乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

2024-05-15 | ことのは

 法然 3  長浄土宗の開宗 

 

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 そういわれれば、苦しい生活を強いられている民衆ならば、人によっては飛びつかれるのは、世の常、、、

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 

長浄土宗の開宗  (ウィキペディア)

 長浄土宗の開宗

 承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験。

 専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。

 そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。

 すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。

 これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 法然はこの地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。

 法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)

 しかし、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。

 この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。

 

 法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

   養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

  文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。

 そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。

 これを「大原問答」と呼んでいる。

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。  

 

 建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。

 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。

 叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

 建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。  

 

 元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。

 

 絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

 法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。

 これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。  

 

 延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 詳細は「承元の法難」を参照 元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。

 しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。

 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

  法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。

 なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

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奈良 法華寺   光月亭や湯屋の写真あり   (14景)

2024-05-14 | 神社仏閣・祭り

奈良 法華寺  (14景)

 

 先日は花の法華寺を記録させていただきました^^

 今回は寺や光月亭や湯屋の記録です。

 一部重複しておりますが、ご了承ください。

 

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法然 2  生い立ちと出家・授戒

2024-05-14 | ことのは

 法然 2  生い立ちと出家・授戒

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

 

生い立ちと出家・授戒 (ウィキペディア)

 長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。

 生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。  

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。

 その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。  

 

 その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。

 源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。

 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。

「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。

 したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。

 

 法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。

 そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。

  これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。

 

 その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。

 また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている

 

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法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

2024-05-14 | ことのは

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

 

『法然上人絵伝 上』(日本絵巻物大系)と『別冊 太陽』(178)を楽しみ始めた。

 ただいま東京国立博物館では『法然展』を展開されている。その後秋には、京都国立博物館に『法然展』がやってくる。

 美術などを詳しく展開されていらっしゃるブロガーさんに、『法然上人絵伝』は一期で四軸も公開されるとのことを教えていただいた。ありがとうございます。

 

 そういえば、三月、芝居を見た日に知恩院に行ったときに、【法然800年(要約)】と書かれていたのを思い出す。

 知恩院といえば幼いころ、お正月には毎年のように父に連れてもいらったことを思い出す。

 いわば思い出の寺の一つである。

 

 京都国立博物館の『法然展』をしっかりと見たいので、今から予習しておくことにした。

 まずは安直に、ウィキペディで記録したい。

 

法然について  ウィキペディア(Wikipedについて

 法然房源空 長承2年4月7日 - 建暦2年1月25日(宣明暦)(1133年5月13日 - 1212年2月29日〈ユリウス暦〉)

 

 幼名 勢至丸 号

(房号)法然

(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師

 

諱 源空 諡号 慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・ 天下上人無極道心者・光照大士

尊称 元祖法然上人

生地 美作国(現・岡山県)

没地 洛東大谷(現在の知恩院付近)

宗旨 浄土宗 寺院 法然自身は寺院を建立せず。

 

 師 源光・叡空

弟子 弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、 幸西、信空、隆寛、長西、湛空 など。

 

著作 『選択本願念仏集』、 「一枚起請文」、他。

 

廟 知恩院、金戒光明寺、法然寺、 粟生光明寺など。

 

法然上人絵伝

 

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

 

 はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。

 法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。  

 諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。  

 

 大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。  

 

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

 

  浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。  浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。

 

 親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

房号(坊号、房号)

 ①院中の坊につける名前。〔日葡辞書(1603‐04)〕

 ② 得度後、実名と別につけた僧名。何々坊と称するもの。鎌倉期以後盛んに行なわれるようになった。

※円照上人行状(1302)上「東大寺戒壇院住持上人、諱円照、房号実相」

 
諡号(し‐ごう)とは
 
 貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名。
 
 [類語]戒名・法名・諱・贈り名・追号・霊位
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奈良 法華寺の花   2024.05.初旬 5月はカキツバタやシャクヤク、ほか、多くの花が咲いていた。(21景)

2024-05-13 | 神社仏閣・祭り

奈良 法華寺の花   2024.05.初旬 5月はカキツバタやシャクヤク、ほか、多くの花が咲いていた。(21景)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良 法華寺

 境内の西にある「国史跡名勝庭園」は江戸時代初期に作庭された回遊式庭園です。広さは約500坪で、京都仙洞御所(せんとうごしょ)の庭園から石や庭木などが移されたと伝えます。5月には杜若が咲き誇り見頃を迎えます。

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奈良の鹿は場所によって表情が違う。ここは、東大寺。

2024-05-13 | お出かけ

奈良の鹿は場所によって表情が違う。ここは、東大寺。

 

 

 奈良の鹿は場所によって表情が違う。

 ドングリを食べる鹿。

 桜の花びらを食べる鹿。

 気の幹を食べる鹿。

 歯科せんべいをもらう鹿。

 そして、この日は草を食んでいた。

 ここは、東大寺。

 

  2024.05.上旬

 

 

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国宝 興福寺五重塔  2024年4月から始まった五重塔の修復は着実に少しづつ進んでいる。5/11(10景)

2024-05-12 | 神社仏閣・祭り

国宝 興福寺五重塔  2024年4月から始まった五重塔の修復は着実に少しづつ進んでいる。5/11(10景)

 

 工事が始まるまでが難航していた興福寺五重塔の修復が4月から始まり、5月11日現在、その工事は着実に進みつつある。

 完成は8年後の2030年。

 いったん五重塔が囲いで覆われると、長い年月この五重塔は見ることができない。

 

 興福寺の五重塔は国宝で、日本で二番目に高い塔だといわれている。

 人力車の案内人の方が大声で旅行者に言う、

案内人「二番目なんですよ。一番はどこだと思います?」

観光客「京都」

案内人「そうなんですよ、東寺なんですよ。嫌でしょう。悔しいでしょう、、、」

観光客「、、、、」

案内人「お客さんは◎◎から来られたので、いってもいいかとおもって、、、」

観光客「、、、、(苦笑)」

 そういった案内者がおられた(爆笑)

 周りには京都からの観光客や京都出身者もいるであろうにと、今一度 人力車(案内人)をみてしまった、、、

国宝 興福寺五重塔について

奈良県公式HP(国宝 興福寺五重塔/奈良県公式ホームページ (pref.nara.jp)

                  ↓

 興福寺は、『宝字記』によると、天智8年(669)に藤原鎌足の夫人であった鏡女王が、夫の病気の回復を祈願するために、堂舎の建立を夫に再三願い出て許しを得て建立を果たしたとされております。

 山科にあったので「山階(やましな)寺」と呼ばれておりましたが、この寺がのちに近江から飛鳥に遷都され、さらに平城遷都に際して再度平城京に移建されて興福寺と改称されたと伝えられております。

 五重塔の創建は天平2年(730)光明皇后の発願によるものとされ、創建以来、度々雷や兵火、類焼による火災に見舞われ、5度の罹災と再建を経ております。応永33年(1426)のものが現在の建物となっております。塔の高さは、50.937mで、奈良県内で1番高い建物です。

 修理は奈良県が興福寺より受託し、文化財保存事務所興福寺出張所が直営にて調査と工事を実施します。

 

 

『宝字記』(天平宝字  てんぴょうほうじ)とは (ウィキペディア)

 天平宝字てんぴょうほうじ旧字体天平󠄁寶字)は、日本元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。

 この時代の天皇は孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇(孝謙天皇重祚)。

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興福寺 本坊(平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ建物)  (7景)

2024-05-11 | 神社仏閣・祭り

 

 興福寺 本坊(平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ建物)  (7景)

 

 興福寺の本坊に行く。

 庭は丹念に整理され、植物は形良く刈られ、シランが咲いていた。

    興福寺公式HP

                 ↓

 平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ建物

 興福寺の寺務を執り行う場所です。

 表門は天正年間(1573~1592)に建立された正面4.5m、側面2.6m、本瓦葺の四脚門(しきゃくもん)。明治40年(1907)に菩提院(ぼだいいん)の北側築地の西方に構えられていた門を移築しました。
 南客殿は同じ頃に増築された正面16.7m、側面10.0m、桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物。北客殿は嘉永7年(1854)に再建された正面20.0m、側面11.0m、桟瓦葺の建物で、平安時代頃から僧侶が生活し、学問に励んだ東室(ひがしむろ)と呼ばれる東西に長い僧房(そうぼう)の伝統を受け継いでいます。

 また本坊北西には明治時代に建てられた大圓堂(だいえんどう)と呼ばれる持仏堂(じぶつどう)【正面7.0m(桁行3間)、側面6.0m(梁行3間)、桟瓦葺】があり、堂内には聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像を安置しています。

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お土産は、タイ王国のお菓子

2024-05-11 | 外メシ、うまし。家メシ、うまし。昼弁当は、尚も良し。

 

  お土産は、タイ王国のお菓子

 

 

 タイのお土産に、お菓子をいただいた。

 いろいろなお菓子や缶詰のタイカレー。

 たのしませて少しづつ頂いているが、中でも変わったものは、マンゴーにチリペッパーが加わった塊が練りこまれたチョコレート。

 普通のチョコと思い食べたら、びっくり@@;;

    辛い!

    おいしい!

    辛い!

    おいしい!

    辛い!

と、ハフハフ言いながら食べたチョコは、日本のチョコとはまた違ったおいしさだった。

 

 おいしいめずらしいお土産をありがとう!でございまする^^

 

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東大寺 東とうアト(古地図の表記)の周辺を歩く。

2024-05-11 | 神社仏閣・祭り

 

東大寺 東とうアト(古地図の表記)の周辺を歩く

 

 

 先日、東大寺東の五重塔跡の復元は、68m.に落ち着いたと記録した。

東大寺東塔の大きさは諸説あるが、復元案は68mに落ち着いた。

 

 

 今回は東大寺の法華堂の途中に、東とうアト(古地図の表記)を楽しむ。

 復元のために木々を伐採し、整備されていた

 

 

東塔跡は、写真の左

鳥居の向こうには、東大寺大仏殿

写真の右が、東塔跡

まっすぐ歩いて左に曲がると、修二会で有名な二月堂や法華寺

 

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奈良国立博物館庭園  2024.05.10

2024-05-11 | お出かけ

 

   奈良国立博物館庭園  2024.05.10

  

 天気が良かったので、奈良国立博物館庭園を見る。

 ここに、茶室“八窓庵” がある。

 写真でかすかにかやぶきの屋根が見えるのが、その八窓庵。

 

 ライトアップされた奈良国立博物館庭園を見るのも良いが、間昼の庭園も気持ちが良い。

 四月だというのに前日が冬日、その前は雨が降っていたせいか、新緑の木々の葉が心地よさそうに笑っていた^^

 

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東大寺の法華堂と大仏殿の仏像と、国立博物館『空海展』の資料を見てきた。

2024-05-10 | 美術・文様・展示物

 

 東大寺の法華堂と大仏殿の仏像と、国立博物館『空海展』の資料を見てきた。

 上の写真は、貫之さま

 

 今日は頑張って、東大寺の法華堂と大仏殿の仏像と、国立博物館『空海展』の資料を見てきた。

 東大寺の法華堂の四天王と、昨日訪れた東大寺の戒壇院の四天王を思い出して比較すると、多くの点が異なったり、共通したりで面白かった。

 また、本日は三度目の訪れとなる『空海展』で、空海の書いたとされる資料を中心に楽しんできた。

 今日も良い時間を過ごすことができたと喜んでいる。

 

 最近、仏像を見る機会が増えている。

 週に何度かはどこかをお参りしたり訪れては仏像を見ている。

 なにかしら心が落ち着き、穏やかな気持ちになれる瞬間を感じる。

 なんでしょう、この感覚は。

 私も、ずいぶん遠くへ来たもんだ、、、

 

 カラー写真は、北野天神縁起絵巻

 

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東大寺 戒壇院 戒壇堂  広目天 増長天 持国天 多聞天

2024-05-09 | 美術・文様・展示物

 

 東大寺 戒壇院 戒壇堂  広目天 増長天 持国天 多聞天

 

 四天王は四方を守る護法神として、わが国では飛鳥時代から信仰があり、戒壇堂の壇上四隅に立つ四天王像は、それが最高潮に達した天平時代の傑作としてよく知られている。(東大寺公式HP)

 

 

 東大寺 戒壇院 戒壇堂の四天王を見る。

 広目天 増長天 持国天 多聞天すべてが形良く顔良く姿良く、、、

 千両役者の花道の見得のようだった。

 素敵!

 消して階段が長いので、戒壇院というわけではありません^^

 悪しからず、、、

   東大寺公式HP

      ↓

 唐僧鑑真和上が天平勝宝6年(754)に来朝して、わが国に初めて正しい戒律を伝えた。

 その折、聖武太上天皇や孝謙天皇が受戒された大仏殿前の土壇をこの地に遷して戒壇堂を築き、伽藍を造営したのが戒壇院の起こりで、やがてここから多くの僧が巣立っていった。その後、治承4年(1180)の兵火で全焼、重源上人・西迎上人が復興した鎌倉時代の戒壇院も文安3年(1446)に炎上し、現在は江戸時代に再建された千手堂・戒壇堂(県指定重要文化財)・庫裏(くり)を残すのみである。

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ドラマ『ブラックスキャンダル』3.9★/5 監督 長沼誠 脚本 佐藤友治   山口紗弥加 安藤政信

2024-05-09 | ドラマ

 

 ドラマ『ブラックスキャンダル』3.9★/5 監督 長沼誠 脚本 佐藤友治   山口紗弥加 安藤政信

 ドラマ『ブラックスキャンダル』を見る。

 概ね興味深く楽しんだ。

 

  山口沙也加の迫真の演技は良かった。

 特に9話と10話、ここでも山口の表情や声色は良かった。

 

 終始一貫して鶴太郎の堅いコードの側をそいで導線がむき出しになったような張り詰めたもの思わせな表情が気にかかった。

 こういったのを臭い芝居というのであろうか、、、

 鶴太郎の遺言の書を書く場面があったが、いかにせん、書がうますぎた。

 文字はゆがめられてはいたが、反省し落胆し、これから自害して償う直前に書く書道のうまさではないと感じた。

 字がうますぎて話しが反れた感が否めない。

 

(2018年製作のドラマ)

あらすじ

 嘘の不倫スキャンダルのせいで地獄に落ちた人気女優・藤崎紗羅。

 その5年後、紗羅は顔を変え、芸能マネージャー・矢神亜梨沙(山口紗弥加)として業界に潜り込み、自分を陥れた人間へ復讐を果たそうとしていく物語。  

 

監督 長沼誠

脚本 佐藤友治

主題歌/挿入歌 ゲスの極み乙女。

出演者 山口紗弥加 安藤政信 松井玲 片岡鶴太郎 片桐仁 平岩紙

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興福寺 北円堂の最終公開日に北円堂と国宝館に行き阿弥陀如来、無著菩、世菩薩を見る。

2024-05-07 | 神社仏閣・祭り

 

 興福寺 北円堂の最終公開日に北円堂と国宝館に行き阿弥陀如来、無著菩、世菩薩を見る。

 

 

 

 北円堂の無著菩、世菩薩を特に見たかったので、最終日にもう一度興福寺の北円堂に行く。

 また、国宝館に行き、阿弥陀如来半跏像と逗子、資料や系図を中心に丹念に見る。

 阿弥陀如来半跏像のお逗子の扉には、無著菩、世菩薩が描かれ、また、系図にも無著菩、世菩薩の名を認めた。

 これまで知らなかった無著菩、世菩薩が何か身近なものに感じ、心がときめいた。

 

2024年 興福寺 北円堂特別開扉 木造 無著・世親立像(むじゃく・せしんりゅうぞう)について   4月20日(土)~5月6日(月・祝)まで(会期中無休)

興福寺 北円堂の最終公開日に北円堂と国宝館に行き阿弥陀如来、無著菩、世菩薩を見る。

 

 北円堂から見た興福寺の様子。

 

 

 

 

 

 

 

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