ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ミツバチの失踪

2009-04-30 12:32:00 | 社会・政治・一般
今年は早めに蜂蜜の注文をしておこう。

東京西部にある立川には、クライアントがある関係でしばしば訪れる。その帰りに時折立ち寄る店は、自然食品を専門に取り扱っている。私はここで国産の蜂蜜を買うことにしている。だいたいがレンゲの蜂蜜を注文している。比較的甘さがあっさりしていて、私好みの味なのだ。

年によっては、レンゲの出荷量が少なく売れきれたり、また花の蜜の具合から微妙に味が変っていることもある。この均質でないところが、私はかえって気に入っている。そのほうが自然というか、当然な気がするからだ。

ご存知の方も多いと思うが、現在日本で売られている蜂蜜は、多くの場合海外からの輸入物が多い。混合している場合もあり、国産ものはいささか高い。高いと思いつつ、その店で買うのは、そこで産地、養蜂業者を明示して売っている点を評価しているからだ。

しかし、今後は輸入物でさえ値上がりするかもしれない。

実は数年前から、世界的にミツバチが減少している。ディスカバリーチャンネルでは「ミツバチの集団失踪」とのタイトルで特集を組んでいた。アメリカはもちろん、ヨーロッパ、オーストラリア、中国と世界各地の養蜂業者が、ミツバチの失踪に悲鳴を上げている。もちろん、日本も例外ではない。

悲鳴は養蜂業者だけではない。果樹などの受粉は、この養蜂業者たちが持ち込むミツバチに頼っている。リンゴやオレンジなどの果樹園を営む農家は、ミツバチの確保に必死だが、現状ではとても足りない。

人手が沢山あるはずの中国の四川では、人海戦術で手作業での果樹の受粉に取り組んでいるが、農家の悩みは深い。手作業での受粉だと、育成される果樹の形や甘さにむらが出て、どうしても品質が落ちてしまうらしい。やはりミツバチには遠く及ばないのが実情だ。

科学者たちが必死で原因を探っているが、今のところは分っていない。どうやらセイヨウミツバチに固有の病気あるいは黴などの病害に原因があるようだが、それだけでは説明できない。ある科学者は長年人手にかけて育成してきたことの弊害ではないかと疑っていた。

事実、失踪しているのは、もっぱらセイヨウミツバチに限られる。日本ミツバチやアフリカ原産のキラービーたちには失踪はみられない。性質が温和で、蜜が沢山とれるセイヨウミツバチだけが大量に失踪しているのだ。

養蜂に不向きな野生種の蜂は、いまのところ大量失踪は見られない。このあたりにセイヨウミツバチの失踪の原因がありそうな気がする。

本当の原因の究明は専門家に任せるが、人間は自然に干渉しすぎではないかとの印象は否めない。人間にとって便利なように改良していくことの不自然さが、今自然界から問われているのではないか。そんな気がしてなりません。

とりあえず、蜂蜜が品切れになる前に入手しておくつもりですが、果物にも影響が出たらどうしよう?困るなぁ、いや、それ以上に怖いゾ。
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はじめの一歩 森川ジョージ

2009-04-28 13:11:00 | 
諦めない奴が一番やっかいだった。

子供の頃にやった喧嘩で、一番記憶に残っているのは、相手をぶちのめした喧嘩でもなく、袋叩きにされた喧嘩でもない。何度唐オても諦めずに立ち上がって向かってくる奴との喧嘩こそが忘れ難い。

なんで喧嘩になったのか分らなかった。最初はふざけていただけだったはずだ。事実互いに笑いながら、パンチを当てあっていた。ところが、何時の間にやら、引き時を失していた。

理由もなく、かなり真面目に殴りあう羽目に陥っていた。戸惑いながらも、身体の痛みが怒りを引き出し、気がつくと本気で殴り合っていた。

理由なくと書いたが、今にして思うと、私の態度に問題があった気がする。子供の頃から小柄で、背の順に並ぶと、だいたい前から5番以内であった。しかし、成長期に入るのがちょっとだけ早く、いつのまにやら中位ぐらいになっていた。その分、態度が大きくなっていたみたいだ。

すぐに追いつかれ、元の順位に落ち着いたが、態度はデカイままだった。しかも自覚していないから始末が悪い。そのせいか、あの頃は妙に喧嘩が多かった。まあ、私も短気で、しかも意気がりたい年頃でもあったのも一因であろう。

基本的には、自分より強そうな奴と喧嘩することを粋に思っていたので、負け喧嘩のほうが多かった。しかし、そのせいで妙に喧嘩馴れというか、喧嘩ずれしてしまい、弱い相手とは本気になれなかった。

弱い相手と見下された奴の気持ちに配慮がなかったことが、その喧嘩の原因だと今にして分る。

ただ、実際に相手は弱かった。子供同士の殴り合いなんて、たいした威力がないので、すぐに組み合って、投げつけ、馬乗りになってボコリ放題。普通はここで負けを認める。

ところが、この相手は諦めない。何度倒れても再挑戦してくる。私に格闘技の技術があれば、落とすなり決めるなりして対応できたのだろうが、その技量はなかった。

繰り返すうちに、私の気持ちが萎えた。私は怒りから殴ることは出来ても、痛めつけ弱らせるために殴り続けることは出来なかった。仕方なく逃げた。勝ち逃げという奴だ。おかげで周囲の評価を下げた。

後日談だが、この相手は高校卒業後にボクサーになり、ランキング入りするほどに強くなったらしい。昔の弱かった頃を知っている私は、ある意味納得している。あの諦めない根性があれば、努力を続けることにより強くなれる。その典型なのだと思う。

私の偏見かもしれないが、ボクサーには2種類いると思う。最初から喧嘩に強くてボクシングに惹かれる奴と、喧嘩には弱いが強くなりたくてボクシングにのめり込む奴だ。

どちらかというと、後者のほうがチャンピオンにはなりやすいようだ。あのマイク・タイソンですら幼少時はいじめられっ子だったらしい。強くなるには動機が必要だ。弱い奴は殴られ虐げられる痛みを知っている。そこから抜け出したいと切望している。だからこそ強さに憧れ、真摯に強くなる努力を続けられる。それが強さの秘訣なのだと思う。

そんな後者の典型が、表題の漫画の主人公だ。喧嘩は好きでないが、強くなりたくて、その想いにかかられて真剣にトレーニングに励み、遂には本当の強さを手に入れる。

70年代は「明日のジョー」80年代が「頑張れ元気」なら、90年代はこの「はじめの一歩」だと思う。時代を代表するボクシング漫画の傑作だ。まだ連載は続く長寿漫画でもある。私が週刊少年マガジンで唯一読み続けている漫画であり、是非とも見事な完結をみせて欲しいものだ。
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草食系?

2009-04-27 13:48:00 | 社会・政治・一般
流行ごとには鈍感な私が最近気になった言葉が「草食系男子」だ。

なんとなく意味は分る。たしかに大人しそうな(頼りなさそうな)、細っこい(筋肉が貧弱な)若い男の子を見かけることはよくある。

どのような場合に使われる言葉なのか、よく分らないが、ちょっと気になるのが、草食=おとなしい、との思い込みだ。

私の知る限り、草食動物はおとなしいとは限らない。むしろ凶暴なケースが少なくない。例えばアフリカで最も人を殺す哺乳類は草食動物のカバだ。縄張り意識が非常に強く、あの巨体でありながら俊足で、しかも狡猾な頭脳も備えている。プロの動物ガイドでさえ、カバの襲撃で死ぬことも珍しくない。

おとなしい動物の代表とみられがちな羊だが、野生の山羊の闘争は凄まじい。メスを巡る戦いでは角をぶつけ合い、その衝撃音が野山に響き渡る。その戦いは延々と続くこともあり、時には一晩かかっても終わらない。あげくに角が複雑にからまり両者ともに憤死することもある。

不思議なことに、肉食獣ではこのような同属間の争いは滅多にない。群れを守るライオンと、その乗っ取りを図るライオンは、当然に激しい肉弾戦を繰り広げるが、徹底的に殺しあうことは稀だ。たいがいは傷の軽いうちに手を引く。

生きているシマウマの内臓を貪る残虐なハイエナでさえ、同属間の争いでは殺しあうことはない。私の印象では、肉食獣のほうが、闘争本能を抑制する術を知っている気がする。一方、草食獣のほうが闘争に歯止めがなく、エスカレートする傾向が少なくない。

多分、人間もそうじゃないか?

おとなしいと思われた奴が、切れて暴れだすと性質が悪い。私の数少ない経験でも、普段おとなしめの奴ほど、案外見苦しい喧嘩をするやつが多い。手加減をしらないというか、度し難い暴れ方をされて難儀したことが数回ある。

別にどうでもいいことだが、人を安易に二分化して表現するのはやめたほうがいい。人って、そんなに単純じゃないと思う。はっきりいって、物事を深く考えない人ほど、安易に使っている気がする。
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臓器狩り リドリー・ピアスン

2009-04-24 12:14:00 | 
誰もが残虐な拷問官になれる。

1960年代、冷戦の嵐が吹き荒れるアメリカにおいて、一つの実験がなされた。拷問用に作られた電気椅子に座らされた人が一人。その椅子に電気を流す装置のダイヤルを操作する人が一人。そして、電気を流すよう命じる指揮官が一人。

指揮官こそが、この実験の企画者であり、後は自発的に参加したボランティアだった。ごく普通の市民が大半で、戦争に反対する人はもちろん、拷問などという残虐な行為には嫌悪感を示すごく普通のひとたちばかりだった。

指揮官は電気を流す装置を操作する市民に、少しずつ電圧を上げるよう命じる。流れる電流に悲鳴をあげる被験者の姿に、皆一様にためらいをみせる。しかし指揮官が「責任は私がとるから、指示どおり操作せよ」と命じると、驚いたことに操作者は逆らうことなく、素直に電圧を上げる。

延べ60人以上を操作者に指定して、繰り返した拷問実験だが、この実験の発案者さえ驚愕したことに、誰一人指示に逆らうものはなく、命にかかわるギリギリの数値まで電圧は上げられた。

この実験の結果分ったのは、平和を愛し暴力を憎む普通の市民でさえ、自らに責任が及ばない状況では、平然と拷問をしてしまうことだった。つまり、誰もが残虐な拷問官になりうることを実証してしまったわけだ。

命令者と実行者の分離は、責任の所在を曖昧にさせ、階級により分断された組織のなかにあっては、本来あるべき倫理観でさえ麻痺してしまう恐ろしさを考えさせられた実験でもある。

表題の作品はタイトルとおり、内臓移植のために内臓を文字通り強奪して、移植による延命を望む患者に売り渡す悪魔の所業とでもいうべき犯罪を取り扱っている。

興味深いのは、強制的な内臓移植が犯罪と知りつつも、それに協力してしまう人たちの存在だ。内臓移植を受けなければ死なねばならない患者のため、という理由をでっち上げ、自らを天使の協力者と位置づけてしまう。すなわち、慈悲の天使ANGEL OF MERCYだと自分を納得させてしまう。原題「ANGEL MAKER」はその捩りでもある。

誰もが自分の行為を正当化しようとするものだが、本来の善意の臓器提供者(ANJEL)をその意思とは無関係に自らの欲望にまかせて無理やり臓器提供者に仕立て上げる犯人の、その卑劣な心理がうすら恐ろしい。しかし、なかなかに面白いミステリーであることは間違いない。機会がありましたら是非どうぞ。
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ソマリアの海賊

2009-04-23 12:12:00 | 社会・政治・一般
当たり前のことだが、その当たり前が分らない人は少なくない。

国家機能が事実上破綻しているアフリカ北西部の国、ソマリアでは海賊業が大人気だ。欧米の搾取と冷戦終結のあおりを受けて、ソマリアは国家としては機能していない。政府も税務署も軍隊も警察も裁判所も仕事してない。

それでも人々は逞しく生きている。冷戦のおかげで武器だけは沢山ある。金がなくても、武器で脅し取ればイイ。貧しきソマリアの民が、富める欧米の船を奪って人質にとり、金を奪い、身代金をせしめてなにが悪い。ソマリアの民にだって生きる権利はあるんだ。文句があるなら機関銃を撃ちまくってやる。

このソマリアの海賊たちのおかげで、国家がなくともソマリアの民は大助かりだ。町には立派な家が立ち並び、市場に食糧が並び、日々の暮らしは豊かになった。実力で富を稼いでくる海賊たちは、ソマリアの英雄であり、ソマリアの誇りでもある。幼き子供たちは学校で勉強を習うよりも、荒野で武器の使い方を学ぶことに熱中するのも当然だろう。

武器があれば何でもできる。金も食糧も手に入る。これがソマリアの現実。

しかし、国際社会はそんなソマリアの横暴を許さない。ソマリアが国家として、海賊を取り締まれないのならば、軍隊を派遣してその横暴と戦い、商船やタンカーを守ろうとするのも、また当然の常識である。

いささか遅れはしたが、我が国もあわてて自衛隊の艦船を送り、現在警護活動に奮闘中と聞く。自衛隊の方々にあっては、大変な労苦だと思われる。是非とも無事に帰国していただきたいものだ。

一方、我が国においては、あいも変わらずオバカな主張を声高に叫ぶ輩が闊歩する。自衛隊ではなく、海上保安庁の船を送れ、警察で十分だと騒いでいる。

カンボジアの時もそうだったが、未だに警察と軍隊の違いが分っていない。拳銃の装備程度で、小銃すら標準装備していない警察官をソマリアに派遣してどうする。ソマリアに限らないが、あちらでは小銃どころか、機関銃やミサイルでさえ当たり前に使っている。そんなところに軽装備の警察官など行かせたら、かえって人質に取られるのがおちだ。いや、生きて帰れれば御の字だろう。

一応書いておくと、数世紀前に倭寇が朝鮮半島やシナ沿岸を襲った時、倭寇と戦ったのは警察ではなく軍隊だ。あの時代でさえ、強力な武装をかまえた海賊には、警察のような平時の治安組織では立ち向かえないのが常識だ。海上保安庁の艦船は、見た目は立派だが、相手が武装していることには対応できる装備ではない。軍と警察では機能が異なるのは、今も昔も変りはしない。

しかし、平和バカの平和絶対主義者どもには分らない、いや、分る気もない。戦闘がなければ平和だと思い込み、軍隊がなければ戦争は起きないと信じ込んでいる。だから自衛隊を派遣することに反対する。軍隊により平和が守られるという、当たり前の事実を見たくない。妄想の世界に逃げ込み、醜悪な現実を直視しようとしない。

いい加減、現実から目をそむける卑怯さから抜け出して欲しいものだ。大事なことだから書いておくが、軍隊という手段は劇薬と同じで使い方次第では毒にも薬にもなる。

だからこそ、法により軍を縛り、政府の統治下に置き、軍隊に適切な指示をだしてコントロールしなければならない。別に軍隊に限らないが、組織というものは本質的に肥大化し自立化を求める傾向がある。歴史を鑑みれば分るように、軍隊は自立化する傾向が非常に強い。だからこそ、軍を統制下に置くことは大事なことなのだ。

そのためには軍と政府及び国民との信頼関係の構築が非常に重要となる。一部とはいえ国民がいつまでも非現実的な妄想を騒ぎ立てては、軍が国家に不信感を抱くことになる。先の田母神氏の存在は、その一例に過ぎない。あれは決して好ましいことではない。

本気で平和を守りたいと願うなら、真面目に軍隊や戦争を学ぶべきだと私は考えています。断言しますが、どう憲法を読んでも、自衛隊は憲法違反です。いつまで違憲状態を見過ごすのか。法治国家として、実に恥ずべきことだと言わざるえません。違法状態を放置することの恐ろしさが分らない人は、もう一度なぜ旧帝国陸軍が政府の言うことをきかなくなったのか、よくよく勉強して欲しいものです。
コメント (5)
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