ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「大人問題」 五味太郎

2008-05-30 12:21:06 | 
子供の頃から、少しひねた性格だった。

周りと同じことをするのが苦痛だったわけではない。ただ、自分の関心の赴くままに行動するのが好きだっただけだ。それを頭ごなしに叱られると、絶対納得しなかった。

子供らしい狡賢さで、うなだれて説教を聞いているふりをして、頭のなかで空想の世界に思いを馳せて時間を潰していた。でも、大人は気づくのだろう。一部の大人、とりわけ学校の先生にはえらく嫌われた。

年齢を重ねると、世の中「右に倣え」「長いものにはまかれろ」と考えもなく、疑問をもつこともなく、処世することの気楽さを覚えるようになった。たしかに、このほうが楽な生き方だ。

楽なだけではない。周囲と同じように生きることは、周りの人間たちとの関係を良好にさせる。人間関係のストレスこそ、最大の悩みとなり勝ちなのだから、これは助かる。

それでも疑問は拭いきれない。何故にハンコを何回も押す必要があるのか。サインのほうがよっぽど信頼性が高いと思う。でも、必ず言われる。「規則ですから」「昔からこうなっています」「こういうことになっているんです」

考えることを放棄して、ただ決められたままの慣行を金科玉条のごとく信奉することは、ある意味怠惰だと思う。もっとも、当人は守るべき慣習を守る真面目な振る舞いだと盲信しているはずだ。

決められた当初は、それなりに必然性があったのかもしれないが、時代は変わり、状況も変化することを無視するな。もっと、考えてみろと怒鳴りたくなる。

考えることなく、ただ決められたままに行動することは、思考力を減退させる。過去に決められたことを信奉することは、怠け者の正当化だと思う。

そりゃ、守るべき伝統とかなら話は別だが、何を守るべきかぐらいは考えろ。伝統とは、守るべき価値があるからこそ守られるべきだ。それを思慮することなく、ただ堅守するだけでは伝統そのものが廃れていく。いくらでも、実例があるだろうに。

おそらくは、長きにわたって栄えた文明が滅びる前兆なのだと思う。時代は変わる、環境も変わる。人も変わるし、文明も変わる。その変化を認識できず、適切な対応を考えるより、過去の慣習にへばりつくことで安堵する怠惰が慢性化しているのだろう。

このままでは、日本は滅びるぞ。本来は、変化への対応に秀でた民族なのだが、与えられた平和に安住して、金儲けだけに邁進してきたツケだと思う。

表題の著者、五味太郎氏は著名な絵本作家だ。右に倣わず、長いものを断ち切り、自分の考えて試行錯誤を実践した変人だと思う。その主張は、必ずしも全面的に肯定できるものではないが、大人の怠惰を責める点には大いに首肯できた。

良薬口に苦し、そんな読後感が印象的でした。この人、これからも注目しておこうと考えています。
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「臨死!!江古田ちゃん」 瀧波ユカリ

2008-05-29 12:18:04 | 
みもふたもない。

ここまで明け透けに本音を書かれると、素直に笑うことも難しい。いや、読んだ当初は笑ったのだけれども、よくよく思い返すと、笑っていていいのかと自問自答したくなる。

十代の頃、新宿の深夜喫茶でバイトしていたことがある。主に深夜シフトにはいっていたため、仕事帰りの水商売の女性客が、始発待ちで、入り浸っていた時間に働いていた。

盗み聞きの趣味はないが、いつ呼ばれるか分らないので、客の声の届くギリギリの距離で待機していた。だから、ホステスさんたちが客の悪口で盛り上がってきて、声が大きくなると必然的に聞こえてきた。

偏見かもしれないが、女性の悪口話は、男性よりもえげつなく思える。表現が辛辣で、無関係の私まで赤面するような強烈な科白のやりとりに唖然としたことがある。それだけストレスのたまる仕事なのだろうと憶測したが、その凄まじさには思わず引いた。

そこまで激しく罵られる原因を作っている男性客の振る舞いって、いったいどんなものだろうと、当時十代の私は妙な想像を掻き立てられたものだ。もっとも、あれから20年以上たち、ホステスさんに酒を作らせて飲んでいる客の立場になると、いささか複雑な気分となる。

私は酒癖は悪くないと思うが、一人で飲む時は、あまり騒がしい酒席は好まない。ノリの悪い陰気な客と罵られているのかしらと、想像しているが、どんな悪口が言われているのかは分らない。まあ、知りたくもないし、知らん顔するのもマナーだと割り切っている。

日頃、女性とは縁の少ない環境にいる男性が読んだら、臨死とはいかないまでも驚愕はすると思うのが表題の漫画。多分、女性が読んだら、それほど衝撃はないと思うが、女性に男性本位な夢を見がちな男性が読んだら、相当な衝撃かもね。

それにつけても業の深きは男女の仲。夜半、寝入る男性の脇で半身起こして自省する江古田ちゃんの場面が妙に気になる。私も寝つき良いからねえ。
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「誰も猫には気づかない」 アン・マキャフリー

2008-05-28 15:29:20 | 
「猫の森には帰れない~♪、ここで、良い人見つけたから~♪」

谷山浩子のヒットソング、「猫の森へは帰れない」の歌詞が頭の中をグルグル回っていた。歌詞の内容と、表題の本の内容は猫以外は、まるで被らない。なのに、なぜにしてか、思い出されて仕方ない。多分、谷山浩子の軽やかな歌い方が、著者マキャフリーの洒脱な文章とシンクロしたのだと思う。

ただ、困ったことに冒頭のフレーズだけしか思い出せない。

同じ歌詞がグルグル、頭の中をリフレインするのは、いささか収拾に困る事態でもある。まあ、困っても実害はないので、そのまま放置して、本を読むことに専念してた。

実に軽妙なファンタジーだと思う。猫が二本足で立つこともなく、もちろん人間の言葉を話すこともない。猫は猫のままなのだが、それでいて必要不可欠な重要人物(いや、猫物)なのだ。

魔法もドラゴンも出てこないが、この猫一匹がかもし出す不思議な雰囲気のせいで、そこはかとなくファイタジーの香りが漂うから面白い。

どちらかといえば、ワンコ党の私ですが、こんな賢く可愛い猫ならいいかも。あっという間に読みきれる本なので、もし見かけましたら、気軽な気持ちでご一読下さい。
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「宇宙の戦士」 ロバート・A・ハイライン

2008-05-27 12:21:42 | 
ハイラインが続きます。

この作品は、ヴェトナム戦争当時に書かれただけに、既に反戦運動が盛んであったアメリカ国内でも、相当に物議を醸した問題作だった。なにしろ、ヴェトナムでの悲惨な戦争の姿が報道され、反戦運動で国論を二分する最中に、徹底した戦争肯定の立場で書かれたSF小説なのだ。

しかし、日本ではほとんど騒ぎになることはなかった。もしかしたら、既に政治活動から遠ざかっていたがゆえに、私の耳に入らなかっただけかもしれない。でも、大騒ぎにならなかったことだけは確かだ。

今にして思えば、文壇からは低く見られたSF小説であるがゆえに、見逃してもらえたのかもしれない。当時の日本の良識在る大人たちのあいだでは、SFはまともに議論する対象とはみなされなかったからだ。

このまま過去の名作入りかと思ったが、ハリウッドが映画化したことで、再び注目を集めた。原作を読んだことのない方も、映画「スターシップトゥルーパーズ」を観たことはあるかもしれない。あの宇宙昆虫と、人間たちとの戦争映画だ。

あのワラワラと湧き出る巨大な宇宙昆虫の出来は、なかなかに良し。さすがハリウッドと言いたいところだが、ハイラインの原作のイメージはガタガタだ。歩く戦車とでも言うべきパワードスーツはどこいった?

日本の早川SF文庫版では、立派なイラストが添えられて、実に楽しいものとなっている。やっぱり未来戦争を描いたSFはこうでなくっちゃ。どうもハリウッドは、宇宙カマキリと人間との戦闘に力点をおいたらしい。まあ、このほうが主演する俳優たちをクローズアップ出来るのは確かだ。パワードスーツに閉じ込めちゃ、俳優が見えないしね。

もし映画しか観ていないようでしたら、是非とも原作をどうぞ。親子の対面の場面なんかは、小説の方が出来がいいと思います。
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「悪徳なんて怖くない」 ロバートAハイライン

2008-05-25 13:15:04 | 
女になってみたいか?

実に悩ましい質問だ。男と生まれて、はや45年。別に特段、不満があるわけでもないし、殊更女性になりたいと憧れたこともない。女中心の家庭に育ったので、特に女性を特別視したこともなく、むしろ洗濯やらアイロンかけやらが男の倍、手間がかかる連中だと面倒に思っていたぐらいだ。

ただ、男と女はだいぶ違うらしいとは気がついていた。男女平等だが、なんだか知らないが、男と女はそのつくりも機能もかなり違う。違うものを同じに扱うのは、ある意味不平等だとさえ思っている。

違っていいじゃないか。

違いの根幹は、やはり性機能にあると思う。そう経験豊富なわけでもないが、性的な快楽の感じ方が、男と女ではかなり違うと感じていた。もっといえば、快感を共有したことは、多分一度もないだろうとも疑っている。

身体の構造が違うのだから、それは仕方のないことなのだろう。女性的な感性をもつ男はいると思うし、その逆も然りだと思うが、完全に一致することはあるまい。

生物的な差異は、進化の必然から生まれたものなので、違って当然なのだろう。違うからこそ、その違いを知ってみたい。そんな希望が芽生えたとしても、それは不思議ではない。

表題の作者ハイラインが、老齢といえる年になってから書いたこの作品は、けっこう物議をかもした。徹底した戦争肯定の「宇宙の戦士」以上の問題作であったかもしれない。

超大金持ちの老人が、若い身体に脳を移植することで延命を図った。ただ、それが女性の身体であったことは想定していなかった故の困惑。女性として新たな人生を生きる戸惑いと魅惑。なんとも鮮烈な印象のSF小説だった。

この作品が書かれた時よりも、内臓移植の技術は向上していることを考えると、そう遠くない将来には脳移植も実現するかもしれない。いずれハイラインのSF的アイディアが、実現する日が訪れるのであろう。

そうなると、男性が女性の身体へ、女性が男性の身体へ脳を移植してはじめて、互いの違いを明確に把握できるだろう。それが幸せなことかどうかは分らないが、倫理的な問題をはじめとして相当な衝撃があると思う。

う~ん、私が臆病なだけかもしれないが、世の中には知らないほうが幸せなことってあると思う。あたしゃ、安らかに死にたいよ。転生して女性に生まれたなら、それは運命として享受しますがね。

(今週は忙しいので、更新、コメントへのお返事が遅れるかもしれません。悪しからずご了承ください)
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