ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

表現の自由に思うこと

2015-01-30 12:06:00 | 社会・政治・一般

自由という権利を行使する際には、自制が求められると思う。

フランスの風刺画がイスラム教徒を怒らせて、遂にはその発行元の新聞社を小銃で襲撃して十数名の死傷者を出した事件が起きた。フランスはもとより表現の

自由を掲げて、テロには屈しないと宣している。

それはフランスのみならず、ヨーロッパやアメリカなどの民主主義国家においても共感を呼び、各地で表現の自由を標榜したデモが起きた。一方、イスラム教

を冒涜する行為に他ならないと、アフリカや中東では、反発するデモも起きており、21世紀はキリスト教徒とイスラム教徒との争いの時代かと思わせるほど

である。

私はといえば、亡くなられたフランスの新聞社の方々を悼む気持ちはあれど、心情的にはイスラム教徒に同情的だ。誰だって心の中に大切に思う偶像がある。

それを理不尽に冒涜されれば怒るのは当然ではないか。

表現の自由には、相手を愚弄し、冒涜する自由もあるのかもしれない。しかし、権利を行使する以上、義務の存在も考えるべきだ。相手が愚弄された、冒涜さ

れたと感じることが予測できる以上、その相手の面前でも許される程度の表現に留めるべきではないか。

更に付け加えるなら、言論の自由とか表現の自由といった概念は、近代の西欧文化において生まれた稀有なもの。人類の歴史の大半においては、言論の自由も

なければ、表現の自由もない。

自由を素晴らしいと讃えるのは結構だが、その自由を行使した結果から生じる反応にも慮るべきではないのか。世界のすべてが近代西欧文化に屈している訳で

はない。

私には、どうもフランスを始めとして西欧先進国が言うところの言論の自由や表現の自由には、高慢さが感じられて仕方ない。本当に自由だというならャ泣m

規制はどうだ。麻薬販売の広告の自由はどうだ。殺人依頼広告の自由はあるのか。

不完全な人間には、完全なる自由なんて許されない。自省と自立と自制あってこその自由だと私は思います。

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サッカー アジア杯ベスト8で敗退

2015-01-29 15:40:00 | スポーツ

サッカー、なめんなよ。

そう軽薄なマスコミ報道に言いたくなる。なにしろ、日本は連覇がかかっていると勇ましい報道ばかりで、アジア杯の厳しさを伝えるものは少なかった。私は70年代、80年代の日本サッカーの底辺時代を知っているので、マスコミのいい加減な報道に呆れていた。

実際、日本がアジア杯で活躍するようになったのはJリーグ元年、オフト監督に率いられて以降である。アジアでは屈指の強豪である韓国でさえ、連覇どころか優勝すら遠いいのがアジア杯。

今回だって前評判の高かったウズベキスタン、ガルフ杯の覇者カタール、中東の古豪サウジアラビアは早々に消えている。ブラジル大会では最も強く思えたイランでさえベスト4には残れなかった。

そんな中、我が日本は今回のアジア杯では準々決勝でUAEに1-1でPK戦で負けての敗退であった。残念な結果であったが、私は負けたことにそれほど失望はしていない。

予選リーグから観ていたが、実に手堅い試合運びをしていた。特に守備が固かった。組織的な守りがよく出来ていたと思う。その一方で呆れていたのが、決定力のなさであった。

なにしろシュートが枠に飛んでない。特にゴール前の混戦では、怒鳴りたくなるほどシュートが入らない。もっとも、これは未だかつて、絶対的なエースを持ったことがない日本代表には、当たり前の光景でもある。

それにしたってUAE戦はひどかった。なにしろ相手の6倍シュートを打ちながら、入ったのは途中出場の柴崎の1点だけ。入って当たり前とされるPKでさえ、本田も香川もはずしている。あれじゃ勝てる訳がない。

試合そのものは勝てるはずであったと思う。でもシュートが入らない、だから勝てない。ある意味当然の結果ではないかと思う。これは監督のせいではないが、敢えて云えば若手の先発起用に慎重に過ぎたせいではある。

もちろん、実績がある本田や遠藤を選んだアギーレ監督の目は確かだ。その一方で、ブラジル大会でのレギュラー陣を押しのけるような、若手の成長株が見当たらないのも事実だ。ちなみに柴崎はベンチ組であり、既に代表招集の常連だ。

実はこの十年、日本サッカーは若手の育成に失敗している。U17、U23といった若手の世界大会で、まるで実績を残していない。それは若手主体で挑んでいる五輪サッカーをみても明らかだ。

かつての黄金世代(中田英や稲本、高原ら)は若手としてA代表のレギュラー陣を押しのける実力があった。しかし、今の若手ときたら先輩方の顔色をうかがうばかり。

ブラジル・ワールド杯の時に活躍した国は、みんな20歳前後の若手が活躍しているチームばかり。一方、我が日本はといえば、ザッケローニにせっかくチャンスを与えられても、それを活かせないボンクラばかりではないか。

ちょっと活躍しただけでスター扱いする馬鹿なマスコミと、それに乗せられた選手も悪い。だが、敢えて言いたい。彼ら若手を指導してきた指導者はどうしたのだと。

Jリーグが始まって十年くらいは、外国から監督のみならずコーチ陣も連れてきて、彼らに1軍はもちろん若手主体の2軍チームをも指導させていた。しかし、長引く不況から、指導者も外国人から日本人へと変えるチームが相次いだ。

はっきり言おう。現在の日本人コーチには世界に通じるサッカーを指導できる人材はいないと。なにせ、大半の日本人コーチはワールドカップの出場したことはないどころか、アジア杯でさえ優勝経験はない。つまり致命的にサッカー経験値が低い。

その日本人コーチの指導を受けた若手選手が、世界どころかアジアでさえ通用しない現実をどう見るのか。すぐに監督批判を繰り返す日本のサッカー報道が、如何にレベルが低いものであるかが良く分かる。

日本人コーチに職を与えたいチームの意向も分かるが、これだけ実績を残せずにいる現実を直視しろと言いたい。これはACLで凡退を繰り返すJリーグ各チームにも云えることだ。

結果を出せない日本人コーチの質の低さ、スター気取りの若手選手のダメっぷりを非難できない日本のサッカーメディアが如何にダメなのかが良く分かるのが、今回のアジア杯の成果でしたね。

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農協改革の背景

2015-01-28 11:51:00 | 社会・政治・一般

第二の自民党(ただし農林派限定だが)ぶっ壊し計画だと、私は考えている。

元々の始まりは「自民党をぶっ壊す」と威勢よく登場した小泉・元首相である。正確には公共事業に巣食う自民党の経世会潰しが表向きの目的である。だが、その裏には大蔵省(当時)が画策していた公共事業費の大幅削減があったのは確実である。

実際、小泉改革以降、政府の公共事業は大幅に減少に転じ、梼Yしたり、合併救済されたゼネコンが続出した。同時に建築業界に大幅なリストラが強行され、多くの熟練技工士が職を離れた。

これは日本経済に大きな影を投げかけたが、大蔵省は公共事業費削減を達成したことに満足してはいなかった。そこで次の手を打ち出すつもりであった。それが農政改革だ。

しかし、第一次安倍内閣は早期退陣であり、福田政権は現状維持に固執した。麻生内閣で再びと思ったが、公共事業の削減は自民党政治への不信を招き、結果として民主党政権誕生の土壌となった。

その民主党を陰で支えたのが当時の財務省、勝事務次官であったが、民主党は見当違いの政策実現に奮闘し始めてしまい、なかなか農政改革には手を出しずらかった。とりあえず消費税の増税案を実行したことで満足せざるを得なかった。

そこで登場した第二次安倍内閣には、なにがなんでも農政改革を実行してもらわねばならなかった。

今だから分かるが、バブルの崩壊による住専の不良債権処理が遅れたのは、住専への大口出資者である農協を守るためであった。農協を潰さないために、自民党は躍起になっていた。そのことを深く恨んでいたのが当時の大蔵省である。

しかし、農協は自民党の集票団体であり、容易に手が出せなかった。しかし、農業が日本経済に大きな役割を果たしているとは思えず、そのわりに多額の財政支援を余儀なくされていることに憤る大蔵官僚は少なくない。

小泉という絶好の改革者を得た大蔵省は、公共事業に関連する農業支出を徐々に絞っていった。その結果、農協は自民党に見切りをつけて民主党に鞍替えした。民主党が失政により退陣しても、素直に自民党への支持へと動けなかったのは、TTP交渉があったからだ。

もはや自民党及び財務省は、農業を守る気はないと農協側が考えても不思議ではない。だからこそ、先の選挙で九州などにおいて自民党候補が落選した。実際、第三次安倍内閣は農業を守る気は少しはあるようだが、農協を守る気はない。

ところで、農協は農家のためにあるのか、私は疑問に思うことは多々ある。ご存じの方も多かろうと思うが、現在の農協は、農家のための共済団体とは言い難い。むしろ農家を名目とした巨大な金融組織である。

なかでもJA共済の巨大さは群を抜いている。JAの金融機関としての規模の広さも無視できない。地方へ行けば分かるが、メガバンクはなくても郵便局とJAがあれば、ほとんどの金融為替業務は対応できる。

そして、この巨大な金融組織は、自民党及び農水省の縄張りであった。金融機関であるにも関わらず、財務省及び金融監督庁に権限はなく、郵貯の財政投融資に次ぐ、裏の資金源でもあった。

だからこそ、日本各地の農協を監督する権限を、なんとか中央農協から取り上げたい。これは財務省と農水省の縄張り争いの第二陣なのだ。ちなみに第一陣は、小泉改革による公共事業支出削減である。財務省は少しずつ外堀を埋めにかかっている。だからこそ、中央農協は断固として、安倍内閣の農中改革に抵抗するのだ。

そこで、改めて問いたい。いったい、この改革は日本各地で高齢化と後継者難に悩む農家の為になるのか、と。

私は農協を巨大な金融機関だと書いたが、それは中央農協の話であり、日本各地にある地域の農協を指すものではない。一般的な傾向として、やる気のある農家ほど、農協を使わずに出荷する傾向がある。

例えば農家のAさんが、長年の研究成果として格段に美味しいコメを作ったとしても、それを農協に出荷すると、他の米とブレンドされてしまう。農協は農家全体の共済組織であるから仕方ないのだが、それではAさんの努力は実らない。

だからAさんは、農協を通さずにエンドユーザーに個別出荷する道を選んだ。仲介する商社や、直接取引を望む飲食店の援助もあり、Aさんの収入は右肩上がりだ。しかし、農協はそれが気に食わない。だから妨害することさえある。

その一方で、農協が主導して地域の特産品を開発し、地域の農家の協力のもとに売り上げを伸ばすことも珍しくない。日本各地にある農協は、現在の農家の現状を理解しており、危機感を農家と共にしているからだ。

私の観たところ、成功例よりも失敗例が少なくない。だが、それでも農協と農家は生き残りを賭けて、模索をしている。その農家や農協にとって、今回の農協改革はいかなる影響があるのか。

安倍内閣と、中央農協の深刻な対立を報道するのはいいが、マスコミの報道は視点が定かでない。いったい、状況を分かって報道しているのか、さっぱり分からない。はっきり言えば、何が起きているのか分からずに報道している感が否めない。

邪推だが、官庁付の大手マスコミは、官庁から配布される資料の横流し報道に慣れ過ぎて、現場を取材する労苦をしていない。だから、あんな時間潰しの報道でお茶を濁すのだろう。

私は21世紀を、水、化石燃料、そして食料の世紀だと考えている。人間、金はなくても生きられるが、食べ物がなければ生きていけない。その食料を作る農家の問題を軽視するマスコミの見識のなさには呆れてしまいます。

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フリージャーナリスト

2015-01-27 12:05:00 | 社会・政治・一般

思わず吹き出してしまった。

先週末のことだが、ワイシャツにアイロンをかけながら、何気なく付けたTVのスイッチ。イスラム国の人質事件に食傷気味であったのだが、若いアナウンサーがビートたけしのことをフリージャーナリストだと紹介したのに面食らった。

よくよく画面を見ると登場したビートたけしの下にフリージャーナリストとのテロップが流れていたのに気が付いて、吹き出してしまった。さすがは、ビートたけしである。もちろん物議を醸すような発言こそしなかったが、あのテロップ一つで彼の冷笑ぶりを察することが出来てしまった。

フリージャーナリストって便利な言葉である。

どうも、世間にはこのフリージャーナリストを既成のマスコミなどの組織に縛られずに、自由に取材をしている真の報道人だと勘違いしている、あるいはそう思って欲しい人たちがいるらしい。

私に言わせれば、専属契約を持てない、すなわち仕事の出来ないジャーナリストが多く、組織に所属しない自由であるが故に信頼がなく、自由であるが故にお金に不自由する人たちである。

もちろんフリーと名乗りながらも、大きな仕事を取れるジャーナリストもいる。このタイプは自らが事業者であり、会社を運営していることも少なくない。またTVや新聞社を離れてフリーの立場になったといっても、実際は大手のスャ塔Tーがいたり、どこぞのマスコミの専属契約などを持っていることのほうが多い。

当然である。会社組織、すなわち給与をもらう立場を離れて請負による職業報道人となる以上、稼がねばならない。稼ぐためには、仕事を取らねばならない。仕事を発注する企業(新聞、TV、雑誌社など)の要望に応じて稼ぐ以上、それなりの制約がある。

フリーと言いつつ、活躍するフリージャーナリストはそれほど自由に報道出来る訳ではない。なんといってもお客様は神様であり、この場合お客様は視聴者や読者ではなく、フリージャーナリストにお金を払ってくれるマスコミそのものとなる。

もちろん、ボランティア意識の強いフリージャーナリストがいることも分かっている。彼らの善意なり、矜持なりを全て否定する気はない。ただ、これだけは言いたい。フリージャーナリストは取材をして得た情報を売ることで成り立つ職業である。

そのために危険地帯へ自ら進んで行き、希少価値のある情報を入手して、それを売ることが生計が建つ。乱暴な言い方だが、商売のために危険地帯は赴いている。

生きていくためには、お金は必要であり、お金があることで出来ることは数多ある。だからお金目的の取材と報道を否定する気はまったくない。むしろ、安全に拘り、危険地帯へは絶対に行かない大手マスコミには出来ないことをすることで価値が出る職業だとも思っている。

しかし、ハイリスク、ハイリターンの現実も確かにある。いわば危険な博打打的行動に出た結果が、今回の人質事件でもある。

おそらく、ビートたけしはそのあたりの事情を承知の上で、敢えて番組冒頭に自らを紹介するテロップに、わざわざフリージャーナリストだと入れたのだろう。実に辛辣であると同時に、狡猾だとも思う。

まァ、ありきたりの人質報道にうんざりしていた私には、実に爽快な彼のジョークであったのですがね。

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狼の紋章 平井和正

2015-01-26 12:05:00 | 

中学生の頃、私の書斎は二段ベッドの上段であった。

隣に置いてある衣服箪笥の上に、段ボールで即席で作った書棚があり、そこにはお気に入りの本が並んでいた。私は気に入った本は、何度でも繰り返し読み返す癖がある。ベッドの上に寝転んで、私は文庫本を読みふけった。

一番、沢山読み返したのは吉川英治の「三国志」だが、熱中というよりも熱狂したのは、平井和正のウルフガイ・シリーズであったと思う。ルポライター・犬神明のアダルト・ウルフガイもいいが、やはり高校生の犬神明が学園を牛耳る番長たちと争い、やがてはシナの諜報部をも巻き込んで、アメリカCIAと戦うウルフガイ・シリーズには熱狂した。

狂騒的に読み込んだといっていい。当時、これほどまでに激しく熱い小説はなかった。なかでも、犬神明がスコップ一丁で、地下を掘り進み、恋い慕う女性教師を救うためにCIAの基地に殴り込む場面は、今でも思い出せるほどだ。

続きが早く読みたくて仕方がなかった。平井和正の遅筆の原因が、読者からのファンレターに返信を書いているからだと知ってからは、ファンレター禁止を編集部に投函したぐらいである。

月の満ち欠けに左右されるとはいえ、無敵の体と傷つきやすい繊細な心を持つ犬神明の物語は、平井和正の人間に対する絶望があってこそであった。その苦しみから逃れるために、平井和正は宗教へと走った。

平井和正はそれで救われたのかもしれないが、多くの読者はまるで放り出されたかのような寂寥感に包まれた。神の愛を語る犬神明に唖然とし、人の愚かさを悪魔の誘惑のせいにして納得するウルフガイに呆れ果ててしまった。

熱狂は醒め、私は本棚の奥にウルフガイを仕舞いこみ、忘れることにした。

その後二十年近くたって、平井和正は宗教から少しだけ距離を置き、再び小説を書き出したが、私は一冊も読んでいない。読者の期待を放り出した作家の裏切りを許す気にはなれなかった。

その平井和正が亡くなったとの報が出たのは、一月中旬のことである。新聞などを読むと、代表作は「幻魔大戦」とある。ウルフガイに触れている記事もあった。

私からすると、平井和正の最高傑作は「死霊狩り」だ。人間への絶望をこれほどまでに露骨に書いたゾンビ・ハンターこそ、私にとって未完に終わったウルフガイに勝る彼の最高傑作だと考えている。

未完ではあるが、それでも二段ベッドの上で寝転びながら、夢中になって読んだ「狼の紋章」から始まる犬神明の物語がつむぎ出す興奮は忘れることの出来ない青春の一頁であった。

いろんな意味で残念ではあるが、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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