雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

住めば都

2008-04-22 08:28:40 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
住めば都とは上手いこと言っているものだ。
昔の人の知恵である。

75年間、生きてきた。
住んだところは子供の頃から、記憶にある。

今の韓国、昔朝鮮の
太田市 川が流れていて魚が獲れた。隣の兄ちゃんが優しかった。

京城府 
小学校時代を過ごした。子どもの頃の思い出の殆どが京城、今のソウル。いい町であった。冬は寒かった。

明石市 
生まれ故郷である。終戦後引き上げてきて、中学から大学まで、そして会社に入ってからも、新婚時代もずっと暮らした。
須磨、明石と並び称された景観も、城下町明石の風情もまだあった。
野球の名門明石とも一緒に過ごした。

仙台市
初めての転勤で仙台に住んだ。東北6県の人情がよかった。子供たちはまだ幼稚園であった。生活もそんなに楽ではなかったが周囲の自然がいっぱいであった。
田んぼで泥鰌がいっぱい取れた。
東北の中心、結構都会でもあった。

高槻市
大阪に転勤して、高槻に住んだ。毎日大阪まで車で通勤した。そんなに渋滞はなくスムースに走れた。大阪万博のあった年である。
直ぐよこの芥川で魚が取れて長男は大喜びであった。休みには淀川にもよく釣りに出かけた。2年ほどの短期間であった。

三木市
家を建てて三木市に移った。大阪から勤務地は明石に変わった。
ひょっとしたら、会社が気を使ってくれたのかも知れないと思っている。
それから35年、今では一番永く住んでいる。
本籍は明石だが、子供たちにとっては三木が故郷である。

札幌市
2年ほど、サラリーマンの最後を札幌で過ごした。北海道の各地に15も支店があってそこに行くだけでも北海道巡りみたいなものであった。札幌も良かったし北海道の自然は素晴らしかった。
子どもの頃過ごした朝鮮と同じ『外地』のよさが今も残っていると思った。

神戸市
住んだことはないが、中学校と大学が神戸で明石から通学した。特に中学校は旧制の最後の学年で思い出も多い。通学は大変であった。電車の窓は初めのころはガラスではなく板であった。灘駅から『地獄坂』と言われた急坂を毎日徒歩で歩いた。
神戸は坂のあるまちである。大学も坂道であった。


みんな住めば都である。
今、幾らか市政などにも関心を持つようになったが、72年間市政などには無関心であった。
みんなそれが普通かも知れない。『住めば都である』

私が住んだところがたまたま良かったのか。
住み難いところも、どこかにあるのだろうか。
ふと、そんなことを思う昨今である。
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7万台への挑戦、89年前半

2008-04-22 05:20:33 | 7万台の挑戦の時代
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目標だけは大きく掲げ、いろんな基本対策や将来の準備に忙しかったが、
89年前半は大した実績の伸びは見られなかった。

この時期、直入のサーキットを着工した。
約1年の順備期間を経て、2月に本社の決済も通り、4月14日に起工式をやっている。
カワサキにとっては規模は小さいが、一般のライダーを視野に入れた日本でも初めてのコンセプトのサーキット建設であった。

兵庫県では中町にセントラルサーキットの認可が下りて平井さんが担当、関東にも幾つもの候補が上がっている。
益子町やいわき市などであった。
サーキット建設はこの頃から経験したが、みんないろんな思惑があって、なかなか一筋縄ではいかない。
認可も難しいことが解ってきた時期である。

話は幾らでも沸いてきた。


88年10月、レースOB会で盛り上がったレースは、
ルマン24H耐久で、カワサキは優勝こそ逃がしたが、フランスチームが2位、日本から参加した宗和、多田、塚本組が3位に入る健闘を見せた。

レースに力を入れると宣言してのスタートを幸先よく飾った実績であった。
4月24日のことである。



事業部のほうもいろいろと多事多難ではあったが、以前のような危機的状況は脱して一段落であった。
上のほうの人事も微妙な時期で、田崎さんにニューヨーク事務所の話があり6月に事業部を離れたりしている。

4月末にZEPHYRが発表されたが、当初はそんなに期待もしていなかったのに順調に数を伸ばした。
5月になってやっと前年対比を上回ったのである。
5月末実績M/C 41398、J/S 3940、合計45338台。
まだまだ、7万台には程遠い数字であった。



4月1日にケイスポーツシステムと言う新会社を設立して、レーススポーツ対策、ユーザー対策を開始した。
特ににKAZE対策は、各営業所に担当者を設置して積極的に対応した。
1月にJCBと提携して新会員証としたのだが、JCBはひどく乗り気で常務さんが対応してくれたりしていたのだが、5月になると副社長さんが出てきて赤坂で食事をご馳走になったりした。

その頃はまだ気づかなかったが、若い層、それもバイクやジェットスキーに興味のある層、カードを初めて作るる人が多いなど。
JCBにとっては我々が思う以上に魅力があったのである。

こんなJCBの対応はその後もずっと続いて、
我々も努力して、2000人の会員からKAZE会員5万人になった頃には、
KMJの社員カードを全てゴールドで対応してくれたりしたのである。

こんな89年前半を過ぎて後半は、ゼファー、ジェットスキーの快調で一気に台数も上がっていくのである。
7万台の準備期間としては順調であったと言えるだろう。
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