ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

濃姫に思うこと

2013-07-31 13:12:00 | 日記

目立たないからといって、無能な訳ではない。

日本史上、最も有名な武将の一人が織田信長であることは間違いない。だが、その奥方については意外なほど知られていない。理由は簡単で、ほどんど資料が残っていないからだ。

ただ、最近はTVドラマなどの影響で多少は知られるようになった。私もたまたま渋滞の最中、車のなかでその番組をちらちら見ていたのだが、少し思うところがあるので書き記したい。

信長の正室は、あの油商人から大名へとのし上がった斉藤道三の娘(三女)である。名前は分からないが、織田家に嫁いでからは「濃姫」とか「鷺山殿」あるいは「安土の方」とか呼ばれていたようだ。江戸時代の文献に帰蝶との記載もあるが、信長公記などにはほとんど記載がないため、本当の名前は判明していない。

有名なのは政略結婚として織田家に嫁ぐとき、父・道三から信長がうつけであったのなら、この短刀で殺してしまえと云われた際に、うつけでなかったのならば父を刺す短刀になるかもしれませんと答えてみせた逸話ぐらいだ。

逸話が作り話である可能性は高い。なにせ、この逸話以外にまったく記録が残っていないからだ。あの戦国大名として悪名高き道三の娘なのだから、相応な逸話だと思うが、それほどの傑物ならば他にも逸話があっても良さそうなものだが、まるで記録がない。

なにせ夫は長きにわたる戦国時代を終わらせんとし、日本統一まであと一歩まで迫ったあの信長である。にもかかわらず、まるで記録が残っていない。戦国大名の正室の座は、決して閑職ではない。いくら政略結婚とはいえ、無能な妻を許しておくほど寛容な信長ではあるまい。

そのせいか早期の死亡説、出戻り説など諸説紛々たる有様である。

私の考えだと、正室としての役割を十分こなし、その上側室、愛妾などを含めて治めてみせた賢妻ではなかったのかと思っている。記録がないのは、ただ単に不祥事などを起こさなかったからだと。

そう思うのは、私の仕事上の経験からだ。いくつもの中小企業の経営者とその家族をみてきたが、経営者はほとんどがワンマン気質のお山の大将タイプ。その妻は経営を補助するタイプと、まったく仕事に係らないタイプに分かれる。

後者はともかく、前者の配偶者には社長に負けずに財務面、総務面から経営に奮闘するタイプと、表にでることなくしっかりと裏から静かに経営を補佐するタイプに分かれる。とりわけこの補佐タイプには目立たぬ様意識的に振る舞う人が多い。

だが目立たないからといって能力が低い訳では、決してないことは経験的によく分かる。むしろ、このタイプの奥様がしっかりと裏で目を光らせているからこそ、会社の運営が上手くいっていることが多い。

織田信長の妻は、このタイプであったのだと思う。

だが、最近面白い解釈をしてみせた漫画を読んだ。以前紹介した「信長の忍び」の重野なおきが若き日の信長を描いた四コマ漫画を外伝尾張統一記として描いているのだが、その帰蝶像が興味深い。

織田家のうつけ者との評がある、若き日の信長に嫁ぐことをどう思うか問うた道三に対して、帰蝶は「私、どこへ行っても幸せになる自信があるんです」と無邪気に微笑み返す。その笑みに返す言葉を失した道三は心中で「そうだよな、そうだろうな」と呟く。

敵どころか味方からも恐れられていた信長も、帰蝶の無邪気な天真爛漫ぶりには困惑するしかないが、それでも義父である道三に「一緒にいると心が安らぐ」と本音をのぞかせる。

戦国時代の常識をことごとく覆して魔王とまで恐れられた信長とて一人の人間。鋭すぎる刀は、その刃を治める鞘を選ぶ。帰蝶は信長という鋭すぎる刃を治める鞘の役割を全うしていたのかもしれない。

ちなみに私が好きなエピソードを一つ。斉藤道三は息子義龍から攻められて、信長の応援も間に合わずに戦死する。その報を聞き思わず涙する帰蝶に復讐を約するが、その際の指切りの科白が凄い。

「指切りげんまん、嘘ついたら針4本の~ます」と泣き笑いの帰蝶に対し、「針4本が現実的過ぎて怖いぞ」とおののく信長。

無邪気な天真爛漫ぶりでありながら、現実的な感覚を持った聡さ(あるいは、あざとさ)。そのあたりが案外、帰蝶の本来の姿であったのかもしれません。この作品中、信長は「信長公記」の著者の太田牛一に「なんか、やばい気がするから帰蝶のことは書くな」と命じています。

信頼はしている妻であっても、ちょっと隠しておきたかった信長の気持ち、なんとなく分かりますね。まァ、実際は目立つことなく、大過なく織田家を支えた名もなき影の功労者の一人だったのだと思います。

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銀座のシャッター通り

2013-07-30 13:08:00 | 社会・政治・一般

よもや銀座の中央通りで、シャッター通りの寂しさを痛感するとは思わなかった。

先月末で銀座6丁目にあった松坂屋が閉店したためだ。閉店まではセール目当ての客が多数集まり、空前の売上を上げたと報じられたほどの賑わいであった。それだけに、シャッターが降りたままの中央通りの寂寥感が殊更厳しく感じる。

税理士という仕事柄、商店街には縁が深い。この十数年、各地の商店街を訪れるたびに目にしたのが、シャッターが降りたままのお店だ。一軒、二軒と増えていき、気が付くと開いているお店のほうが少数派になっている。

いわゆるシャッター通りという奴である。1980年代頃からいわゆる企業城下町(石炭や造船)の荒廃と共に生まれた現象である。やがて人の流れが鉄道から車へと変わると、郊外にショッピングセンターが大規模に展開して、駅前商店街をシャッター通り化させることとなった。

そして止めは2000年の大規模小売店への規制緩和により、零細店舗の経営が圧迫され、後継者難も手伝って日本全土に広まった。今や駅前商店街でシャッターが閉じたままの店がないところのほうが珍しい。

もちろん商店街でも手をこまねいている訳ではない。学生企業家に格安でレンタルさせたり、イベントをうってみたりして商店街活性化の努力はしている。地元クーャ東狽ュ行したり、アーケードを取り払って解放感を出したり、駐車場の整備をするなど様々な努力をしている。

しかし、正直言って結果はあまり芳しくない。

閉店した松坂屋だが、3年後には13階建ての複合商業施設として建物は再開する予定だ。しかし、未だ松坂屋が戻ってくるかどうかは不明だ。はっきりと戻ってくると言っているのは、同じ6丁目の端にあり、現在は5丁目の端で営業している三井住友銀行だけ。

幾つもの老舗の名店があったのだが、移転先で営業はしているものの、戻ってくるとは言っていない。それどころか、今回の移転を機に閉店してしまった老舗も数店あったようだ。

リーマン・ショック以降、不況で喘ぐ銀座の街だが、実はテナントビルの解体と新規着工はバブル期よりも多い。古いビルが多かったせいもあるが、不況だからこそ安く再建できるメリットもあるのだろう。

最近だと歌舞伎座の解体と新築が一番大きな工事であった。TVなどで新しくなった歌舞伎座や地下のショッピング街を報じているようだ。沢山の人が集まっているのは事実だし、やはり華やかだ。それは嘘ではない。

でも、一歩踏み込んで歌舞伎座の横の通りをみれば、シャッターが降りたままのお店が数軒あることに気が付くと思う。今でこそTVは報道しないが、この横手の通りは、美味しい蕎麦屋さんなど木挽町で古くからやっていた店が少なくなかった。今ではほとんど残っていない。

商店街の衰退というより個人商店の衰退は時代の流れなのかもしれないが、あまりに寂しい。市場経済は自由競争を基本とするから、そこに勝者と敗者、生き残りと敗残者が出るのは必然と云って良い。

理屈ではそのとおりだし、経済的敗者を生き残さねばならぬ理由も希薄だ。それは分かっているのだが、どうしもこの寂寥感は否めない。リストラの一環として銀座店を閉店した決断は致し方ないと思うが、せめてこの無聊なシャッター通りだけはなんとかして欲しいな。

どうせ壊すにせよ、それまでの間格安で看板を出すとか、若手芸術家の作品を展示するとか手はあると思うのですがねぇ。

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大不況には本を読む 橋本治

2013-07-29 12:15:00 | 

学園紛争当時、とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏がないている、の一文で一躍有名になったのが橋本治だ。

この本のタイトルも上手い。中身もよく確認せずに買ってしまったぐらいだ。だが、読んでみて驚いたのは、本を読むということに関して記述されているのは、全体の3%程度で、その大半は経済に関することであることだ。

その視点が興味深い。経済の専門家の視点でもなければ、社会あるいは政治的な視点でもない。強いて言えば、文学あるいは哲学的視点に立っての経済論なのだ。とりわけ産業革命以前の農業との対比が面白い。

ただ、青春時代をマルクス主義の風が吹き荒れる学園紛争世代だけに、どうしても反米傾向は否めないし、結果の平等を理想とする思想的偏向が行間から感じ取れてしまうのが難点。

それでも傾聴に値する意見があるのは私も認めざるを得ない。特に農業と工業を同じ土俵で論じる事への違和感には、私も大いに同意できる。また近代経済というか、市場経済が常に右肩上がりを前提としていることへの異論は、実に興味深いと思う。

私個人の考えでは、ヨーロッパで生まれた近代的思想への懐疑と、石油と電気という第二の産業革命への言及、そして現代の我らが直面する科学の停滞の三点を大いに重視しているので、素直に橋本氏の意見を首肯する訳にはいかない。

だから読んでいて結構反感をそそられる部分はあったのだが、共感できる部分もある。すれ違いの共感とでも評するのが一番適切に思う。いささか迂遠で分かりづらい部分はあるものの、読んでみるだけの価値はあると思います。

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漁港で焼肉

2013-07-26 12:02:00 | 旅行

こんな驚きがあるから、旅は止められない。

急に休みがとれたので、久々に千葉の外房の海に遊びに行った。曇り気味ではあったが、わずか二時間あまりでも日焼けするほどの夏の砂浜は、やっぱり気持ちいい。

少し水が冷たく感じたが、泳ぎだせば関係ない。夏休み初日の日曜日にもかかわらず、砂浜は4分程度の入りであり、昔の芋を洗うような人混みを覚えている身からすると、いささか寂しい。

もっとも好きな場所にマットを広げて寛げるのだから、文句を言う筋合いではない。誤算だったのは海の家が休業中であったこと。おかげで近くのコンビニまで何度か買い出しに行かねばならなかった。

午後は近くのホテルのスパでのんびり昼寝してたら昼食時を逃してしまい、仕方なく近くの港まで行くことにする。別に店のあてがあったわけではないが、せっかく漁港があるのだから、美味しい魚が食べたいではないか。

でも午後も遅い時間なので、漁港は閑散としており、こりゃ駅前に行くしかないと思っていた矢先にその店の看板を見つけた。

採れたての魚をさばきます・・・はイイ。でも焼肉屋さん?

ちょっと疑念を感じながらも、とりあえず店先まで行ってみる。メニューは写真付きで、海鮮料理から焼肉までバラエティに富んでいる。こんな時間にもかかわらず、客は入っているようだし、店の人も忙しそうだ。繁盛店なら、はずれの可能性は低いかな。どれ、試してみるか。

海鮮丼を頼む一方で、煮魚と焼肉も頼んでみる。1800円近い海鮮丼は値段相応の味で、金目の煮つけは少し濃い目の味ながら十分美味しい。で、驚いたのが上カルビ。柔らかくて美味であり、都内の焼肉専門店でも滅多に味わえぬレベル。

調子にのってホルモンも頼んでみると、これがまた脂がたっぷりのったプリプリの大腸。もちろん臭みはなく、炭火にこぼれた脂の量からして卸業者任せのホルモンではないと窺える。

腹いっぱい食べ終えて、一人だいたい4千円前後となり、贅沢な遅めの昼食になったが後悔はない。この味なら納得できる。既に4時を回っていたが、個室の大半は客で埋まっている様子。高くても美味しい店は、この不況時であっても繁盛するのだと良く分かった。

もし千葉の勝浦漁港周辺で美味しい焼肉を食べたいと思ったら、けっこうお奨めです。後で調べたら、漁港の焼肉屋はここ一軒(勝浦駅近くなら他にもあり)らしいのですぐ検索できると思いますよ。

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婚外子問題に思うこと

2013-07-25 12:14:00 | 社会・政治・一般

どうやら今回は違憲判決が出そうな気配がある。

ここで改めて婚外子問題の根幹にある民法について、憶測も含めながら書いてみたい。本来、民法というものは、その国で長年狽墲黷トきた慣習を元に法律として体系化され明文化されたものであるべきだ。

しかし、近代国家としての形づくりを優先した明治政府は、欧州視察の後にフランスの民法を末オ、それを日本の民法の手本として採用して、新たな近代日本の法律として施行するという、なんとも乱暴なことをした。

もちろんフランスと日本では生活習慣は大きくことなるため、帝国大学の法律学者を中心に少しずつ日本向けにすり合わせるという前代未聞の大事業であった。驚くべきことに、これは100年以上たった今でも続いている。

では、今回の婚外子の問題を改めて原点であるフランスの民法から見直してみたい。明治政府の視察団が日本の民法の規範となるべきだと判じたフランスの民法は、別名ナポレオン法典ともいう。もちろん、あの軍事の天才、コルシカの悪魔ことナボレオン・ポナパルトである。

日本では皇帝ナポレオンとの印象が強いかもしれないが、彼には共和国家の守護者としての顔も持つ。もっといえば、フランス革命の完成者がナポレオンである。その彼が編纂を命じて完成したがゆえにナポレオン法典と呼ばれている。

このナポレオン法典が民主主義と自由と人権を謳った近代法の嚆矢であるのは確かだが、もう一つ別の顔を持つ。それは富国強兵策を実現するための手段としての法律であることだ。

フランス革命以前、軍隊といえば王や貴族の私兵であり、いかに国名を振りかざそうと私兵の集合である事実に変わりはなかった。しかしフランス革命により作られた市民兵は違う。

この市民兵は、自ら国民としての義務を守るために軍に入り敵と戦ったがゆえに権利を取得したとの意識が強い。王のもとに集って戦った勇士ではない。共和制国家という新しい国を守るために集い戦った新しい形の兵士であった。

またナポレオンが編纂を命じた民法には、国民を産業国家育成の尖兵とするための仕組みが編みこまれていた。それが家族制度である。夫婦と子供2人の家族を一単位と考え、そのための住宅まで考案している。余談だが、高度成長期の日本に数多く建てられた2DKの団地というやつがその典型である。

すなわち夫は工場で働き、妻は家を守り、子供たちは義務教育により高度労働力の担い手として育て上げる。産業革命の成果を最大限活かすための手段として、家族を一単位として機能させる。これがフランスの考案した新しい家族の形であり、富国強兵策を実現するためにも家族は重要な要素となった。

だからこそ、この新しい民法は婚外子を冷遇する。国家の基本政策に家族が盛り込まれている以上、それを危うくさせる婚外子と、本来の嫡出子を平等に扱うわけにはいかなかったからだ。

もっとも200年前の話であり、現在では社会の在り方も、家族の在り方さえも変わってきている。当のフランスでは結婚しないカップルと、その子供たちは珍しい存在ではない。いや、結婚していても、婚外子の数は増える一方であり、さすがに現在は婚外子を冷遇するような法律は変えられている。

ところで問題は日本だ。ナポレオン法典に準拠した民法は様々な問題を孕みながらも、日本社会にある程度定着している。江戸時代より家族の構成を政府が把握することをやってきた日本にとって、家族を一単位として考える新しい民法はお似合いであった。

驚くべきことに戦前の旧習たる長子相続こそ無くなったが、婚姻により結ばれた家族を中心に考えるナポレオン法典の精神は見事に生き残った。いや、常識として人々の心に深く刻まれたといっても良いくらいだ。

だからこそ、婚外子の権利を妨げる民法の規定が今も残っている。核家族化が進み、昔ほど家に縛られることがなくなった現在の日本にあっても、やはり家族制度を大切に思う人は多いのだろう。

その一方、個人を単位として考えれば、婚外子の相続権を正規の子供の半分とする現行民法の扱いは、明らかに不平等だとの主張が出るのは分かる。分かるけど、この手の主張をする法曹関係者には、少なからず妙な平等思想が蔓延しており、夫婦別姓論者など従来の民法を否定する向きが強いことも知っている。

婚外子の相続権が制限されていることを不当に思う気持ちはあるが、家族制度の維持のための現行民法に馴染んでいる気持ちも強い。強いて言えば、婚外子を養子縁組させればいいだけのようにも思っている。まァ、これはこれで難しいのも確かだが、親が家庭の他に作ってしまった子供に罪はない。相続権を法律で制限することには、いささかの疑念があるのも確かだ。

そう思いつつも、一つの家庭、一つの家族というものを守りたい気持ちは、家族を持たぬ私でもある。これはこれで自然な気持ちなのだろう。

問題の根幹は、相続を法律でその持ち分までも定めてしまっていることだろう。すなわち配偶者は二分の一、子供はその残りを人数で均等に按分する。この法定相続分こそが、婚外子問題の大きな壁ではないか。

一つの解決案だが、遺言の効力を強めたらどうだろうか。まず亡くなった人の遺志を第一に考え、相続人がそれに不満ならば遺留分の減殺請求とする。法定相続分を無効化しろとまでは云わないが、現在の法定相続分第一の相続は、あまりに杓子定規すぎて弊害も大きいように思います。

コメント (2)
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