ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

トッド・スキナーの死

2006-10-31 09:23:22 | スポーツ
初めて本格的なフリークライミングをやったのは、大学4年の5月だった。

WV育ちの私はそれまでは、縦走登山と藪漕ぎ、沢登り、里ワンデリング(徒歩旅行のことです)が中心で、たまに山岳部の連中とエイド・クライミング(人工登攀)をするくらいだった。

道具に頼らず、自分の手足の力だけで垂直の壁に挑むフリークライミングは、頭と筋肉の両方を駆使して登る面白さが魅力で、あっという間にはまってしまいました。三つ峠、小川山、城ヶ崎海岸などのゲレンデをまわり、簡単なルートから困難なルートへと少しずつレベルアップしていきました。当時の私の技量では、5,10後半が限度で一度だけ5,11を成功したことがありましたが、どうも偶然臭い。

社会人になって金をためたら、会社を辞めてフリークライミングの修行で世界旅行がしたいと、密かに目論んでいました。なかでも一度は行ってみたかったのは、アメリカのイエローストーン国立公園内にあるヨセミテ渓谷でした。当時フリークライミングの最先端はフランスでしたが、フリークライミング発祥の地はアメリカ。雑誌などで見た美しい垂直の岸壁は、是非ともトライしてみたかったのです。

残念ながら、難病で身体を壊してしまい、フリークライミングどころか日常生活すら不自由を感じることになってしまい、その夢は断念せざる得ませんでした。今は普通の生活が出来ますが、激しい運動は難しいと思い、山は諦めています。

ところで、アメリカには多くのトッププロ・クライマーがいて、その一人がトッド・スキナーでした。逞しい上半身とは裏腹に、繊細な足裁きが記憶に残っています。上手な人ほど、足の使い方が丁寧で、良き見本となるクライミングでした。

先週末、新聞の死亡欄にトッド・スキナーの名前を見たとき、私の脳裏には褐色の花崗岩の岸壁と、日焼けした逞しい体つきの彼の笑顔を思い出しました。楽しそうだったなあ、彼のクライミングは。
あんな笑顔を浮かべられる彼のクライマー人生に、ちょっぴり憧れを感じたものす。過ぎ去る歳月の速さと、その重さをしみじみ感じた週末でした。
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天下り 批判するのは自由だが

2006-10-30 09:41:10 | 社会・政治・一般
しばしば話題に上がるのが、公務員の天下り問題。批判する人は多い。でもねえ・・・

お子さんをお持ちの方は、よくよく考えて「天下り批判」をしたほうがいいと思う。子を持つ母親たちの多くは、子供の進学問題に熱心だ。よく勉強して、いい学校に入って、上級公務員(いわゆるキャリア官僚)を目指すことを、子供の頃から仕込まれる。どの家庭でもとは言わない。でも教育熱心な家庭では、数多く見られる傾向だと思う。

日頃、公務員の天下りを批判している当人の家族の話を聞くと、けっこう進学熱心な家庭が多い。つまり天下りできるような公務員に子供をさせたいのかい、と話を向けると、それは子供自身の問題だと逃げる。察するところ、奥さんの意向は安定した就職先である公務員にあるようだ。しかも一般職ではなく、あきらかに上級職(キャリア)狙いのようだ。

民間企業の中間管理職である父親の「天下り批判」とはうらはらに、その子供には安定した人生を求める母親の気持ちも分からないではない。多分、わりと良くある話なのだろうと思う。

これまでも、散々叩かれてきた「天下り問題」だが、このような世情を思うと、この先も当分安泰なのだろうと予想せざる得ない。本音と建前の乖離とまでは言わないが、世の民が求めている以上、なくなるはずはないわな。
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「人間豹」 江戸川乱歩

2006-10-28 14:21:39 | 
無粋は嫌いだ。

公序良俗に反するとか、徒に欲情を扇動するとかの理由で、日本では性器を露にしてはならないとされている。映画、写真など、様々な表現に対して、黒墨や黒マジック、最近はモザイクなどで性器が露出しないよう、お上の指導が入る。

断っておくが、私は性の露出に関しては、やはり規制は必要だと考えている。ただし映画や写真などの作品に直接規制(改竄であり、破壊行為でもある)を掛けるのではなく、入場規制などの機会を制限するかたちが望ましいと思う。

馬鹿げていると思うのは、性器そのものを見えなくするようにすれば、公序良俗を守り、過剰な欲情を抑制できると考える、お役所の見識の低さだ。芸術とは、人間の本能に訴えるものなのだから、性器が一部露出しているだけで、それを否定するのは極めて愚かで、無粋だと思う。

そもそも、役人に判断させること自体、間違っていると思う。せめて立法府で判断すべきことだと思うが、なぜかお役人に任せている。それが日本人の気質なのだと言われれば、そうかもしれないと思うが、それでもやっぱりオカシイと思う。

80年代までは陰毛が露出すること自体、やましいことだとされていたから失笑するしかない。最近、昔はぼかしが入っていたはずの映画をDVDで観たが、なぜに、ぼかしが入っていたか理解が出来なかった。ぼかしの必然性が、まったく分からない。陰毛が見えただけで、過剰に欲情するとは、どうみても思えなかった。

世の中には、隠した方がイヤラシイ場合だってある。それを意図して隠す方が、はるかに扇情的だと思う。初めて海外旅行に行ったハワイで、ドラッグストアの奥に堂々展示されていた、100%露出しているHな雑誌は、全然イヤラシサが物足りなかった。あれほどまでに、あっけらかんと性器を露出されると、かえって淫靡さに欠ける気がする。

実は、私が初めてイヤラシイと思った本が表題の「人間豹」だ。悪役がヒロインを裸にして、豹の毛皮のなかに閉じ込めて、いたぶる場面を読んで仰天したのは小学生6年の時だった。誤解されると困るので断言するが、私にSMの趣味はない。だが後年読んだ「チャタレイ夫人の恋人」なんぞと比べても、格段に扇情的で淫靡であったと思う。

作者の江戸川乱歩は「怪人二十面相」を初めとして明智小五郎ものが好きで、熱心に読んでいたのだが、「パノラマ島奇談」を始として、けっこうスケベな作品が多い。私は小学生の頃から、大人向けの推理小説を数多く読んでいたので、スケベな少年に育ち、やがて性犯罪を犯すように・・・

そんなわきゃない! そりゃ、人並みにスケベだとは思うが、正統派のスケベだ。人様に後ろ指刺されるようなHはしたことない。まして性犯罪なんぞ、するかいな。

馬鹿げた性規制なんぞ、性犯罪の抑制の役には立つわきゃない。人間に性欲がある以上、いくら性に関する規制をかけても、性犯罪はなくならない。ただし、青少年の健全な育成という観点から、ある種の規制はあってもいいとは思う。でも、性器を隠すことが規制になるとは思えない。性行為なら、分かるけどさ。

ところで今回、再読してみて思ったのだが、「人間豹」は推理小説としては駄目だと思う。明智小五郎まるで推理してないしね。でも、単純にエンターテイメントとしてはどうか。う~ん、猟奇に頼り勝ちで、いささか消化不良の感が強い。ちょっと、がっかりの再読でした。
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「六三四の剣」 村上もとか

2006-10-27 09:35:29 | 
想像力って凄いと思う。

初めて読んだのは、週刊少年サンデーに30年ほど前に連載された「赤いペガサス」だと思う。まだ世間に知られていなかったF1レースを舞台にした漫画で、ボンベイブラッドという稀有の血液を持つ主人公と妹との近親愛、ライバルやチームメイトとの確執など、少年誌とは思えないほどの濃い内容が印象に残っています。でも、まさか作者の村上もとかが運転免許証を持っていないなんて、想像すら出来なかった・・・そう、連載当時、車を運転したことはなかったそうです。

村上もとかは、その後剣道漫画である「六三四の剣」。登山家に焦点を当てた短編集「岳人(クライマー)列伝」など多数の漫画を描いていますが、剣道の経験はなく、登山の経験もない。いやはや、なんとも脱帽だ。漫画家へ資料を提供した編集者の力量もさることながら、その資料だけであれほどの作品をものにするとは、ただただ敬服せざるえません。

やはり一番印象に残っているのが表題の「六三四の剣」です。岩手山の麓で警察官であり、剣豪である父の指導の下、少年剣士として育っていく六三四が、父のライバルの息子や日本各地の少年剣士たちと日本一を目指して戦い、成長していくドラマでした。

私は子供の頃、剣道なんてチャンバラごっこだと思っていたことがありますが、実はとんでもなく怖い武道でした。剣道をやっている奴と喧嘩(もちろん素手で)してみて分かったのですが、おそろしく間合いを取るのが上手い。しかも、ぶつかり合いに慣れているため、取っ組み合いにも強かった。なにより闘争心が凄い。戦い慣れていやがる・・・あれで棒でも持たしたらお手上げです。

強さの秘訣は精神面にあった気がします。あいつら剣道をスポーツなどと思っちゃいなかった。武道だと言い放たれました。その気迫になんとはなしに気圧されたことを覚えています。この気迫は、柔道や空手をやっている連中からも感じたものです。以来、どうも苦手意識があって、喧嘩早い割には格闘技系の武道からは、距離をおいていたものです。私のように、単に粋がって喧嘩する馬鹿には、格闘技は真面目すぎて、なんとなく気恥ずかしかったのが本音です。

それにしても、剣道の経験がまったくない村上もとかが、あれだけ迫力ある剣道の試合を描けるのだから、人間の想像力って凄いと思う。
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視線の不思議

2006-10-26 09:36:46 | その他
ふとした瞬間に、他人の視線を感じることがある。でも、これって実はとても不思議な現象だと思うのです。

物質に当たった光が反射して、その光が目の網膜に映り、それを映像として脳が認識することで、「見る」という行為が成立します。見るという主体的な行為でありながら、実際は光を受容することで完了する行為なのです。

では、視線を感じる、とはいかなる現象なのか。目は光を受けて、それを映像化する入り口に過ぎず、「目」という器官は光を放つわけではない。それなのに、他人の視線を感じ取れるという現象には、未だに合理的な説明がなされていないのです。

実は先月、渋谷の人ごみのなかで偶然、17年ぶりに友人に再会しました。道端で携帯電話をかけている男性を見て、「あれ?}と思った瞬間にその男性が顔を上げ、「よう!」と挨拶してきたのがきっかけでした。私が視線を投げかけたのは、ほんの一瞬でしたが、彼はその視線を感じて、気が付いたそうです。

なにげない一瞬の視線を、相手に意識させるメカニズムはいかなるものなのか。安易にテレバシーなどと言われても納得できない。自慢じゃないが私は霊感に乏しく、勘は鈍い。それゆえ知識と論理に頼らざる得ない不器用な人間だ。

それでも経験的に、視線にはある種の力があることは否定しがたい。目力(めぢから)という言葉がある。舞台の世界では「目千両」なんて言い方もする。たしかに視線の強い人はいると思う。目の大きさではない。目が大きくても、ぼんやりした視線なら、その視線を感じることは少ない。目が小さくとも、強い視線を出す人は珍しくない。

やはり、目は何らかの光を放っているのだろうか?それとも何かを見るという意識が相手に伝わって、それが視線として感じるのだろうか。

日常的に、当たり前のことなのだが、じっくり考えると不思議なことって、意外とあるものです。それにしても忙しいと、ついつい余計な事を考えたがるのは、私の悪い癖だな。
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