ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

事実を報じず

2008-10-31 12:29:08 | 社会・政治・一般
報道の自由が、聞いて呆れる。

2年ほど前だが、雑誌「週刊現代」が民主党の小沢一郎の政治団体の疑惑を報じたことがある。都心の高級マンションをはじめ総額10億は超えるとみられる不動産が、政治団体の所有とされることへの疑いの報道であったと記憶している。

政治団体とは、定義上「人格なき社団」とされる。原則非課税の扱いを受けるが、収益事業は法人税が課税される。ただ、法人格がないため、契約の主体となれず、通常は代表者の個人名をもってされる。

つまり総額10億をこえる不動産が、小沢氏個人の名で登記されているらしい。人格なき社団が、多額の不動産を所有することは、想定されていないようで、当時から疑惑の声が上がっていたが、明確に違法であるとの指摘はないはずだ。

ただ、この報道に関して小沢氏側が過敏に反応して、名誉毀損で講談社及び週刊現代が訴えられたと聞いていたが、その後については全く分らなかった。

先日、政治評論家として著名な三宅久之氏の講演を聴く機会を得た。そこで初めて知ったのは、地裁及び高裁での判決は既に出ていて、小沢氏側の敗訴であったらしい。

今年6月に出された高裁判決では、報道は概ね事実に即したもので、名誉毀損には当たらないとのものであったようだ。つまり、週刊現代の報道は事実であって、小沢氏はその事実を報じられたくなかったという事だと思う。

決して違法行為ではない小沢氏の所業は、政治活動資金としてのものであったとしても、やはり灰色の側面が臭うのはいたし方あるまい。それを報道した週刊現代はたいしたものだと思う。

しかし、三宅久之氏は憤懣やるかたない風情で大声を上げる。なぜ、裁判の結果をマスコミは報じない。新聞、TVなどは高裁の小沢氏敗訴を全く報じていないと憤る。

実際、私もこの話を聴くまで、まったく知らずにいた。元・毎日新聞の記者である三宅氏に言わせると、どうも小沢氏側から番記者等を通じた動きの結果の報道規制であるらしい。

やれ、麻生首相がホテルのバーで散財したとか、議員がどこぞのタレントと浮名を流したなどの屑報道をしているぐらいなら、政治家が本気で嫌がる事実を報道するのが、マスコミの使命であろう。

一見合法的な小沢氏の蓄財行為は、十分報道する価値があると私は思う。しかし、週刊現代の発行元である講談社を含め、日ごろ報道の自由を声高に主張する大手マスメディアは、見事に政治家の恫喝に屈した。

政治家に嫌われない程度の「報道の自由」。これが、今の日本のマスコミの程度を示すものなのだろう。
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「薔薇の渇き」 ホイットリー・ストリーバー

2008-10-30 12:18:23 | 
永久に生きたいか。

私は真っ平だ。死にそうな目に何度か遇い、それでも生き延びてきたが、だからといって永遠に生きたいとは思わない。

第一、どのような状態で生きているかが重要な問題となる。溢れる若さと未熟さが同居する20代か、あるいは落ち着きを得た一方で、情熱をなくした30代か。見識の充実する反面、体力の衰えを痛感する40代も悪くはない。

しかし間違っても、ベッドに横たわったままでの永遠の人生なんか欲しくない。

もう一つ大切な問題がある。人は一人では生きていけない。たった一人で永遠の人生を歩むなんて、真っ平御免だ。親が先に死ぬのはまだしも、子供が老衰していくのを眺める永遠の人生は拷問に等しい。かつては美しかった愛する人が、年老いていくのに、自分は変らぬままでいることが、幸せな訳がない。

さりとて、人類全体が永遠の命を得たならば、地上に人が溢れるだろう。過剰な人口は、必然的に争いを巻き起こし、生き残りをかけた醜い争いが恒常化すると思う。

多分、人間の精神構造は永遠に生きることに耐えられないと思う。

表題の本は、たった一人生き残ってしまった人類とは異なる種の人型生命体が主人公だ。古来より吸血鬼(作品中、この言葉は使われない)と呼ばれた種族だが、人間を捕食するがゆえに迫害され、唯一の生き残りとなってしまったがゆえに、孤独にさい悩まされる。

なにせ昼間でも歩き回り、十字架も大蒜も怖がらない。人間の上位種ゆえに、はるかに優れた知能と身体能力をもつが、それでも孤独には耐えられない。だから選んで仲間を創ってきたが、やはり永遠には生きてくれない。

そんな主人公が選んだ、次なる仲間は優れた医学者である女性医師。快楽を武器とし、飢餓感を使って人間を貶める手口を駆使して、女性医師を引き釣りこもうとするおぞましき執念。

ホラー小説では、巨躯巨体のモンスターや醜悪な怪物が登場することが常套手段だが、この作品のモンスターは、精神構造が怖い。究極的には自分しか愛せない怪物が、人間に愛を求めるおぞましさが印象的な作品でした。

なお、80年代に「ハンガー」というタイトルで映画化されたのですが、何故か翻訳されたのが2003年だった幻の作品でした。どうやら続編もある様子。次の末ヘ早めにして欲しいものです。
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膝が震えた

2008-10-29 12:29:57 | 日記
驚いた、膝が震えている。

あれは一年あまりの入院生活を終え、自宅療養に切り替えた数日後のことだった。ほんの一年前までは、筋肉でパンパンに張っていた太ももはやせ細り、長時間歩くのは苦痛だった。幸いなことに、自転車をゆっくり漕げば、二時間程度の外出が可能と分った。

少し離れた古本屋へ行って、数冊本を買った帰り道は、車が渋滞した駅前通りだった。ノロノロ運転の車を横目に、ガラガラの反対車線を走って、前の自転車を追い抜くと、その自転車に乗っていた壮年の男性に怒鳴られた。

なんだと振り返ると、赤ら顔で近づいてくる。「おい、自転車は端を走れ。道の真ん中は車が走るもんだ」と言い寄ってきた。う、酒臭い。こりゃ、酔っ払いに絡まれたと思い、さてどうするか思案する。

体格は案外いい。こりゃ肉体労働系で鍛えた身体だと思える。おまけに夕方から酒の匂いを漂わせているあたり、かなりの暴れん坊を思わせる。しかし、まあ、謝るふりして、どてっ腹に頭突きでもかまして、足首か膝をねじって、後は逃げ去るか。

ふと気がつくと、自転車のペダルに乗せた右足の膝あたりが震えている。なに、これ?

驚いた。私、ビビッていた。

子供の頃から、相手の強い、弱い関係なくして、頭にきたらすぐに喧嘩をしてきたが、膝が震えた経験など皆無だったので、本当に驚いた。まさか、二十歳を過ぎて経験するとは思わなかった。

たしかに退院して間も無く、身体が衰えていたのは事実だが、意識が反応するより先に、身体が危機意識を覚えたということなのだろうか。これがビビるってことなんだなと、新鮮な感慨を抱いたが、それどころではない。

とっさに「うん、おっちゃんの言うことは正しいと思う。でも、おっちゃんも俺と同じで、道の真ん中走っているぞ」と言い返すと、ウワッハハと笑いながら、「そりゃそうだ。まあ、いいから顔貸せや」と、やる気満々だ。

右膝の震えは収まらない。この状態で、やれるかなと疑心を抱きながら、手近に武器を探す。適当なものがないので、隙を見て自転車で体当たりでもするかと考えていたら、近くの居酒屋から、数人出てきて「おい、こっちだ、こっちだ」と呼びかけてくる。

やばい、仲間がいたのか。こりゃ、逃げるしかないと思っていたら、赤ら顔のおっちゃん、急に嬉しそうに「なんでえ、そこに居たのか」と駆け寄って行き、振り返りもしない。

チャンスと思い、すぐに逃げ出す。こんな時、自転車は便利だ。わき道に潜り込み、裏通りから繁華街に入り、人ごみに紛れ込む。もう、大丈夫だろう。

怪我もなく、無事に済んだのだが、精神的には落ち込んだ。まさか、こんなに弱気になっているとは、思いもしなかった。私は根が楽天的なので、自分の身体が衰弱したことを軽く考えていたが、こんな形で現実を思い知らされるとは思わなかった。

まさかビビッて膝が震えるなんて、考えたこともなかった。いくら虚勢をはっても、身体は正直だ。まだ運動は禁止されていたが、その夜から密かに少しだけスクワットと腕立てを始めた。あんな思いは真っ平だった。

心と身体は、必ずしも一致しない。初めて知った、知りたくもない経験だった。
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「AKIRA」 大友克洋

2008-10-28 12:18:05 | 
絵と漫画は違うと思う。

よく描かれた絵を観ていると、様々なイメージが絵から流れ込んでくる。川のせせらぎを耳にすることもあるし、森を渡る風の息吹を感じることもある。絵を鑑賞することにより拡がる想像力は、広大にして無辺だ。

しかし、漫画は違う。漫画の絵からはストーリーが提供されねばならない。そのために、漫画は絵を連続して並べ、吹き出しや擬音をまでも描いて、読者をストーリーに引きずり込む。拡がるイメージは、絵のそれよりは限定される。限定されるがゆえに、明確なストーリーが伝わるのが漫画だ。

また、漫画の絵には動きが感じられなくてはいけない。動きは変化であり、時間の経過でもある。漫画のなかで描かれる物語にリアリティがなければ、ストーリーが薄っぺらくなる。

単なる静止画の連続から、動画に近い表現が求められる。しかし、動画を目指しながらも、漫画は映像(映画やTV)とは異なる進化を遂げた。

20世紀は、漫画の進歩の世紀でもある。映画の手法を取り入れた手塚治虫。分業制を徹底したサイトウタカオ。漫画の作画者と編集者との協同作業をより作品の質を高めた集英社や講談社、小学館。映画やゲームといったマルチな展開を繰り広げたコロコロ・コミックなど、漫画の進歩は果てなく拡がった。

そんななかで、改めて絵の表現力に力を入れて、世界中に驚きの渦を巻き起こしたのが大友克洋だと思う。細緻にして大胆、豪放にして繊細、見たことの無い視点で描かれた、その絵が繰り広げるストーリーに誰もが引き込まれた。

表題の漫画を読んだのは20代の頃だが、その表現力の豊かさに驚嘆した。健康優良不良少年こと金田が、バイクに乗って廃墟のハイウェイを疾駆する場面の臨場感に引き込まれた。通常ではありえない視点から描く日常風景は、改めて漫画と言う表現手段の可能性を高めた。

確信があるわけでもないのだが、近年のハリウッド映画のCG特撮映像を観て、これ漫画で見たぞと感じることがある。大友克洋の漫画はその嚆矢だと思う。

実のところ、大友氏の画風は漫画界にこそ多大な影響を与えた。天才と言う言葉は安易に使いたくないが、他人に模倣されるほどの独自性こそ、大友克洋が天才である証左だと思う。
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ペットは家族・・・だが

2008-10-27 13:54:26 | 社会・政治・一般
9月12日最高裁第二小法廷において、気になる判決が下された。

宗教法人の行うペットの葬祭業が、税法上の非課税事業か、それとも収益事業かを争う名古屋高裁の控訴審で、原告(宗教法人側)の敗訴を受けての、最高裁への上告であった。

宗教法人側は、ペットの葬祭を人間同様に宗教的意義があり、宗教活動の一環であるとして、非課税事業であると主張した模様だ。

一方、国(国税局)側では、ペットの葬祭は、一般の事業者の行うものと大差が無く、役務提供の対価として法人税法上の課税が相当であると主張して、課税処分を行っている。

津野修最高裁裁判長は、この宗教法人の葬祭事業について、一般の事業者の行うもの(当然に収益事業として課税)との対比や、ペット葬祭業の内容を吟味して、役務提供の対価と考え、収益事業だと判断したようだ。

報じられた記事を読みつつ、複雑な気分に陥った。

ペットは家族だと考える人は多いと思う。大事な家族の一員であるペットの死を悼み、葬儀をあげる人はけっこう多いと思う。率直に言って、ペットの葬儀には宗教的意味合いはあるように思える。

かれこれ30年以上、犬を飼うことを諦めているが、いつかは犬を飼いたいと願っている。もし、その犬が死んだら、当然に弔ってやりたいと思うだろう。これを宗教行事と言わずして何と呼ぶ。

その一方で、ペットの葬儀事業を行う一般の事業者と、宗教法人を分け隔てすることもオカシイと思う。ペットの葬儀事業で生じる利益について、一般の事業者が課税され、宗教法人が非課税であることもオカシイといわざる得ない。

そもそも犬に限らず、ペットに人間の宗教行為を押し付けることも、いささか不遜な気もする。多分、宗教は人間様のものであって、ペットのためではあるまい。

野生のアフリカゾウが、死んだ仲間のゾウの骨の残骸を、その長い鼻で優しくなでているシーンを観た事がある。多分、あれがゾウにとっての弔いの行為なのだろう。ある程度の知能の高さが認められる動物には、仲間の死を悼むと思われる行動があることが知られている。動物には動物のやりかたがあり、人間のそれとは同じである必要はない。

つまるところ、宗教的行為とは何かまで突き詰めないといけない気もするが、最高裁はその点を避けたようだ。ある意味、非常に行政追随型な判断でもある。ただ、完全には納得しえない。やはり割り切れない。

近いうちに裁判員制度が施行される。誰もが裁判に関る日が、間近に迫っている。間違いなく、多くの混乱と失態が繰り広げられると思う。されど、敢えてやってみるべきだとも考えている。

お茶の間の評論家としてではなく、当事者として問題に直面して、正しき結論を出す難しさを誰もが一度は知るべきだと思うからだ。

法律に基づく社会にあっては、常に法が現実に置き去りにされる危険性を認識する必要がある。時代の変化に合わせて、社会のありようは必ず変化する。文書化された法律は、その変化に必ずしも対応できるわけではない。その矛盾を明らかにする場が裁判だと私は考えています。

裁判の場にあっては、法による公正な判断が求められるのは当然ですが、法が完璧なものでなく、必ず現実との差異が生じることを思えば、そのずれを補填するのは、その時代に合った常識であるはず。

現在の日本の司法試験は、あまりに高度に複雑化していて、受験に専念しなければ合格は不可能に近い。しかも、その期間は数年間に及ぶ。私からみると、社会常識を十分に身に付けることなく、受験の世界に閉じこもり、その後にいきなり司法の場に立つ裁判官らの非常識、不見識ぶりが近年目に付くのです。

司法知識が十分あるからといって、社会に合った常識や見識があるわけではない。私から見ると、裁判官ら司法関係者は現状(現行の法制度)を正しいと規定し過ぎる。常に変化する社会に適合しているとは言いかねる法制度の矛盾に目をつぶり勝ちに思えて仕方ない。

その意味で司法制度に素人である一般市民の司法参加は、価値有るように思える。高度な司法知識を持つものだけが納得するような裁判は、法治国家にとって決して良いものではない。普通の常識を持っているはずの一般市民が納得できるような司法であって欲しいのです。

おそらく裁判員制度は司法の場に混乱を巻き起こすでしょう。それでも試す価値はある。どうせ完璧ならざる人間のすることです。必ずミスを犯すのが人間である以上、そのミスを直す努力は必要です。司法の場において、かなり非常識がまかり通る現実を、一般市民に分らせるだけでも、試してみる価値はあると思います。
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