ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

全員一致

2012-03-30 12:39:00 | 社会・政治・一般
日弁連が死刑制度に反対している。

それは彼等の自由だと思うし、別に邪魔する気もない。ただ、国民の多数は、現行の死刑制度を消極的ではあっても支持している。

私は死刑が最も素晴らしい刑罰だとは思わないが、他に変わるべき刑罰が思いつかないので、やはり死刑を支持している。現行の無期懲役は、本当の無期ではなく、早ければ7年後ぐらいには出所してしまう。

困ったことに相当に長い期間刑務所に入れておいても、全ての受刑者が反省する訳ではない。いや、そもそも反省する気さえない。

実際、婦女子を数名暴行致死させておきながら、「女が抵抗するから、仕方なく殺したんだ。素直にやらせりゃ命まで奪う必要はなかったんだ。だから悪いのは女どもさ」と平然と口にする受刑者がいる。

私は実際に聞いたわけでもないが、おそらく事実だろうと思う。傍目にはどんな悪事でも、当事者には自分を正当化する理屈がある。だから、如何なる刑罰であっても、そのような輩を更正させることなんて出来ないと、悲観的ながらそう確信している。

死刑がベストな選択だとは思わないが、犯罪者を完全に反省させ、被害者及びその家族を完全に納得させられる他の手段を私は見出しえない。だから、消極的ながら死刑に賛成せざるえない。

だが世の中には、絶対的確信を持って死刑に反対する人たちもいる。日弁連はその代表格だ。その日弁連がおかしな提言をしてきた。すなわち全員一致でなければ死刑は認めないとする提言を出してきた。

彼等は弁護士である以上、相応に頭がいいはずだが、なぜに分らない。

全員一致でなければ駄目だということは、多数派が同意を示しても、一人の反対があれば認めないということだ。すなわち、これは少数意見が多数意見を妨げる手段に他ならない。

改めて思い出して欲しい。日本は民主主義国家だ。民主主義の根幹の一つは「最大多数の最大幸福」であり、多数派の意見を正しいものと仮定して、世の中を動かす仕組みである。

全員一致というやつは、多数派の意見を少数派の意見が弾圧する仕組みであり、きわめて独裁的であると同時に、反民主主義的な遣り口だ。それを日弁連が口にしているのである。

どうも日弁連というところは民主主義を嫌い、多数派を少数派でもって制圧したいらしい。邪推させてもらえば、民主主義よりも独裁政治が好ましいと思っているのだろうか。

実際のところは、正しい目的(死刑廃止)のためなら手段(民主主義の否定)は問わない、といったところでしょうがね。正義という名の美酒に酔いしれると、どんな優秀な知能もおかしくなるようです。
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確定申告雑感

2012-03-29 12:09:00 | 日記

やっぱり昨年の景気はひどかった。

確定申告を終えて、つくづく実感した。予想通りとはいえ低調な申告内容が多かったのが、今年の確定申告だった。

とりわけ目立ったのが、飲食店の不振だ。震災による直接被害はなくても、その後の計画停電、余震による客足の鈍り、自粛推奨による外食の大幅減少が原因だと思う。

次に目立ったのが、賃貸用不動産の空室の増加だ。予想はしていたが、昨年春以降に退去するケースが多い。問題はその後も空室のままであることだ。

関連して、不動産売買がきわめて低調であった。毎年、数件売買の申告をしているが、今年ほど少ない年は初めてだ。売りにだしてはいるが、買い手がつかず、売買が成立していないケースも散見する。

これでは景気が悪いのも当然だと思う。

景気の悪いのを政府のせいにするのは、あまり好まないのだが、それにしたって政府の無為無策が目に付くのはいたし方あるまい。

やはり民主党政権が、党内もしくは長年の支持者の顔ばかり伺っていて、国民の声を聞いていないことが大きいと思う。とりわけ菅・前内閣がひどかったが、困ったことに野田・現内閣にもその傾向は引き継がれている。

特に問題なのは、予算が通らないため、お金が市中に廻らず、大きな景気停滞を引き起こしていることだ。おまけに予算以外の法案も頻繁に変更があるため、予測がつかない。

政府の方針がある程度、しっかりと決まっていれば、民間はその方向に向けて設備投資などを始める。金を集め、設備を揃え、人材を配布する。

しかし、民主党政権は予算の裏づけの無い希望的観測ばかりで法案を提出してきたため、国会を通過できない。これは官庁を使いこなすことに不慣れであることも確かだが、実務経験に不足している市民運動家や労働組合出身者が多いことも、足を引き摺る要因だろう。

おまけに民主党政権を裏で支えているのは、勝事務次官率いる財務省だ。仕方ないことだが、この役所の作る法案は、すべて日本政府の財政を健全化させる考えが基盤となっている。

不況の時には、ケインズ的政策(政府による需要喚起)が有効なのだが、財務省はこれを嫌がる傾向が強い。インフレ恐怖症の日銀が、これに輪をかけて縮こまっているため、公共投資は減る一方だ。

これでは景気が悪くなるのは当然で、その最中に政府が議論をするのは消費税増税なのだから、民間はますます財布の紐をしめる。

そう、財布の紐を締めている。財布(預貯金)は未だ十分潤っている。これは昨今、相続税増税案が提起されたことに伴い、私の事務所でも相続税対策の相談が増えていることからも分る。

今回の確定申告でも、資産家などの富裕層は預貯金を減らすよりも増やしている傾向が強いことが分った。金を遣わないので、収入が減っても支出も減らしているの。だから課税所得はそれほど減っていないことからも分る。

逆に中間層及び貧困層では、生活のために預貯金を取り崩している。だから収入も減っているが、支出も減らし、更に蓄えも減らしている。これはたまらない。

つまり国民は不安なのだ。不安だからこそ、金を遣わず、結果として消費は低迷する。これこそが、民主党政権の経済政策が失敗していることの最大の証左だと思います。

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ダメおやじ 古谷三敏

2012-03-28 12:18:00 | 

私には若干、ファーザー・コンプレックスがある。

これは母子家庭で育った故だが、若干で済んでいるのは父からの経済的支援で学業を全うできたからで、父親がまったく不在であったわけではないからだと思う。

ただ、ヒネクレものの私だけに、父親の存在を堂々認めることには、相当な抵抗感があった。だが、やっぱり否定することは出来なかった。やはり、父親の存在感は、母親のそれとは異なるものだ。

父は母の役割は出来ないし、その逆も然りだと思う。

表題の漫画が週刊少年サンデーに連載され、人気を博したのは、私がまだ父に再会する前のことだ。当然ながら、その頃は、父親がいないことなんて自分には関係ないと思い込んでいた。

だが、そんなヒネクレた私でもこの漫画は好きになれなかった。たかが漫画ではあるが、この漫画の主人公のような、情けない男が許せなかったからだ。

ギャグ漫画であったが、私には全く笑えなかった。父親がこんな情けない姿であっていいはずはないと思い込んでいたが故であった。私は父との同居経験が短いので、父親像をいささか美化しすぎていたのかもしれない。

現実問題、あの時代はまだ亭主関白がいたるところで跋扈して、家庭内暴力は夫が妻や子へ振るうものであったのが実情だろう。だからこそ、逆説的にこの漫画はギャグとして人気を博したのだと、今にして思う。

もっともこの漫画、途中から妙な方向へぶれだして、何時の間にやらダメおやじは社長になったり、お気楽世捨て人になったりと、訳がわからなくなっていた。これもギャグなのか?

この漫画、当初は古谷の師匠である赤塚が描いていて、途中から古谷が全て描くようになったらしい。そのせいだと思うが、後に古谷が薀蓄漫画を描き出すことが分る作風になっている。

もっとも私の記憶には、後半の部分はほとんど残っていない。やはり記憶に残るのは、ダメおやじが家庭で虐められている場面ばかり。

前半と後半、別タイトルにしたほうが好いんじゃないかなァ。

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政治の未来は

2012-03-27 12:22:00 | 社会・政治・一般

いささか非常識な言を吐かせてもらうと、民主主義と独裁政治は必ずしも相反するものではない。

なぜなら、有権者が多数決をもって独裁者を支持することは、民主主義に反しないからだ。ただ、選ばれた政治家が独裁政治を実際に出来るか、どうかは別問題だ。

近世の政治学者は、この一見矛盾しているかのような独裁者の誕生を、当然のものだと考え、そして恐れていた。だからこそ、立法と行政と司法の独立した形での政治形態を作る事により、事実上独裁者の力を弱めた。

それでも独裁者は、断固たる独裁政治を敢行するため努力を惜しまなかった。民主主義が機能している社会で、有権者が独裁者の誕生を望むとしたら、それは従前の政治が有権者の期待に応えない状況が継続しているからこそだ。

したがって独裁政治を目指す政治家は、まず有権者の期待が何であるかを敏感につかむことが求められる。その期待が何であるかを知るのは、案外難しくはない。有権者の本音を聞きだす労苦を惜しまなければ、だが。

だが、有権者の本音なんて、実のところかなりの我がままである場合が多い。世の中の仕組みに抗うような無理難題が少なくない。だから頭のいい政治家ほど、その本音を政治で実現することが難しいことが、すぐに分ってしまう。

分っていても、出来ない公約は口に出来ない。クソ真面目な政治家ほどそう考える。だから案外と独裁者は生まれない。生まれるとしたら、世の中の仕組みが、既に機能不全を起している場合だ。

すなわち政治が硬直化し、有権者の意向を汲み取れなくなっている状態が長く続いている場合だ。そんな時ほど、有権者の不満は高まり、その不満を飲み込んだ政治家が独裁者への道を一歩踏み出す。

だが、その有権者の期待を受けて政治のひな壇に立ったものの、変革への道のりは長く厳しい。最大の障害は、政治権力が分断されていることだ。立法府(議会)と行政(役所)そして司法(裁判所)が最大の抵抗勢力となる。

だからこそ、古来より独裁者として名を挙げた政治家は、武力により抵抗勢力を押しのけた。断言するが、武力なき独裁政治は成立しえない。

だが、現代の先進国の大半は、政治家が独自の武力を手にすることを極力排除するような仕組みを作り上げてしまっている。だから社会主義国などでは、政治家が非公式に軍と強く結び付くか、諜報組織を支配することで独裁政治を補完する武力としてきた。

しかし、西側先進国では、選挙で選ばれた政治家が特定の軍、諜報組織と密着することを防ぐシステムが既に完成している。だからこそ、20世紀以降、クーデターでさえ滅多に起きない。

では、西側先進国で独裁政治あるいは独裁的な政治を行うには、どうしたら良いか。まず選挙で自分を支持する政党に圧涛Iな議席を勝ち取らせることだ。小泉・元首相がこれに近い。

次にマスコミ対策というか、情報統制が必要不可欠となる。幸か不幸か、日本の場合、記者クラブを通じてこれだけは実施されている。

そして最大の関門は、行政組織(役所)を味方につけ、実行部隊として使えるようにすることだ。これが出来ないと、どんな政策も絵に描いた餅に終わる。

日本では小泉・元首相が比較的独裁に近い政治を行っていたが、その土台となっていたのは旧・大蔵省の描いた構造改革路線であった。この路線に乗ることにより、小泉・元首相は日本の政治家としては、稀に見る独断専横的な政治をすることを可能ならしめた。

だが、反発も大きかった。既成の権力構造にメスを入れたが故に、それまでの利権に胡坐をかいていた勢力の反感を買った。この不満が、現在の民主党政権を産みだす基盤となっていた。

皮肉なことに、既成の政治に不満を抱いた有権者の意向を受けて、前回の衆議院選挙で大勝した民主党は財務省の引いた路線を走ることで、政治権力をとりまとめた。実務能力に欠けた民主党の政治家たちは、財務省の支持あってこそ政治を動かすことが出来た。

だからこそ、有権者が望んでいた改革を何一つ出来ていない。当然である。小泉・構造改革路線とは、公共事業の大幅削減のように従来の利権構造を破壊する方向性をもつものだからだ。その路線は、民主党政権でも維持されていることに、有権者はうすうす感ずいている。

だからこそ、現在その評価を大いに落としている。余談だが、菅・前首相が東日本大震災で満足な対応が出来なかったのは、行政組織を上手に使いこなすことが出来なかったからだ。

理想に囚われて実務能力に欠けることは、村山富一と似たり寄ったりだが、行政に一任(丸投げとも云うが)した村山と異なり、自分で仕切りたがった菅直人は、時間潰しの委員会ばかり開いて、行政を混乱させただけだった。行政を満足に使いこなせなかった菅政権が、震災に対応したことが日本の不幸であったと、私は思う。

一応確認しておくと、旧・大蔵省が打ち出した構造改革路線とは、少子高齢化を迎える21世紀の日本を運営していく新しい政治路線であった。その方向性自体は私とて評価している。

ただ、その実施が正規雇用従業員の削減や派遣労働者切りといった形で、弱い者いじめで行われたがゆえに構造改革路線は評価を大いに下げた。

改革とは、それを主張するものが自ら体現してこそ支持される。財務省も国会議員も、自らは傷つくことなく、麗しき改革の理念だけ主張し、その実施は下に押し付けた。だからこそ、反発を生んだ。

その反発から生まれたはずの民主党政権は、その実務能力のなさを財務省の支持を得ることで補った。それゆえに、構造改革路線を継承せざる得なかった。その痛みを誤魔化すために、子供手当てをばら撒いたり、事業仕訳というパフォーマンスで役所虐めをすることぐらいしか出来なかった。

だから今、従来の政党が支持を減らし、大阪の橋下市長のような気鋭の新進政治家が支持される風潮を生み出している。有権者の本音を知っているからこそ、橋下市長は独裁的ともいえる強引な政治手法を採用する。今こそ、独裁的政治実行力を有権者が求めていることを知っているからだろう。

だが、橋下市長がやろうとしている政治を実行することは難しい。その改革の実施には行政の助力が必要不可欠だからだ。いくら市民の支持があっても、行政を動かせねば実現できない。

これが武力(強制力)を持たぬ政治家が直面する最大の障壁となる。もし仮にだが、橋下改革は挫折したとするならば、それは地方自治に独自性を許さない既成の法機構を盾にとった行政側の抵抗が原因だろう。

その時こそ、有権者は国政において自分たちの要望を実現してくれる独裁者の出現を望むはずだ。もう一度云うが、民主主義は時として独裁者を求める。ただ、求められて出現した独裁者が、本当に独裁政治を出来るか否かは別問題。

独裁者が自ら改革の精神を体現して見せたとき、行政はそれに従わざる得ない。民主党政権にそれが出来ない事は、既に分っている。それは自民党も同じこと。

先の選挙では、改革を唱える幾多の少数政党が乱立したが、あの時はほとんど支持を得られなかった。だが、次の国政選挙では、どうなるのだろうか。近い将来、政治に大きな変動が訪れる気がしてなりません。

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Puss in Boots

2012-03-26 15:09:00 | 映画

憎しみは、身近な相手にこそぶつけられる。

自分を苦境に追いやった本当の原因が他にあることは分っている。でも、どうしようもなくお前が憎い。誰よりも俺の傍にいて、誰よりも分っているはずのお前が憎い。

憎まずにいられようか。

だが、憎しみをぶつけられた方とても、黙って甘受することは出来やしない。なんで俺を裏切った、信じてくれなかったんだと逆ギレすることも珍しくない。

こうして憎しみは憎しみを生み、不幸は不幸を呼び込む。このような醜聞は、身近な相手同士でこそ起き易い。兄弟、親友、恋人など分かちがたい感情を持つ者同士にこそ起きる悲劇だ。

率直に言って、私とて無縁の感情ではない。必ず解決できると断言できるほど確信も持てない。実際、幾度か経験している。

分っているけど、どうしようもないんだ。

でも、解決できる時もある。損得を抜きにして、相手を慮る気持ちと、自己犠牲の精神とが状況に適合した時、どす黒い憎しみは、清流のような清々しい透明色となって心を流れていく。伝わってくるのは、互いを思いやる優しい気持ち。

こんな簡単だったんだと思うが、あの時はどうしようもなかったことも分る。

表題の映画は、ペロー童話の「長靴を履いた猫」というよりも、映画「シュレック2」で敵役として登場して、何時の間にやら主役級の人気を博したネコのプスが主役の座に躍り出た作品。

ドリームワークスお得意の3D作品だが、2Dでも十分楽しめると思います。機会がありましたら是非どうぞ。

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