ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

確定申告雑感

2014-03-31 11:56:00 | 日記

久しぶりに徹夜しそうになった。

今年の確定申告は激務であった。15日が土曜日であったので、締め切りは17日の月曜日となった。少し日程に余裕があったので、いつものペースで大丈夫かと思ったら、そうは問屋が卸さなかった。

いつも最後は自分の申告なのだが、日常的な入力は既に済ませてある。例年のように後は売上と源泉税を照合させて申告書を作成するだけだ。ところが今年は、この照合に時間がかかった。原因は復興特別所得税の2、1%の上乗せである。この上乗せが処理されている売上と、そうでない売上があり、検算に予想以上に手間がかかった。

これは顧問先である弁護士数名の申告の際にも経験済みなのだが、うちの事務所の売上は少額が多く、端数処理など些細な手間がかかり、気が付いたら11時を過ぎている有様である。大急ぎで申告書を仕上げて24時間やっている郵便局に飛び込んで書留で税務署に送る。時計は既に11時40分である。

終電ギリギリで帰宅するが、昼からなにも食べてないことに気が付き、近所のファミレスまで車を走らせて食事を済ませる。さすがに作る気力がなかった。その後、家に帰って風呂を浴びて死んだように熟睡する。

これだけきつかった確定申告は久々だ。昨年は入院した都合、かなり忙しかったがスタッフの頑張りもあり、なんとかなった。しかし、今年はそのスタッフの一人が体調不良で休みがちとなり、戦力ダウン。おかげで昨年よりも仕事がきつくなったのも一因である。

だが、最大の理由は確定申告の内容そのものであったと思う。

近年まれにみる駄目政権であった民主党が去り、自公政権となりアベノミクスも華々しく宣伝された平成25年。たしかに円安効果はあったと思うし、株価も倍近く上がった。しかし、景気そのものは、やはり低調であったと言わざるを得ない。

それは個人の平成25年分の所得税の確定申告の内容を吟味するば、一目瞭然である。個別にみると前年(平成24年)を上回った申告も散見するが、多くの場合、前年割れの申告のほうが多かった。

目立ったのは、不動産賃貸における空き家、空きテナント、空き駐車場であり、飲食業サービス業の売上減少であった。その一方で、株取引が多かったのも確かで、売却益を出した納税者も少なくない。これこそアベノミクスの成果だと思うし、この売却益が高額商品の買い物や海外旅行の増加につながったのだろう。

もう一つ、目立ったのが不動産売買の増加である。うちの事務所で取り扱った件数も、前年の倍近いのだから、不動産業界は活況を呈したはずである。ただ、売却価額は低調で、小規模な売買が目立ったのも特徴である。その内容を吟味すると、虫食い状態の土地を整理するための不動産売買であったと思われる。

複数の地権者が小さな所有権を持ち合うような土地だと、再開発は非常に面唐ニなる。バブル期に高値で売り抜けた地権者はいいが、売り損ねた地権者が安値では売れないと意地をはり、結果虫食い状態となって再開発が止まっている土地はけっこう多い。

しかし、長引く不況に根負けし、安くても現金が欲しいと、売り損ねた土地を手放した地権者が出始めたのが昨年なのだと思う。だから、現在都下で再開発が始まったマンションやテナントビルの建築が多いのも、その結果を受けてのものだと推測できる。これもまたアベノミクスの効果だと云えなくもない。

ただ、全体としてみれば平成25年も又、不況の年であり、良く言っても低成長に留まった年であると言わざるを得ない。私自身は、前年を上回る売り上げを挙げたが、利益率からするとむしろ低下しており、資金繰りが苦しかった年でもあった。

頑張っても、その見返りが十分でないのは辛い。多分、私だけではないと思う。まァ、あの三年余りの民主党政権の低迷に比べれば遥かにマシだとは思うが、それでも安倍政権が十分結果を出したとは言えない。

今年がどうなるかは、まだ不透明だが消費税の増税が、景気にどの程度影響を与えるのか。その結果次第では来年の選挙に大きな影響を与えると思う。その意味で、平成26年は安倍政権の正念場だと思いますね。

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中国任侠列伝 島崎晋

2014-03-28 17:15:00 | 

役人なんて信用できるか。

これは役人以外のすべてのシナ人が合い有する考えである。

古来よりシナには二つの社会がある。一つは支配者の世界である。皇帝を頂点にした官僚機構の社会である。彼ら役人は地方に派遣されて、その地方を皇帝のために統治する。でも、それは表向きの話。

地方の統治者として彼らがやるのは、その地での税収確保である。可能な限り、その地から財産を収奪する。だいたい3年やれば巨額の財産が築ける。この財産を中央に持ち帰り、賄賂として上司である政府高官へ渡す。こうして自らの出世と繁栄をものにするのがシナの伝統である。

皇帝への税収確保を目的としながら、やることは自らの立身出世と栄華が目的として地方の統治を行う。これでは地方の民はたまったものではない。自分たちの財産が税として取られ、それが地域の振興に役立つならば、まだ我慢のしようもある。

しかし、自分たちの生活とはまったく無縁の皇帝のおひざ元での出世競争と役人個人の栄華のために財産を奪われるのである。シナの大陸では、役人とは大衆から財産を奪うものであり、怨嗟の対象としかなり得ない存在である。

だが、役人には軍隊という恐るべき武力集団が背後にいる。この軍隊がやってくれば、役人が取る税金以上のものが奪い取られる。シナの軍隊の給金は安いのが普通で、軍隊は出動した際に民家や商家を襲い、金銭を奪い、婦女子を犯して臨時のボーナスと考える。

だからシナの大衆は政府の軍隊を忌み嫌う。軍隊が来るぐらいなら、まだ金だけで済む役人のほうがマシ。余談だが、現在共産シナと日本国内の反日自虐平和原理教の輩が盛んに騒ぐ南京大虐殺の実行者は、日本軍ではなく逃げ出すついでに臨時のボーナスを頂こうとしたシナの逃走軍人だろうと私は考えている。

まァ、それに便乗しようとした不逞な日本軍人がいたとしても不思議はない。なにせ、あの当時の南京は、暗闇と大混乱で統制がとれた状態ではなかったのだから、ある意味やり放題だったのだろう。

それはともかくも、古来よりシナの役人は大衆に嫌われる存在であった。だからこそ、役人に逆らい、皇帝に逆らい、軍隊とも戦ってきたアウトローたちがシナの大衆にとって裏のヒーローとして扱われてきた。

この裏のヒーローを侠客、あるいは任侠と呼ばれてきた。日本においてあまり有名でないのは、史記以外の正史には取り上げられていないからだ。司馬遷はその生涯をかけた史記を書いた際に、しっかりと侠客伝を編纂している。

しかし、彼ら任侠の男たちはシナの皇帝に逆らい続けた者であるがゆえに、漢朝以降の正史には取り上げられなくなった。しかし、民衆のヒーローであるがゆえに、水滸伝などの読み物として、シナでは広く読み続けられてきた。

そんなシナの裏のヒーローたちを体系的に取り上げたのが表題の書だ。無頼の徒から宗教指導者まで、正史では取り上げないが、シナの大衆の多くが知っている裏のヒーローたちの姿。彼らを理解することなく、シナの社会の特殊性は理解できない。

日本のヤクザとも、アメリカのマフィアとも違うシナの裏社会の英雄たち。どこの国にも表に出せない裏の歴史はあるものだが、シナ程極端な国は滅多にない。断っておくが、今もこの裏社会のヒーローたちは存在する。ただ、マスコミが知らないだけだ。

私の知る限り、政府に逆らう反逆者はまだしも、犯罪者を英雄として讃える文化をもつのはシナだけだ。世界的にみても特異だと思う。この侠客と呼ばれた裏社会のヒーローたちを知らねば、シナを理解したことにはならないと思う。

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ナニワ金融道 青木雄二

2014-03-27 11:56:00 | 

日本という国を、世界で最も社会主義が完成した国だと評する外国人は多い。

私もそう思わなくもないが、その一方で最もマルクスの社会主義思想を理解していない国だとも思っている。その癖、碌に読んでもいない資本論を口にして、社会の不公正さ、不平等を指弾する妙な社会主義者が多い国でもある。

大別すると三タイプあると、私は思っている。共通するのは自らを社会主義者だと認めることはないが、その思想において明らかに社会主義的傾向が強い人たちだ。つまり、本来の社会主義者はほとんどいないのが日本の特徴でもある。

まず第一に今もかなりの数がいると認められるのが、社会主義的正義を実践しようと役所に入った人たちだ。日本の行政は、不思議なくらい社会主義的政策を数多く実施しているのは、この隠れ社会主義者たちの功績だと云ってイイ。

地方の役所に多いのは私も知っているが、意外にも霞が関界隈にもかなり棲息している。国民保険制度を初めとして、貧しき人にも平等に福祉を行き渡らせようとする政策を、これほどまでに頑固に熱心に推し進めてきたのは、社会主義の正義を信じていた彼らの存在あってこそだと思う。

もっとも、これはマルクスの社会主義とはかなり異なり、むしろイギリスなどで実施された穏健な社会主義に、日本的な平等思想を加味した結果だとも考えている。

二つ目のタイプは、マスコミ及び教育関係者に多い反日自虐、平和原理主義者たちだ。断言しますが、彼らの思う社会主義は、マルクス本来の社会主義とは大きく異なる奇形です。多分、マルクスが生きていたら毛嫌いすると思いますが、彼らに自覚はないでしょう。

マルクス本来の社会主義は、不平等で不公正な社会を変えるための戦いを正当化する理論であって、日本の反日自虐平和原理主義者のような自らの善人ぶりを正当化するための理論ではないからです。

そして、最後に取り上げる三つ目のタイプは、マルクス本来の社会主義に最も近い立場にありながら、まるで理解していないが故に最も遠い社会主義者たちです。その典型が、表題の漫画の作者でしょう。

既に故人ですが、作者の青木氏はその豊富な人生経験から描きだした表題の作品は、今まで表ざたになることの珍しかった街金融の世界と、その世界に係る人々の暮らしを生々しくさらけ出しました。

率直に言って、その絵柄はプロの漫画として、いささか首を傾げたくなるほど低レベルなデッサン力でした。しかし、描き出した内容は、従来の経済小説なんぞ足元に寄らないほど迫真性に富んでおり、漫画の魅力は絵柄だけではないことを立証してみせました。

私は雑誌連載時から読んでいましたが、絵柄の汚さに閉口する一方、無視できない強烈なストーリーに惹きつけられたものでした。しかし、当時から妙な違和感は感じていました。街金融という庶民向けの金融の世界を描いているにも関わらず、その背景に世の中の不条理に対する異様な敵意のようなものを感じていたのです。

それは後になって青木氏が語るようになった唯物論を知って、ある意味納得できました。この人、上っ面の社会主義者でした。苛烈で不平等な社会に対する不満を、社会主義という鎧で理論武装しているがように装っていたのです。

断言しますが、青木氏はまるで社会主義を、マルクス主義を理解していません。ただし、マルクスの出発点とでもいうべき社会の不条理に対する怒りだけは共有していたと思います。だからこそ説得力があった。

青木氏には社会主義の理論も道理も分かってはいなかった。しかし、現代社会の陰に隠れた不条理で、不平等で、無常非常な世の中のことをたっぷりと見て生きてきた。ただ文才がなく、それを表現することが出来なかった。

しかし、漫画という表現形式を使えば、自分にも表現できると知り、それを稚拙な絵柄ながら実現してみせた。この漫画を発掘した週刊モーニング誌の編集部は凄い決断をしたものです。

後発の漫画週刊誌であったモーニングは、従来にはなかった切り口で漫画界に新風をいくつも吹き込んだ実績を持っていますが、なかでもナニワ金融道は漫画の歴史に名を残す傑作であったと思います。

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橋下市長の再選に思うこと

2014-03-26 14:57:00 | 社会・政治・一般

橋下市長の再選が決まった大阪市だが、おそらく大阪府と大阪市の合併都構想は失敗すると思う。

無駄なことは分かっている。だからこそ橋下氏の意見は相当な支持を受けた。しかし、この二重行政の無駄を食い扶持にしている人たちには死活問題である。厄介なことに、この無駄を食い扶持にしている人たちは、ネクタイを締めてスーツを着た真面目な大阪市民であり、大阪府民でもあるからだ。

間違いなく彼らは自分たちを無駄だとは思っていない。役所の仕事を真面目にやってきたと思っている。それを無駄とされるなんて絶対に許せない。許せる訳がない。何故なら、真面目に生きてきた自らの人生を否定するに等しいからだ。

私に言わせれば、個人として真面目であろうと、公人としての在り方は極めて不真面目だ。公務員とは公僕であるべきだが、彼らに公の意識はなく、あるのは個人としての意識だけだ。酷な言い様なのは分かっているが、税金は公務員を無駄に養うためのお金ではない。

大阪市と大阪府の二重行政の無駄は、間違いなく存在する。だが、この無駄を解消するには市政及び府政が危機的な状況にならない限り、決して本格的な問題解決の動きには至らないだろう。

もちろん、橋下市長の言うとおり、今のうちに問題解決のための合併による都構想のほうが、はるかに出費は少ない。税金を効率的に使うには早めの対処こそが理想である。

せめて橋下氏に大きな実績があれば、少しは違ってくるのだが、残念ながら政治家としての橋下氏には行政面での実績に乏しい。行政の無駄を排し、効率化を追求した実例なら夕張を初めとして、地方の過疎の自治体にいけばけっこうある。

だが、先走りが過ぎる橋下氏には、この実績がないがゆえに人を動かせない。元々維新の会自体が、民主党政権による政治の低迷から生まれたものだけに、今の自公政権に対しては分が悪い。だから議会で多数派になれずにいる。

こんな時、橋下改革のための人柱があれば、状況は変わるのだろうがそれもない。人柱で分かりづらければ、殉教者もしくは犠牲者でもいい。極端に云えば、改革の思想を体現した人物の犠牲があってこそ、革命は光り輝く。

理想は改革に絶対反対する勢力の意向を受けたテロリズムである。テロとは政治的思想の実現を目的とした強硬策の実施である。このテロによる犠牲が出てこそ、改革は本気で動き出せる。残酷なようだが、これが政治の現実である。

かつて国鉄の分割民営化の際の犠牲者は、皮肉なことに国鉄の利用者であった。分割民営化の阻止を目的としたストの頻発により、国鉄を利用する市民が多大な犠牲を強いられた。会社に寝泊りしたり、長距離を自転車通勤したり苦行を強いられた市民の怒りが、国鉄の分割民営化を可能にした。

橋下市長の大阪都構想を失敗においやるため、反対派のなんらかのテロによる犠牲が出れば、それを契機に都構想は動き出せるだろう。しかし、現状では難しそうだ。

なぜなら、この大阪の二重行政の無駄に巣食う寄生虫たちは、静かに粛々と税金を貪ることだけで生きてきた。今さら他の世界で生きていける才幹はない。だから、表だって反対は叫ばず、ネチネチと嫌がらせ程度のしつこい抵抗をする程度の大人しい人たちなのだ。

いくら橋下市長が正論を述べようと、行政の無駄に巣食う大人しい反対派は決して従わない。残念ながらこのままでは、大阪都構想は失敗に終わるだろう。

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STAP細胞事件に思うこと

2014-03-25 12:00:00 | 社会・政治・一般

なんとも醜悪であり、後味の悪い事件だ。

先月、突如報じられたSTAP細胞の研究で一躍、スター並みの扱いを受けた小保方グループの功績が、今や地の底に落ちんばかりに評判を下げている。

実のところ、私は詳細を知らない。なにせ一年で一番忙しい時期であり、ニュースは流し読みが精一杯なのだ。だから詳細は知らないが、それでも世間的に大騒ぎとなっていたことは知っていた。

ところが今月に入って、急にこの世紀の大発見が怪しくなってきた。論文をコピペしたとか、画像の使い回しだとか言われている。それはそれで問題だが、最大の問題は、この世紀の大発見が第三者により再現されないことであり、それゆえに怪しくなってしまっていることだろう。

このままでは、虚報として小保方晴子研究者の評価は地に落ちることは確実である。

だが、科学研究の世界は、思い込みと失敗の連続であり、むしろ成功するほうが珍しい。模範解答なき世界であり、未知の原野に自ら道を切り開く至難の世界でもある。失敗は必然であり、失敗を肥やしとして、次なるステップに進む気概こそが求められる。

その意味で、私は現時点では誤報となってしまったSTAP細胞の研究事件は、既に終わった話である。それにも関わらず不快に思うのは、持ち上げて落とすマスコミのやり口のえげつなさである。しかも、そのマスコミを利用している小保方研究の共同執筆者たちの態度の卑劣さに、私は不快感を隠せない。

共同研究していたのなら、その研究課程の齟齬や、検証の不十分さに最も早くに気が付かねばオカシイだろう。それなのに、今さらになって全ての責任を小保方女史に押し付ける態度が、実に卑劣である。

若い研究者が功を焦り、拙速な行動に出がちなことは、どこの世界にもあることだ。それを止めるのが先輩としての役目であろう。それをせず、安易に共同研究者の名を貸し、挙句に手のひらを反して誹謗するなど、人として言語道断である。

思うに、彼ら先輩研究者を小保方女史の研究に動かしたのは功名心であり、彼女が一躍スター並みの扱いを受けたことへの嫉妬心は相当なものなのだと私は邪推する。だいたいが、基礎研究の世界は地味なものであり、今さら革新的な研究結果が出ることは滅多にない。

だからこそ成功のおこぼれにあずからんと、安易に共同研究者として名を貸したのだろうし、それが失敗に終わったことを悲痛な顔をして被害者面して小保方女史を非難できるのであろう。

実に情けない話である。研究の世界はトライ&エラーの繰り返しであり、最後まで自らの信念を疑わずに論理の検証を続けた結果としてのみ成功が拓ける。役人のように減点考課では優れた研究者は育たない。

日本の大学の最も悪しき部分は、先輩後輩の縦社会のしきたりが事実上の制度化していることだ。実力ではなく人脈、実績ではなく経歴で評価する役所のような大学組織が、若い研究者の芽を摘んでしまう。

多分、小保方女史は海外の大学もしくは研究機関に移ると思います。

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