ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

東京スカイツリー散策

2012-06-29 12:17:00 | 日記
業平橋って、とても良い駅名だと思っていた。

東武浅草線に毎月乗って群馬まで日帰りの出張をするようになって17年になる。ほとんど特急りょうもう号に乗っているので、小さい駅には縁がなかった。だが、東武浅草駅を出て数分後に通過する小さな駅は、その名前故に憶えていた。

学生の頃だが、私が初めて好きになった日本の古典が「伊勢物語」だった。昔おとこありけり・・・で始まる在原業平がモデルとされる女性遍歴物語である。今にして思うと、かなり自意識過剰というか、いささかくさいのだが、十代の私はけっこう夢中になって読んでいた。

余談だが、深夜にラブレターを書いて、朝起きて読み直すと、あまりにクサくて自己嫌悪に陥ったことがある。伊勢物語にも、そのニオイというかクサさが感じ取れてしまい、二十歳過ぎてからは読んでいない。

とはいえ、いずれ再読してみたいリストには入れてある。果たして、どんな読後感を抱くのか、不安と期待の入り混じった問題作でもある。

ところで、在原業平は東国(関東)にて死んだようで、業平を祭ったとされる神社が墨田区にかつてはあった。その傍にあった橋を「業平橋」と呼び、近くにある「言問橋」と呼び、どちらも平安の古典を思い起こされる風雅な地名だと、私は好ましく思っていた。

そして、その業平橋のそばを東武が線路を引き駅を作った。以来、その駅は「業平橋」の名で呼ばれるようになっていた。私は下車したことこそないが、東京の下町の風情が残る町だと聞いていた。いつかは散策でもしたいと思っていた。

ところがだ。世界一(もうしばらくの余命だが)の電波塔である東京スカイツリーの開業に伴い、「業平橋駅」は「東京スカイツリー駅」へと名称変更させられてしまった。なんという軽薄な変更なのだ。

私は悲憤したが、寂れる一方の東京の下町としては、駅名変更してででも人を呼び寄せ、町おこしの契機にしたいとの切望があることは理解できる。実際、下町に限らず、どこの町でも駅前商店街は寂れる一方だ。

先週のことだが、ひょうなことから私は東京スカイツリーを訪れることとなった。正確には言問橋あたりの不動産評価のために赴き、時間があまったので東京スカイツリーに寄ってみただけなのが実情だ。

当然、予約もしてないから展望台に上がることは出来なかったが、スカイツリーのなかのショッピングモールを散策することは出来た。もちろん、旧・業平橋駅周辺の商店街を見て回ることも忘れなかった。

率直に言って、駅前の商店街にとって今回の東京スカイツリー開業は、期待外れであったと思う。今や懐かしい風情さえ漂う駅前商店街に人並みは少なく、華やいでいる雰囲気には程遠い。

一方、スカイツリーのなかのショッピングモールは、さすがに盛況だ。日曜日の夜半だというのに、人込みの波が途切れず、散策には不自由するほどだ。明るい店内に、著名な店が軒を連ねる。スカイツリーにちなんだ名産品が数多く売られているが、私はどれも買う気になれなかった。

まだ開業間もないせいもあるのだろうが、どうも虚ろな印象を拭いきれなかった。優雅にライトアップされたスカイツリーの夜景は素晴らしい。だが、その足元の虚ろさは何なのだろう。

期待外れに沈む地元の商店街の失望だけではない。明るいショッピングモールにさえ、ある種の空虚さがあった。少し遅めの夕食を6階のイタ飯屋さんで食べた。味はそう悪くない。でも、五種の前菜の中身ぐらい暗誦して欲しいものだ。いくらバイトでも、あれじゃファミレス以下の対応だ。

あの値段で、あの味なら不満は言わないが、サービスの質はまだまだだと思う。それと水族館フリークの私からすると、あの綺麗な水族館にも不満が残る。東京で一番新しい水族館だけに綺麗なディスプレイは好印象だが、あまりに小さくないか? 気が付いたら、もう出口だった・・・

話題になっているわりに、中身に不満を抱くことの多かったのがスカイツリーへの初訪問だった。もっとも肝心要の展望台には昇っていない。ここで、最高な展望を楽しめたら、もう少し高い評価だったと思う。

まァ、次に行くのは来年以降だろうね。

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好きだけれど困る

2012-06-28 12:26:00 | 健康・病気・薬・食事
蒸し暑いと感じる時に、涼やかな風が吹くのは嬉しい。

だが、これが案外と困りもので、私はこの涼やかな風のせいで体調を崩すことが少なくない。普段は特段気にしないが、月末の修羅場を乗り越えた後は、疲労が体に蓄積していることが多い。

しかし、一仕事やり終えた充実感から、この蓄積された疲労は気が付きにくい。そのことに気が付くのは、涼やかな風に吹かれて「あぁ、気持ちイイ」などと思っていた後、悪寒と頭痛を感じて風邪を引いたと分かってからだ。

20代で難病に罹患して、いろいろと不自由は増えたが、私個人として一番難儀に思うのは、涼しい風に吹かれることが危険な体に堕してしまったことだ。贅沢な悩みであることは分かっている。

あの頃、一緒に病棟で過ごした同じ病の患者仲間の大半は、今は亡き人たちであることは分かっている。生きてはいても、私のように社会に復帰している人はそう多くないことも知っている。

それでも、この蒸し暑さを感じ始めた時期の、涼しい風が厄介者であることを厭う気持ちはぬぐえない。冷暖房完備の病棟に入院していた時だって、やっぱり難儀した。

涼しい風が吹く夕刻になると、窓際のベッドの患者さんが窓を開けて、涼しい風を病棟に入れようとすることは珍しくない。ただ、抵抗力が低下した難病患者にとって、この涼しい風は、厄介この上ない代物だった。

そりゃ、気持ちいいのは間違いない。しかし、この涼しい風に吹かれると、あっというまに風邪をひいて発熱する。これは他の病気の患者さんたちには、なかなか理解しがたく、しばしば病室での揉め事となっていたほどだ。

あれから20年以上が過ぎ、体力も付き、抵抗力もかなり戻ったつもりだが、それでも疲れていると同じ過ちを繰り返す。しかも40代前半のときよりも、年を重ねた分だけ体力が落ちたように思えてならない。

疲れている時は、今まで以上に注意が必要だと痛感しています。ただ、困ったことに、仕事が充実して精神的に高揚している時は、疲労感を感じにくい。そんな時の涼しい風には要注意だ。

まァ、調子に乗っていると、足元に落とし穴が待っているよとの警告だと思うことにしましょうかね。
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オスプレイの配備騒動

2012-06-27 14:28:00 | 社会・政治・一般

馬鹿を甘やかすから、つけあがるんだよ。

アメリカ軍が沖縄に配備を予定している最新鋭型ヘリコプターであるMV22オスプレイに対する逆風が喧しい。モロッコやアメリカ本土での事故を受けて、そのような危険性の高い期待を沖縄に配備することは中止して欲しいと、沖縄県知事及びマスコミが騒いでいる。

まず認識してほしいのは、日本政府にアメリカ軍が配備する兵器に関する決定権はない。せいぜい要望を伝える程度だ。それが敗戦国の現実であり、民主主義とか人権とかは関係ない。

ただ、アメリカ軍は日本列島を戦略的に活かすために基地を置き、最新兵器を配備するのであって、日本政府及び日本国民のためにしているわけではない。ただ、基地を配備している国との友好関係を表向き重要視しているかが如き態度を示しているだけだ。

いくら沖縄県民及び偏向マスコミが騒ぎ立てようと、既に結論は決まっている。

更に付け加えるなら、水平飛行の高速化と垂直離発着を可能にした世界で唯一のヘリコプター・オスプレイは、どうみても従来のヘリコプターよりも安全性は高い。騒音だって少ない。

だた、事故が生じているのは、まだ開発して間もない機体であり、今後さらなる改良を加えられていく予定であるからに過ぎない。民生品と異なり、兵器は実戦運用あってこそ、はじめてその兵器の真価が問われる。

平時の運用である現在生じる故障や事故は、致命的でもなく、決定的でもなく、ただ今後に活かされる貴重なデーターであるだけだ。実際、シコルスキーが開発して朝鮮戦争末期にアメリカ軍が実戦運用を始めた当初のヘリコプターときたら事故、故障だらけであった。

空飛ぶ棺桶と忌避されたこともある。しかし、その運用上の利点はだれの目にも明らかであったため、多くの事故データーがヘリコプターの改良に活かされ、ヴェトナム戦争では必要不可欠な兵器として大活躍した。

日米安保により外国からの軍事的脅威をアメリカ軍に守ってもらっている日本国民は、自らリスクを負って国防を担う義務を回避しているだけの情けない存在だ。そんな奴らの愚痴に何の価値があろうか。

口には出さないが、それがアメリカ軍の本音だと思う。ただ、アメリカ軍にとっては、日本列島は戦略的に重要な地理的条件を備えるばかりでなく、高度な工業生産力を持ち、しかも社会が安定している安全な兵站拠点でもある。原住民、つまり日本人とは円滑な関係でありたいと望んでいることも確かだ。

だからこそ、本来聞き流す程度てよい原住民の不満にも耳を傾けるメ[ズをとる。原住民の自治政府もそれを承知で三文芝居に付き合っている。そこに付け込んでいるのが、甘やかされ過ぎの沖縄島民及び偏向マスコミではないのか。

過去、何度か書いているが、沖縄でも本気でアメリカ軍基地に反対しているのはそう多くない。大半は諦めと現実に妥協して内諾してしまっている。ただ、一部の絶対なにがなんでも反対派の気持ちにも一定の理解があるので、積極的に参加こそしないが、見過ごしているだけだ。

決して小さい島ではないが、それでも隣近所とのお付き合いは大切であり、波風立てたくない。そのあたりの微妙な島民感情がこの島の選挙に表れている。その微妙さにアルコールの強い酒をぶち込んでしまったのが、民主党政権初の首相である鳩ポッポあった。

この世間知らずのお坊ちゃまの善意溢れる無責任な言動が、沖縄の反米軍基地感情を悪い方向へと燃え上がらせた。そのツケは大きく、現在も終息の目処さえ立たない。

おそらく、そう遠くない将来、民主党は政権の座から追いやられる。甲斐性なしの自民との連立の可能性という悪夢も考えられるが、それは有権者が望まないように思う。現在の参院の状況に近い形、すなわち自民、公明プラス第三勢力(維新の会か?)が政権をとる気がする。

その時、ようやく沖縄米軍基地をめぐる混迷に一応の終止符が打たれると思う。

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まんだら屋の良太 畑中純

2012-06-26 12:02:00 | 

明るくスケベって、どうなのさ?

なんとなく納得できない。スケベなことって陰湿なほうが良くないか?明るく開放的で快活なスケベって理解しかねる。やっぱり暗くて閉じ籠ったところで、密かにやるべきではないのかと私は思っている。

実際、輸入物の裏ビデオでアメリカの若き男女が、軽快な音楽にのってリズム良くスケベしている映像を観て、こいつら馬鹿じゃないのかと思ってしまった。たしかに男性が元気いっぱい逞しい体つきで、笑顔でエッチしている。これじゃァ、エアロビックスと間違えそうだ。

素晴らしいプロポーションの女性は、明るい室内でいかにも楽しげにエッチしているが、あたしゃ、ちっともいやらしさを感じることが出来ず、むしろ不満をため込んだ。こんなんじゃ、楽しくないよ!全然スケベじゃないし、むしろ滑稽に見えるぞ。

同じ輸入物の裏ビデオでも、ヨーロッパのものは一味もふた味も違った。陰湿な室内に、ほのかに灯る明かりが、うっすらと汗に濡れた裸体を照らす。期待に胸躍らせて、思わず画面に近づきたくなるが、気が付くと明るさが増している。

そこに繰り広げられる隠微な映像こそ、人の性本能を具現化した姿そのものであり、これでこそスケベ心は満足するってもんさ。うんうん、大金、はたいた価値があったと満足である。

裏ビデオと書いたが、アメリカものヨーロッパものも年齢制限こそあれど、どちらも正規のメーカーが製作したものだ。裏となったのは、日本の馬鹿げた性器規制によるものだ。

性器が見えなければ良しとする日本の倫理基準の愚かさはさておいても、私がつまらなく感じたアメリカのエロビデオは、健全さを装い過ぎる。明るく健康的なことが、良いことだとの、単純にして愚かしい思想が透けて見える。

その点、わざと薄暗くしたり、光の加減で隠したりするテクニックを駆使するヨーロッパは、スケベの本質を良く分かっている。あまりに健全さを強調すると、むしろスケベさは薄れてしまう。

アメリカがキリスト教原理主義の国であるがゆえに、倫理的に厳しくあらんと建前を振りかざすのは分かるが、建前は本質を隠し、やもすると本質を暴走させる契機になりかねない危うさを持つ。

性本能は、人が人である限り捨て去ることは出来ず、必要以上に押さえつければむしろ反動が大きいものだ。

なぜ性本能を抑制し、年齢制限を含めて隠すようになったのかといえば、それは近代化が原因である。近代になり高度工業社会となると、どうしても人材に高度教育が必要となる。初等学校だけでは不足で、大学のような高度なレベルの教育を産業界が必要とする。

だからこそ、青年期での性本能は抑制されねばならない。産業革命以前は、世界中ほとんどの国で十代半ばは婚礼可能年齢であった。子供が沢山いることが労働力の増加を意味し、そのために早くから婚姻出産に励むことは社会の期待に沿うことであった。

しかし、若者へ高度教育を施さねばならぬ故に、十代後半から20代までを学業に集中させるためには、性本能への刺激は抑制されねばならない。その一方、農業等の一次産業が中心の社会ならば、性本能はおおらかに受容され、都市社会ほど抑制されることはなかった。

それは現代の日本でも、そう変わっていない。私は東京生まれの東京育ちの東京原住民だ。都会っ子でもあったが、性に関しては奥手であり、抑制というか我慢することが常識であった。

ところが、驚いたことに地方出身の若者たちは、都会っ子よりも性に関しては進んでいて、大学生の私よりも年下なのに出産経験がある年下の少女に驚かされたことがある。彼女は淡々と「他に楽しいこと、なかったしね」と言っていたが、受験勉強に励んでいた私が気おくれするほどの床上手であった。

まァ、実のところ都会でも大学受験とは無縁の連中ほど、性に関する経験は進んでいる。私は意識して遠ざかるようにしていたが、暴走族のアンチャンたちや、タケノコ族の女の子たちは、たしかに性経験に関しては進んでいたようだ。

そのせいかもしれないが、表題の漫画を知った時は、もしかしたら本当にこんなスケベな温泉宿の町があるかもしれないと、妙な期待を抱いてしまった。勉強なんざろくにやらず、親の手伝いの仕事ばかりしていたら、空いた時間は性本能を満たしたいと思っても当然だと思う。

いいよなァ、深夜の温泉で混浴なんてと、スケベな妄想を膨らませたものだ。後年、東京近郊の温泉宿に行ってみて分かったのは、そんな時間に混浴温泉に入るのは、スケベ中年と、それをケラケラ笑い飛ばすおばあちゃんたちだけだという現実だった。

この漫画が連載されていた当時、下手な絵だよなァと呆れていたが、今にして見直すと版画にしたくなるような味わいのある絵だと気が付いた。今だったら漫画家未満の若者でさえ、もっと上手に綺麗に絵を描くと思うが、これだけ味わいのある絵は描けないだろうとも思う。

先日、作者の訃報が伝えられました。私はこれ一作しか知りませんが、日本の田舎情緒を感じさせるスケベな画風には、今さらながら感心させられます。

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鷲は舞い降りた ジャック・ヒギンズ

2012-06-25 14:59:00 | 

裁かれているのは我々だ。

イスラエルで逃亡ナチスの大物であるアイヒマンが裁かれた日の翌日、ヨーロッパの著名新聞が冒頭にもってきた科白である。実に痛烈な自己批判であり、その意味するところは、ユダヤ人を差別し迫害し、ナチスの犯罪に加担したしたのは普通のヨーロッパの人々であったことを自白している。

敢えて言ってしまえば、ユダヤ人を嫌い、ユダヤ人を迫害し、ゲットーに追いやったのは、ナチスの専売特許ではない。スペインからフランス、ドイツ、メ[ランド、ロシアと、いたるところで普通に行われていたことであった。

もちろん嫌われるには相応な理由はあったのだろう。率直に言って、ユダヤ人は多民族から好まれるような振る舞いをする人たちではない。ユダヤに対する差別感情とは無縁な日本人からみても、ユダヤ人の依怙地さは他人から嫌われることを予定しているがごとき印象がある。

厄介ななのは、その依怙地さが宗教からくる確信であり、好悪の感情論で判じるべきものではないからだ。心の自由までは立ち入るべきではないし、互いに尊重し合うべきだと思う。

だが、ユダヤ人には、他者に対する寛容さに欠け、ユダヤ人のみに凝り固まる閉鎖性があまりに強かった。だからこそ、他の民族から嫌われた。それゆえに、ナチスがユダヤ人絶滅を宣し、それを実行するに至った時、密かに拍手喝采した人は相当数に上ったと考えられる。

これらの、ユダヤ人は好きではないが、自分では絶滅させてやろうなどと思わない普通の人々こそが多数いたからこそ、ナチスはユダヤ人狩りを円滑に行えた。普通の人々からの密告などの協力があったからこそ、短時間でユダヤ人は強制収容所に閉じ込められた。

ナチスが戦争に負けて、ユダヤ人絶滅が戦争犯罪として裁かれた時、ユダヤ人廃絶に喝采を送った普通の人々は、後ろめたい気持ちにさい悩まされることとなった。自分たちも共犯者であると分かっていたからだ。

それゆえに、戦後長らくユダヤ人は常に可哀相な被害者であり、ナチス・ドイツは残虐な悪役であり続けた。それは映画でもドラマでも小説でも変わることのない定理となっていた。

だからこそ、表題の作品が1975年に発売され、しかも大ヒットを記録したことは当時としては驚愕の出来事であった。なにせ主人公はナチス・ドイツの軍人なのだから。作品中にユダヤの少女を救って、閑職に追いやられた経緯が添えられてはいたが、それでもナチス・ドイツの軍人であることに変わりはない。

にもかかわらず、主人公は圧涛Iな人気を博した。もう一人の主役も、当時ヨーロッパで嫌われていたIRA(アイルランド独立闘争軍)の兵士であったから、この人気には驚かされる。

人気の原因は、主人公たちが格好良かったからだ。その生き方、戦い方、優しさの見せ方、苦悩の隠し方、どれをとっても男として憧れてしまうほど恰好良かった。どんな立場にあっても、個人としての魅力は損なわれることはなかった。だからこそ、この作品は人気を博した。

我が日本でも、冒険小説の人気ランキング上位の常連であり、二人の主人公も常に憧れの存在としてクローズアップされ続けた。どんな立場であっても、どんな時代の逆風にあっても、そこに人としての魅力がある以上、ナチスの兵士であろうとテロリストであろうと関係ない。

いや、むしろ本来なら敵役であるべき主役の二人だが、そのどちらをもが格好良くて、むしろ敵方の勝者の側がかなり情けなく思えるように描かれている。多分、熱狂的かつ教条的な反ナチス論者からは嫌われたはずだが、その逆風を乗り越えて人気作となった。

その意味でも冒険的な作品であったように思う。

でもね、もし未読でしたら是非とも純粋に、単純に楽しんで欲しい。私の能書きなんて忘れて、緊迫の冒険劇を堪能して欲しい。それだけの価値ある名作ですぜ、こいつはね。

コメント (4)
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