ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ありがとう」 山本直樹

2007-02-28 12:22:30 | 
我が家の不文律は、家の外でのゴタゴタは持ち込まないことだと思っています。これは親が宣言したわけでもなく、私が勝手に思い込んでいるだけなのですが、不思議と家族全員が守っている約束事なのです。

父母が離別したのは、私が小学校2年の夏でした。親たちは子供たちの前では、一度も喧嘩した姿を見せなかった。まあ、なんとなく不自然には感じていましたがね。

私は十代に入る前から、警察、MP、交通機動隊などの世話になり、施設送りを本気で検討される問題児でしたが、家で暴れたことはありません。思春期になり、母親を口論で言い負かした時など、妹どもから総攻撃を喰らい、哀れにも家を放り出されたことがある程度です。

妹どもも、誰に似たのか、よく外で問題を引き起こしていましたが、やはり家庭内にトラブルを持ち込むことはしませんでした。でも、決して仲が良かったわけではないと思います。まあ、女同士で固まっていて、長男様が疎外(自主的に・・・ですが)されていたこともありますが、家族でまとまって行動することは、冠婚葬祭以外はまずない。そんな家族です。

そんな訳で、私はあまり家庭的な人間ではありません。アットホームな雰囲気が苦手なくらいです。だからと言って、家庭を否定しているわけではないのですが、積極的でないのは事実です。

表題の漫画は、長期の単身赴任から帰った父親が、崩壊した家族をなんとか立て直そうと奮闘する姿を描いたものです。酒と怪しげな宗教に走る妻、人格が崩壊した長女。部屋に男どもを連れ込み乱交する次女。完全に壊れた家庭と、それに振り回される父親。七転八倒する父親が選んだ、最後の解決手段は・・・なんとも後味が怪しい結末は、良くも悪くも印象的でした。家族をお持ちの方でしたら、とんでもないと憤慨するかもしれません。そんな作品です。

作者は、もう一つのペンネーム「森山塔」のほうが有名かもしれません。知っている人は、かなりHな人でしょう(苦笑)。長くH本にスケベな漫画を描いていたのですが、当時から技量は高く、表の漫画の世界でも十分活躍出来るはずでした。そう思う編集者は多かったようですが、作者にはこだわりがあったようで、山本直樹のペンネームでメジャーな漫画を描くようになっても、やはり一筋縄ではいかないヒネクレ者でした。

相当に癖のある漫画ですから、多分読み手を選ぶ漫画だと思います。それでも、下手な文訣?iよりも、家庭というものについて考えさせられる作品であるのは確かです。
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「科学の終焉」 ジョン・ホーガン

2007-02-27 14:45:06 | 
私は比較的、楽天的な性格だと思う。そうなのだけれど、悲観的にならざる得ない場合もある。

私が悲観的にならざる得ないのは、現代文明の行き先だ。18世紀の産業革命に端を発した、この文明は科学の発達を前提としている。その科学の進展に希望が見出せない。それあ悲観の根幹にある。

現代の文明は石油と鉄と電気で動く。様々な改良が施されてはいるが、その根幹は20世紀初頭に完成したもので、以来1世紀ちかく抜本的な新しい発明は皆無ではないか?

原子力があるといいたいところだが、あれは未だ未完成の技術だと思う。少なくとも核融合の実用化を実現しない限り、先の見えた分野だと思う。そして、核に関する最先端の研究をしている科学者からは、悲観的な発言が相次いでいる。膨大な予算を必要とする事業ゆえ、その声が大きく取り上げられることは少ないが、実用化はまだまだ遠いというのが現場の多数意見らしい。

バイオや遺伝子技術などもあるが、やはりそれが今後の人類の根幹を支えていくとは考えにくい。新発明や、新技術の発展も枝葉末節的なもの(応用技術とも言う)が多く、とりわけ基礎科学の分野での新たな発見は半世紀あまりないとさえ言われている。

表題の本は、発刊後かなり評判を呼び、とりわけ最先端の科学分野で活躍する科学者たちから反発を買った。私自身、この本は少しエキセントリックに過ぎると思う。例えて言うなら、TVのワイドショー的誇大表現が目立つのは事実だと思う。

それでも無視し得ないのは、やはり現代文明の先行きに不安を感じているからだ。化石燃料費消型の文明は、必然的に環境問題を引き起こす。古来、幾多の文明が衰退により滅んだ。外敵の侵略で滅ぶよりも、自ら自壊の道を辿る文明のなんと多いことか。

急激に発展した現代文明は、いま大いなる停滞の時期を迎えつつあるのではないか。そんな疑問が脳裏から消えることのない。停滞とは悪いことばかりではない。それは安定の時代でもある。だとしても、発展から停滞に至る過程での混乱は避けられまい。

別に予言者を気取るつもりはなく、観察者で十分だと思っていますから、偉そうなことはこの辺でやめておきます。臆病者の私は、こんな不安な時代だからこそ、今を幸せに生きたいです。さて、今夜は何を食べようかな~♪
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「シビル・アクション」 ジョナサン・ハー

2007-02-26 09:25:11 | 
これはアメリカで実際にあった水道汚染訴訟を報じたドキュメンタリーです。

私はグリシャムやバリー・リード(作中登場します)、マーゴリンらの法廷を舞台としたリーガル・サスペンスが好きで、良く読みます。しかし、今回の迫真のノン・フィクションを読んで、小説と現実との違いがよく分かりました。

上下巻で700ページに及ぶ長編であり、饒舌で回りくどく、詳細ゆえに退屈な場面が少なくないのですが、これこそが実際の訴訟なのでしょう。小説では、その多くの場面が切り捨てられ、読みやすいものとなっていることが良く分りました。

正義感に燃えた弁護士が、多大な労力と膨大な資金を投入して証拠を探し、我が身を燃え尽くすほどの献身的な努力をしてもなお、理想を実現できぬ苦しみ。世間から非難の対象となることの多い弁護士の高収入の裏側を赤裸々に明かし、そのギャップに唖然とさせられました。

ネタばれになるので詳しくは書きませんが、小説のような華麗な結末は期待しないでください。小説のように分かり易くもなく、エンディングを迎える爽快感もありません。だからこそ、リアリティがあるのでしょう。ハッピーエンドとは程遠い結末に失望すら感じるかもしれません。

読んでみて、現実の厳しさを感じる一方、仕事に一身を捧げるその姿に憧れを覚えざる得ませんでした。膨大な資料に埋もれ、敵側の弁護士の姑息な妨害に振り回され、自己破産の危機を招くほどの資金を投下しての活動。そんな努力をしてもなお、十分報われるとは限らぬ理不尽さ。精神的に異常をきたすほどの苦悩。そんな姿を見せられても、それでもやはり憧れを感じてしまいます。

私はこれほどまでに、仕事に没頭したことはない。自分を破滅に導くほどの献身をもって、仕事をしたことはない。そのことに、少々羞恥心を感じてしまい、そのような仕事を持てることに、憧れすら感じてしまった。

いろいろと非難されることの多い、アメリカの訴訟社会ですが、日本のようにお役所任せではなく、自らが社会正義の実現に動く在り様には、好悪の情を越えて考えさせられます。
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「この厄介な隣人、中国」 岡田英弘

2007-02-24 14:14:05 | 
私は仕事柄、守秘義務に縛られているので、以下の文は大幅に脚色してあることを、予めお断り申し上げます。

以前、ある繁華街で中国人相手に仕事をしていたことがあります。紹介を受けての仕事でしたが、飲食店を中心に数店のお店の税務申告でした。Aさんは大陸から来て、苦労してお店を持った方だけに、金銭に対して極めてシビアな感覚の持ち主であったことが印象的でした。

不思議なもので、一度信用されると、次々と人脈が拡がり、仕事的に大きな展開をみせそうな気配が、私を熱心に駆り立てたものでした。ところが数年後、中国人同士で争いが始まったようで、入管への密告やなんやで、お店が潰されたり、暴力事件が起きたりと物騒な気配が漂いはじめたのです。

私がAさんから紹介され、何度か相談にのったこともあるBさんが、私のことを悪し様に罵っていると聞かされたのは、その頃でした。複数の人から聞かされたので、私は戸惑いました。Bさんとは直接の仕事を受けたわけではないし、口論などのトラブルも覚えがなく、恨まれる道理がない。

直接Bさんに問い質したかったが、間接的な噂を元に聞くのは失礼かと思い、悩んでいた最中でした。中国人同士の争いがエスカレートして、ついには殺傷事件まで起きてしまったのです。ついにはAさんのお店は潰され、国外へ逃亡。Aさんと繋がりがあった私は、身の危険を感じて暫くは、その街には近づかないようにしていたため、Bさんの誹謗の真意は分らないままでした。

数年後、隣町の外人クラブでクライアントと飲んでいたときのことでした。私の席に付いたのは中国小姐のC嬢。あれ?と思ったら、以前Bさんのお店で働いていた人でした。彼女も私を覚えていたようで、「センセー、久しぶり~」と嬉しそう。話ははずみ、店を終えたら食事に行く話しになりましたが、思い出したのはBさんが私を嫌っていたこと。

彼女に「私と一緒に居て大丈夫か?」と聞くと、彼女は少し考え込み、やがてニッコリ笑って一言。「あれはAとBの問題。センセー関係ないヨ」とのこと。正直納得いかなかったが、Bの店でチーママを任されていたC嬢の判断を信じてみることにした。

C嬢に連れられて行ったのは、案の定Bさんの経営する店だったが、何の問題もなく美味しい食事を満喫できた。Bさんは不在だったが、Bさんの奥さんが懐かしそうに話しかけてきた。あの噂はなんだったんだ?

謎が解けたのは、表題の本を読んでからでした。要するにAさんを攻撃したかったBさんは、Aと繋がっていた私を攻撃(日本人とグルになっている!!)することで、Aを追いやったらしい。面子を気にする中国人独特の喧嘩の仕方のようだ。そういえば、Bさんが私のことを罵っていると伝えてきたのは、皆日本人だった。そんなの分るか!

中国人とのトラブルにお悩みの方が、いらしたら是非一読されることをお勧めします。目から鱗というか、唖然呆然です。同じ人間とは思えない発想法、それが中国人。
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「聖刻群狼伝」 千葉暁

2007-02-23 15:21:01 | 
私は十代の頃、やたらと権威なるものを嫌っていた。高校野球における高野連とか、相撲における横綱審議会などがそうだ。本の世界でいうなら、純文学賞選定者って奴が大嫌いだった。

だいたいに、日本の文壇は、男女の別れとか、社会の軋轢の中での苦悩とかをやたらとありがたがる傾向がある。でも、本って奴はそれだけじゃなかろうにと私は思う。それだけを至高の基準にしているかのごとき印象があって、どうも文学という奴が嫌いだった。お高くとまりやがって、この野郎!である。

だから、吉川英治や山本周五郎が、吾は大衆作家也と公言したときは、しきりと一人肯いたものだった。本には、大衆を楽しませる力があり、お高く留まって偉ぶるばかりが能じゃなかろうと考えていたからだ。

実際、私は本をTVや映画を観るのと同じ感覚で楽しんでいた。楽しくなければ本じゃない、とは言わないが、エンターテイメントに重きを置いていたのは事実だ。

十代の頃、私が夢中になっていたのは、大半が推理小説、冒険小説、伝奇小説、SF小説であった。どちらも日本の文壇では評価が不当に低かった分野であり、私はそのことに大いに憤慨していた。現在は、どちらもそれなりに高く評価されている。私からすると、ようやく文壇の常識が、世間に追いついた感が強い。遅れているんだよ、このタコ!である。

ところで、現在日本の文壇界から不当に低く評価されていると思うのが、ライト・ノベルの分野だと思う。実のところ、ライト・ノベルという表現自体、いささか不明確で、どこからどこまでなのか曖昧なようだ。少々漫画チックな挿絵や表紙が特徴的な、青少年向けの本だと定義できるかもしれない。

昨年、映画にもなりヒットした宮部みゆきの「ブレイブ・ストーリー」なんて、私からするとライト・ノベルなのだが、作者のネーム・ヴァリューがそうさせないらしい。いかなる基準で区分されているのか、さっぱり分らない。

ライト・ノベルとして認知されたのは、おそらく角川スニーカー文庫と富士見ファンタジアあたりだと思う。ただ、私が十代の頃から読んでいたソノラマ文庫も十分、その資格はあると思う。率直に言って、青少年向けの娯楽ものが大半だが、けっこう力量があると思われる作家も少なくない。

現在、ベストセラー作家として著名な夢枕獏氏や菊池秀行氏もここの出身だ。ライト・ノベルの世界は、あまり知られてはいないが、可能性のある作家の宝庫だと私は考えている。そんな私が10代の頃から注目していた作家に千葉暁氏がいた。当時は不思議なロボットやら超能力者やらが活躍する「聖刻1092・シリーズ」が主で、これは今も時代背景などを代えて書き続けている、千葉氏のライフ・ワーク的作品となっている。

あれから20年以上経つが、作者の技量は確実に上がっていると思う。私は密かに、作者が歴史小説を書いてみたら、良い作品が書けるはずだと思っている。例えば織田信長を題材に、若いときからの成長物語を書けば、相当に魅力的な信長になると考えている。それだけの力量はあると思う。もっとも、現在は表題の作品に追われて、他のものを書く余裕はなさそうだが・・・

年配の文芸評論家諸氏は気に入らないだろうが、ライト・ノベルは若い人から支持されている。若い人は本を読まなくなったというが、その若者に売れているライト・ノベルの世界は、将来性のある作家の宝庫だと思う。
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