ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「水滸後伝」 陳忱

2008-06-30 12:29:14 | 
一時期、水滸伝にはまっていた。面白いのは間違いない。

不満があるとしたら、その物語の最後にある。内憂外患に悩む宋王朝のため、地方の叛乱勢力を唐オ、押し寄せる異国の敵を倒し英雄として凱旋した梁山泊の面々。その過程で多くの同志が倒れ、生き残った仲間も褒章こそ受けたものの、必ずしも安らかな生涯を送ったわけではないことが、最後に語られる。

なかでも頭領である宋江は悲惨だ。政府高官に妬まれ、あまつさえ暗殺される。黒旋風の鉄牛を死の同伴者に選び、粛々と死を従容する最後は、英雄の死としては不遇としかいいようがない。

全ての同志の最後が語られることなく物語が終えたことに、いささかの不満があった。多分、それはシナの大衆も同じ想いであったのだと思う。だからこそ、その後の梁山泊の英雄たちが創作された。それが表題の作品だ。

実はこの本を紹介するか否かは、けっこう迷った。普通では、まず手に入らないと思うからだ。東洋系の古書を集めている古本屋か、ある程度規模の大きい公立図書館でないと、まず置いていない本だと思う。元々、発行部数が少ない本の上、かなりの水滸伝ファンでないと、手を出しにくい本だからだ。

実際、その内容も水滸伝のファンでないかぎり、さして面白いと思うことはないだろう。簡単に顛末を述べれば、政府が信用できなくなった梁山泊の生き残りは、仲間を集めて新天地を求めて、船で大海に乗り出す。やがて未知の島を見つけて・・・そんな内容なのだ。

無理して読む内容の本ではありません。ただ、今にして思うと、当時の中国人にとって、やはり政府は信用できるものではなく、政府の役人の手の届かぬ世界への渇望を満たした本なのだと想像できる。この本の書かれた当時シナを支配した明朝は、歴代のシナの王朝のなかでも屈指の苛烈な国内統治で知られている。

私は江戸時代の徳川幕府の、5人組等の統治政策は、明朝に学んだものではないかと勘ぐっている。実際、明朝くらい、その支配する民衆を管理拘束しようとした政権は、そう多くないと思う。その厳しい支配に苦吟した大衆が、そのはけ口に水滸伝等の物語を愛好したのだろうと思う。

今も昔も、シナの民衆は政府を信用しない。ここ十数年、経済が急成長し、自己主張を強めた中国の過激な愛国運動が目立つ。日本やアメリカがそのはけ口とされることが多いが、あまり信用しないほうがいいと思う。反日を叫ぶ一方で、日本製品をブランド品として愛用する。アメリカに対する反発を強める一方、そのアメリカに入国したがる中国人。

裏表どころか、二重三重の裏を持つのが中国人。そのことを誰よりも知る北京政府は、大衆の過激な反日、反アメリカ発言の裏に潜む不満を嗅ぎ取る。

知ってか知らずか、シナの民衆の叫びを真に受ける日本のマスコミ報道は、よくよく注意して読んだほうがいいと思う。最近は、北方版の水滸伝が売れているらしい。まだ読んでいないが、読みたい本のリストには入っている。何故、シナの民が水滸伝を長年好むのか、そのことを考えながら、じっくり読みたいものだ。
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「動物愛護運動の虚像」 梅崎義人

2008-06-27 14:31:12 | 
昔から動物愛護運動には、ある種の胡散臭さを否定しきれなかった。

特に違和感を感じたのは、イルカや鯨を可愛いと言いつつ、平然と牛や豚、羊を食べる感性だ。古代より魚介類を食べてきた日本人にとって、鯨を食べることに違和感はない。むしろ肉食の歴史の方が浅いくらいだ。明治時代の日本人が、肉食に偏見を抱き、なかなか馴染もうとしなかったのは、当時の文献にしばしば散見される。魚を生で食べることに違和感を感じる欧米の人と、どう違うというのか。

ただし、絶滅の危機にあるというなら、伝統の食文化といえども制約を受けるのは当然だと思う。で、本当に絶滅の危機にあるのか?

表題の本の中で明らかにされるのは、欧米で拡がる動物保護運動が、科学的検証に基づくものではなく、むしろ人種的あるいは文化的偏見に基づくものである実態だ。少数民族の食文化を否定し、社会基盤を破壊して悦にいる環境マフィア・グリーンピースの傲慢さは目に余ると思う。今でこそ少しずつ知られるようになり、欧米の科学者などから疑問を呈されるようになった。しかし、映像を偽装して実情を知らぬ善意の大衆を扇動する悪魔的手法は今も猛威を振るう。

また、動物愛護運動を政治目的に使うアメリカ政府の狡猾さをも、赤裸々に語られる。覇権国家というものは、本質的に傲慢なものだ。その覇権国家に側に立つことで繁栄を享受している日本は、どうしても立場的に弱い。苦渋の思いは避けきれない。

ただ、一点この本に瑕疵があるとしたら、それはアングロ・アメリカンの陰謀論を必要以上に書き立てることだろう。有色人種のゼロ成長を目指すアメリカのエリート達なんざ、いるとしても少数だろうし、グローバリズムの進展をみれば事態は逆の方向を示している。おそらく著者の思い込みだと思う。

率直に言って、まだまだこの過剰な動物保護運動の弊害は続くと思う。思うが、おそらくは今世紀半ばで終焉もしくは変質を迎えると、私は予想している。その根拠は、増大する世界人口にある。

今世紀中には、100億人を突破してもおかしくないのが世界人口だ。その腹を満たすだけの食料は、到底確保しえないと想像できる。いくら鯨が可愛くとも、人間様の空腹には勝てまい。ミンク鯨などは、現在でも十分な生息数が確認されるし、アザラシ、オットセイだって食べれる。

現在隆盛を誇る動物愛護運動も、飢える人間の生存本能の前に屈することは目に見えている。その時こそ、絶滅から守る、真の動物愛護運動が必要とされると思う。
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三次予選通過

2008-06-26 12:29:30 | スポーツ
とりあえず、3次予選をグループ首位で通過したようだ。

率直に言って、今の日本のサッカーの実力ならば、誰が監督でもワールドカップには6割がた行けると思う。7割と言いたいところだが、それほどは強くない。3次予選の他の組を見ても、韓国やオーストラリアでさえ結構苦戦している。やはり、容易に辿り着けるものではないのだろう。

昨年まで私は、今回の南ア大会を逃したら、当分ワールドカップには出れないと危惧していた。アテネ五輪以降の若い世代が、はなはだ弱いからだ。シドニー五輪の頃の選手たち、つまり黄金世代の選手が、今の代表を支えている。中村俊輔や遠藤が、今の代表チームの中核であり、若手はそのポジションを奪えずにいる。北京組に至っては、A代表入りは、はるかに遠い。

ただ、今はそれほど悲観していない。かつて、代表で活躍する選手のほとんどは、高校サッカーやユース・サッカーで活躍した実績を持つ。才能ある若手を、早くから代表に呼び、育てるのが基本であった。例外はラモスや三浦カズぐらいだった。だから、若いうちに高校サッカーの全国大会に出場したり、ユースチームに呼ばれたことのない選手が、代表入りして活躍することは滅多になかった。

ところが今は違う。なんといってもJリーグがある。ここで才能を伸ばした選手が、続々と代表に名を連ねるようになった。中沢や中村憲剛は、当初無名の選手だった。Jリーグで活躍して名を上げたがゆえに、代表に呼ばれた選手たちだ。特に憲剛は、20代後半になって初めて代表に呼ばれた遅咲きの選手。でも、今や俊輔、遠藤のポジションを脅かす存在になっている。

私は元々高校サッカーのファンで、今でも正月の選手権は必ず観ているし、有望な選手のチェックも欠かさない。最近はそのチェックを漏れる選手が続々出てきている。見知らぬ若手の活躍が、少しずつ目立ちだしたのが最近のJリーグの楽しみだ。

今回、怪我で試合には出れなかったが、FC東京の長友は今年一番の驚きの若手だ。高校サッカーでは、ほとんど無名に近かったはずだが、既にJではレギュラーで活躍している。上手く育って欲しいと願う。

日本のサッカーの特徴は、ボールを弄り回すのは上手いが、試合では弱いことだった。当たりに弱く、ラフプレーに弱く、上手いが勝てないサッカーだった。ところが、最近の選手は少しずつだが、変わってきた。体格のよい外国人選手にふっとばされることもなく、球際をしぶとく粘る。今までの日本選手には、見られなかったプレーが散見されるようになった。

Jリーグが始まって早10年以上。子供の頃からレベルの高いプレーを見てきた若手が、今その成果を出してくるように思える。まだまだ不満はあるが、仮に今回敗退するとしても、そう悲観するものではないと思えるようになったことは、実に嬉しいものです。

次は最終予選、これこそが一番白熱する予選。今回もワクワクさせて欲しいものです。
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「バガボンド」 井上雄彦

2008-06-25 12:21:47 | 
先週末の土曜日、上野へ美術展を観に行った。当初は閉幕間近の「ダーウィン展」が目当てだったが、雑誌「ブルータス」で巻頭特集していた井上雄彦を見て、居ても立ってもいられず、「井上雄彦最後の漫画展」を優先した。

上野公園の階段を上がり、美術館に近づくと数十メートルの行列が見えてきた。嫌な予感・・・券売所に行くと、当日券完売のため入場できず。見通しが甘かったと痛感する。後二週間なので、なんとか平日に時間を作って観たいものだ。仕方ないので、当初の予定通り「ダーウィン展」を観に行く。こちらも盛況だが、なんとか入れた。

ご存知の方も多かろうと思うが、現在コミック・モーニングで連載(休載も多いが・・・)されている井上雄彦の「バカボンド」は、吉川英治の「宮本武蔵」を原作としている。

原作にしていいるといいながら、実のところ吉川版とはかなり違ってきている。独自の登場人物も多く、既に井上雄彦版の宮本武蔵と化している。

伝説の剣豪、宮本武蔵を題材にした本は数多いが、その最高傑作は吉川英治のものだとされている。私も異論はない。多くの作家が独自の宮本武蔵を取り上げているが、吉川英治のそれには及ばないと思う。

ただ、もしかしたら、井上雄彦の描く漫画版宮本武蔵「バカボンド」は、吉川版を超えるかもしれない。小説と漫画を比較するのは、あまり適切ではないと思う。私は通常、文章から想像の膨らむ小説を上に置くことが多い。絵にして描かれてしまうと、想像の広がりが制約されてしまうからだ。

しかし、井上雄彦の描く宮本武蔵のイメージは、あまりに鮮烈で、力強く、私の想像力を突破してしまった。先日の朝日新聞の記事で、某美大の先生が現代の日本で筆をとらせて絵を描かせたら、井上雄彦が一番上手いと言わしめたと報じられていた。そう、この漫画は筆で描かれている。

「絶望に効く薬」(山田玲司)のなかで井上本人が、漫画家仲間の山田に、筆で描く苦労を語っていた。ペンではなく、筆で描くが故に、陰影の深みに凄みがある。ただ、ペンと異なり、肘をつけて描くわけにいかないので、腕が疲れて肩が上がらないと井上氏がこぼしていた。

井上氏は更に語る。昨日より今日のほうが上手く描けなければ、自分が許せないと。更なる向上を目指して、井上氏は「バカボンド」を描き続ける。聞くだに圧倒される。事実、その意欲に見合う作品だと思う。休載が多いのは、多分井上氏が作画に時間をかけるからだと思わざる得ない。それだけの画力だと編集部も認めているのだろう。

なんとか、今日明日で今月の決算申告を片付け、上野へ原画を観に行きたいものだ。
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「魔女は夜ささやく」 ロバ゙ート・R・マキャモン

2008-06-24 12:15:55 | 
小学校に入学した年の夏、車の洗車を手伝っていた。

父の自慢の赤いキャデラックに、ホースで水をぶっかけ埃を流し、洗浄液で泡だらけにしてスポンジで洗っていた。すると、横に銀色のキャデラックが止まった。降りてきたのは、白熊と見間違うばかりの白人の大男。

うちの近所は、米軍の払い下げ住宅が立ち並ぶ。まだヴェトナム戦争、真っ盛りの頃だけに、近所には白人の家庭が何軒もあった。だいたいが、2年程度で引っ越していく。また、新しいご近所さんだろう。

同じキャデラックということで、その白人は父に話しかけていた。片言ながら英語が話せた父が雑談に応じると、反対側のドアから女性が降りてきた。逆光だったので、シルエットしか見えなかったが、そのシルエットが凄かった。

つんと突き出した胸と、くびれた腰、スカートを押し上げる見事なヒップ。幼い私ですら目を奪われるシルエットに唖然として、思わずこけてボンネットの泡に顔を突っ込んでしまった。

笑い声と共にハンカチで泡を拭ってくれた女性は、日焼けした肌が輝くようなラテン系の美女だった。今風に言うならペネロペ・クロスのような褐色の美貌に目を奪われた。私が初めて接した白人でないアメリカ女性であった。

うちの近所は白人家族ばかりで、黒人はおろかラテン系もいなかったので少々驚いた。今にして思うと、ラテンというかスペインかポルトガルのような地中海系の風貌だった。すぐに立ち去ったが、車の後席に子供がいるのに気がついた。アア、またも縄張り争いの季節が始まる。

狭い遊び場を巡って、毎年夏から秋にかけて白人の子供たちと喧嘩をするのが慣習だった。後席にいた少し肌が褐色がかった子供とも、すぐにやり合うこととなった。これがまた強烈な喧嘩をするガキだった。野良猫が暴れるような喧嘩をする子で、小柄ながらも強敵だった。この年は縄張りを減らす羽目になったが、その一因がこの薄茶の暴れ猫野郎だった。

季節はめぐり、クリスマスのバザーが始まった。教会の裏の会場に行くと、あの褐色の美貌のママさんが居た。よく見ると同じような肌色の人たちとグループを作っていた。黒人の人たちも同様に集まっている。一番数の多い白人のグループとは、微妙に距離を置いているのが不思議だった。挨拶はするのに、すぐに離れるのが見て取れた。

別に敵意とか緊迫感は感じなかったが、教会の中で一緒に賛美歌を歌っていた時のような一体感は、まるで感じられなかったことはよく覚えている。バザーの賑わいとは裏腹に、場所ごとに空気が固まるような不思議な雰囲気があった。ただ、あの褐色の美貌のママさんが歩きまわると、その空気が微妙にざわめくのが分った。男性は目を惹き付けられ、女性は鋭い視線をはなつのが、子供の私にも感じ取れた。

当時は、その現象が美貌に根ざすのか、肌の色が引き起こすのか分らなかった。多分、両方の相乗効果だったのだろう。幼い私ですら、関心を惹き付ける美貌というものは、大人たちには相当な脅威だったのだろう。表向き、そのことが話題になることなないだろうが、その分陰にこもるのだろうと推測できる。

私は教会のなかを別にすれば、外人とはほとんど交流はなかった。唯一子供同士の喧嘩だけが、外人との接触する機会であった。そんな私でも、肌の色の違いが微妙に影を落とすのは気がついていた。あの薄茶色の暴れ猫野郎も、いつのまにやら白人の子のグループから離れていた。多分、隣町のラテン系の子供たちと一緒になったのだと思う。

表題の本は、ホラー小説の香りは漂うが、中身は時代小説です。17世紀のイギリス植民地であるアメリカの南部の開拓村での「魔女狩り」を舞台としています。褐色の美貌ゆえに魔女の烙印を押された女性の無実を信じる、若き書記官の奮闘ぶりが描かれています。

若かりし頃のマキャモンの疾走感は失われていますが、そのかわりにアメリカ南部独特の雰囲気を濃厚に描き出し、ホラーの雰囲気をかもし出すことに成功しています。ホラー脱却宣言をしてから十数年、マキャモンの方向性がはっきりと見えてきたという意味でも興味深い作品です。
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