大人向けの文庫本を普通に読んでいた私は、大人の社会に足を踏み入れることを許された気がして、すごく嬉しかった。

ただ、学校の級友たちには内緒にしていたし、家族にも話していない。つまり秘密の会合に参加しているような高揚感を楽しんでいた無知な子供であった。もっとも中身は、本当に読書会で、私はここで「静かなるドン」や「収容群列島」などのロシア文学に触れ、「橋のない川」「キューポラある町」などの左翼系文学に慣れ親しんだ。

だが、私がこの会に参加していたもう一つの楽しみは、大学生らを中心とした左翼活動家の勇ましい話を聴けることであった。私はここで、世の中の不平等さからくる不幸に憤り、その不正を糾すために戦うことを熱く語り合う人たちがいることを知った。

何度か参加しているうちに、メンバーには大きく分けて二つあることが分かった。一つは話し合い、つまり選挙により支持者を増やして戦おうとする人たちであり、もう一つが武力革命により社会の変革を強行しようとする人たちであった。

私を誘ってくれたシスターのKさんたちは、当然に前者のグループであったが、米軍基地の隣町で幼少期を過ごした私には甘い空論にしか思えなかった。必然、後者の武力革命推進派の考えに強く共鳴した。ただ、この後者のグループの人たちは、実戦すなわち喧嘩は弱かったのが難点だった。

以前、このブログでも記事にしたボクサー上がりの青年だが、不思議なことに何故か前者のグループに入っていた。この青年が一番腕っぷしが強く、また喧嘩上手でもあった。私はこの人から、ケンカの話を聞くのが好きであった。

不思議だと書いたが、真相は単純で、彼はシスターのKさんにべたぼれであった。Kさんがいるから前者のグループに入っていただけで、今から思うと思想的な理由は皆無であった。多分、共産主義革命なんて、まるで眼中になかったと思う。

私自身は、後者のグループに惹かれつつも、このボクサー上がりの青年の喧嘩の強さに惹かれていたので、いつのまにやら前者のグループに入っていた。でも、心情的には後者であった。

この読書会におかしな雰囲気が漂うようになったのは、浅間山荘事件と、その後の日本連合赤軍リンチ事件の発覚以降だと思う。ここから先は推測だが、おそらく共産党の本部からは、武力革命路線は否定し、話し合い路線を推進するように民青に指示が出ていたと思う。

当然に毛語録の読書会も、その方針に従っていたように思う。しかし、後者のグループは納得しなかった。読書会のメンバーだけでなく、民青の活動員にも、不満があるように思えた。

それが顕在化したのが、革マル派と中核派の内ゲバであったと思う。鉄の結束を誇っていた日本共産党ではあるが、この時期は明らかに揺れていたと思う。昨日書いたように、武力革命推進派はすでにメンバーを自衛隊や警察などの組織に潜入させて、いつか来るはずの革命の日に備えていた。

しかし、日本共産党が若い学生運動家たちのコントロールに失敗してから、彼らは宙に浮いた形になってしまった。その間隙を縫って、大学応援団による妨害とか、警視庁公安部によるスパイ活動も激しくなり、ますます混迷化してしまった。

既に高校に進学していた私だが、シスターのKさんは私がこれ以上、左翼活動に係るのを避けるように裏で画策していたらしい。読書会が、私の参加できない時間や場所に設定されることが増え、不満を抱えた私に、左翼系でない書物を貸し与えてくれたのはこの頃だ。

以前取り上げた「動物農場」などがその典型であり、私はなぜにKさんがこのような書物を読ませたのかが、分からなくなっていた。そうこうしているうちに、なまじ知識だけは増えた私が余計なことを言ったため、教会の活動にも参加しずらくなった。

政治にも、宗教にも希望を抱けなくなった私は、ワンダーフォーゲル部の活動を通じて山登りに傾倒するようになった。ほぼ同時期に、Kさんは件のボクサー上がりの青年と結婚して街を離れた。

もう教会にも、読書会にも興味を無くした私は、それ以降、左翼的な活動は一切していない。当然に民青や日本共産党とも縁が切れている。でも、忘れることは出来なかった。

なぜに、良い人ばかりであった共産党は、支持を失い、混迷して衰退したのか。私は私なりにずっと、そのことを気にかけていた。

その理解の一助になったのが、表題の書である。率直にいって、共産との闇というか裏の部分に触れていないのが不満だが、一時期は国会議員として党の最高幹部の一翼を担った方だけに、党の内情についての記述には説得力がある。この本を読んで、長年疑問に思っていたことの一部が解けたことは、ありがたかった。

長くなりましたが、まだ書き足りないので、もう一回だけお許しを。

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日本共産党 筆坂秀世

2015-06-25 12:17:00 | 

そろそろ、真実を伝えるべきだと思う。

日本の歴史教育の欠点の一つは、近現代史をまともに教えていないことだ。一例を挙げたいと思う。20世紀において、共産党は世界各国で非合法化され、我が日本もそれに追随している。

で、敢えて問いたい。何故、共産党は非合法化されたのか。

私が子供の頃、母が公立学校の用務員をしていたこともあって、日本共産党の党員や活動家は周囲に結構いた。メーデーの日に、代々木公園に終結してデモに参加したこともある。まァ、私はハイキングぐらいにしか思っていなかったが、赤旗が多数立てられ、演説がいたるところで聞こえてくる活気のある集まりであったと記憶している。

みんな、優しいイイ人ばかりだった。だからこそ、世の中の不平等に怒り、大資本家が牛耳る経済の矛盾に怒り、その犠牲となる貧しく弱い人々の味方として、常に共産党は先頭に立って戦っていた。

その日本共産党は、戦前は非合法政党であった。日本共産党を指導し、先導する宮本議長は戦前、刑務所に収監されて拷問さえ受けたと聞かされた。なぜ、平和を願い、弱い市民の味方である共産党が迫害されたのか。

この疑問に対して、正しい回答を云える学校の先生はいない。もっともらしい共産党の言い分を真面目な顔して、平然と口にする先生ならいたが、私はその答えの不自然さに気が付いていた。

禁止され、非合法化されるには、相応の理由があった。ただ、日本ではその答えが教えられていない。歴史の教師でさえ知らない人が多い。いや、マルクス主義を教える大学の先生でさえ、本当の答えを知らずにいることさえあった。

そうなると、大人になっても、その本当の答えを知らずに済ませている人は少なくなかった。知っていても、黙っていることのほうが多かった。呆れたことに、21世紀の今日にあっても、その本当の答えを知らず、漠然と曖昧に済ませている良識ある日本人は少なくない。

それでいいのか?

本当の答えはシンプルだ。共産党の目的は、世の中を変えることであり、その正しい目的を達成するためには、力による変革を認めていた。認めるだけでなく、それを実践していた。理論と行動が伴う真の改革者、それが共産党である。

もっと分かりやすく云えば、こういうことだ。マルクス主義者にとって、資本家が牛耳るこの世界は間違っている。それを糺すためには、武力をもってして資本家を打唐キることは正しい。

つまり、だ。マルクス主義者が大工場の社長の家族を誘拐し、身代金を獲得し、その金で武器を調達し、その武器をもって政府を倒して革命政権を樹立するってことだ。言い換えると、テロリストに理論的正当性を与えたとも云える。

マルクスがエンゲレスと共に書いた大作「資本論」とは、資本主義が間違っていることをあらゆる理論を通じて証明し、間違っている世の中を糺すために実効性のある行動によることは正しいと定義したものに他ならない。実効性のある手段とは、武力闘争に他ならない。

正しい目的のためなら、あらゆる手段が正当化される。その理論的根拠がマルクス主義となる。だからこそ、マルクス主義を掲げた政党、すなわち共産党は、世界各国で危険視されて非合法化された。当然であろう、反政府活動を是とし、既存の政府打倒目的なのだから。

それは日本においても同様である。しかし、不思議なくらい、日本ではマルクス主義を掲げる政党の、その本来の目的と手段については黙殺された。マルクス主義を、平和なものだと思い込んでいる日本人は少なくない。

まして、センデロ・ルミノソや連合赤軍のようにテロを正当な手段だと認識している共産系の組織と、日本の共産党は違うとさえ信じている。疑うことさえしない。それが戦後の日本であった。

とんでもない欺瞞である。日本共産党が本当に武力闘争の放棄を認めたのは、私が知る限りでは宮本議長の引退と、不破委員長による権力掌握以降である。実際のところ、その宮本議長でさえ、70年安保闘争の失敗と、浅間山荘事件と日本連合赤軍リンチ事件があってからは、表むき武力闘争は放棄していたかのように振る舞っている。

しかし、かつてコミンテルンが発表したテーゼを公に否定したのは、不破委員長が実質党の支配権を握って以降である。口舌の徒に過ぎない不破と異なり、実際に武力闘争に係った闘士である宮本議長にとって、武力闘争への未練は相当にあったのだと思う。

この迷いが、70年代の内ゲバ闘争の根っこにあると私は信じている。

表向き、70年代には武力闘争路線は完全に否定されていた。それは事実だと思う。しかし、私は知っていた。共産党の一部には、まだ武力闘争について未練があることを。それを察していたからこそ、若い運動家たちは、革マル派として内ゲバに走ったのだ。

誤解なきように言っておくが、70年代以降において日本共産党が武力闘争に直接関与するようなことはなかった。党内において異論を認めるような民主的な政党では断固ない。党の幹部たちは、民主集中制だと言っていたが、その本質は独裁政治である。党の上層部が決めたことは、異論も反論も許さない。それが日本共産党であった。

田中清玄らが云うような武力闘争への関与は、おそらくは60年代初頭になくなっていたと推測している。言い換えれば、60年代までは、水面下というか地下活動において、武力闘争への係りはあったと思う。

私がそのことをガキの癖に知っていたのは、若手の共産党の運動家たちが実際に自衛隊などの組織に潜入して、武力革命の実施を待ち望んでいたことを見聞きしていたからに他ならない。

そのことが、共産党の勇ましい演説に感動していた幼い私が、その共産党を疑い、やがては離れる契機となったからだ。長くなるので、明日続きを書きます。

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絶歌騒動に思うこと

2015-06-24 12:34:00 | 社会・政治・一般

言論の自由は万能ではない。

未成年の残虐な殺人事件の犯人として世間を騒がせた少年が、出所して社会復帰したのちに発刊した本「絶歌」が問題となっている。幾人かの識者が指摘しているように、完全に反省しているかが疑わしい内容であるようだ。

それゆえ、愛する家族を殺された被害者の遺族などが、この本の出版について抗議の声を上げている。私はこの本を書店で棚積みされてものを、さっと目を通しただけだ。お金がない十代の頃に鍛えた立ち読みで馴れているので、けっこう得意である。

でも、買う気にはなれなかった。作者の自意識の誇示に嫌気が指したからでもあり、虚ろな反省の弁に不信感を覚えたからでもある。そして、この本を読んだ被害者家族が辛い想いをするであろうことも容易に分かった。

ただし、その後騒動になっているが、私は出版差し止めとか、販売禁止といったことには賛成できない。

「悪人の自白」という考え方がある。発言を禁じるよりも、むしろしゃべらせた方が真実に近づく。その自白をどう捉えるかで、世間の反応は変わる。本当に反省していると読めるのなら、犯罪者でも再び受け入れられる可能性は増す。

しかし、自白させた結果、反省よりも再犯の可能性が高いことが分かるのならば、世間は容易に許さない。追いつめられる形で、再び封じ込める可能性が増す。

被害者遺族には辛いかもしれないが、刑法という形式によるよりも、悪人の自白は遥かに犯罪を処罰できることがある。

ただ、欧米の一部であるように、このような犯罪者の自白本の印税は、半ば強制的にその一部または全部を被害者遺族救済に使うほうがいいのではないか。その意味で、犯罪者の自らの犯罪行為自白本から得られる利益は、制限をかけるべきではないかと思う。

言論の自由は絶対でもない。自由は無軌道、無遠慮、無分別になることが多い。一定の場合には、ある種の制限があってもいいと思う。

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