ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

アメリカの苛立ち

2015-07-31 12:06:00 | 社会・政治・一般

決して看過していい問題ではない。

現在、内政のみならず、外交でも日本は問題を抱えている。ここで東シナ海を巡る中華帝国の侵攻を想起する方は多いと思うが、本当の問題はハワイ諸島の向うにある。

日本にとって最大の友好国であり、最悪の潜在的敵対国であるアメリカだ。今、そのアメリカに看過しえぬ危険な兆候が見えている。次の大統領選挙で、本来泡沫候補と考えられていた不動産王トランプの暴言にこそ、その兆候が顕著に顕れている。

一言で云うと、アメリカに余裕がなくなってきている。元々は、キリスト教の信教の自由を求めて建国されたアメリカは、入植地として拡大してきた。やがてキリスト教徒以外の移民を受け入れるようになり、奴隷として入国したアフリカ出身者や、自由を求めてやってきたアジアからの移民たちが大量に来て、本来の多数派であった白人たちが割を食うようになった。

そして、何よりも中南米からの不法移民たちが、アメリカ社会に更なる混乱をもたらした。英語を覚えようとせず、スペイン語を使いづづけるラテン系アメリカ人の存在が、白人たちに大いなる不安を感じさせるようになった。

もはや、アメリカの正義を世界が信じていないことに勘付かざるを得ない。この疑念と不信感が、アメリカ人から余裕を奪う。この不安があるからこそ、トランプの暴言を支持してしまう。

そこで日本である。

アメリカは、今でこそ日本が重要な同盟国だと持ち上げるが、元々はドイツと並んで最も警戒していた敵国であることも認識している。だからこそ、この二か国には、今もアメリカ軍を駐留させている。一朝ことあれば、すぐに首都を制圧できる距離に、アメリカ軍を駐留させている。

ドイツには決して海軍を十分に持たせない。日本には敵味方識別装置を作らせず、アメリカの作成したものを強制的に押し付ける。ドイツと日本は、アメリカの世界戦略上の要所であると同時に、決して自由に軍事活動をさせない。

そのことを日本人は分かっているのだろうか。

特に沖縄駐留米軍基地の撤去を求め、日米安保は憲法違反だと声だかに主張する、平和を愛する市民様たちは分かっているのか。日本からアメリカ軍を排除すること、それはすなわち日本をアメリカの敵国だと認識させる行為であることを。

誰しも敵を憎む。だが、敵よりも味方と信じていた者の裏切りをより憎むのが人の性だ。かつて、アメリカの最も親しきイスラム国家であったイランをみれば分かる。パーレビ国王時代、あれほど親密であったのに、イスラム革命以降はアメリカの敵筆頭となっている。

日本からアメリカ軍を排除する動きは、アメリカにしてみれば裏切り行為に他ならない。すなわち世界最大の軍事超大国を敵に回す行為である。沖縄のボンクラ知事や、国会周辺でデモをやっているおバカちゃんたちは、自分たちの行為が、日本を戦争の危機に曝しているとの自覚があるのだろうか。

トランプの暴言を支持するアメリカ人が増えていることから分かるように、アメリカは苛立っている。そのアメリカを排除することが、日本の平和を乱すことだと理解できない脳みそシュークリームのおバカが跋扈していることは、十二分に警戒すべきだと思います。

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旭天鵬の引退

2015-07-30 12:04:00 | スポーツ

相撲は格闘技かと訊かれると、少し返事に躊躇う。

脚以外の部分を土俵に付けるか、もしくは土俵の外に出してしまえば勝ち。それが相撲のルールだが、これだけだと格闘技とは言いかねる。少なくとも、喧嘩を含めて実戦で通用するルールではない。

しかし、それ以外の部分では驚くほど規制は少ない。私の知る限りでも、頭突きと肘打ちを認めている立ち技系の格闘技は相撲だけだ。さして喧嘩が強くなかった私でも、街のケンカでは、頭突きは一番効果的な必殺技であることは知っている。そして、肘打ちは最も危険な打撃技の一つであるこも分かる。

頭突きで使うおでこの部分の骨と、肘打ちで使う骨の部分は、人体で最も堅い部位である。そこを打撃に使うことは理に適っているし、実戦でも極めて有効である。しかし、フルコンタクトを認める空手でさえ、頭突きは試合では禁じ手としている。

理由は簡単であまりに危険過ぎるからだ。また、肘打ちは皮膚を切り裂き、出血を招く可能性が高く、当然に危険度も高い。だから、公式の試合では禁じ手とすることも理解は出来る。

しかし、相撲では頭突きも肘うちも認めている。禁止しているのは目突きぐらいで、驚くほど攻撃は自由だ。おまけに日頃から身体をぶつけ合う稽古に慣れているため、呆れるほど打撃に強い。

相撲取りをただの肥満体だと思ったら大間違い。筋肉を鍛え上げ、その上に脂肪の鎧をまとった異形の戦士である。立ち技最強と呼ばれることも珍しくない。注目すべきは、空手家や拳法家などの達人で、実戦経験豊富な人ほど相撲取りを警戒する。その実戦での実力を高く評価しているのだろう。

かつてプロレス界最強を謳われた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが相撲部屋に見学へ行き、そこで頭蓋骨と頭蓋骨がぶつかる鈍い音を聴いて、恐れおののいたのは有名な話だ。本気で暴れれば、世界中に敵なしと云われたアンドレでも、あのぶつかり稽古の凄味は無視しえなかったのだろう。

それだけ厳しい世界である相撲取りだけに、その現役生活は短い。まず十年と身体が持たない。本気のぶつかり合いが多いだけに、首、腰、膝などの重要な部分が傷みやすい。如何に才能があろうと、怪我のために廃業に追い込まれた有望な力士数知れずである。

その過酷な角界で、40過ぎまで活躍出来る力士は稀だが、その一人が遂に引退を決意した。日本人力士を圧唐オているモンゴル力士の草分けの一人である旭天鵬関である。あの旭鷲山と同じく第一期のモンゴル出身力士の最後の一人である。

率直に言って、あまり強いとは言いかねる力士であった。四つ相撲になると強いが、距離を取られると、案外とコロコロ負ける。特に上位陣に対しては、呆れるほど弱く、幕内力士として場所を面白くするタイプではなかったため、あまり注目を集めなかった。

しかし、地味な稽古を熱心に続け、派手さはなくとも地力で勝ち上がれる遅咲きの力士として、いつのまにやら人気を集めるようになった。なかでも平成24年名古屋場所の優勝は、日ごろ相撲を観ない一般の人からも祝福された。

その旭天鵬もついに幕内からの転落が決まると、引退を決意した。日本に帰化し、相撲部屋を引き継ぎ後継を育てる覚悟を決めた旭天鵬関ではあるが、幕内以上でないとモンゴルに放送されないが故の引退であった。

おそらくだが、旭天鵬は喧嘩に強いタイプではない。むしろ地道で底堅い生き方で周囲の人望を集める、人として強いタイプではないかと思う。横綱には成れなかったが、将来横綱を生み出すような親方にはなれるかもしれない。

長い間、お疲れ様でした。そう心から云える相撲取りでしたよ。

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日経の買収報道に思うこと

2015-07-29 12:33:00 | 社会・政治・一般

ひがみなのは分かるが、いささか大人げないと思った。

先週のことだが、日本経済新聞社がイギリスのフィナンシャル・タイムスを買収したとの報道があった。さして国際金融に詳しい訳でもない私でも、フィナンシャル・タイムスの名前は知っているし、読んだこともある。

19世紀以来、国際金融といえば欧米の金融であり、その国際金融を扱う専門新聞として、一世紀以上に渡り実績と信用を狽チた名門が、国際的には無名の日経に買収されたのだから、これは大ニュースである。

もちろん、日本国内では日経新聞といえばクオリティペーパーであることは間違いない。朝日、読売、毎日の三大新聞は読まなくても、日経には目を通すビジネスマンは少なくない。

だが、国際的には無名の存在であるのも事実だ。だから欧米どころか世界中に熱心な読者を持つフィナンシャル・タイムズが、この極東のローカルメディアに買収されたことを不安視するのは当然だろう。

結果、この買収に対して否定的な見方をする人が、世界的に多いのは致し方ないというか、当然だと思う。なかでも注目すべきは、社風の違いを取り上げ、失敗ではないかと予測する識者が少なくないことが。

日本国内ではいざ知らず、日本の国内事情を知っている欧米の金融関係者には常識なのだが、日経新聞社はマスコミとして、いささか問題のあると考えている欧米の人は多い。

それは私にも分かる。経済に関する専門誌であるがゆえに、どうしても大企業中心の取材が多く、しかも企業の広報紙的な側面があるのは致し方ない。問題は、その記事が政府よりであることだ。

もっといえば、政府の広報紙ではないかと思える記事が少なくないことだ。明らかに政府の情報操作に協力することも珍しくないし、政府の意向を汲んで、アドバルーンのような観測記事をも平気で書き垂れるのが日経だ。

政府に対して冷静に距離を取るフィナンシャル・タイムズとは、その点が大きく異なる。もちろん、フィナンシャル・タイムズだって、その手が汚れていない訳ではない。

国際金融の世界は、ユダヤ資本が大きな力を持つ社会であり、どうしてもその影響から逃れられない。また、そうでなければ記事は書けない。金融の勝者とは、情報戦の勝者でもある以上、マスコミもその枠から離れては存続しえないのだから。

この国際金融の世界のしがらみを考えれば、主流とは言いかねる日本の新聞社が新たに社主として君臨することになるフィナンシャル・タイムズに否定的な見方をしてしまいがちなのも無理はない。

余談だけど、このことを報じる日本の他のマスコミの論調が滑稽だ。新聞として高級紙面をしている日経が、世界では否定的な見方をされることを、高揚して伝える日本のマスコミに、いささか見苦しいものを感じたのは、多分私だけではないと思いますよ。

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岩手中二、自殺事件に思うこと

2015-07-28 11:58:00 | 社会・政治・一般

おともだち教師には、いじめを止められない。

このことを、未だに分からない教育関係者は多い。大学を卒業し、せっかく教師になったものの、言うことを聞かない生徒に悩む教師は少なくない。

要は指導力不足なのだが、大学の教職課程では、子供たちをいかに従わせるかを教えていない。兄弟が多かった昔と異なり、今の若者は一人っ子が多く、年の差がある相手とのコミュニケーションが苦手な人が多い。

おまけに、現在は先輩後輩等の縦の関係を厭い、気楽なサークル活動しかやらない人も多い。人間関係が煩わしいと、一人で過ごす時間がイイと考える若者は少なくない。年長者とは嫌々付き合うが、子供たちとは接する機会さえ避ける。

このような若者が、教師として学校に赴任し、いきなり担任を受け持つのだから、上手くいくと考えるほうがおかしい。しかし、文部省や教育委員会のお偉いさんたちは、昔はそれで出来たし、問題もなかったとして、考え方を改めようとしない。

このような状況下で教師になり、素直でもなく、従順でもない子供たちに遭遇した若者はどうする。よくあるのは教師という権威を押し出して、強引に従わせようとする先生だ。だが、このやり方は、一人っ子で大事にされ過ぎた今どきの子供たちには、極めて評判が悪い。

おまけに現在は体罰厳禁であるため、よほど威圧的であるか、自信家でもないかぎり、この方法はうまくいかない。そこで、多くの若い先生たちが取ってしまう手段が、いわゆる「お友達」である。

教え導くのが教師の務めなのだが、その教師が子供たちと同じレベルにへりくだり、「ボク、君たちのお友達だよ、なんでも相談してね。みんなの役に立つよ。だから、ボクの言うこと聞いてね」

子供たちには人気が出る。当然である、こんな便利な大人は利用価値が高い。子供って奴は、大人の想像以上に計算高いし、功利的であり、狡猾でさえある。お友達先生は絶好の鴨となる。

当然に主導権は子供がとってしまう。特に、いじめっ子になるような天性の強い強制力を持つ子供は、自分の想い通りになるこの手のお友達教師は、実に便利な存在だ。

今月発覚した岩手県での中二の少年が鉄道に飛び込み自殺した事件なんかは、その最悪の結果である。お友達教師は、クラスを管理するためには、いじめっ子グループの協力が必要不可欠であり、そのために弱い子供を犠牲にした。

はっきり言います。いじめを苦に自殺した子供は、教師といじめっ子たちに殺されたも同然です。

しかし、教師を盾に、いじめを自由にやっていた子供たちは、当然その教師を庇う。教師は自分は正しかったと、無理やり自己正当化してしまい反省なんかしない。それどころか、自分を苦しめるためにあの生徒は自殺したのだと憎しみさえ抱く。

いじめられ、その苦しさから死を選ぶ子供の苦悩よりも、自分を不利な立場に追い込んだことを憎み、自分をかばういじめっ子たちに感謝さえする。それが、おともだち教師というものだ。

この、おともだち教師は、今も日本の学校のあちらこちらに実在する。文部省が今の教職課程を改め、また教師たちが自らの至らなさを自覚し、子供のための教育を真剣に考えぬ限り、今後もいじめによる殺害は続発するでしょう。

更に付け加えるならば、子供の教育を学校に押し付け、家庭での躾を蔑ろにする親も、この事件の共犯者です。莫大な被害者補償を裁判所は認めるべきでしょう。それで加害者家庭が崩壊するのなら、むしろ本望だと私は思います。

いじめを放置した担任、いじめを悪いことだと教えていなかった親。どちらも将来にわたり重い枷を負うべきだと私は思います。

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バケモノの子

2015-07-27 12:46:00 | 映画

人は一人では成長できない。

私の子供時代、父親の背中を見ることはあまりなかった。幼少時から6歳くらいまでは、仕事に奔走し家庭を顧みないとの印象が強い。それでも忘れがたい記憶はある。

父に連れられて行ったサーキットでの凄まじい爆音と、焼けたオイルの匂い。八王子の広い料亭に連れられていった時、食べさせられたスズメの骨だらけの串焼き。無理やりプールに引き込まれて、泣きながら逃げ回った会社の保養施設。

正直、楽しかったという記憶はない。その後、中二の冬に再会した時も、懐かしさよりも戸惑いの方が多かった。父親とどう接したら良いのか分からなかったからだ。

分からないながらも、なんとなく分かっていたのは、父にとっては家庭よりも仕事のほうが大切であったということだ。実際はそうではなく、別の事情があったことが分かったのは、わりと最近のこと。

だから、子供時代の私は、家庭よりも価値があった仕事に対して関心が強かった。早く大人になって、仕事をする大人になりたかった。だから、大人の輪の中に入りたかったが、幼い子供は所詮子供に過ぎず、大人扱いされることはなかった。

同時に迷いもあった。大人、とりわけ男性の大人のなかに入って、何をしたらいいのか、何を話したらいいのかが、さっぱり分からなかった。

私の人生に不幸があったとすれば、身近なところに見本、あるいは手本となるような大人の男性がいなかったことだ。このことは、けっこう後々まで私の人格形成に影響を与えている。

難病で早期に退職したこと、また再就職というか再出発においても、ついに父に代わり得るような大人の男性とは出会えなかった。もしくは、私の眼力不足かコミュニケーション能力の不足で、そのような男性と良好な関係を築くことがなかった。

ただ、幸いだったのは、ワンダーフォーゲル部という先輩後輩のつながりの濃い部活に参加していたので、そこで自分を切磋琢磨できる仲間に出会えることが出来た。この経験がなかったら、私はひどく頭でっかちな、知識過剰、実行力不足のボンクラになっていたと思う。

表題の映画は、子供を持つ親にこそ観て欲しい作品だ。子供にとって、親の姿こそ、最良にして最大の教科書であり、見本でもある。子供は親の背中を観て育つ。

幸い私には働く母親の背中を観ることは出来た。しかし、働く父親の姿を観ることなく育った。それは未だに私の半生に影響を与えている。そのことを痛感させられた作品でした。

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