ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

清洲同盟

2023-01-31 11:58:43 | 社会・政治・一般
医者がカルテを診ながら診断するのは間違いじゃない。

でも優れた医者ならば、まず患者を視る。患者の話を聴き、反応をみて、聴診器を当てたり、脈を図ったり、自身の医者としての見識をもって診断する。かつて20年以上にわたり私の主治医であったN教授がそうだった。

もちろん検査結果も見るし、他の医師の見解にも耳を傾けた。でも必ず自分の手で血圧を測り、脈をとり、聴診器に耳を傾けた。私は今でもN医師の暖かい手の感触を覚えている。

ところが医者の中にはカルテが表示されるPCの画面ばかり見てばかりで、肝心の患者を見ない。30年近く大学病院に通ったが、若手の医師には確かにこの手の患者を見ずに、カルテばかり見ているタイプが居た。

このタイプの医師には世話になりたくないなと常々思っていた。医師の教育機関でもある大学病院ならではの現象だと思う。他の一般的な大病院では、まず見かけたことがない。なぜなら患者からの信を失するからだ。

これは別に医者に限ったことではないらしい。勉強の良くお出来になる学者さんにも、御多分に漏れず現場よりも報告書のような文章を重視するタイプはいるようだ。

休日にヤフーニュースを閲覧していたら、妙な記事にぶつかった。曰く「清洲同盟は現在ではなかったと考えるようになっている」だそうだ。その根拠は、一次資料がないことだ。公文書はもちろん、信長公記のような資料にも清洲同盟の記載はなく、記載があるものは大半が江戸時代初期のものである。だから清洲同盟は後世の創作だと考える人がいるらしい。

私がこの記事を読んで思い出したのが、冒頭に書いたカルテばかり見ていた医者である。

確かに織田信長と松平元康(後の徳川家康)との間で結ばれたとされる同盟を明示した書面は見つかっていない。だが、歴史上の事実をみれば、二人の間に強固な同盟関係があったのは明らかだ。

裏切りが当然の戦国時代の同盟のなかでも30年近く破られたことのない強固な同盟である。駿河の家康が東の北条、北の武田を抑え、その家康の西側に位置する信長が南西の斉藤、六角、西の浅井、北の朝倉を抑える。まだ若い二人の戦国大名が互いに背中を守り合いながら成長してきたのが歴史上の事実である。

にも関わらず、公的な証拠文章がないから同盟の存在を認めないという。この歴史学者は馬鹿なのか?ちなみに濱田浩一郎という若手の歴史学者であり、一応本物である。他にももう一人、同様な主張をする学者がいたと記憶しているが、見つけられなかった。

確かに同盟の存在を書面で立証する資料はない。しかし、この二人が力を合わせて戦っていたことは歴史的事実だ。それどころか、戦国時代屈指の誠意ある同盟であった。姉川での家康の奮闘、長篠での信長の堅実な戦いぶりは、契約文章のあるなしに関わらず、二人が同盟関係にあったことを証明している。

もっとも当初は対等な関係であったと思うが、次第に信長が優位に立ち、偏った同盟だとみえるのは理解できる。でも私からすると、信長は年下の同盟者を非常に大事に扱っていたと思う。

一例を挙げると、徳川と武田の境界上の重要拠点である高遠城が勝頼に攻め落された時、信長は援軍を出すのが大幅に遅れ、その結果高遠城は武田方の手に落ちた。これに家康は激怒し、かなり強硬に不満を伝えた。

すると信長はこの年下の同盟者に対して、多額の金銭財貨を携えて謝罪している。数年分の軍事支出を軽く賄える金銀財貨に、家康も家臣も唖然としてしまい、怒りを忘れてしまったという。

経済力の重要さを誰よりもよく知っていた信長ではあるが、このような謝罪の仕方をしたのは家康に対してだけである。外交にも派手に金をばら撒いた信長ではあるが、他の戦国大名や公家、足利将軍よりも同盟者である家康の方を重んじていたように思えてならない。

歴史家に限らないが、書面という資料を重視しすぎる日本の学界は、今少し自分の頭で考えるようにしたほうが良いと思いますね。
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論破

2023-01-30 10:22:45 | 社会・政治・一般
論破することに何の意味があるのだろうか。

多分、ネット上の掲示板2チャンネルの創設者である西村氏が多用しているからだろうが、しばしばこの論破という言葉をみかける。

断片的というか切り取り的な言い様で申し訳ないが、私はこの論破という言葉にあまり意義を見出せずにいる。おそらく相手の言い分を封じ込めたという自己満足程度しか意義がないように思うからだ。

議論を戦わせること自体は否定しない。でも議論は手段であって、議論そのものは目的ではあるまい。たとえ相手の主張を論破したところで、相手から私怨を抱かれて、本来の目的を失したのならば、無意味というよりも失策となることだってあるだろう。

私は税理士という仕事柄、税務署の調査官とこれまでかなりの議論を戦わせてきた。だが私の目的は国税調査官の主張を論破することではない。税務調査を円滑に終わらせることが目的である。

相手の主張の論理的破綻を指摘して、議論を有利に進めることもある。でも私はこのやり方は積極的には使わない。経験の浅い調査官にもプライドはある。若いと論理的正しさに固執して、その破綻を指摘されると逆切れする人は珍しくない。

私の目的は国税調査官をとっちめることではない。むしろ税制のグレーゾーンと現実との矛盾、乖離に対して共通の理解が欲しい。納得してもらった上で、申告是認を勝ち取りたい。相手のプライドを貶める必要はない。ただ一定の共感が欲しい。

実のところ、若い頃は幾度となく国税調査官を論破している。白状すると、上手いやり方ではなかったと少し後悔している。後悔した最大の理由は顧客を苦しめてしまったことだ。

私は仕事なので、別に国税調査の実地立会いは苦ではない。しかし事業を行っている顧客は違う。職場に税務署の人間が日中居ついていること自体、相当な苦痛だったのだと、後日聞かされて反省した。

師匠のS先生は国税調査の解決に時間をかけるのが当たり前の人だったので、私もそれが普通だと思い込んでいた。時間をかけて、税務署が折れることで追徴税額をゼロにすれば良い、そう思っていた。

でも、それでは十分ではなかった。顧客の苦悩に気を配るべきであった。以来、私はバランスを取りながら税務調査の仕事に対応するようにしている。税務署の主張を論破するのではなく、顧客の満足度にも配慮し、なおかつ円滑に終わらせる。

論破することは目的ではなく、結果を出すことが目的だ。これには100%の解答はない。だが、論破するよりも遥かに難しく、かつ成功すれば満足度の高いものだと思っています。
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天災から日本史をみなおす 磯田道史

2023-01-27 11:18:47 | 
古来より日本人は日記をつけるのが好きだったようだ。

これは他の国と比べてもかなり顕著な特徴だ。ほとんどの国では、日記をつけるのは少数の知識階級である。ところが日本では庶民といって良い平民でも日記を記している。これは識字率が高い上に、和紙という優秀な記録媒体が広く普及していたことも大きい。

おかげで過去における天災の詳細が伝わっている。表題の作品の筆者は過去の日記等から天災の被害を推測し、そのデーターをなんとか現代に活かせないかを模索している研究者だ。

歴史的観点からも、過去の大災害が日本の歴史に大きな影響を与えたことが分る。

私が疑問に思っていたことの一つに、徳川家康の関東移封がある。今川に怯え武田や北条と熾烈な戦いを重ねてまでして守ってきた駿河の地から、関東大湿原に移ることを秀吉に命じられた家康。

小牧長久手の戦いにおいて野戦では秀吉側の軍勢に勝った家康である。如何に30万の軍勢で北条を屈服させた直後とはいえ、なぜに関東移菅を受け入れたのか私は不可解に思っていた。もちろん秀吉は家康が反発して受け入れないことも想定していただろう。なれば30万の軍勢で家康を叩き潰す。

もともと家康の配下の侍たちは、遠江、駿河に代々居続けていた地元の侍が中心であり、揃いもそろって武闘派ぞろい。先の野戦では秀吉に勝ったとの意識も強い。一戦交えずして、関東への転属なんざ認められるか。まさに秀吉の思うままである。なのに、何故に転封を受け入れたのか。

しかし史書は教えてくれる。この天正9年は巨大台風により遠江から駿河まで高潮にやられて家康にもその家臣団にも秀吉と戦う余力がなかった。同時に関東大湿原を直に視察した家康は、暴れ川である利根川を東へ流せば、この地が豊饒な農作地になることを予見した。

ただし巨大な土木事業となった。家康から始まり完成したのは三代目の家光の時代である。しかし、その結果400万石近い増収となり、徳川幕府の財政を支える柱となった。

でもそれは結果論だ。なぜに家康は先祖代々の地から、見知らぬ関東へ移ったのか。それも都市として完成していた小田原や鎌倉ではなく、湿原地帯に浮かぶ江戸の地を本拠地にしたのか。

私見ではあるが、家康は郷里である駿河の地に限界を見出していたのだと思う。

この静岡から名古屋にかけての太平洋沿岸は、台風の直撃を受けやすく、過去幾度となく高潮の被害に遭っている。また今も昔も南海トラフから生じる地震のせいで建物崩壊や津波の被害も受けている。しかも富士山という火山の被害まであり得る。

駿河の地に留まっていては、天下統一を実現するのは難しい。さりとて京都も大阪も森林伐採により荒廃しており、首都を築くには問題が多い。その点、関東は洪水を引き起こす利根川の治水に成功すれば、建築用の建材は豊富であり、未開拓の湿原の干拓により農産物の収穫が大きく見込める。

実際、関東から東北にかけては、台風の被害が意外と少ないことが古文書から伺われる。ただ東北は地震がわりと多く、津波被害でも壮絶な歴史を持つ。日記好き、記録好きな日本人の習性は、家康に過去の災害記録から、未来への展望を与えてくれたのではないか。そんな気がするのです。

この本の著者は、過去の記録から災害の被害を最小限にすることを学ぶべきだと強く主張しています。一読の価値はあると思いましたね。
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プロレスってさ 輪島大士

2023-01-26 13:56:47 | スポーツ
プロレスラーの相撲へのコンプレックス解消の手段とされた哀しき横綱、それが輪島であった。

相撲取りは強い。あの異常な肉の分厚さと、ぶつかり稽古で鍛え上げた打たれ強さ、そして全体重を乗せての頭突きの恐ろしさ。私は幼少時、祖母に連れられて築地に買い物に行った帰り、両国の相撲部屋を見学したことがある。

土俵から10メートル以上離れているのに、力士のぶつかり合う時の頭蓋骨がぶつかる鈍い音に戦慄したものだ。世界には数多くの格闘技があるが、頭突きを公式試合で認めているものは少ない。あまりに危険だからだ。

私が子供の頃、特に小学生の時に強かった相撲取りといえば、北の湖であった。あの憎たらしいほどの強さは未だに忘れがたく記憶に残っている。その北の湖が「あいつは強い」と認めていたのがライバルの輪島であった。

よく黄金の左腕から繰り出す下手投げが有名だが、北の湖に言わせると右のおっつけが凄かったそうだ。常に冷静、酷薄に見える北の湖と異なり、熱く燃え上がる様な相撲をみせる輪島は角界屈指の人気力士であった。

この輪島の全盛期に、路上で喧嘩をふっかけようと待機していたのが、後の格闘王である若き日の前田明であった。しかし、いざ目前に輪島を見ると、その肉体の分厚さと迫力に気迫負けして、遂に喧嘩を仕掛けられなかったと前田本人が述べている。

身長では前田が上だが、筋肉の量が桁違いであり、むしろ喧嘩を避けた前田の経験値の凄さに私は驚く。それはともかく、角界を引退した後だが、輪島は賭け事や飲酒、借金とトラブル続きで、あまりの失態に角界を追放されている。

そこに目をつけたのがプロレス界だ。ジャイアント馬場は後継者たるジャンボ鶴田に物足りなさを感じていたらしく、この引退した横綱をスカウトした。実のところ、プロレス界には角界出身者が多い。

もっといえば、日本のプロレスのビジネスモデルが角界なのだから、当然と云えば当然である。ただ、なかなか人気プロレスラーは生まれなかった。年齢や怪我で引退した相撲取りは、そもそも身体が故障だらけ。

もちろん天龍源一郎のように若くして引退し、その後必死のトレーニングで身体をプロレス向きに作り替えた猛者もいる。ただ、この頃の天龍は知名度が低く、人気レスラーには程遠かった。

だから知名度だけは全国区であった輪島のプロレス・デビューには無関心でいられなかったのだろう。当初、馬場に云われて輪島のトレーニングに付き合った天龍だが、相当に複雑な心境であったようだ。

怪我で引退し、ろくに身体の管理もしないまま酒を暴飲し、借金を重ねて荒廃した生活を送っていた輪島は、なかなか真面目にプロレスに取り組もうとしなかった。厄介なことに、弱いレスラー相手なら、素で勝ててしまう程度には強い。

しかし、このままでは超一流のプロレスラーと試合をさせてもダメだと天龍には分かっていた。かつて憧れた先輩力士でもあった輪島のいい加減な態度に怒りを貯め込んだ天龍は、ついに実力行使に出た。

天龍と輪島の試合は酷かった。天龍は可愛がりだと言い訳したが、どうみても弱い者いじめであった。マットの上でのたうつ輪島を蹴り飛ばし、踏みつけ、リングの外へ蹴り出す。この試合の激しさは、観戦していた前田日明が動揺するほどのものであったとされる。なにせ輪島の胸に、蹴っ飛ばした天龍のリングシューズの紐の跡が残っているのだから凄まじい。

妙なことに、輪島を次代のスター選手にと期待していたはずの馬場も、それを冷淡に見過ごすだけ。もちろん鶴田は知らんぷり。むしろ外人レスラーのほうが輪島を気遣っていたように思えた。

そのうちに輪島もやる気をなくしたのか、いつのまにやらプロレス界から姿を消した。今だから分るが、相撲を引退して6年、30代後半でのプロレスデビューはいささか無理があったと思う。

実のところ、輪島は決してプロレスに手を抜いていた訳ではないと思う。ただ相撲取りの癖で、背中をマットに付けた相手を攻めることをしなかった。寝技が致命的にダメだったのは、やはり生粋の相撲取りであった意識が抜けなかったからであろう。

私自身は天龍の過度な可愛がりよりも、見捨てた馬場の冷淡さのほうが不快に感じました。当初はかなり期待していたように思えただけに、その後の冷たさが気になります。なにせ引退試合もセレモニーもありませんでしたから。

正直、あまり試合を作る巧さは感じられませんでしたが、足腰の強さと打たれ強さは印象的でした。別に確固たる証拠があるわけではないのですが、外人レスラーのほうが輪島の不器用さに上手に対応していた気がします。

なおプロレス引退後も、夜遊びが度が過ぎることは最後まで治らなかったらしい。晩年トンネルズのバラエティ番組に良く出演していて、好きなものを問われて「マグロの大トロと金髪のねえちゃん」だと言っちゃうヤンチャなおじいちゃんに笑ったものです。

でも北の湖との激しい優勝争いを覚えている私としては、いささか寂しく感じてしまいました。現役当時の横綱である輪島は、本当に強い相撲取りでした。ただプロレスラー輪島が、しょっぱいレスラーであったのも事実ですけどね。
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覇権国が倒れる時

2023-01-25 12:22:42 | 社会・政治・一般
人類と称する哺乳類の生息域は、オリエントと呼ばれる地域であった。

少なくとも17世紀まで、世界の中心といえばオリエントである。もちろんユーラシア大陸の東方にはシナ人の帝国があったが、あくまで東アジアであり、またインド亜大陸の文明も限定的な存在であった。

そのオリエントの最後の覇者がオスマン朝トルコであった。首都であるイスタンブールは中東、アフリカ、そしてヨーロッパの主要国の外交官が集い、スルタンと呼ばれた皇帝の宮殿で開催されるパーティに足繁く通い、情報収集に努めたという。

なぜならスルタンの意向次第で世界の動向が大きく変わるからだ。その意味でイスタンブールは世界の首都でもあった。

しかしユーラシア大陸の西端のブリテン島で生まれた産業革命が全てを変えた。オスマン朝の権威は地に落ち、辺境の蛮族に過ぎなかったヨーロッパの国々が帝国主義の名のもとに世界を再分割し、近代と呼ばれる時代が幕を開ける。

だが欧州の勃興だけがオスマン帝国を滅ぼした訳ではない。巨大な帝国の衰退は内部から始まっていた。それが一部の特権階級による富の独占と、帝国を支えてきた中産階級の衰退である。

歴史的センスのある方ならば、これをローマ帝国と同じだと分るはずだ。似たような事例は東の中華帝国でも見られる。帝国の支配が強くなればなるほど、内部で富の独占が進行し、中核たる臣民が没落して内部が崩壊する。

オスマン帝国から権威を奪い取った西欧だが、やはり歴史は繰り返すらしい。

欧州(EU)でもアメリカでも一部の超富裕階級が、富の独占を繰り返し、内部に社会的な矛盾と軋轢が生じつつある。EUでもアメリカでも全体の5%に満たない超富裕階級が法律や制度を都合よく捻じ曲げて富を合法的に奪い取る。

そのせいで、夫婦共稼ぎでも暮らしに余裕が出来ず、納税をしない裏稼業で日々の暮らしを賄う人が増加する。当然に社会に対する不満分子であり、正義と公正さが失われた社会に絶望して、反社会的行為に賛同を示すようになる。

その結果、たいしたことのないトラブルが火付け役となり暴動が発生する。窃盗や強盗が日常化し、治安が悪化してしまう。すると超富裕層は国内の平穏を維持するため強権的な治安機構に依存するが、これは根幹的な対策にはならず、むしろ社会全体の不満は蓄積し、爆発するのを待つばかり。

そうなると、国内の不満を解消するのではなく、国外に怒りを向けるように仕向けるのはいつの時代、どの政府でも同じらしい。

今も続くロシアのウクライナ侵攻などは、ずるずると長く続いているが、ロシアも西側も本気で終結させる様子がない。ロシアは国内の不満分子を徴兵して戦場に送り込んでいるし、EUやアメリカは支援と称してウクライナの戦いを長引かせる。

その戦場の映像を利用して、軍事予算の増額を図るアジアの国も出る始末である。幸い古い兵器を援助と称してウクライナの戦場に送り、新兵器を更新する絶好の機会でもある。そのための財源は増税とインフレが手助けしてくれる。

今はまだ核兵器大国であるアメリカとロシアが均衡状態を保っているが、もしロシアがウクライナ処理を間違えるとユーラシア大陸に戦乱の嵐が吹き荒れる可能性は極めて高い。中心的権威の没落は、地方の不満分子を活性化、すなわち中央アジアで戦乱が発生する可能性が高まる。

同時に覇権国アメリカは国内での富の不均衡を維持するため、外交(戦争)で国内の不満を逸らす手段をとる可能性が高まっている。別に戦争で勝てなくても良い。ただ国内の不満をそらすことが目的なのだから、無理に勝つ必要はない。

幸い21世紀の世界には戦争の種が沢山ある。民族問題であり、経済格差の問題であり、そして水や食料の偏在、化石燃料の枯渇問題とより取り見取り。

その意味で、岸田内閣の増税、軍事支出増大は方向としては正しい。問題はその中身が頓珍漢なことだろう。まァそれも分からぬ軍事音痴の平和バカが多数派なので自業自得ですけどね。
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