ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ デストロイヤー

2008-09-30 12:19:04 | スポーツ
最近驚いたことがある。

今どきの子供は、四の字固めを知らない!いや、本当に知らなかった。で、さっそく教えて上げましたぜ。もちろん、手加減しましたが、あまりの痛さに陸に上がった金魚みたいに口をパクパクさせてましたね。

どうやら、最近の子供はプロレスを観たことがないようなので、こんな簡単なプロレス技も知らないようだ。手取り、足取り教えてやり、返し技や、変形の四の字固めまで教えてやったら、眼を輝かせて練習しだした。

多分、二学期の始まった学校で、クラスメイトに披露しているだろうな。

昔の子供だったら、特に男の子だったら絶対知っているはずのプロレス技を知らないとは、いささか哀しい。私が初めて四の字固めを食らったのは、小学校低学年の頃だった。

近所の遊び友達にかけられた四の字固めは、目から火花が飛んだと思うほど痛かった。本当に痛くって涙が出たもんだ。休み時間になると、クラスメイト同士でよく技の鰍ッ合いをして楽しんだものだった。

この技の使い手は謎(笑)の覆面レスラーであるデストロイヤーだ。実を言うと、覆面レスラーはこけおどしの連中が多く、本当に強い奴は少なかった。

私の知る範囲で、本当に強かったのはミスターX(ビル・ミラー)とマスクド・スーパースターぐらいか。ブラックタイガー(マーク・ロッコ)も強かったが、人気者のミル・マスカラスはかっこつけすぎで、実力はイマイチだった。

マスクを被る理由は、ひとそれぞれだが、善玉よりも悪役が性にあっていたビル・ミラーはマスクを被ることで暴れることを楽しんでいたようだ。一方、素顔が優男すぎたためマスクを被ったのがマスクド・スーパースターだった。性格も優しくプロレスラーには不向きだったらしいが、マスクを被ることで実力を発揮できた珍しいタイプだった。

一方、実力派ながら顔が地味だったため、敢えてマスクを被って人気が出たのがデストロイヤーだった。日本ではコメディ番組でタレントの和田明子にどつかれていたりしていたが、マットの上では間違いなく強豪だった。そのレスリングは正統派といっていいものだった。しかし、決め技が四の字固めという拷問技だったため善玉になりにくかった。

素顔は地味というより、凄みのある強面だったと思う。さりとて、悪役をやるのは好きでなかったらしい。しかし、マスクを被ることで敢えて嫌いな悪役レスラーを演じて人気を得たようだ。もっとも当人は、やはり善玉をやりたかったらしい。その意を汲んだジャイアント馬場が、コメディー番組に出させてみて大衆人気を狙ったと聞いたことがある。

狙いは当たり、人気の出たデストロイヤーは日本で長く活躍した。私としては、あの四の字固めの使い手として、勝手に師匠呼ばわりしていたぐらいだ。

数あるプロレス技のなかでも、これほど世間に広く知れ渡った技も珍しいと思う。誰にでも覚えられる技で、しかも強烈に痛い。昭和の時代に、プロレス人気を広める意味で、この四の字固めほど相応しい技は無かったと思う。
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「新・世界地図」 福田和也

2008-09-29 16:42:38 | 
私はけっこう意地が悪い。

経済評論家やらエコノミストやらが、将来の予測をすることは珍しくない。その手の本は、書店でいくらでも見かける。ベストセラーの上位を登り詰める本も少なくない。

でも、売れている時は、手にとって立ち読みすることはあっても、実際に買うことは滅多に無い。意地悪な私は、その数年後に、わざわざ図書館で借りたり、古本屋で買ったりしている。

性格の悪い読み方であることは自覚しているが、経済予測が正しいかどうかなんて何年かたたないと検証できない。その検証を繰り返して、なおかつ読む価値があると判断できるなら、それは本物だと思う。

表題の著者は、本来は文芸評論家である。お門違いではあるが、文学をつきつめれば、それは世情を反映したものであるがゆえに、世界情勢の知識も必要とされるのは分る。

とりわけ歴史知識は文芸論には避けら得ないものだ。保守の論客とされる福田和也が浮いてみえるのは、左派の立場にたった文芸評論家が跋扈する日本ならではだと思う。

実際、日本では大学文学部はもちろん、出版社、作家などに、マルクス主義の影響を強く受けた人が多数いて、文壇の主流をなしてきた。文芸論でさえ、左派の偏向した常識が大通りの真ん中をまかり通っていた。

それだけに、堂々保守の立場から文剣]論を展開した福田和也には、以前から注目していた。まさか、表題の本のような世界情勢分析までやるとは思わなかったが、これが案外いける。

刊行されて5年以上たつが、ロシアの復活を予測するなど、けっこう的を得た分析だと思う。経済に視点をおいたエコノミストの予測、政治に焦点をおいた政治評論家の予測などと比べても、決して劣るものではない。文学を通じて歴史から学んだ情勢分析も、なかなかに説得力があるものだと感心した。

左派イデオロギーに毒され腐敗した評論家勢が衰退していくなか、福田氏のような保守の論客が目立ってくることは、実に興味深い。

だからこそ、もう一度私が十代の頃の主流だった人たちの書いたものを、もう一度読み直してみたいと思う。過去をしっかりと認識しないと、今を正しく捉えることは出来ないと思うのです。

ふむ、やっぱり私は意地が悪いな。
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「自虐の詩」 業田良家

2008-09-26 12:13:24 | 
感動作として絶賛されているのは知っている。

ただ、私は素直に感動出来なかった。一時期、かなり貧乏な暮らしを経験しているので、分らなくも無い。いや、ある意味、分りすぎて、それゆえに嫌なことを思い出すので、素直に感動できない。

この漫画でも描かれているように、貧乏人はこすっからい。たしかに優しく助け合うこともある。だけど、それ以上に貶めあうことのほうが多い。強い者には媚びる一方で、自分より弱い者を踏みにじることは珍しくない。

弱い者は、実のところふてぶてしい。涙目で、下から見上げるように情けない顔つきをする一方で、抜け目なく相手の弱みを探している。他人を哀れむのは好きだが、同情されるのは案外嫌がる。

昔TVドラマで「同情するなら金をくれ」との科白が一世を風靡したが、似たような科白は何度となく耳にした。その癖、金を無駄に遣うことを止められないから、貧乏はいっこうに直らない。

父母が離婚して、祖父母の家を離れてからは、一転して貧しい暮らしであった。でも、あまり不幸に思ったことはない。当時、私が暮らした街には、我が家以上に貧乏な家庭が珍しくなかったからだ。

裕福な家庭の子もいたが、大半は普通より貧しかったと思う。懐かしいかと問われると、少し答に窮する。懐かしさもあるが、苦い思いも少なくない。

なかでも、忘れ難いのは食事時になるとやってきて、上がりこんで食べていく「たかりおばさん」だった。お喋り好きなのはともかく、昼時と夕食時になると、あちこちの家に上がりこんでいた。この近辺では有名な人だった。

我が家のある2丁目だけでなく、隣町にも足を伸ばしていたらしい。中学に上がり、夜の繁華街をたむろするようになると、あの「たかりおばさん」が飲み屋街でも悪名高いことを知った。

初老の男性にすがり付いて、甘えるそぶりをみせているところを見かけたことがある。彼女の服のポケットが膨らんでいたことを私は見逃さなかった。きっと、あれはなにかの食べ物だと思う。

アパートというより、長屋が相応しいオンボロの平屋の一角に、一人で暮らしていたはずだ。仕事をしていなから当然に貧乏なはずだが、さりとて働く気はないようだった。一度我が家に上がりこんで来た時、母が仕事をする気はないのでしょうかと問うたところ、露骨に無視して別の話にそらそうとしたのが印象深い。

その時、私と妹は引き出しの前に座って、勝手に開けられないよう見張っていた。眼を離してはいけないと、近所の人たちから忠告されていたからだ。

私が露骨に警戒するのを無視して、喋りまくり、食べるだけ食べて帰っていったが、気がつくと手拭とフォークを持ち去られていた。別に高いものではないが、手ぶらでは帰らないとの噂は本当だった。

誤解されると困るが、貧乏な人が皆悪い人なわけではない。困った時には助け合うことは、珍しくはなかった。優しい人も多かった。ただ、嫉妬深く、持てる者から貰って何が悪いと開き直っている人は多かったと思う。

あの頃はよく分っていなかったが、気持ちが荒んでいる人は、決して少なくなかった。お金がないと、心のゆとりも持てないのが実情だ。本当は誰もが、貧乏な暮らしを抜け出したいと切望していたと思う。

我が家は、私が高校を卒業した年にその街を離れた。その後バブル景気の頃に、再開発事業がされて、貧民街は一掃されてしまい、私が住んでいた公舎も取り壊された。あの「たかりおばさん」もいずこかへ消えたようだ。

あの頃に戻りたいとは決して思わない。懐かしい気持ちもあまりない。しかし、もしあの街を抜け出して、新たな人生を切り拓いた人がいたならば、ちょっと逢ってみたい気もする。

みんな、幸せに暮らしていたら良いと思う。そうではない現実を冷静に予測できるからこそ、その予測を裏切ってほしい。そう思うと、表題の漫画もそう捨てたものではないと思う。
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「クライミング・フリー」 リン・ヒル

2008-09-25 12:12:18 | 
アイドルに夢中になったことがない。

誰だって思春期に入れば異性への関心が芽生える。TVのブラウン管の向うでにこやかに微笑むアイドルや、ラジオのなかから聞こえてくる優しげなアイドルの声に夢中になったりすることは誰にでもあると思う。

私とて人並みに映画やTVを観ていたから、あの娘可愛いなとか、あの娘の声は良いなぁなどと思ったことはある。あるが、夢中になったことはない。いわゆるファン・クラブに入ったことはないし、アイドルのコンサートにも行ったことはない。

女だらけの家庭に育ったので、女性に夢を見ることが少なかったせいもあるが、なにより現金な性分であった。どんなに可愛くとも綺麗でも、ブラウン管の向うにいるアイドルより、自分の隣で笑ったり怒ったりしている女の子のほうが良いに決まっているからだ。

女性にもてるタイプとは程遠いと思うが、ずっと共学だったし、身近なところに女性がいなかった経験はほどんどない。とりわけ妹とその友達たちは、頻繁に我が家に遊びに来ており、私の書棚から本を借りていったり、宿題を手伝わされたりと賑やかな環境だった。わざわざアイドルを見に行く必然性はなかった。

もう一つ、ツマラナイ理由がある。私は極度の近視で遠方を見るのが苦手だった。眼鏡の度数は、勉強や本を読むのに適したものにしてあったので、遠くはぼやけてしまった。おかげで、コンサートとかをわざわざ観に行く気になれなかった。いくら可愛い女性アイドルでも、ぼやけてしまえば魅力半減なのだ。

そんな私だが、一人だけけっこう夢中になったアイドルがいた。それが表題の本で取り上げられた、アメリカの女性クライマーであるリン・ヒルだ。もっとも、当人にアイドルとしての自覚は皆無だったと思う。

その名前を知ったのは、大学生の頃だと思う。知り合いのプロ・クライマーが主催した8ミリビデオの鑑賞会で、その華麗なクライミングに仰天した。大柄なアメリカ人の男性クライマーに混じって、一人だけ小柄な女性が難しい岩壁を踊るように登る姿にあっけにとられた。

5フィート足らずの小柄な身体は、日焼けして引き締まったものだったが、決して筋肉が目立つタイプではない。あまり手入れをしていなのではと思わせるブルネットの髪が眩しいが、美形というには少しごついと思う。もしかしたら、徹底的にエステでも通って、磨きをかければ美人なのかもしれないが、当人にその気がないようだ。

しかし、そのムーブは美しくしなやかだった。ほんの小さな突起しか見当たらない垂直の岩壁を、踊るかのような流麗な動きで登り詰める。柔軟性に富んだ下半身が、信じられないようなしなりをみせて、よどむことなく岩壁を舞う。

細い腕を伸ばして、小さな突起をつかむと同時に、背中の広背筋が膨れ上がり、軽々と身体を身体を引き上げる。その引き締まった足が、岩の上を踊るたびにポジションを上げ、見事なバランスで難所を切り抜ける。

当時、世界最強の女性フリー・クライマーであったと思う。

身長163の小柄な私は、当時背の低さはクライミングに不利だと思い悩んでいた。しかし、リン・ヒルは私より小柄だった。それなのに、世界の高難度ルートを次々と完登してのけた。そのクライミングは、創造性に富み、しなやかでいながらパワフルさも感じさせる。本当に憧れのクライマーだった。

後年、日本に来て次々と難ルートを登る姿を、実際に眼にしてますます憧れが募った。あの頃、密かに思い描いていた夢は、会社で猛烈に働き500万円をため、退職してクライミング修行の世界旅行に行くことだった。その第一歩は、リン・ヒルが活躍したヨセミテのはずだった。

残念ながら難病で身体を壊し、夢は叶わぬ夢と化した。観るのが辛かったので、山や岩の世界からは眼を背けたが、それでも時たまリン・ヒルの名前を眼にすることはあった。忘れられない名前であることは間違いない。

そんな彼女の半生を綴ったのが表題の本。もしかしたら、私も踏み込んでいたかもしれないフリークライミングの世界。少し後ろ髪を引かれる気持ちで読んでいました。

人生が二度あるならと、そんな感慨を抱かずにはいられませんでしたね。
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熊に襲われたアルピニスト

2008-09-24 12:15:01 | 社会・政治・一般
先週、新聞の三面記事の片隅に懐かしい名前をみつけた。

登山家の山野井氏が、ジョギング中に熊に襲われ重傷を負ったことを報じた記事だった。彼が奥多摩に奥さんと住んでいることは知っていたが、どうやら子連れの熊に遭遇してしまったようだ。

東京の奥座敷といわれた奥多摩にも熊が生息していることは、私も知っていた。しかし、一度も見たことはない。私が登山に明け暮れた70年代から80年代は、奥多摩の熊は幻の動物であった。

熊は人間を恐れるため、滅多に人里に近づくことはなかった。しかし、近年山が荒廃して、熊の食糧事情が悪化しているらしい。当然だとも思う。戦後の植林政策は、建築に役立つ建材のための植林で、野生の植生を無視したものだった。

植林をしっかりと管理していれば、それなりに森は維持される。しかし、枝払いなどをやらずに放置すると、日が差し込まず、草木が繁らず、土壌は荒廃する。木の実を主食とする熊が飢えるのも当然だと思う。だから、畑がある人里まで熊が降りてきてしまうのだ。

山野井君は、私が大学生の頃、急速に実力を伸ばした高校生だった。あの頃、小川山や日和田、常盤橋公園などに行くと、若手のフリークライマーが腕を競い合っていて、私もおおいに刺激を受けたものだった。

後年、世界的なフリークライマーに育った平山ユージ君は、当時は高専の学生だった。高難度のルートを次々と落とす彼のライバルの一人が山野井君だった。私も岩場で彼ら十代の若者が、闊達にフリークライミングに明け暮れているのを羨望の眼差しでみていたものだった。

フリークライミングに専念した平山君とは異なり、山野井君はアルパイン・クライミングに傾倒を深めだしたのには、大いに驚いた。危険性が高く、経済的にも大変なアルパイン・クライミングを目指す若手は少なく、私は密かに敬意すら抱いていた。

白状すると、本音では妬ましかった。私が長期療養中、彼らは世界に羽ばたき、世界的なクライマーとして名を残した。一時期は、彼らの活躍を眼にするのが苦痛だった。病気の再発を繰り返し、もはや山には戻れぬと覚悟を決めるまでは、なるべく見ない様にしていたくらいだ。

サラテ登攀という快挙をなした平山君同様、アルパイン・クライミングの世界でビック・ネームとなった山野井君は、その身体に大きな代償を払わされている。凍傷で足の指も、手の指も相当数失っている。それでも、彼は山を登ることを止めない。

きっと、今回の熊に受けた傷が治り次第、再び山の世界に挑むはずだ。彼は決して夢を諦めない。どんなに肉体が傷ついても、彼は挑戦を止めない。

感嘆と羨望の入り混じった気持ちが湧き出てくるのを抑えられない。もはや、私が踏み入れることが出来ない世界。

過去を悔やむのは好きではないが、それでも山への羨望を忘れることは出来ない。未練がましいなぁ、私は。
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