ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

今年を振り返って

2019-12-30 13:34:00 | 日記
後、一日余りで平成から令和へと新時代を迎えた一年が終わります。

この年は非常に多事多難な一年でした。新たな出会いもあれば別れもあり、毀誉褒貶が激しく、公私ともに厳しい年でもありました。

いろいろと考えることとも多く、長く乗り続けた車を廃車にして、車の運転自体辞めてしまうことにもしました。以前から夜の運転に不安を覚えるようになっていたのですが、今年春先、対向車からのビームライトで目がくらみ、視野が奪われて真っ白になってしまったことがありました。

けっこう通行量の多い道だったので、非常に焦り、涙目状態で側道を見つけ、かろうじて路肩に寄せて目を休ませるために停車して、事なきを得ました。原因は長年飲み続けたステロイド剤の副作用の一つである白内障の進行でした。

こちらは治療の甲斐あって現在は通常に戻っています。しかし、医師から再び再発する可能性を言われて、定期検診を受けています。どうも日頃の目の使い方にも問題ありと言われ、そのせいで目に刺激の強い映画館での映画鑑賞を止めています。

TVを見なくなっていたのですが、その分PCの動画を見ていると話したら、医者からTVのほうが距離を取る分だけマシだと言われる始末。よくよく考えれば、確かにそうだと思います。ノートPCの画面も、動画を見る際は必ず1メートルは離して見るように心がけています。

他にも身体にガタがきていて、ジョギングも自信がなくなりました。なんというか、足腰が不安定な気がして、走るのが少し浮「のです。おそらく細くなった足の影響でしょう。まっすぐなら問題なくても、左右に揺さぶられると、ふらつきを抑え込めない浮ウが厭らしい。

だから現在はジョギングは止めて、完全にウォーキングに切り替えています。ジョギングほど効能はないように思いますが、デコボコ道で足を挫いたり、カーブでふらついて壁にぶつかる醜態はなくなりました。

どうやら本気で年齢相応な身体を維持することを自らに命じなければならないようです。安静も大事なのですが、やはり歩くことは人の基本なのだと、今頃になって痛感しています。

そんな最中、今年読んだ再読本のなかで一番印象に残ったのは「日本婦道記」山本周五郎でした。再読といっても私が学生の頃読んだのは、短編のうち二話だけで、他は初読でした。


私が読んだ頃は、どちらかといえば、中世的な女性像ということで批判的に語られていたように覚えていました。しかし、再読してみたら、そのような偏見がぶっとんでしまいました。

今日求められる理想的な女性像とは違うと、表面的には感じられるかもしれません。でも、何時の時代でも、このような凛とした気概を持つ母親や妻たちが、この日本という国の土台を支えてきたのだと思うのです。

実際問題、母子家庭で育った私の場合、働く大人とは母のことに他なりませんでした。朝は誰よりも早く起きて食事の準備をして出かけ、疲れた身体で帰宅すると、すぐに夕食の支度に入る。子供たちの前では決して仕事の愚痴は出さない。

そんな母を見て育った私は、自分も早く社会に出て働いて、母を助けたかった。勉強よりも何よりも、とにかく早く大人になりたかった。この本を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのは母の在りし日の姿であったのです。

一方、今年初読の本だとやはり「我が母なる暗黒」ジェイムズ・エルロイでしょうね。良くも悪くも共感と反感、親和性と拒絶感を合わせて持つ不思議な作家の半生は、あまりに複雑で、今も私の中では上手く調理できていません。この本ほど、あと十年くらいしてから再読が必要だと痛感しております。


さて漫画ですが、ここはかなり迷いましたが「鬼滅の刃」吾峠呼世晴を選びました。今ジャンプで連載されている漫画のなかで、私が「ワンピース」に次いで読んでいる作品です。世界的にも人気が高まっているようですが、未完とはいえ読むに値すると考えています。どんなエンディングを迎えるのか、いささか浮ュもあります。願わくばジャンプ編集部に引きずられての第二部を出さないで欲しいです。


そして毎年書いている気がしますが、今年は遂に一編も書かなかったのが漫画界の問題児・冨樫義博「HUNTER×HUNTER」です。いくらなんでも休み過ぎ。多分面白いはずなので、再開されれば絶対に読んでしまいますが、なまじっかな面白さでは許せない気分です。

まァ、長年待たせつつ、ようやく出た続刊が激ツマラナイ田中芳樹よりはマシだと信じたいですね。

映画ですけど、残念ながら目の治療を優先したので、今年はまったく劇場に足を運びませんでした。早く完治して欲しいです。なおDVDでいいから絶対に観ると決めているのは「ボヘミアン・ラプソディ」と「ジョーカー」です。本当は劇場で観たかったので悔しくて、未だレンタルする気になれない私です。

そろそろ帰宅します。年賀状書きと、大聡怩ェ待っています。やるべきことは多いのですが、身体がそれに付いていけなくなったのが一番困った一年でしたよ。来年はもう少し上手に立ち回りたいものです。

それでは良いお年をどうぞ。
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宇喜多直家

2019-12-27 11:59:00 | 社会・政治・一般
人の命は地球よりも重いと言った、どこぞの政治家がいたが、戦国時代の大名で同意する人はまずいない。

それでもなるべく人の命は奪わすに済ませたいと考えた武将は思いの外多い。羽柴秀吉もその一人で、高松城の水攻めや、鳥取城の飢え殺し、三木城の干殺しなど、戦わずに相手を飢えさせて戦意を奪い、最終的に城主の切腹で終わらせる戦いかたが目立つ。

もっとも信長の直接指揮による比叡山焼き討ちや、長島の皆殺しなどにも参加しているので、決して人道主義の人ではない。ただ、農民出身だけに、農民=生産力であり、戦いに勝った後のことは考えていたと思われる。

もっともこれは例外であり、多くの戦国大名は敵を戦場で唐オて、自らの権威を確立させている。それとは対極のやり方で戦国大名に勝ち名乗りを挙げたのが宇喜多直家である。

元々は没落した播磨の小大名であり、幼少時には流浪の生活を送っていた苦労人である。特に武撃ノ秀でた訳ではない彼が、戦国大名となり得たのは、謀略と暗殺に長けていたからである。

その遣り口は凄まじい。娘婿の大半は彼に暗殺されているし、直家に茶の間に呼ばれれば、生きて帰る者なしとまで噂される暗殺の達人である。しかも諜報と陰謀にも長けており、瀬戸内海沿いの海賊の真似までして、徐々に勢力を広げて、遂には毛利家、織田家の双方からも認められる戦国大名となる。

ただ、その遣り口のあまりの凄惨さから、毛利も織田もいささか毛嫌いしていたらしい。これは同時代だけでなく、後の江戸時代になっても嫌われていたようで、戦国三大梟雄(斉藤道三、松永秀久)とまで呼ばれる始末である。

正直、いささか気の毒な気もする。戦場で多くの兵士を唐オ、最終的に敵武将を唐キことは、確かに王道である。しかし、その武将を単独で暗殺してしまう方が、人的な損失は遥かに少ないはずだ。

また暗殺には、情報が重要となる。誰を、どこで、何時殺すのか、その情報を入手し、判断することは思いの外難しい。直家は幼い時の流浪の生活から、情報の大切さを学んでいたようで、それが後の暗殺術に活かされたのだと思う。

彼が戦場での戦いよりも、暗殺や謀略を好んだのは、少数の部下を戦場で失いたくなかった気持ちもあったと思う。事実、直家は敵には過酷であったが、味方には公平で気配りも欠かさない良き上司であったようだ。だから味方に裏切られることは少ない(部下も直家が浮ゥったのだろうけどね)。

ちなみに戦場での指揮官としても優秀で、私が戦国時代の最強兄弟だと思っている吉川元春と小早川隆景の猛攻を見事にしのいでいる。決して暗殺だけの人ではない。

直家は自らが嫌われ、かつ信頼され難いことも自覚していた。だからこそ秀吉に膝を屈した。毛利からも織田からも嫌われていたが、宇喜多家が生き残るためには、いずれは戦国覇者に膝を屈しなければならない。

そのことを自覚していた直家は、播磨攻略に苦戦する秀吉に、その未来を託すことにした。この決断が宇喜多家を生き残らせた。自らの寿命がもう残り少ないと知った直家は、妻に自分の死後は秀吉の世話になれとも言い残した。

秀吉の女好きを知っていた直家は、自らの妻さえ道具として使ってのけた。ひどい男だと思うだろうが、私の見かたは少し違う。この妻は、元々は他の武将の妻であったが、敗北により夫を失い路頭に迷っていたところを直家に救われている。

かなりの器量よしだと伝わっているが、それ以上に直家とはオシドリ夫婦であったようだ。自分の死を覚悟した上で、妻の安全を任せられるのは秀吉に他ならないと判じたが故の決断でもあったはずだ。

信長には嫌われていたが、秀吉なら約束を守ってくれるはずだと判断した直家は正しかった。実際、直家の死後も宇喜多家は優遇された。ただ不幸なことに直家の後継者である秀秋は、器量以上の立場についてしまい、結果的に関ヶ原の敗戦後、家康により大名の地位から落され、最後は八丈島に流されている。

最後は許されて、島から戻るはずであったが、もう秀秋は戻る気はなく、八丈島で生涯を終えている。今も島には彼の親族が生き残っているという。この悲惨な結末を、暗殺でのし上がった父・直家の報いだと噂されたが、それは違うと思う。

播磨攻略に苦戦した秀吉にとって、直家が味方してくれたことは僥倖であり、かなりの恩を感じていたはずだ。また死後、直家の妻を愛妾として差し出してくれたことも喜んでいた。ちなみにあの本能寺の変の直後、中国大返しの際にも、立ち寄って一泊しているほど気に入ったようだ。

だからこそ残された直家の息子である秀秋を優遇した。しかし、この息子には、直家ほどの力量はなかったことが、最終的に家康に疎まれての八丈島流しであったと思う。

流浪の身から立ち上がり、暗殺と謀略で戦国大名とまでなった直家の最後の判断ミス、それが息子の器量を読み誤ったことでしょう。それにしても、三大梟雄と呼ばれた男たちは、いずれも息子の代で崩壊しているのが実に興味深いと思います。
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イージス・アショア

2019-12-26 11:49:00 | 社会・政治・一般
システムは高性能であればあるほど、必ず予期せぬ欠陥がある。

これは、コンピューターから鉄道管理システムなどの民生品はもとより、軍事の面でも不変の原理である。だから、今回、秋田に配置予定の新型ミサイル防衛システムであるイージスアショアも相当に欠陥があるだろうと予測している。

市場に出すことを前提とした民生品は、販売前にテストを繰り返すことにより、その欠陥を見つけ出して改善する。しかし軍事用品は、戦場で使うことが前提である。もちろん事前のテストを繰り返すが、本当の意味での実戦使用ではないため、どうしても全ての欠陥を発見することは難しい。

はっきりと云えば、軍事用品は実際に戦場で使ってこそ、その真価も欠陥も分る。実際、過去の名戦艦、名戦闘機、名戦車などは、開発当初は欠陥だらけで、実戦での運用を通じて改善し、使いやすい有効な武器と進化した。

これは軍事史を通読していれば、当然の常識なのだが、日本では軍事に疎い方が平和を愛する者であるとのオカシナ視点があるので、軍事音痴が偉そうに軍事を語ることが多い。

最近でいえば、気鋭の言論人として取り上げられる某大学講師であったの牧田がそうだ。

イージスアショアについて、役に立たないどころか日本にとって危険なものだと盛んに主張している。一読すると、さも論理的に記しているのだが、よくよく読むと、矛盾点があるし、なにより初めに結論ありきの論であることが分る。

当然であろう。この方、反原発、反米軍基地、反安倍政権の結論あっての論者である。自分が信じる結論の正しさを立証するための理屈を並べているに過ぎない。ただ、そこそこ知識があるので、軍事に疎いと彼の論はもっともらしく読めるから厄介である。

今さらだが、はっきり書くが、自衛隊の役割の一つは、在日米軍及び米軍基地の守備である。アメリカが日本列島に基地を置くのは、アメリカの防衛戦略の一環である。

もちろん自衛隊の隊士たちは、日本を守るのは我らであるとの強い自覚をもっている。それは東日本大震災などの天災時に証明されている。しかし、政治の論理は冷徹である。

敗戦国である日本は、太平洋戦争の敗戦後70年が経っても、未だアメリカ軍のくびきから逃れられない。それを屈辱に思うのは良いが、アメリカ軍の配下の地位にあるからこそ、経済再建に専念出来たのも事実である。

経済的に豊かな戦後の日本は、アメリカ軍の保護下にあったからこそ繁栄を享受できた。その代償として、アメリカ軍の配下であることを甘受せねばならない。

冷戦が終結してアメリカは、世界各地の点在するアメリカ軍を四か所に集約した。その一つが日本列島である。政治的に安定しており、その高度な技術力から兵站基地として役立ち、豊かな経済力ゆえに資金面でも役に立つ便利な拠点である。

在日米軍基地といと、すぐに沖縄を思い浮かべる人がいるが、それはあまりに短慮に過ぎる。青森の三沢基地の中にある通称「ゾウの檻」と呼ばれる防諜施設は東アジア最大のスパイ施設である。また青森は車力にある自衛隊内のXバンド・レーダー施設は、アメリカ本土防衛には不可欠のものである。

そこで今回、青森に近い秋田の自衛隊基地内の施設として設置されるイージス・アショアである。率直に言って、日本の防衛のためというよりも在日アメリカ軍施設防衛の役割を担っているのではないかと私は疑っている。

なにせ、自衛隊のイージス艦との連携にせよ、アメリカ軍のブラックボックスである装置を通じてしか機能しないのだ。もちろんアメリカ軍との連携は非常に重要なので当然ではあるが、やはりアメリカの為だと勘繰らざるを得ない。

しかも当初から欠陥が予測されるイージスアショアのシステムは、アメリカ軍が事実上その主要部分を握っているのだ。

日本人としては、いささか忸怩たる思いが生じるのは当然である。でも冷静に考えれば、それだけ機密だらけの重要施設を日本に設ける以上、アメリカはその拠点防衛に真剣であるとも認識できる。

秋田市が、日本が戦場になると騒いで、その設置に反対する市民たちがいるが、この人たちは初めに反対ありきの原理主義者だ。日本にミサイルを撃ち込むことは、自動的にアメリカの防衛本能を刺激する。なぜなら日本列島はアメリカの重要な防衛拠点だからだ。

もとより日本の国防は、アメリカありきで構築されている。アメリカとの同盟関係が健在である以上、イージスアショアの設置も受け入れざるを得ないでしょう。それとも隣のバカ大統領のように反米姿勢を打ち出しますか?アメリカと敵対関係を望むのでしょうか。

多分、欠陥だらけでしょうけど、イージスアショアの設置は、日本の国防と平和に役立つ存在だと言わざるを得ないですね。
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カニ缶

2019-12-25 11:59:00 | 健康・病気・薬・食事
カニ缶は別格だ。

もちろん、カニカマではなく、本物のズワイガニに水煮缶である。お歳暮で頂いたものである。

そのカニ缶を目の前にして、私は悩んでいた。今、食べるか、それとも後にするか。

缶詰なので、今だろうと来週だろうと味に変わりはないのは分かっている。ただ、早く味わいたいとの気持ちは確実にあった。普通ならば、すぐに開封して食べてしまう。

まずは何もつけずに食べ、次にマヨネーズを付けて堪能する。レタスと一緒にパンに挟んで食べるのも良い。でもなるべくシンプルに食べたいのがカニ缶である。

そのカニ缶を睨みながら私は悩んでいた。

何故なら先週、インフルエンザに罹患して、味覚が少し鈍いからだ。なにせ、何を食べても美味しくない。いや、本来はいかなる時でも食欲だけは失くしたことがない私が、食欲が出ないことに悩んでいた。

おかしなことに、胃袋は空腹で悲鳴を上げている。夜中に胃袋からキューキューと悲鳴が上がる音で目が覚めるのであるが、風邪のせいでまったく食欲がない。

美味しいはずのカニ缶ならば、今すぐにでも食べられる。しかし、この高熱で鈍った私の味覚は、美味しいと感じてくれるだろうか。

ちなみに、その悩んでいる最中、私の手は蜜柑の皮むきをしており、ヴィタミンCを多く含む白い繊維の部分多めにして、パクパクと口に運んでいた。甘いはずの蜜柑なのだが、やはり美味しくは感じない。ただ高熱を出した時に必要とされるヴィタミンCは大事なので、3個ほど食べて空腹感を抑え込む。

やぱり、せっかくのカニ缶は美味しく食べたいですよね。ようやく体調も回復してきたので、今夜あたり頂きましょう。
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COP25

2019-12-24 11:40:00 | 社会・政治・一般
環境問題を食い物にしたツケだと思う。

予想通り見事に失敗したCOP25のことだ。元々アメリカと中国が参加していない以上、話し合いがまとまっても部分的な成果しか挙げられないことは分かっていた。

なによりも途上国からの支持がまるで得られていない。当たり前だと思う。

パリ協定が売りにしていた排出権交換取引自体が本質的に環境問題をネタにした胡散臭いビジネスであることは明白であった。どこぞのコンサルか何かが編み出した錬金術に他ならない。

私は当初から、これではダメだと思っていた。環境問題の解決は、本質的に経済ではなく、その国の国民あるいは政府の意志が肝要となる。いくら先進国側から途上国へ金を流しても、途上国側にCO2の排出削減に理解と共感がなければ、それは富裕者の懐を潤すだけに終わる。

実際、そうなっている。だからこそスケープゴートが必要だった。欧州主導の陰険な会議運営に無知である日本が叩かれたのも当然であろう。叩けば金を出すと思われているだけだ。

ついでだから言えば、今回もやってきたあのグレタ嬢だが、この子も又本質的な議論を回避するための道具に過ぎない。欧米のセレブお気に入りの子供だが、途上国では冷たい視線を注がれていることを報じないマスコミも共犯者だ。

何度も書いているが、そもそも二酸化炭素が地球温暖化の主犯だとは、未だ科学的には立証されていない。

現在の地球が二世紀前に比べて暖かくなっていることを否定する気はない。しかし、人間の産業活動により排出されたCO2が大気温度の上昇にどの程度効果があったのかは、未だ未解明のままである。

一万年前、地球は氷河期であったが、その後温暖化が進み氷床は解けて、海が広がり、陸地は狭まった。この時の地球は明らかに現在の地球よりも暖かかった。もちろん、その原因はCO2ではない。

今も昔も、地球の大気温度に最も影響力があるのは太陽である。太陽から注がれる放射エネルギーが地球の大気を温めている。CO2やメタンガスなどが、どの程度地球の大気温度に影響を与えるのか、それはまだ科学的に解明されていない。それが現在の人類の科学力である。

もっとも私も現在の温暖化傾向と、CO2が無関係だとは思っていない。ただ、観方によっては、寒冷化を防いでいる可能性さえあると思っている。実際、現在の地球は地質学的に云えば、寒冷期であり、いつ氷河期に突入してもおかしくない。

だからこそ、更なる研究が必要なのだが、これがいささかお粗末だ。地球規模での大気温度の計測は、今のところ一部の先進国でしか十分になされていない。つまり、未完成のデーターを元に、CO2が温暖化の主犯だと断じられているのが実情である。

私は一人の人間として、人間の産業活動による地球汚染は減らしたいと思うし、大切なエネルギーを効率よく使うべきだとも思う。だが、そのためには人々がそのことに理解と共感をしなければ意味がない。

事実、今夜の食事に悩む途上国の人たちは、貧しさから抜け出すために環境を汚すことを悪いとは思っていない。理解なくして協力は得られない。温暖化ガス排出量取引なんぞに金をかける余裕があるのならば、途上国に教育と仕事場を与えるほうが、よほど効果がある。

大声では言わないけれど、私は今回のCOP25が失敗に終わって良かったと思っています。
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