ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

一難去って又一難

2013-05-31 12:46:00 | 健康・病気・薬・食事
けっこう本気で心配しただけに脱力した。

実は先月末以来、どうも体調が芳しくなかった。当初はゴールデンウィークに実家へ引っ越すつもりでいた。ところが片付けが予定通りいかない。考えていたよりも廃棄する家財が多かったのも一因だが、なにより選別が難しかった。

おかげで4月中、一度帰宅して徒歩数分の実家に夜半赴き、家財の片付けをするつもりでいったものの悩んで座り込む有様であった。まず燃えるゴミに含められる衣類は問題ない。困ったのはアクセサリー(綺麗なものは売れる)と雑貨であった。これが予想以上に多かった。

それでも45リットル入りの大袋15袋は廃棄した。他に困ったのは、母の写真である。旅行写真を中心にあまりに多く、しかも捨てていいものか判断に窮した。しかたなく妹たちに連絡して欲しい写真を取りに来るよう伝えておく。

さて、ではゴールデンウィークにでも頑張って片付けるかと意気込んだ私を止めたのは、血尿であった。

長く腎臓を患った私だが、実は血尿は初めての経験だった。これには驚いた、いや、ビビったと言うべきだろう。もしかしたら腎炎になったのかと恐れおののいた。こりゃ、腎機能が低下して、いずれは透析生活に入るのかと、未来に暗雲が立ち込めるのを自覚せざるえなかった。。

まずは静養が第一だと分かっていた。この時点でGW中の引越は諦めた。ところがこの血尿は時々止まる。元の黄色っぽい尿に戻ることが分かった。どうも変だ、こりゃ腎臓病ではないのではないか。

あまり気乗りしなかったが、ネット上の医療情報のサイトをまわりいろいろと調べた。その結果、私の脳裏に浮かんだ病名は「膀胱がん」であった。

さすがに焦ったし、困りもした。一月に心筋梗塞をやったばかりである。なんで今年は病気が続くんだと苛立ったりもした。一人で夜、あれこれ悩み苦しんだ。でも、それが素人判断であることも分かっていた。

早く病院に行きたかったが、如何せん5月は忙しい。それでも多忙な合間を縫って30年来お世話になっているN医師のもとを訪れて事情を説明する。その際、はっきりと癌ならそうだと言ってほしいとも付け加えた。

N医師は、私にいくつかの問診をしたのちに顔を上げて一言「僕の考えでは9割方、癌ではないと思う」

その一言に安堵でへたり込みそうになった。が、まだ検査一つした訳でもなく、残り1割の可能性を再考して気を引き締める。N医師はPCを操作して、検査を二つほど入れるので、来週来てほしいとのこと。

特に造影剤を注入してのCTを撮るので、その際には同席すること。その日は飲まず食わずに来てほしいこと。その次の検査は膀胱を尿でいっぱいにしてほしいので、すぐに水を大量に飲むことなどを説明してくれた。

そして、「私は腎臓結石の可能性が高いと考えています」と言い、ちょっとニヤリと笑って「私も実は経験しているのだけれど、結石は痛いよ。場合によっては超音波で破砕することも必要かもしれませんね。まァ検査次第ですが、とりあえず水を大量に飲むことをお勧めします。」

その一週間後に検査を受けたのだが、やはりN医師の予測通り腎臓に複数の結石が見つかった。その一つはかなり大きく7ミリ以上はあると思われた。カルシウムの結石と思われるようで、これを薬で解消することは出来ないそうだ。

ただ、これ以上大きくならないような薬を処方してもらった。その際、注意されたのだが、紅茶のストレートは止めた方がいいようだ。これには驚いたが、ミルクを入れれば大丈夫とも云われた。

コーヒー好きの私だが、実は紅茶も大好き。特になにも入れないストレートで毎朝飲んでいる。どうやら、これが大きな原因であるようだ。これはちょっとショックであったが、癌であるよりマシなのも事実。

ただし油断は出来ない。腎臓結石の痛みは半端なく、場合によっては麻薬系の鎮痛剤が必要らしい。困った、私は痛いのが苦手なのだ。

とりあえず、毎日毎朝水を大量に飲むことにしている。実は検査の際に指摘されたのだが、既に結石が一つ尿管に流れて排出されているようだ。それが血尿となって私を驚かせたようなのだ。

それにしても、毎朝の習慣であった紅茶のストレートが結石の原因になるとは思わなかった。朝の紅茶は美味しいだけに残念です。現在は砂糖抜きのミルクティーにしてますが、ちょっと物足りない気持ちは当分続きそうです。
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さまよう刃 東野圭吾

2013-05-30 13:20:00 | 

期待が大きかっただけに、その反動で失望に怒りが上乗せされる。

この数年、私が是非読みたいと思っていた作家の第一が東野圭吾であった。今でもガリレオ・シリーズを始めとして読んでみたい作品は幾つもある。しかし、今回の作品がひどかったせいで、ちょっと読む気が失せている。

予め言っておくと、文章の質、作品構成、人物造形、表現力などどれをとっても一級品であり、作家として十分な力量の持ち主であることは今回良く分かった。

またミステリー界の女王様こと高村薫よりも情緒表現に長け、王女様の宮部みゆきよりも論理構成は緻密であり、伊坂幸太郎よりも硬質で、横山秀夫よりも堅苦しくない。非常にバランスのとれた作家であることは私も認める。

でも、この作品はあんまりだと思う。

読んでいて9割方は認めてもいいと思っているが、最後の最後がイケない。私はあんな顛末を望んではいなかった。読者の期待を悪い意味で裏切っている。あんな顛末は現実の事件解説で十分だ。実際の事件こそ、あんな平凡で退屈なエピローグなのだろう。

だからノン・フィクションなら許せる。しかし小説があれではいけない。あんなどっちつかずの終劇を読者は望んではいない。あの結末で未成年者の犯罪と処罰に対して、より理解が深まったなどと己を誤魔化してはいけない。

作家が読者に提示すべき結末ではない。あんな賢しげで、穏便で、現実的で、毒にも薬にもならない結末は小説には相応しくない。

私はこの作品をミステリーとしては駄作だと言い切りたい。世の中に数多いると思われる東野ファンには申し訳ないが、あのような中途半端で、嬉しくもなければ、哀しくもない結末は小説としてはダメだと思う。

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三浦雄一郎氏のエベレスト登頂に思うこと

2013-05-29 12:05:00 | スポーツ

プロスキーヤーであり、冒険家である三浦雄一郎氏がエベレスト登頂に成功したとの報を目にした。

たしかに80歳という年齢で8000メートル級の高所登山を成功したのは凄いと思う。快挙だと報じるのも分からないでもない。

でも私は内心、素直に喜べない気持ちもある。

率直に言って、今のエレベストは金と体力があり、晴天に恵まれれば誰でも登れる山である。無酸素、単独というアルパイン・スタイルならともかく、酸素ボンベから酸素を吸入し、シェルパという登山ガイドをつけていれば、さして難しい山ではない。

ただ、80歳を超える年齢での登頂は、たしかに凄い。それは間違いないところだが、これを契機に高所登山に挑む高齢者が増えたら困る。

まず、三浦氏はプロである。いかに冒険心をアピールしようが、プロとして今回の冒険に挑んでいる。スポンサーを揃えてその支援の下に事業として冒険を行っている。マスコミの取材も含めて、プロ活動の一環としてのエベレスト登山である。

そのために身体面のケアはもちろん、登山装備、シェルパの手配、現地コーディネーターなども通常の登山者とは異次元のレベルで準備をしたうえでのエベレスト登山である。

それを誹謗する気はない。プロなのだから当然だと思う。

だが、これは財政力のある三浦氏ならでは特別な準備であり、とてもじゃないが一般登山者には不可能だ。断っておくが、私は高齢者登山を批判しているわけではない。登山は年齢に応じた登り方をすれば、むしろ高齢者に向いたスポーツである。

私はそう考えていたからこそ、登山を生涯の趣味だと定めていた。残念ながら、その楽しみは難病により奪われてしまったが、健康だったらきっと今も登っていたし、高齢を迎えても登っていただろう。

だからこそ、今回の80歳の三浦氏のエベレスト登頂に危惧を抱かざるを得ない。

登山は経験が活きるスポーツであり、経験豊富なベテランほど登山を長く楽しめる。体力は落ちても、それを経験と知恵で乗り切れる。私はその実例を数多く知っているからこそ、それが真実だと分かっている。

だが酸素ボンベを必要とする高所登山は、別世界の登山である。もっと言えば、あれは不自然な登山でもある。だからこそ酸素ボンベを使わない登山スタイルがR・メスナーらにより実践された時、世界から絶賛された。同時に危険過ぎると警告された。

低酸素状態での激しい運動を伴う高所登山は、普通の登山ではない。実際、酸素ボンベを用いた登山でさえ、多くの失敗と犠牲の積み重ねがあってこそ確率されたスタイルである。そのことを忘れてしまっては困る。

三浦氏の偉業を讃えるのはいい。でも、高所登山の危険性を忘れてもらっては困る。あれは救助さえ不可能に近い異次元の登山なのだから。

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鬼燈の島(ホウズキノシマ) 三部けい

2013-05-28 16:32:00 | 

子供は最初っから疑ったりしない。

その子供が大人を疑うようになるのは、納得できない嘘をつかれた時だ。多くの場合、大人に悪気はない。むしろ子供を傷つけまいと思っての嘘であることが多い。あるいは子供には理解できまいと思っての嘘である場合もある。単に説明するのが面倒くさいゆえの嘘だってある。

だが時として子供はその嘘に気が付く。気が付いても、その嘘を告発することは稀だ。むしろ嘘をつかれたことに心を傷つけられたことを隠そうとする。その嘘になんらかの理由をこじつけて、平穏な日常を取り戻そうとする。

嘘をつかれたことによる心の傷は、深く静かに心の奥底に蓄積される。この心の奥底に沈んだ傷が子供を歪めてしまう。もちろん家族が気が付いて、子供を納得させることで傷を癒すことも可能だ。

子供を注意深く見守っている親や教師ならば、この癒しが出来る。複雑な事情、子供にはいささか難しすぎる状況を分かりやすく説明して、子供に嘘をついた背景を理解させる。このように育った子供は聡く成長する。

しかし、このような嘘による傷を癒されることなく育った子供は、如何ともしがたい大人への不信感を強固な信念に変えてしまう。

私自身が大人、とりわけ教師への不信感を抱き続けた子供であった。ただ、幸いにも、ほぼ信頼に値する教師たちとの出会いもあった。それは確かだ。でも、私の心の奥深いところに根付いていた教師への不信感が、歩み寄りをさせなかった。

最終的には信頼していた教会の牧師たちとの別れにより、私は大人への不信感に一定の答えを得た。といっても納得したのではなく、教師も所詮人間であり、また自分自身も必要があって嘘をつく人間なのだと自覚したからだ。

受験を口実に教会の活動から離れる覚悟を決め、実際に断った時に感じたのは、自分もこれで大人と同じようになったと自覚したことであった。幼い頃から、早く大人になりたくて仕方なかった私が、いざ大人への自覚を掴んだ時感じたのは喜びではなく、寂寥感としか言いようのない侘しさであった。

だが、幼少時に心に刻んだ大人への不信感は、そうそう拭いきれるものではない。呆れたことに、大人になり中年と云われる年になってさえも私には大人への不信感が残っている。やもすると、それは自己不信にもなり、自己嫌悪さえ引き起こす。

さりとて子供時代に戻りたい訳でもなく、いわゆるピーターパン症候群とも無縁だと思うが、幼き心に深く澱んだ大人への不信感だけは拭い切れずにいる。

そんな大人への不信感が主題になっているのが今回取り上げた作品だ。先々週に取り上げた「魍魎の揺りかご」の前作にあたる作品になる。もっとも屍人も殺人鬼もで登場しない。

家庭に問題がある子供たちのための学園だけがある孤島で起きた、謎の事件を巡る大人と子供たちの対立が大きな主題となっている。親に捨てられ、放置されこの学園に引き取られた子供たちに大人への不信感があるのは致し方あるまい。

しかし、その不信感を十分癒さぬままに学園を維持しようとした大人たちの善意が、とんでもない事件に発展することになる。私はけっこう名作だと思っているが、如何せん掲載誌がマイナーな漫画誌である「ヤング・ガンガン」であったので、世間的にはほとんど知られていない。

もし機会があったら「魍魎の揺りかご」ともども手に取って欲しいと思います。

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中国経済がダメになる理由 石平・三橋貴明

2013-05-27 14:16:00 | 

これからが本番。

なにがって、シナにおける日本企業への暴動である。

今だから言うが、尖閣諸島なんざ東京都に買わせておけば良かった。それを国がしゃしゃり出るから反日感情に火が付いた。そんな風に思っている日本人は多いのではないか。

そうではない。

たしかに北京政府は尖閣諸島を欲しいと思っている。正確には台湾から沖縄、九州までの海域を自由に航行できるようにしたいと考えているからだ。もちろん現状は、アメリカ軍の勢力下である。

だが、尖閣諸島問題とシナにおける反日暴動騒乱はきっかけではあっても、本当に原因ではない。本当の問題は、シナにおいて反政府感情が高まっていることだ。

共産党の一党独裁の体制下で、部分的に経済開放をして未曾有の規模で経済成長を続けてきたシナは世界第二位の規模にまで膨れ上がった。しかし、その内情は外資による生産工場と原材料の輸入による加工貿易である。

この製品輸出こそがシナの経済成長の根幹である。この輸出依存体質がリーマン・ショックに伴う欧米の景気後退の影響を強く受けた。日本とてこの影響はかなり受けたが、GDPにおける輸出の割合が10%程度なので耐えられる。

しかし、シナのGDP(国内総生産)の4割が輸出産業に基づく。だから欧米の景気後退の影響は甚大だ。しかも国内需要は小さい。日本のマスコミが真実を報道しないので勘違いしている人が多いが、シナにおける13億人の消費者市場は幻想に過ぎない。

なぜなら経済成長による富の大半は、1割程度(一億人前後)の特権階級(共産党幹部とその家族)が独占しており、残り9割は率直にいって貧困階級だ。国家を支えるはずの中産階級が少数(2千万から5千万人ぐらいと推測)なので、国内消費市場の規模が小さい。

いくら一億人のミリオネアが居ようが、彼らが国内で消費する金額はそれほど多くない。せいぜいが不動産投資ぐらいで、国内においては必要な消費物資はそれほど多額ではないため、彼らは国内景気の牽引車とはならない。

それどころか、この特権富裕階級は蓄えた富を海外に送金し、国内には置かない。おまけにかつては医療など社会保障が充実していたのに、現在は社会保障制度が崩壊し、貧困者階級は医療保険に未加入なのでわずかに稼いだ富も貯金せざる得ない。

稼ぎ頭の輸出がリセッション(景気後退)している以上、残された道は国内消費市場なのだが、ここがお寒い限り。これがシナの現実だ。幸いにして独裁国家なので、情報の統制がある程度可能だ。

だからあまり報道されないが、おそらく数千万人規模の失業者、浮浪者が巷にあふれている。彼らは郷里の田舎の寒村に戻っているので人目に付きにくいことも、真実を隠すのに都合がよい。

だが、いくら情報を隠せても、人々の心に鬱積した不満までは隠せない。だからこそシナの各地で暴動が相次いでいる。2005年以降は暴動の数値を発表しなくなってしまったので推測でしかないが、それでも増えることはあっても減ることはないだろうと容易に推測できる。

表題の本は、シナ出身で日本に帰化した石平氏と、2ちゃんねる出身の気鋭の経済評論家の三橋氏の共著である。この本が書かれたのは2006年なのだが、書かれていることは概ね当たっているのではないか。

民主主義の国ならば、国家的な不況は選挙による政権交代で、国民の不満を緩和することが出来る。しかし、共産党による独裁体制をとるシナでは国民の不満を緩和するような制度がない。民衆の暴動は武力により弾圧するしかないと二人は述べる。私もこの二人の考えに同意できる。

だからこそ、尖閣諸島問題で起きた反日暴動は黙認された。反政府目的の暴動なら断固として弾圧するが、反日暴動で日系企業が被害を受けるだけなら黙認して、民衆の鬱屈を晴らさせた方が好ましい。

尖閣諸島問題は口実であって、本当の目的は不況と失業に苦しみ、政府の横暴に憤り、未来に希望をもてずにいる大衆の不満を緩和することだ。輸出頼みの中国経済は、欧米に大量に製品を売りさばく以外に不況からの脱出は出来ない。

未だユーロ危機の火種を抱える欧州は期待薄いし、財政の壁にぶつかるアメリカも本格的な回復には遠い。本当は国内のいびつな経済格差を是正して、健全な中産階級の育成こそが正攻法だ。

しかしシナの既得権を握る特権階級は、中国共産党の幹部とその親族から構成される。不正と汚職と贈賄にどっぷり浸かったこの特権階級が、自らの蓄財の元である特権を手放すはずもない。それゆえにシナの大衆の大半は怒りと不満と失望を抱え込まざるを得ない。

断言しますが、北京政府が自国の構造改革に成功しない限り、輸出頼みの経済構造ではこれ以上シナの大衆は豊かになれない。健全な中産階級あってこそ、国内市場は豊かになる。だが、それは特権階級の既得権を削ることを意味している。それが出来ない北京政府としては、その困窮に喘ぐ大衆の怒りが自分たちに向けられるのが一番浮「。

シナの歴史を学んだ者ならば、古来より幾多の王朝が不満と怒りを抱いた民衆の暴動を契機に唐黷トいることを知っている。北京政府としては、反日暴動は大衆の不満と怒りを発散する絶好の機会であり、日系企業の撤退のリスクはあってもそれで済むなら良しと考えている。

それゆえに第二、第三の反日暴動は必ず起きる。

私は予言めいたことを云うのは嫌いですが、この予言は必ず当たると確信しています。

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