ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

北朝鮮への制裁に思うこと

2009-06-30 12:16:00 | 社会・政治・一般
どうも良く分らない。

北朝鮮政府が核地下実験を強行して以降、日本では国際的な制裁の強化にむけてワイワイ騒がしい。なかでも共産中国が経済制裁に積極的でないと批難する。

本気で言っているのかな?

追い詰められれば、誰だって自暴自棄になる。それは人でも国家でも同じこと。半世紀前にそれをやらかした国があることを忘れているのか。

国内経済は崩壊し、もはや自力では国民を養えない世界最貧国だ。売り物といえば、武器と麻薬と保険詐欺。独裁政府は国民が信じられないから、戦争の恐怖を煽って支配を強化するのが関の山。

かつては半島統一の野望に燃えたこともあった。しかし、なかばスクラップ化した武器では戦えるはずもなく、支援してくれる国もない。同じ民族とはいえ、国力の差は開くばかり、

決して口には出来ないが、もはや統一なんていらない。自分たちが特権階級でいられればいい。豊かな国の中産階級であるより、貧しい国の特権階級に甘んじたい。飢え苦しむ国民なんぞ知らんが、自分たちは、自分たちだけは今の豊かさを享受し続けたい。

だからこそ、覇権国であるアメリカに認めて欲しい。本当に怖いのは南朝鮮でもなければ日本でもない。長く国境を接する強欲なシナこそ恐ろしい。2千年ちかくにわたり宗主国として君臨してきたシナこそが、一番警戒しなくてはいけない。

そのシナだけが、今の北朝鮮を支えてくれる屈辱。

シナにはシナの事情がある。対立と孤立による貧しき過去を忘れ、開放と通商が豊かさを勝ち取れる事。を知り、世界と協調し、外資を呼び込み更なる成長を目指すためには、経済の安定が必要。そんな時に戦争なんぞやっていられない。

今、ここで朝鮮半島に戦乱は起きて欲しくない。アメリカが手を出せぬほど強大になってから、じっくり頂けばいい。元々あの半島はシナの領地だったしね。

だから追い詰めるわけにはいかない。今のまま、じんわりと枯死するのを座して待てばいい。助けるついでに地下資源をいただき、いずれは傀儡政権を樹立して、やんわりと支配すればいい。だから、経済制裁なんかに協力できるはずはない。

あくまで私の憶測に過ぎないが、乱暴ながらもこれが実態であろうと思う。とことん追い詰めれば、いかに貧しくとも武器を取って暴発する可能性は高い。現在、日本で盛んに制裁論を唱える人たちは、そこまで追い詰めたいのだろうか。暴発させて、結果として朝鮮半島に共産中国の属国を作ることを望んでいるのだろうか。

私とて拉致問題を非道だと思い憤る気持ちはあるが、経済制裁はあまり効果がないと思う。いい加減、他の手段を考えたほうがいいのではないか。
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裁判員制度に思うこと

2009-06-29 12:16:00 | 社会・政治・一般
専門家というものは、ある意味でバカである。

すなわち専門バカである。バカでなければならない。バカといわれるほど、その分野に精通していることは、ある意味誇りでもある。

私とて専門家の端くれだ。でもまだまだ専門バカと呼ばれるには研鑽が足りない。勉強すべきことは数多ある。仕事の忙しさに追われて勉強が十分出来ないと、愚痴ること自体恥なのだ。勉強する時間を創ることも、専門家としては義務なのだ。

しかし、その一方で専門バカであることのデメリットもあることは、当然であり必然でもある。その知識は過去の積み重ねにより作られたものだ。過去を基準に今を推し量る知識でもある。過去と今が変わったとしても、過去を基準にすることを求められた知識でもある。今の常識では納得がいかなくなることが生じやすいのも当然なのだ。

また特定の分野に偏った知識であるがゆえに、専門知識が深く狭くなればなるほど、バランスのとれた識見とは縁遠くなることも避けられぬのは、認めなければならない現実だ。

実はもう一つ、専門家として心の片隅に留めておかねばならぬことがある。それは、人間とは間違える生き物だということだ。

そう、人間は間違える。誤解、見過ごし、錯誤、勘違い、誤認と理由はなんでもいいが、人間は必ず間違える。間違えることのない人間なんぞ、絶対に存在しない。

しかし、専門家として高度であればあるほど、権威として確固たるものであればあるほど、自らの過ちを認めがたくなる。ましてや、人の生き死に関る立場の専門家であれば、自らの過ちを認めることは断固として認めがたい。

専門家というものは、その知識が深いゆえに孤独でもある。その知識が高度であるがゆえに孤立しがちでもある。それで良いのだと納得しているが、社会における一人の人間として、それで良いのかと悩むことも少なくない。

今年から始まった裁判員制度に批判の声が上がるのは当然だと思う。これまで専門家にまかせておけばいいと思っていた裁判に、素人である自分が関るなんて、そんな恐ろしいこと出来るわけがない。そう恐れることは自然であり、当然だと思う。

しかし、それでも裁判員制度は試してみる価値がある。何故なら司法の専門家たちが、あまりに専門バカでありすぎているからだ。裁判官も、弁護士も、検事もその道の専門家でありすぎて、社会全般の常識と乖離しすぎる傾向がある。

そんな判決、オカシイ!

抗議の声が何度となく上がるが、無視され続けた司法の実態。司法関係者自身が悩んだ末に、外部の声を、普通の庶民の声を聞きたいと願って生まれた制度が裁判員制度だ。

司法が存在するのは何の為なのか。限られた少数の専門家のための制度ではない。あくまで、法による統治の綻びを縫うための装置としての司法なのだ。専門家だけが理解できるものであってはならない。国民誰もが、納得ができる判決がでる司法の場でなければならない。

民主主義国家でなければ、私は裁判員制度なんて不安定な制度はいらないと思う。しかし、民主主義を掲げる以上、国民が政治に関ることは義務である。忘れちゃいけない、司法は政治の役割の一つであることを。そして人間は間違えるものだ。裁判官だって、弁護士だって、検事だって間違える。

それをチェックする役割を果たすことは、民主主義の国民である以上義務だと思う。司法を専門家に任せすぎたことが、今日の司法機能に齟齬をきたすことになった。その現実を国民も知るべきだと思う。

多分、ビックリすることが多々あると思う。あまりの書類の多さにおののくかもしれない。裁判が書類と書類の戦いである現実に赴Cづくかもしれない。きっと、沢山のトラブルが出ることだと思う。

それでも、やってみる価値はある。十二分にあると思う。外野から批難するのは容易いが、当事者として現実にやるべきことを為す事は難しい。良い社会、良き司法、良き裁判を望むののなら、自分もまたその一助になれることは義務であると同時に、権利でもある。大事に育ててみたい制度だと、私は考えています。
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深夜の話し声

2009-06-26 12:19:00 | 日記
私はお化けは見たことがない。

正確に言うならば、お化けを見たと認識したことはない。だが、もしかしたら死者の声は聞いているかもしれない。

かれこれ20数年前だが、私はある大学病院の病棟で寝たきりの生活を送っていた。命の危機は脱したが、治癒の見通しは暗くベッドの上から動くことさえ出来ずに居た。丁度今頃の時分であった。

私が3ヶ月あまりを過ごしたその病室は、本来は四人部屋なのだが、いろいろな医療機器が置かれてあり、実質2人部屋と化していた。ナースステーションの目の前にあり、すぐに医師や看護婦が駆けつけられる部屋でもある。別名「天国に一番近い部屋」と呼ばれていたことは、退院して後に看護婦さんから聞かされた。

聞いた時は呆れたが、納得のいくものでもあった。なにせ、私が居た3ヶ月だけに限っても、生きて病室を出た患者より、そうでない患者が多いことぐらい、寝たきりの私でも分ったからだ。

その一人にKさんがいた。元々その病棟は難病の治療で知られたN教授の担当であったせいか、全国から変った病気の患者が集まる傾向はあった。そのKさんもかなり変った病気の持ち主で、入退院を繰り返していた。

正直言うと、私はKさんが嫌いであった。いささか心がねじくれた人であった。私の元へ女性の見舞い客が来ると、わざわざその時に限ってベッドの脇で尿瓶に排尿をするのだ。いくらカーテンで仕切ってあっても、分るものは分る。

普段は大人しい人だったが、苦しくなると一晩中でも苦痛のボヤキを発する人でもあった。「苦しいよう、死んじゃうよ、痛いよう」と30過ぎのいい大人が一晩中ボヤやくのである。そのくせ、翌朝になると、ケロっとして、周囲の人が寝不足(うるさくて眠れなかった!)気味なのを不思議そうにしている無神経な人でもあった。

どうも、幼少時からの病気のせいで、他人とのコミュニケーションがまともに出来ない人であったらしい。お喋りな私だが、Kさんとはまともに会話を交わした覚えはない。可愛そうな人でもあるが、同室の方からの苦情が多く、頻繁に病室を変る患者でもあった。私がいた病室に来た時も、それほど病状は悪くなく、多分他の患者からの苦情を受けての転室だったと思う。実際、他のベッドが空くと、さっさと移っていった。

しかしある晩、再び私のいた病室に移されてきた。呼吸が苦しそうで、医師と看護婦がなにやら処置をしているのが、カーテン越しに見て取れた。相変わらず苦痛のボヤキを発するのには閉口したが、緊急時の今回は仕方ないと諦めて、ウォークマンのボリュームを上げて、音楽に集中することで我慢した。

病棟が深夜シフトに代わり、夜勤の看護婦さんたちが交替に付いた頃だと思う。Kさんのベッドにつきっきりだったお医者さんたちも立ち去り、Kさんはようやく静かになった。私もイヤフォンをはずして、眠りに入った。

ふと気がつくと話し声がする。隣のKさんが誰かと話している。私は寝たきりだったので、時間を確認することは出来なかったが、夜が明ける直前だと思う。こんな明け方にお喋りするなと憤ったが、いつものボヤキと違い、なにやら真剣そうな会話であったので、仕方なく我慢するため再びウォークマンを聴くことにした。

病棟の朝は早い。6時になると看護婦さんが体温や血圧を測りにやってきた。私がウォークマンを聴いているのを見て、あら早起きねと、元気に声をかけてくる。

私は隣のベッドの方を指差して、お喋りがね・・・と小声で呟く。すると看護婦さんが不思議そうに、隣は空いているわよと答えた。

え?

いつものように病室のカーテンを次々と開いていく彼女の向うにみえるベッドは、たしかに空っぽだった。あれれ?変だな。明け方にKさんが誰かとお喋りしてたはずだがと呟くと、看護婦さんが表情を消した。気のせいよと笑って立ち去っていく風情が妙に不自然だった。

その日、透析室に行く際ヘルパーさんに聞いたら、Kさんは昨夜のうちに亡くなったそうで、深夜の交替のときには、ベッドの整理に呼び出されたのよと愚痴られた。じゃあ、私が明け方に聞いた話し声はなんだ?

霊感に乏しい私は、その時も背筋が凍るとか、怪しい気分になることはなかった。第一苛立っていたぐらいで、怖いとは思わなかった。ただ妙に思っただけだ。

もちろん私が誰かが廊下でお喋りしていたのを勘違いした可能性もある。でも、そんな元気な患者のいる病棟ではないはず。医者と看護婦なら分るが、男同士だったと思う。

ただ、Kさんの声であったことは確かだ。私は目が悪い分、耳はかなり良い。あのKさんは、かなり独特な声、口調であったので聞き間違いえるはずがない。

しかし、昨夜のうちに亡くなったのは確かなようだ。じゃあ、誰だ?

まぁ、世の中すべからく論旨明快、理路整然であるはずもなく、分らないこと数多あるのが当たり前。分らんことは、分らない。それにしてもKさん、何を話していたのだろう。だって、とっても孤独な人だったと思うから、聞き耳たてたほうが良かったかもと、ちょっぴり後悔しています。あるいは、聞かずに済んで良かったのかな?
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デーモンナイト J・M・ストラジンスキー

2009-06-25 12:57:00 | 
私のホラー小説好きの原点は、子供の頃の愛読書であった「世界民話集」にこそある。

日本のみならず、シナ、ロシア、アジア、インド、アフリカ、南米、そしてヨーロッパと世界各地の民話を集めた本で、10巻以上あったと思うが、引越しの際のドサクサに紛れて、どこにいったか分らない。

その本のなかでは、民衆を苦しめる様々な妖怪、化け物、悪神などが出てきたが、どの民話でも人間と絶対的に対立する悪の存在としての妖怪変化は、ほとんどなかった気がする。

人々を苦しめる疫病、天災、いがみ合いなどの原因として、悪い妖怪が想像されたのは分る。しかし、疫病は人間を絶滅させはしないし、天災は新たな環境を切り開く要因ともなる。いがみ合いを解決した後には、新たな友好関係が築かれるかとも珍しくない。

嫌な奴だって、状況が変われば良い奴になることは珍しくない。人々が民話で神や妖怪を創造する際、モデルにするのは人間である以上、絶対的悪としての存在はむしろ珍しいものとなる。

表題の本に出てくるような、絶対悪としての存在。人間とは決して相容れない邪悪な存在は、人間の歴史のなかでは比較的新参者だと思う。

敢えて断言させてもらうと、このような絶対悪の存在を創ったのは一神教だと思う。もっといえば、自らの絶対善を強調するためには、絶対悪としての存在が必要だったのだろう。

絶対的な存在があることは、絶大なる安心につながる。それゆえに、絶対神を信仰の柱とする意義は分らなくもない。元キリスト教徒だから分るが、神に絶対的に帰依することで得られる心の安静は確かに存在する。

ただ、今は絶対神への全面的な帰依には、いささか疑問がある。神と人間との間の直接的なつながりなら、私は否定しない。しかし神と人との間に教団の教祖様とか、霊的指導者を自称する人間を介在させることに、どうしても否定的にならざるえない。

なぜなら神の絶対性を、それらの人間に利用される感を否めないからだ。「神が欲したもう」と称して、自らの欲望を充足した宗教指導者は、必ず居たと私は思う。彼らは決して認めはしないが、さりとて神の意図を証明することもできまい。

私は絶対的な神様よりも、泣いたり笑ったり、ヘマをしたり怒ったりする神様のほうが人間くさくて好きだな。絶対的な悪役をたてることにより、絶対的な善を強調するやり方には、どうも素直に共感できません。

表題のホラー小説は、絶対的な悪の存在を背景にしているだけに、私としてはいささか反感がないわけではない。しかし、迷い戸惑う人間たちを上手くちりばめている点は好感が持てる。ホラーとしては、いささか良識的過ぎると思わないでもないが、その分読みやすいものになっている。

本音を言えば、一般向けを狙いすぎて、ホラーとしては物足りない。まあ、そこそこ楽しめる作品ではありますがね。
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プロレスってさ 三沢光晴

2009-06-24 12:33:00 | スポーツ
今月中旬に飛び込んできたニュースには哀しくなった。

プロレスラーの三沢選手の死亡の報であった。明るく楽しいプロレスの体現者であり、その早すぎる死は残念でならない。

私が初めて三沢選手の試合を観たのは、彼がまだ全日本プロレスの若手レスラーであった頃だ。当時は前座で越中(後に新日本へ移籍)と全日らしからぬ激しい試合をやり、それが評判になっていた。

私は猪木の新日本プロレスのファンであったので、馬場の全日本プロレスのゆったりとした試合のリズムがあまり好きではなかった。しかし、この三沢vs越中の試合に限っては、まるで新日本のような激しく素早いリズムであったことが、非常に印象に残っている。

越中が移籍して以降、ライバルを失ったせいか一時的に魅力を失していたが、その三沢が二代目ダイガーマスクとしてデビューしたのに驚かされた。天才的な表現力を持った初代タイガー(佐山サトル)に比べると鈍重に見えたが、ヘビー級でありながら俊敏な動きであったことは覚えている。

もっとも私としては、ジャンボ鶴田が引退した時にあっけらかんと「あんな怪物がいたら俺たち何時までも前座だよ。これからが俺たちの時代だね」と語っていた姿が忘れ難い。ひどい言い草だと思ったが、その野心の表れは陰湿ではなく、いささかの潔ささえ感じたぐらいだ。

その後、馬場の死に伴いNOAを立ち上げ、社長としてプロレスの炎を灯し続ける努力を懸命にやり続けていたのは、新聞が伝えるとおりだ。私も馬場が提唱した「明るく楽しいプロレス」の実践者としてのプロレスラー三沢を評価していたので、今回の訃報には残念でならない。

ちなみに死因は試合中のバックドロップによる呼吸機能停止とか。受身の上手い人だと思っていたが、積み重なったダメージや、地上波TVの打ち切りによる心労なども間接的要因としてあったらしい。改めてプロレスは、命がけの演技なのだと確信したものだ。
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