さうぽんの拳闘見物日記

ボクシング生観戦、テレビ観戦、ビデオ鑑賞
その他つれづれなる(そんなたいそうなもんかえ)
拳闘見聞の日々。

石田順裕、ベガスで勝利

2011-04-10 13:48:22 | 海外ボクシング
石田順裕、ラスベガスでGBP期待のジェームス・カークランドを初回、
三度倒してKO勝ちの快挙です。動画はこちら

長谷川敗戦で落ち込んでいた気分が少し晴れました。
日本のボクサーで、しかもこのクラスでの勝利は本当に驚きです。
得意の逆ワンツーが、見事に繰り返し決まっていますね。

日本のボクサーのレベルも、こうして見るとなかなかのところまで来ているのですね。
ことに石田は、高校生の頃から、当時見た人いわく
「素晴らしい素質。輝いていた。日本のボクシングの歴史を変える逸材だと思った」
というくらいで、ブランクを経てプロに入り、「序盤だけなら世界」と言われた時期を経て、
ベテランの域に入ってから開花した、というこれまでのキャリアから持つ印象とは違う逸材だったわけ、ですが。

しかし、日本のボクシング界には、国内に留まっていては見えてこない、
発揮されないかもしれない素質の持ち主が、他にもたくさんいるようにも思えます。
石田にしてからが、暫定ながら世界王座を手にしたものの、不遇のまま王座を失い、
所属ジムとの関係が悪化したのちに、やっと米大陸での試合が実現したわけで、
いわんや大手ジム及び関連ジムのメインイベンターともなると、なかなかこういう試合を
闘う機会は巡ってこないのでしょう。
こういうところにも、ボクサーの才能を生かし切れない日本の業界の歪みが見えてきますね。

ともあれ、石田順裕、お見事でした。
最初、英文をぱっと見たとき「ああ、石田、初回でやられてしもうたんか...」と思った私の
愚かな先入観を、今はひたすら恥じております(^^)


で、動画もうひとつ。
せやねん、長谷川敗北翌日の様子です。
しばし時間を置いたあと、番組中でも言われているとおり、どんな形でもいいので、
一度じっくり、長谷川の声を、率直な心境を、聞きたいものですね。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内容も結果も厳しい敗戦

2011-04-09 09:08:04 | 長谷川穂積
遅くになってようやく録画を見て、昨夜は寝てしまいました。
二年連続で、米大陸でも名の知れたトップボクサー相手に挑み、結果として共に敗れた。
それが昨夜、長谷川穂積に突きつけられた現実です。

以前から、バンタム級王座在位の後半に見られた攻撃能力の向上と共に、
彼特有の防御勘が目につく頻度が減り、積極思考が勝ちすぎるきらいについて触れてはいましたが、
こうして厳しい現実を目の当たりにして、私もしばし言葉を失いました。

序盤、ジョニー・ゴンサレスが再三左フックを狙っているのがはっきりしていて、
それをヘッドスリップで外しながら何発かは食っていた長谷川を見て、
「彼はオーソドックスの右はほとんど食わない。大抵外せる。問題はあの左かな」と
つぶやいていた4Rに、いきなりの右一発。試合はそれで終わりました。

KOパンチとなったゴンサレスの右は、拳を下に一瞬下げるフェイントを入れたあと、
下からすくうような軌道で長谷川のガードの下を通った、ちょっと変なパンチでした。
あれを食ってしまった長谷川を、防御技術の面で批判することは出来ないと見ます。

昨年のフェルナンド・モンティエル戦で、右肩の上から左フックを打たれたことは、
結果として彼の防御技術の欠陥と言われても仕方ないものでした。今回のはそれとはちょっと違います。
ただし、長谷川穂積が昨年秋のファン・カルロス・ブルゴス戦で苦しんだ、フェザー級への適応、
このクラスにおいて攻撃と防御のバランスをどう取って闘うか、というテーマを考えると、
個々の防御技術云々ではなく、全体像に対する批評は、厳しくなされるべき、でしょう。

実際、ジャッジ三者が共に長谷川リードという採点をしていたのが不思議なほど、
試合自体は序盤からゴンサレスの攻勢に見えました。会場で見ると違った印象があったかも知れませんが、
TVで見る限り、より正確に、強いヒットを重ねていたのはゴンサレスの方でした。

長谷川は自分を体格で上回り、懐の深い強打者に対し、序盤から左ストレートのボディ打ちで仕掛け、
相手の反撃にもパンチを合わせるという、バンタム級時代後半の闘い方で立ち上がりました。
まるで世界初挑戦の若いボクサーででもあるかのように、最初から自分の武器を全部さらけ出して闘う姿に、
立ち上がり早々から奇異な印象すら持ちました。

対するゴンサレスは、西岡戦やそれ以前の試合とは違って、せわしなく手応えを欲しがるような印象がなく、
ゆったり構えてしなやかに動き、じっくりを長谷川を見つめている様子でした。
両者の様子を見ると、長谷川の苦戦は免れ得ない、と、正直にそう思いました。

名匠ナチョ・ベリスタインは、長谷川の動きが止まる瞬間を狙え、という指示を出していたそうです。
この極めて有用かつ端的な指示が、この後がない闘いに臨むゴンサレスの落ち着きを支えていたのでしょう。

かつて柴田国明さんが「ボクシングというのは、お互いに動いていて、どこかで必ず止まる瞬間がある。
そこをいかに打つか、なんですね」と端的に語っていたことがあります。
ボクシングにおいては、深い内容を、少ない言葉数で、端的に伝える指示ほど、ボクサーを落ち着かせ、
勇気づけ、強くするものです。結果としてKOシーンがその言葉通りになったから言うのではなく、
この試合における両者の佇まい、勝敗までの過程を見て、どちらがより理にかなった闘い方、
相手と自分を比較してより適切な闘い方をしていたかは明らかでした。

あの変な軌道の、けっしてゴンサレスのパワーがすべてかけられたようには見えなかったパンチ一発で、
試合続行を許可されないほどのダメージを負ってしまった事自体は、長谷川の不運と言えば言えます。
しかしそこに至る過程に潜む根本的な問題を、本人及び陣営が、厳しく見て反省しないことには、
もし再起するとしても、ただでさえ険しい道のりとなるこの先が、さらに厳しいものになる、と思います。

バンタム級時代の後半なら、ギリギリの減量で絞った身体の切れと、118ポンドの大抵の世界ランカーを
一撃で倒せるパワーが、きわどいながらもバランスを取っていましたが、本人も言うように、
「まだ自分の身体はフェザー級ではない」段階で、大きなアドバンテージを持って闘っていたバンタム級時代と同じ、
或いはそれ以上に攻撃的に、正面から切り込んで行く昨夜の闘い方は、いかなる理由でそうなったのか以前に、
見ていて奇異にすら思いましたし、厳しく言えば長谷川及び陣営の停滞を強く感じました。
正直、再起を期待すべきかどうか、ということにさえ、確信を持てずにいます。


厳しい言葉を連ねていますが、彼がここまで積み上げてきた実績を否定するつもりはありません。
ただ、ボクサーとはその全キャリアを終えないと、最終的な評価を下せないものです。
彼が日本の上位に進出してから今年で10年目、その心身に疲弊があることも事実でしょう。
近しい人からは「限界を見た」という言葉も洩れ伝わってきたりもします。
我々が思う、いつもしなやかて強くて、才能に満ちあふれた長谷川穂積の姿が永遠ではないことも、
当然わかっていたはずです。

しかしリングの外から、優れたボクサーに魅せられている私たちは、その限りあるとわかっている輝きが、
現実に失せ始めたとき、いつもいつも、同じように狼狽し、感情を揺さぶられるものです。

ボクシングを見るということは、結局はその繰り返しなのかもしれません。
そして昨夜も、私は長谷川穂積の闘いを通じて、険しく厳しく、残酷で、故に極めて美しい「ボクシング」を
これまでと同じように、見せてもらっていたのだ、と思います。


勝利と敗北について、何か偉そうに語っていますが、最後に反対側のコーナーについて。

震災と原発事故、及びその対応の拙さで、諸外国に様々な不安を与えている渦中の国、日本に、
敢えて来日して、被災者にもメッセージを送った挑戦者、ジョニー・ゴンサレスは、
勝利の後に、にじみ出てくる涙を隠すことが出来ずにいました。
地元の大観衆の前で西岡利晃に喫した、辛い辛い敗北の後、彼が乗り越えてきた道のりは、
我々の想像を越える苦難だったことでしょう。
そして彼はまた、かつて失った栄光を手にしたわけです。

彼に大きな拍手を送りたいと思います。かつてメキシコの大観衆が、地元の選手を見事に倒して歓喜した
日本から来たチャンピオン、西岡利晃に送った盛大な拍手の返礼として。



コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拳に想いを込めて

2011-04-03 09:55:29 | 長谷川穂積
一週間前の「せやねん」長谷川から被災地の方々へのメッセージです。

前記事のコメントにも少し書きましたが、長谷川穂積、西岡利晃、粟生隆寛という、
日本のトップボクサーが三人も一度に見られるこのビッグマッチが、
震災復興を期す被災地に向けたボクシング界からの最大のメッセージになることは間違いありません。


ボクシングとは、さまざまな国から、街から生まれ、それぞれの社会が育んだボクサーたちが、
それぞれの生き様によって固めたふたつの拳によって闘われるものです。

その闘いは時に残酷で、無情で、凄絶なものです。
勝利を目指すふたつの意志が、譲り合うことなく激突し、相手の強さを削り、己の強さを誇示しようとします。

しかしその無情なはずの闘いが、時に類い希なる芸術を披露する場となり、
時に企まざる劇的な場面を創出します。
そしてそれを見る者の心に、単に感動というだけでは足りない何かを残します。


ジョー・フレイジャーがかつて言ったように、ボクシングは「貧乏人も金持ちも」関係なく、
「ちょうど、愛と同じように」人々に勇気を与え、感動させてきたものです。
この社会の中で、単にスポーツと呼ぶにはあまりにも直裁に「闘い、争う」姿を剥き出しにした
ボクシングというものが、未だ当然の如く存在し、存続している理由は、人々がボクシングに対して
抱き続けている数々の記憶が、そのようにあるからこそ、なのだと思います。

今回の三試合が、そのようなスペクタクルな展開と結末をもって、いかにもという感動を
多くに与えるものになるかどうかはわかりません。
しかし、今回の三試合は、そのように紡がれてきたボクシングの記憶に繋がりうる可能性を秘めた、
真に誇りうる試合となるカードだと思います。


そして、16年前の震災で打ちひしがれた神戸の街から生まれた初の世界チャンピオン、長谷川穂積は、
メインイベンターとして、この運命のリングに立ちます。
幾たびかの挫折を味わい、過酷な試練を乗り越えてきた長谷川もまた、その生き様で固めた拳に
想いを込めて闘うことでしょう。

今、このような思いを書いたとて、それが妥当なこととは言い切れない現状があることを知った上で、
それでも、今だからこそ、彼の闘う姿を少しでも多くの人に見てもらいたい、と強く思っています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする