ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「五輪の薔薇」 チャールズ・パリサー

2008-02-29 12:32:10 | 
今の自分があるのは、父母がいたからであり、祖父母がいたからでもある。そして、祖父母の先にも延々と血脈は続く。

正直言うと、私は親族だの血族だのといった話が苦手だ。なんとはなしに、自分を縛る目に見えぬ束縛の観があって、どうも積極的に関る気にはなれない。

どうも、この気質は父譲りらしい。親族付き合いを苦にしない母と異なり、父はあまり得意でないようだ。実際、離婚して海外に出て数年間、実家ともろくに連絡をとらなかったらしい。7年ぶりで帰国して、初めて親の死を知ったと嘆いていた。

私にとっても祖父母であるのだが、率直に言って、ほとんど記憶はない。父が末っ子で、兄弟とも年が離れていたから、なお更孫の私とも離れていた。父方の叔父や叔母は既に初老であり、従兄弟たちも一番年の近い人で、高校生だった。小学校に入ったばかりの私とは、どうしても合わなかった。

父方の実家は、江戸時代から続く大庄屋の家柄で、多摩地区に広大な屋敷を持っていた。うろ覚えだが、立派な門をくぐり、でかい家の玄関の先が応接室で、そこから二階建ての渡り廊下を通って本宅に入る形式だった。ちなみに、その渡り廊下には、卓球台がおいてあったから、その大きさが想像できると思う。

まあ、けっこうなお屋敷であったのは間違いない。芝を引き詰めた庭には、錦鯉が泳ぐ池と小さな滝が作られてあったことを微かに覚えている。

ただ、子供の私には、あまり良い印象はない。この屋敷に行くには、ブレザーを着せられ、蝶ネクタイを締めなければならなかったのが、苦痛だったからだ。沢山居る親族のなかで、かしこまっていなければならないのは、落ち着きのない子供の私には苦行に等しかった。

実際、父母が離婚するまでは、私はお坊ちゃまであることを要求された。これが苦手だった。子供の頃は、虫取りやプロレスごっこが大好きな、泥まみれ、埃まみれのガキだったので、良い服を着て大人しくしている自分が嫌いだった。だから、父母の離婚の話を聞いた時、あの屋敷に行かなくて済むのだと思い、安堵したことは事実だ。

その後は、やはり貧乏な暮らしとなった。生活保護一歩手前ぐらいの貧しさだった。でも、それほど苦には思わなかった。炊事や洗い物、洗濯といった家事を手伝うのも、当たり前だったし、周囲には我が家以上に貧乏な家庭が沢山あった。賑やかな妹たちと共に、それなりに幸せな家庭であったと思う。

ただ、転校が多かったせいで、私個人はけっこうな問題児だった。警察の世話になったのも、この貧乏な時期が一番多い。喧嘩も多く、怪我の絶えない子供でもあった。ハッキリ言って、柄の悪いチンピラ小僧であった。いつのまにやら、薄汚い世間の事情にも通じるようになった。もし父の帰国と支援がなかったら、いったいどんな大人に育っていたのか、いささか不気味に思う。

だからだろう、表題の本を読みながら、けっこうイラついていた。同い年の頃の私なら、もっと上手く立ち回っていたぞ!と怒りながら、主人公を応援する気になった。全5巻もある超長編小説で、読むにはいささか気力がいるが、その労苦に値する内容であることは保証できる。久々に読み応えの在る大作でした。

ただ、読みきるのに2週間もかかるとは、思わなかった。ちと、疲れましたが、心地よい疲労感でもあり、満腹な気分です。
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「11人いる!」 萩尾望都

2008-02-28 14:00:35 | 
予定外の出来事が闖入してくると、あたふたしてしまう。

子供の頃からそうだった。予期せぬ出来事が、突然に割り込んでくると、軽いパニックに襲われた。なにより、口調にその動揺が現れた。自分でも何を喋っているか分らないくらい、言語が不明瞭になる。アワワッて感じかな。

さすがに、この年になると改善されたと思うが、それでも言語不明瞭の悪癖は完全には消えない。

だからこそ、物事を落ち着いてさばける冷静沈着さに憧れた。その一方、予定外の椿事が起こらぬよう、状況を的確に分析して、予測することを習慣ずけるようになった。予測された事態なら、慌てずに対応が出来るからだ。

やはり山登りの経験が大きく役立った。自然という奴は、ある程度の予測は可能だが、思いもよらぬ突発的現象が起こることは珍しくない。どんなに事前の準備をしっかりしても、いざ山に入れば予想外の出来事はいくらでも起きる。そのなかで、二つ学んだことがある。

一つは、冷静に物事を観察することだ。堅くいえば平常心って奴だ。私は心のなかで、「だからどうした」とうそぶくことで平静を保つようにしている。ちなみに元ネタはアッテンボロー(笑)

もう一つは、勘を信じろ。緊急時には、ゆっくり考えている時間はない。そんな時こそ、長年の経験で培われた勘がものを言う。知識と論理的思考をないがしろにするつもりはないが、このあやふやなる勘という奴には、ずいぶんと助けられたのは事実だ。

ま!それでも予測不可能な突発的ハプニングは起こるし、いつも完璧な対応ができるはずもない。そんな時は、ひらきなおって「まあ、起きちまった事は、しゃーねえな」と泰然とこぼして苦笑いで誤魔化すわな。

表題の作は、虚空に漂う廃棄された宇宙船を舞台にしたSFミステリー漫画。舞台設定も新鮮だったが、ストーリー展開も鮮やかで、最後まで気が抜けない。今や古典的といっていい名作だと思う。

続編もあるが、私は本編のほうが好きだな。
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サッカー東アジア選手権

2008-02-27 12:17:09 | スポーツ
世間では、いろいろと喧しく言われているようですが、男子は韓国の優勝で、日本は2位は順当な結果だと思います。

日本も韓国もチーム再建途上で、国内組と若手の起用が目立つのは同じ。違いは地力の差でしょう。差はわずかなものですが、これを縮めるのは難しい。身体の寄せ方、球際の厳しさ、判断力の速さなどは、選手だけでなく指導する側の力量が問われます。

既に30年近くワールドカップにて、世界と戦い苦杯を舐めてきた韓国の指導者たちと、アマチュア上がりの日本の指導者たちとでは経験の重みが違う。この差は容易には埋められないと思うのです。だからこそ、1位と2位の差は順当だといえるのです。

一方、がっかりしたのが中国チーム。日韓ワールドカップの頃のほうが、ずっとレベルが高いチームでした。名将ボラ監督の下、初のワールドカップ出場を果たし、本戦では残念な結果でしたが、可能性を感じたチームでもありました。しかし、今のチームは明らかに力量が落ちている。

あれだけ反則が目立つのは下手な証拠。2~3人、上手い選手もいましたが、全体としてはレベルが落ちている。だから反則をやらざる得ない。おまけに、ホームとの意識が却って意識過剰となり、平常心でのプレーが出来ていない。

最下位に終わった北朝鮮ですが、あんなものでしょう。身体を張って当たり、強靭な意志で走る従来の北朝鮮のサッカーを踏襲するものでした。国際試合の経験が少ないので、どうしても単調な試合運びになりがち。日本育ちの選手を主力に使わざるえないのも無理ないと思います。

なお、今大会で非常に目立ったラフプレーと偏った審判への批判ですが、私はそれほどヒドイとは考えていません。たしかに北朝鮮や中国の選手には、ヨーロッパの大会なら一発退場となるラフプレーが幾つもあったのは事実です。審判もずいぶんと中国に偏ったレフリングをしていたのも事実です。

でも、国際試合なんて、そんなものではないか。BSやCSでヨーロッパの試合、特にUEFA杯やユーロなどの高度な試合と比較すれば、たしかに酷いラフプレー、偏ったジャッジです。でも、ガルフ杯やアフリカ・ネーションズ杯だって、相当なラフプレー、酷い審判は今もあります。

むしろ、日本のJリーグが綺麗すぎる。だから日本の選手はラフプレーに弱い。南米やヨーロッパの国々と対戦し、上手に身体を寄せるラフプレーをされると、ミスを連発して自滅する。はっきり言って、Jリーグの開始前のほうが、ラフプレーに強かった。今の選手は、きれいなプレーをしたがりすぎる。

相も変らぬ、日本のサッカーの弱点を晒した大会でした。でも、一度も負けなかったのは十分評価していい。今大会、最大のミスは初戦に勝てなかったこと。これに尽きます。

後、最後に一言。日本のマスコミ(特にTBS)さんよ、ちと中国様に気を遣い過ぎではないかい?
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「脳内革命」 春山茂雄

2008-02-26 12:31:08 | 
今ではトンデモ本扱いされている表題の本だが、読んだ当初はそのポジティブな姿勢に感心したものだ。

実際ベストセラーになったぐらいだから、多くの人が賛同したのだろう。科学的誤りや、思い込みからくる過ちに気づいたのは、反証本などの批判が公になってからだった。つまり、私もあっさり騙された口だ。

ただ、それほど悔いていない。書いてあることに、それなりに納得できたからだ。科学的根拠には乏しいのかもしれないが、実体験から「なるほど」と思わされたのは確かだ。ただ、春山氏の主張に盲信する気にはならなかった。

納得できると思いながらも、その実、かなり反発を感じた部分も確かにあった。だから、読んだ後も人に勧める気にはなれなかった。

私は物事を明るい、暗いといった二分法で分けることが好きではない。もっと言えば、暗くて何が悪いと思っている。

人生ってやつは、並木道を歩くようなもので、日向と日陰が交互に繰り返すものだと思う。明るい時もあれば、暗い時もある。明るい時に人生を楽しみ、暗い時に人生を反省する。暗い憂鬱さがあるからこそ、明るい喜びはいや増すものだ。

おかしなことに、人生の明るい局面において、人は深く思考することは少ない。暗い時にこそ、深く深く思慮を高める。自分自身の人生を振り返っても、重大な局面における判断の元は、悩み苦しみ考えて、考え込んだ上にある。

今の自分のあり方の基礎となる部分には、明るい前向きな姿勢から生まれたものと、暗く深い苦労から生まれたものの両方から構成されている。

誰だって落ち込むことはある。その状態を決して明るいとは思わない。思わないが、暗くて何が悪い。暗い気持ちの時にこそ、分ること、出来ることってあるものだ。

体調が悪い時は、暗い寝室で横たわるのが一番だ。無理に明るく振舞うことは、時として有害でさえある。落ち込む時は、素直に落ち込んでしまったほうがイイ。落ちるところまで落ち込めば、後は這い上がるだけなのだから。

明るい事が良いことで、暗いことが悪いといった固定概念こそ、改める必要があると思う。
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「もの食う人びと」 辺見庸

2008-02-25 11:57:53 | 
評判が高かっただけに、失望を禁じえなかった。

食べ物に関する書物である以上、私の評価の観点は胃袋にある。味覚である舌よりも、胃袋の感性を優先するのが私のチャーム・ポイントだ。私の食欲を刺激する本こそが、良い本であるはずだ。

ところが、いきなり残飯はないだろう。一気に食欲は減退して、私の期待は萎まざる得なかった。こんなはずではなかった。私は世界の美味しい食文化を紹介する記事を期待していたのだ。

しかし、新聞記者出身である辺見氏の視点は違う。食に座標を置いて、世界各地の社会に鋭い視線を向ける。東欧の炭鉱労働者と食事をともしに、スラム街に生きる下層民の食事を通して、世界各地の歪んだ社会の姿を描き出した。

体当たりで、世界中の現場に飛び込み、その場で食事を共にして、社会の実情を捉える辺見氏の手法が絶賛されたのも、ある意味当然だと思う。優れたルポタージュであることは私も認める。

ただ、てっきし美味しい食事の紹介かと勘違いした私の失望は満たされない。食いしん坊が意地を張っているだけだと思うが、日頃銀座界隈の高級レストランで、接待を受けているマスコミの連中を散見するので、ついつい期待してしまった。

いや、真面目な話、出世したマスコミ関係者って、ビックリするぐらいの美食家がけっこう多い。接待慣れして、舌が肥えているのだと思う。だから、美味しい食事の紹介かと期待に胸を膨らませていた。

私のおっちょこちょいであることは認めるが、食事を楽しみと捉えているがゆえに、ついつい失望した次第。あまりに真面目すぎるのも問題だわさ。
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