ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「BANANA FISH」 吉田秋生

2007-05-31 09:28:43 | 
私はリーダーシップに乏しい。

人望がないわけではないと思う。十代の頃から、幹事役やら、金勘定を任させることが多く、それなりに信頼を得ていたとは思う。自分でも公平な性格だと思うし、またそうありたいとも思っている。

しかし、リーダーには向いてない。まとめ役なら出来なくもない。しかし、皆を明るい方向へ向けさせることが致命的に苦手なのだ。反省会を仕切らせれば、かなり厳しい反省会をやる自信はある。しかし、その反省を将来に向けて明るく活かすことが下手だった。これはリーダーとして致命的な欠陥だと思う。

だから、私は仲間内での自分の役割を補佐役や憎まれ役に定めていた。大学時代、クラブで会計を担当していたが、仲間たちからは「サラ金会計」の呼び名を得ていた。部費の取立てが厳しかったからだ。

厳しくせざる得なかったのはクラブの財政事情が、危機的だったからだ。高額な登山道具の購入資金を部員に貸し付けていたが、その回収が代々滞り勝ちであったことが、最大の理由だった。なにせ、遊び盛りの大学生だ。仕送りがくると、一週間で使い果たすアホがいる始末。当然に部費の取り立ても厳しくせざる得ない。

ただし、私の厳しい取立てを可能にしていたのは、私一人の力ではない。私に厳しく責め立てられた部員を、後で優しくフォローしてくれる仲間がいたからこそ可能だった。私が敢えて憎まれ役を買って出ていることを理解してくれる仲間がいたからこそ、可能な厳しさだった。一人でなしえた訳ではない。

そんな私だったから、出来るならば優秀なリーダーの下での補佐役が望ましいと考えていた。しかし、社会に出てみると、必ずしも自分の思うとおりにはならない。会社勤めを辞めざるえなくなり、個人事務所で働き出すようになって、自らがリーダーとなる個人事業主を目指さざるえなくなった。小さな事務所だが、それでもスタッフを指揮するリーダーシップは重要であることは変わりは無い。だからこそ、理想のリーダーシップを求めてやまない。

ところで、表題の作品の主人公アッシュは、絶対的なリーダーだ。指示するだけでなく、自ら率先して動き、優れた判断を示し、絶対的な権威を振るうリーダーだ。あまりに優秀であるため、孤独なリーダーでもある。アッシュの場合は、その生い立ちからして孤独にならざる得ない。容易に本音を明かせないのは、いかなるリーダーでも同じだが、男娼としての屈辱的な幼年期を経験しているアッシュは、鋼鉄の意志で傷つきやすい心を庇わざる得ない。

そんなアッシュのもとに現れた、あまりに無邪気に脆弱な日本人・英二は、その弱さゆえにアッシュの心の隙間を埋めてしまった。弱さは優しい抱擁でもあり、アッシュはその柔らかさに気がついてしまった。鋭すぎる刃であるアッシュは、その納める鞘を見つけてしまった。隠し通してきた、繊細な心を英二の前でのみ晒す事が出来た。その安堵感がアッシュの弱点となり、物語は悲劇へと加速する。

アッシュのようなリーダーが、目の前に現れたら、私は無条件で従わざる得ないと思う。それほどまでに超越したリーダーシップを持つアッシュだからこそ、その弱さをもたらした英二は、ユーシスから嫌われたのだと思う。敵でありながら尊敬せざるえないアッシュに弱点を作ってしまった英二をユーシスが憎むことに、私は妙に共感してしまった。

少女マンガ雑誌に掲載されていたことが信じられないほど、硬質でスケールの大きな物語。もし、少女マンガを読んだことがない男性がいたとしたら、是非ともこの作品は読んで欲しい。大きな目に星が煌く可愛らしい女性キャラは出てこないし、甘ったるいラブシーンも、こっぱ恥ずかしい告白の場面もなく、ひたすらハードボイルドで、過激で、それでいて繊細なストーリが展開することに驚きを隠せないと思います。
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「2001年宇宙の旅」 アーサー・C・クラーク

2007-05-30 09:28:54 | 
何故、人間はかくも矛盾した存在なのだろう。

風光明媚な自然の風景に感動する一方で、その自然をいとも容易に破壊する。愛する人を大切に想う一方で、嫉妬に狂い憎悪をたぎらせる。穏やかな平和に安らぎを感じて、このまま続く事を願う一方で、戦いに血をたぎらせ容易に興奮の坩堝に自ら飛び込む。真実と誠実さを大事に思う一方で、平然と嘘をつき誤魔化す事を厭わない。

私は子供の頃から、人間という生き物は未完成な存在だと感じていた。単細胞生物から進化して、おサルさんから人間様へとなったはいいが、これが最終形態だとは思えなかった。

ダーウィンが提唱した「進化論」は、ほぼ世界中に広まったと言えるが、先進国では唯一アメリカだけが公に進化論を学校で教えることに異議を唱えている。なぜなら、聖書には人は神が創ったと書いてあるからだ。サルから進化したなんて、聖書のどこにも書いてない!

アメリカには、聖書に書かれたことをすべて信じるキリスト教が大きな勢力を持っている。これはアメリカで生まれた新興宗教であって、通常ファンダメンタリストと称されている。適切な訳語がないので、私はキリスト教原理主義と意訳している。

また、ファンダメンタリストほどではないが、進化について、それを神の御業だと解釈するアメリカ人は案外多い。これなら、私でも分かる。このような進化の過程が、まったくの弱肉強食と適者生存の原則だけでなされたのか、やはり疑問に思わざる得ない。だからこそ、神のような超越者による導きがあるのではないかと、思い込みたくなる。

表題の著者である、アーサー・C・クラークはSF作家として、きわめて知名度の高い人だ。その作品には、不気味なエイリアンが暴れるようなことはない。豊富な知識と、理性的な判断で、安心して楽しめるSF作家だと思う。代表作は「地球幼年期の終わり」だと思う。やはり、表題の作品同様、人類の進化をテーマにしている。私の個人的な印象では、やはりクラークも人間を不完全なものと考えていた気がする。ただ、その進化に神ではなく超越者をもってきたところが独創的だと思う。

非常に珍しいケースだと思うが、実はスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」は、クラークとキューブリックの合作に近い作られ方をしたようだ。映画の公開が先で、小説の発表は後になっている。アイディア自体はクラークのもののようだが、映画を先行したのは営業上(あるいは資金繰り)の理由だったと聞いたことがある。

映画は公開当初は、散々の出来との批評だったが、年を追うごとに評判が高まり名作入りした変り種でもある。CG技術によるSFX映像なんぞ無かった時代に作られた映画だが、今見ても斬新さには目を奪われる。私自身は映画より先に原作を読んでいたが、映像と音楽の組み合わせが素晴らしかったことがあり、小説と甲乙つけがたいと思う。「地球幼年期の終わり」の映画化は無理なのかなぁ~
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介護保険の地域格差と故郷納税

2007-05-29 17:33:02 | 社会・政治・一般
にわかに話題に上がってきたのが、住民税の故郷(ふるさと)納税制度だ。

率直に言って寄付だと思うが、一理あるとも感じている。ちなみに現行税法でも、地方自治体に対する寄付は全額控除の対象だが、所得控除の一つに過ぎない。自民党は税額控除方式を考えているらしい。

一方、税から少し離れるが、私は介護保険の自治体間格差の問題とも、関連を感じる。

現在、40歳以上の国民には、介護保険の納付義務が課されている。サラリーマンやOLの場合、給与から天引きされているし、年金生活者からは、その年金から天引きされている。事業者は当然に、自分で納付しているはず。納付先は、住民票の所在地の地方自治体となっている。ここに問題が生じている。

東京は多くの納税者を抱えるし、当然に介護保険の被保険者も多い。ところが入所型の介護保険施設を設置するのには問題が多い。なにせ地代、家賃は高い。人件費も地方より高い。なにより十分な土地が少ない。そのため、介護保険施設の数が足りない。そこで、致し方なく東京近郊の地方にある介護保険施設へ入らざる得ない場合が少なくない。

ところで、介護保険制度では、介護サービスを受ける高齢者は、サービスの費用のうち1割を払う。残り9割は地方自治体が負担することになる。住んでいる、つまり介護保険を収めている自治体の地域で介護サービスを受けるなら問題はない。

しかし、東京に住まいがある高齢者が、千葉の片田舎の介護保険施設に入った場合、9割の介護費負担は千葉県となる。一方、その高齢者は当然に東京で、介護保険料を納めている。さあ、困ったのは千葉県だ。県内に介護保険施設が作られ、雇用が確保され、税収も期待できると思っていたら、介護保険会計が大赤字だ!

千葉だけではない。埼玉、神奈川県、山梨県、静岡県も同様の問題を抱えて大弱り。石原・東京都知事に介護保険の応負担を求めたが、すげなく断られた。ちなみに東京都は、介護保険は大黒字。石原という知事が冷淡なのは事実だが、そもそもこのような問題が起こることを想定していなかった国の施策の欠陥なので、東京を悪役にするのも適切ではない。

この状況下で突如湧き上がった、ふるさと納税制度。当然に、石原都知事は大反対。おそらくは、財務省も不安に感じているはずだ。既に政府税調から異議が挟まれている。これまで地方交付税の配布を握っていた財務省としては、痛し痒しの問題だと思う。霞ヶ関のお役人は、自分でお金の配分を握りたがるので、納税者が勝手に税の配分をすることに否定的だと思う。多分、大きな制約を設けるか、事実上使いにくい駄目制度にしてしまうかして妨害するかもしれない。

とはいえ、地方分権の流れがあるのも確か。霞ヶ関でも意見は割れていると耳にする。はてさて、どうなるやら。興味深く追っていこうと思います。
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「なぜ漫画の原稿料は安いのか」 竹熊健太郎

2007-05-28 09:33:30 | 
最近の私の悩みは、本の置き場所に窮していることだ。

既にレンタル倉庫は活用済み。ダンボール20箱分の本が、倉庫のどこかに眠っている。だいぶ、すっきりしたと安堵していたら、何時の間にやら本棚はいっぱいで、床に本が積み重なっている。

表題の本を読んで、ハタと手を打った。なるほど、なるほど。たしかに最近の漫画は、やたらと長編が多い。その原因を、漫画出版業界の構造的問題だと指摘した竹熊氏の主張には肯けるものがある。簡単に説明すると、安い原稿料で週刊連載(この段階では収支はトントン)をして人気を広め、単行本(利益率高し)で採算を取る。だから、人気のある漫画ほど、不必要に長く連載して雑誌の売り上げを維持する。エンドレスなバトルを展開することの多い、週刊少年ジャンプなどはその典型だと言える。

私が子供の頃は、それほど長編の漫画はなかった。せいぜいが3巻から5巻程度で完結していた。ところがだ、最近の漫画ときたら長い、長い。ちょっと本棚を覗き、私が手元に置いたものをチェックすると、その長さに唖然とする。

「SLUM DUNK」31巻。「ピアノの森」13巻。「BANANA FISH」11巻。「ピグマリオ」30巻。「オフサイド」29巻・・・

こりゃ、いくらスペースがあっても足りないはずだ。なぜ、長編とならざる得ないのか。この問題を雑誌の販売と、原稿料の安さ、単行本の印税と絡めて総合的に分析した柱F氏の主張には一理あると思う。

現在、漫画の発行部数は最盛期に遠く及ばない。漫画家や出版社は、それを新・古書店や漫画喫茶らの責任として声を荒げるが、果たして本当にそうだろうか。いくら好きな漫画でも、あまりに長いと置き場所に困るし、出費も馬鹿にならない。漫画の単行本の売れ行きが下がるのも、ある意味当然だという竹熊氏の見解には、私も大いに同意できる。

なにも頭ごなしに長編漫画は駄目だとは言わない。長編であることが嬉しい漫画もあるし、長いわりに、その中身の濃さに感服している漫画も多々ある。しかし、それでも全般的に長すぎる傾向は確かにある。それを出版業界の構造的な問題のすり替えだとしたら、やはり同意出来ない。この状況が続くとしたら、世界に冠たる日本の漫画文化も、危ういかもしれない。
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「紅蓮の女王」 黒岩重吾

2007-05-26 13:30:15 | 
正しさとは、なんなのだろうと悩むことがある。

私は歴史が好きだ。今の自分があるのは、過去の積み重ねがあるからだ。今の日本がこうあるのは、過去の事実の積み重ねがあるからだ。過去を知ることで、今をより深く知ることが出来る。

過去の失敗を学ぶことで、同じ過ちを繰り返す愚を避けることが出来るはず。過去の成功を知ることで、先人の努力に敬意を払い、誇りを抱く幸せを実感できる。文明は進化したかもしれないが、人間の営みはそう変わることなく、今も過去も悲しくも愚かしい所業が繰り返される。文明は進化したかもしれないが、人間の喜びは今も昔もそう変わることはない。

歴史を知ることは、人を知ることであり、そこから学び、省みることは多々ある。だからこそ、面白いし、役にも立つ。

一方、歴史における正しい事実は、基本的には資料によって裏づけされる。だが、その資料は本当に正しいのか?

偽書、捏造、事実誤認は何時の時代にもあったはずだ。意図的に事実を捻じ曲げたことだって、十分ありうる話だ。歴史は勝者によって創られる。敗者の事実は、勝者の都合により、いかようにも書き換えられる。

歴史上の資料を正しいと決め付けてしまうと、過去の真実が必ずしも正確に伝わらないはずだ。だからこそ、複数の資料から、多面的に検証して、真実の姿を推測する作業が必要となる。

だが、資料が少ない時代がある場合、その検証作業はいささか難しいものとなる。その数少ない資料を絶対視しがちとなる。なかでも学者という人たちは、間違いを嫌う。あやふやなものは排除する傾向が強い。その結果、古代日本史は、資料(日本書紀等)べったりの解釈の余地の少ない事実の羅列的歴史となってしまう。これは唯物史観の悪影響でもある。

これが面白くない。歴史を学び始めた中学生の頃から、なんとなく古代日本史は好きでなかった。なぜ、そうなったのか、さっぱり分からない。実感が涌かない。現代であろうと、1500年前であろうと、人間の考え方なんざそう変わりはしない。1500年昔なら、当時の人間たちの常識なり慣習があり、それが現代のものと違うことは分かる。分かるが、だとしても、これほどツマラナイ話であるはずがない。

歴史好きを自認していた私だが、古代日本史は実にツマラナイ授業であった。なぜ仏教が政争の争点なのか、なぜこれほど遷都するのか、なぜ皇位が不自然に異動するのか。教科書を読んでも、さっぱり理解出来なかった。

ところが歴史小説は面白かった。作家というものは面白いもので、資料が少ないことを逆手に取った。資料が少ないからこそ、想像の翼を広げて、現代人にも理解、共感できる小説に仕立て上げた。表題の作品は、女帝として知られる推古天皇の、天皇につくまえの姿を描いている。

推理小説家として知られた黒岩氏の描く炊屋姫(後の推古天皇)と、その後見人である蘇我氏の暗躍ぶりを読むと、当時の権力闘争の姿が鮮やかに浮かび上がってくる。史実としての信憑性はともかくも、このようなドラマがあってもおかしくないと読者を納得させるだけのものはあると思う。とりわけ炊屋姫の燃え上がる恋情の激しさは、読む者を惹きつけてやまない。

資料が少なく事実関係を羅列するだけの歴史教科書を読めば、むしろ歴史嫌いを育ててしまうと思う。それくらいなら、フィクションとしての位置づけで十分だから、歴史の授業に小説を活用するほうが、よっぽど歴史教育になると思う。
コメント (8)
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