ゲームの達人さんについて!!
達人さんの言わんとするところ.....
詳細にブログを読んだので、達人さんの言わんとするところを、我流で解釈してみたい。
やっぱり、小石牧師と絶縁するのは本当らしい。何故か? 経緯について、細かいところは承知していないが、簡単に言うと路線対立だろう。これはしょうがない。方や信仰者、方やプラグマティスト。牧師と軍人である。別な表現をすれば、高野山僧侶と比叡山の僧兵である。
こんな言い方をすると、こっぴどく叱られるかも知れないが、出家僧と出家をやめた侍の違いであって、やむを得ない。三島由紀夫に傾倒する氏の思いはよく解るし、また、牧師の託身の精神も理解できる。託身なくして信仰は成立しない。
私自身はどうかというと、達人さんに傾倒するが、託身の凄さを捨てきれない。でも、出来得ない自分を認識しているので、信仰者たり得る事がない。
同時に、宗教の起源と、その陰謀性について大いに共感を持つが、覚者の存在、メシアの実在についても信を持つ。但し、盲信(妄信)と狂信を拒否する。宗教の起源は、むしろ、覚者・メシアによって成立し、覚者・メシアが昇天して後、信者に巣くうサタンとその眷族によりねじ曲げられ、支配と隷従に都合が良いように陰謀術策を用いて改変されたと考える。
聖書には、数多くの改変がある。マリア信仰などその典型であるし、処女生誕などは、誠に怪しい。が、さりとてイエスが覚者であったとの否定には繋がらないし、ゴーダマが仏陀として悟りを得たことの否定には繋がらない。要は、その悟りの高低、深浅(真賎?)である。イエスにおいては、垂訓の透明度である。律法は強制、隷従を促しているモノではない。指針を示すモノである。故に律法に殉ずる者は、奴隷というわけではない。自由意思の選択である。
真の宗教には、自由がなくてはならない。その自由ということは、放縦の自由ではなく、心性の自由である。心性は神性に繋がる。言い換えれば、自我の自由ではなく、真我(アートマ(ン))の自由でなくてはならない。善我(良心)の自由であっても悪くはないが、宗教とはその次元を異にするように思う。
人間に共通するモノは、真我(内在する神性)であり、善我(良心)である。自我は千差万別、百人いれば百様、まさしく唯我独尊の世界であって、まとまる道理がない。しかし、世界はそれを許しているからこそ、百花繚乱の相を呈しているのである。個性は独尊なのであって、それは与えられたモノである。守られたモノである。
問題は、その個性に放縦の自由を主張する者、もしくは、心性の自由をすり替えて、それを扇動する者、そして、それを餌に支配を試みる者である。これがサタンであり、悪党である。
しかし、それらの者も同じ力により、生かされている存在である。
達人さんは、聡明で、人情に篤く、義侠心に富んでいる。しかも勇気がある。大好きである。多くの教示を願いたい。だから、心配である。何時までも颯爽とブログで登場されることを願っている。