ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「長距離走者の孤独」 アラン・シリトー

2007-01-31 09:28:55 | 
不思議なもので、何時の間にやら親父に似てきた気がする。

親父は仕事が出来る人間だと思う。ただし組織のなかで出世するタイプではなく、そのせいか何度も転職している。具体的な数字は知らないが、相当に稼いでいたと思う。そうでなければ、十数台の外車を乗り継ぐなんて出来ないと思うからだ。

ある会社では専務までいったこともあるようだが、社内での出世は苦手だったと思う。仕事に偏りすぎで、しかも自分のやり方に固執するから、随分と損をしていると憶測できる。正直、不器用というより、むしろヒネクレ者だと思う。でも、間違いなく確信犯だ。

親父と暮らしたのは、7歳くらいまでなのだが、なぜか不思議と似てきた。外見が似るのは分かるが、なぜに生き方まで似るかな?

私も相当にヒネクレていると思う。勉強する気がなかった中1、中2の頃は学年で下から10番以内に入る落ちこぼれだったので、高校では一変して優等生を目指していた。成績はほとんど五段階評価だと5か4だった。どの科目も満遍なく勉強したし、人一倍勉強したから当然だと思う。

ただ体育は3だった。運動は好きだったが、特に運動能力に秀でていたわけではないから納得の成績だった。ただし、一回だけ赤点である1をつけられた事がある。体育の担当で、担任でもあるA先生は、ぬけぬけと言いやがった。「お前には、敢えて赤点をつけてやった」だと。

そりゃ、随分とA先生の体育をさぼったことは事実だ。大概が地元のパチンコ屋でモーニング台(勝率高し!)をやっていたせいだが、それでも出席日数は足りていたはずだ。事務室に何度も確認したから間違いはない。嫌いな教師ではあったが、最低限の礼儀は守ったはずだ。それなのに赤点を付ける仕打ちは、非常に腹が立った。

だから、A先生が望んでいた共通一次試験は、思いっきり手を抜いた。多分本気で勉強していたら、もっといい点が取れたと思う。でも、A先生を喜ばすような真似は絶対にしたくなかった。別に私立志望というわけでもなかったが、A先生の期待に背くことだから、断固として私立志望に切り替えた。(高一の頃は、国立志望だったけどさ・・・)

大学受検という人生の岐路の選択に、随分と愚かしいことをした気もするが、率直に言って、まったく後悔していない。大学では楽しい4年間を過ごせたし、当時の仲間とは今も仲が良い。傍から見れば、馬鹿なヒネクレ者だとは思うが、自ら納得の選択なのだ。

いいか悪いかは知らないが、こんな愚かな選択もあっていいと思う。それが人生ってものだ。それゆえ、表題の作品の主人公の気持ちがよく分かる。誰だって、自分の心のなかに大切な理念って奴があるものだ。それを傷つけられたら、相応の報いをなさねばならない。それが自分に誠実であるってことだと思う。
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減税にあらず

2007-01-30 09:29:00 | 経済・金融・税制
給与を貰っている方々は、既に今月の給与を貰っていることだと思う。お気づきだろうか?手取額が増えていることに。

種を明かせば簡単なことで、天引きされる源泉所得税が減っていることが原因だ。ただし、早合点しないで欲しい。これは減税ではないのです。

国と地方との間での税金の配分が変わっただけで、所得税と地方住民税の合計額は変わらず、その内訳だけが変わっただけです。

ただ、個人住民税は前年の所得から算出されるため、所得税と若干時期がづれる。所得税と住民税を天引きされる方は、今年の6月から住民税が大きく増えるので、ご注意あれ。別に増税ではなく、その分1月からの源泉所得税が減っていただけです。

また普通徴収(天引きではなく、自身で納付する)の方ですと、今年の住民税は例年より多く感じると思います。これもまた所得税が減っている分、住民税が増えているだけです。

異論はあるでしょうが、これまでのように国から交付金(地方交付税)という形で税収が地方へ移るより、望ましい形になろうかと思います。源泉所得税のような天引きされる税源は、国及び地方公共団体にとっては、安定した財源です。それだけに、住みやすい自治体として努力しないと、人の移動という形で減収の現実が突きつけられる可能性が高まります。

夕張市の破綻という強烈な事例を見せ付けられた地方自治体にとって、この直接的財源の増収は、これまで以上に予算の無駄遣いを無くす効果が期待されています。

まあ、政府の思惑通りに進むかどうか、いささか疑問です。せめて制度会計に複式簿記を導入し、単年度会計に例外を設け、予算消化型の会計制度に風穴をうつくらいでないと、なかなかに無駄遣いはなくならないと思います。

それには、なによりも納税者の厳しい目線が必要不可欠だと思います。石原都知事なんざ、2期目を迎えたら、いい気になって大名旅行三昧。自分の子供達に税金をばら撒いて養っている有様です。アメリカにNOを言ってるよりも、有権者からNOを突きつけてやる必要があると思います。
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AV女優心中(?)事件の判決

2007-01-29 09:29:59 | 社会・政治・一般
平成14年のことだが、長野県塩尻市の河川敷で、男女の遺体が発見された。当初は心中(自殺)とされたが、遺体の状況、生前の交友状況からしてオカシイと言われ、警察も止む無く他殺の可能性を臭わす不可解な事件だった。

先日、長野地裁において自殺として保険金の支払いを止めた保険会社と、支払いを求める男性遺族との間の民事訴訟に判決が下ろされた。他殺として、保険金の支払いを求める判決であった。刑事とは異なる結論が下されたわけで、関係者に微妙な影響を与えかねない内容だと思う。

新聞記事は微妙なニュアンスで誤魔化していたが、警察は内部的には心中で解決済みの事件と考えているようだった。官僚組織というものは、どうしても自己正当癖が抜けないのだろう。

この事件が私の記憶に深く残っているのは、実は死んだ女性が現役のAV女優だったからだ。そのせいか、警察は当初から積極的ではなく、男女の痴話絡みの情死として処理したがった印象が強い。少なくともAV業界の人間は、そう感じたようで、AVを扱うH雑誌の編集後記などの雑文で、警察の再捜査を望む記事をいくつか読んだ記憶がある。アングラ系のメディアには、更に過激な憶測記事が出ていたし、ネット上ではずいぶん話題になっていたらしい。

私は全てのメディアに目を通したわけではないが、少し気になったのは、大手の新聞等は殺された女性については、今回は簡単に事実関係を書くだけで、AV女優であることは書かれていない。これは故人に対する気遣いなのだろうか?多分、ワイドショーあたりは、そんな気遣いはしないと思うが、この事件は女性の職業の特殊性を抜きにしては、決して真相は分からないと思う。

とはいえ、殺された女性の遺族の感情を慮ると、AV女優であったことを伏せる新聞記事も分からないではない。ちなみに事件発生当初は、しっかり書かれていたから、多分気遣いなのだろうと思う。
報道はそれでも良いが、警察は是非とも再捜査して欲しいものだ。これじゃあ、殺された2人が浮ばれないと思う。
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「脱出航路」 ジャック・ヒギンズ

2007-01-27 14:04:35 | 
その日、私は朝からイライラしていた。理由は忘れたし、思い出したくもない。肩に食い込むザックの重さは、苛立ちを加圧せんばかりだ。おまけに低気圧が接近中で、風が唸りをあげ、黒い雲が足早に空を流れていく。

場所は南アルプス、赤石山脈のど真ん中だ。夜が明けて、青い空でも望めれば、少しは気分も晴れようというものだが、どんより曇った空はますます薄暗くなり、風は怒りの咆哮を喚きたてる。気分は最悪だった。休憩中ですら、一言も口を利く気にならない。

樹林帯を抜けて3000メートル級の稜線に出ると、荒涼たる岩場が待ち受けており、足場は悪く気が抜けない。雨交じりの強風が身体に叩きつけられ、真直ぐ歩くのに不安を感じるほどだ。

苛立っている場合じゃなかった。この岩場を抜けて、稜線を越えて再び樹林帯に入り込まないと、命の危険があることが、ひしひしと感じられる。互いにザイルを結び合い、ゆっくりと着実に足を進める。

自然は過酷だ。ひと一人の思惑など、ねじ伏せ、足蹴にされる。あれほどの苛立ち、焦燥感、憤怒の情など、苛烈な強風と、凍て付かせるミゾレ交じりの雨がかき消してしまった。辛くも樹林帯に逃げ込み、今夜の宿営地に辿り着いたが、まだ油断は出来ない。

いつもなら一年生に任せるテント張りは、全員で力を合わせねば、とても出来なかった。疲労と強風が、簡単なはずのテント張りを極度に難しい作業にしてしまった。声を出し合い、タイミングを合わせて綱を引き、ペグを打ち込み、なんとかテントを設営できた。

順々に入り、濡れた体と冷え込んだ心を癒すため、コンロで湯を沸かし、お茶を入れる。甘い茶菓子とともにお茶が皆に回る頃には、誰となしに安堵の笑みが交される。朝からの苛立ちなど、完全に消えうせてしまった。あれは私の甘えなのだろう。

皆で力を合わせ危機を乗り越え、こうして暖かいテントのなかで安堵の会話を交せる幸せに比べれば、朝の苛立ちなど些細なことでしかないと、つくづく思う。いや、思わされた。

怠け者で、気が弱く、短気で、根性なしの自分を鍛えてくれたのは、過酷な山の自然と、共に苦難を乗り越えた仲間があったからこそだと思う。今はもう、山に登ることは許されぬ身体と成り果てましたが、たまに冒険小説を読むと、当時の思い出が鮮やかに思い出されます。

なお、表題の本は山ではなく、海と島を舞台にしたものですが、私が一番感銘を受けたのは、島の人々が力をあわせる場面でした。あの荒川三山での苦難を思い出さずいはいられません。もう20年以上前のことですが、あの時の強風の轟音と、どす黒い雨雲は今も鮮やかに脳裏に焼き付いています。鮮烈な思い出、その一言に尽きます。
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「全てがFになる」 森 博嗣

2007-01-26 17:13:26 | 
頭がイイって、どんなものだろう?

私はそれほど頭がイイわけではない。そりゃ、比較的難しいといわれる税理士試験に合格しているのだから、まったく馬鹿ではなかろう。でも、あれは暗記力と反復練習に耐えうることが出来れば、わりと合格しやすい試験だ。頭がイイこととは、少し違うと思う。

博識も少し違うと思う。もちろん体系的に知識の理論付けが出来ていなければ、博識は成立しないが、それだけでは物足りないと思う。

私の考える頭の良さとは、智恵のあることだ。理解力の高さでもある。状況認識力であり、未知の状況への対応能力でもある。洞察力あるいは、推察力といってもいい。これが難しい。この面に関しては、私はすこぶる頭が悪い。

だからこそ、推理小説いわゆるミステリーに憧れるのだろうと思う。古くはホームズ、ブラウン神父、ポアロと様々な探偵の名推理による事件解決は、いつだって私をワクワクさせてくれた。

IT時代ならではの密室殺人事件を鮮やかに展開したのが、表題の森博嗣だと思う。これには参った。ネタばれになるので詳しくは書かないが、納得の密室殺人だった。作者は某大学の研究室の人間らしいが、理系の人独特の頭の良さを感じて、とても気持ちが良かった。

同時に頭の良い人間にしばしば見られる特異性も感じられ、そこに妙に共感している自分が嫌。作者は、おそらくは常識的な人だろうと思うが、多分心の底では、常識的な自分を演じていることに違和感を感じているのではないか。そんな憶測が容易に出来てしまう。

ところで、何で自分が嫌だと書いたかというと、他者の感情に対する鈍感さ、自身に対する頑迷さを、頭の良さを理由にしようとしている自分が嫌。本当は気が付いているのだが、それを認めるのが嫌なんだな、私は。嗚呼、自己嫌悪。本当に頭が良かったら、こんな愚かな悩みは抱えないだろうと思う。だからこそ、本当の頭の良さに憧れるのだろう。

まあ、実際は頭の良い人だって、それなりの悩みを抱えているのでしょうがね。

コメント (2)
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