乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

菅原天満宮 奈良  (日本最古の天満宮 菅原神社の公式HPによる)  (6景)筆塚あり

2024-05-18 | 菅原道眞

  菅原天満宮 奈良(日本最古の天満宮 菅原神社の公式HPによる)  (6景)筆塚あり

 

 大和文華館に行く途中のこと。菅原天満宮を見つけた。

 道真さまの好きな私は、天満宮に吸い込まれるようにお参りする。

 境内は、わたくし一人。

 静かだ。

 

 歌人の和歌が天井にかかっていたり、中には着物がかかっていたり。

 存在感を感じる大きなまん丸の鏡神々しく、こちらを向いている。

 狛犬の近くには、道真さまゆかり位の、牛の狛犬(?)の数々。

 写真撮影したが、センサーがあったのか、携帯電話がナビの最中の為だったせいか。

 菅原天満宮そのものがパワーが強いのか、、、

 あるいは、道真さまの戒めなのか、上の写真は全て撮影写真のファイルには残ってなかった。

 偶然ならばいいのだが、、、

 ずいぶん、不思議な、初めての怪奇現象である。

 

 菅原神社の公式HPによれば、日本最古の天満宮だということだ。

 素晴らしい。

 

 鏡や牛の写真は残ってなかったが、不思議なことに夕刻の薪御能の『融』私の好きな貫之さまと業平さまの名と歌が出てきた。

 前シテで貫之さまの歌という言葉が出てきて、その後、間狂言で、在原朝臣、貫之さまの順で歌が出てきた。

 この日、わたくしの好きな道真さま、業平さま、貫之さまのお三方が現れたことになる。

 これも何気に、道真さまの御力ではないかといった阿呆なことを考えている。

 私はどこまでも、幸せな人でございまする。

 この牛は、鏡からずいぶん離れた場所のもの。

 流石の道真さま。筆塚があった^^

 

菅原の地  (菅原天満宮公式HP引用)

 現代の菅原は、奈良市の一町名にすぎませんが、平城遷都以前から存在していた古代地名です。

 その範囲は、かなり広域に及んでいました。『日本書紀』によれば、「推古天皇十五年に菅原の池を作る」とありますが、この大池は西方の蛙股池と考えられます。

 また垂仁天皇の御陵は「菅原伏見東御陵」と定められ、安康天皇の御陵は「菅原伏見西御陵」と記されています。

 元明天皇は、平城遷都前の和銅元年9月14日に藤原宮から「菅原」の地に行幸され、21日までこの地にご滞在になり、平城宮予定地をご視察になっています。

 その後、11月7日に菅原の地の民家90軒を移転し、負郭を給わっています。おそらく平城遷都前は、佐紀の地に接するところまで菅原が延びていて、その辺りの民家が移されたものと考えられます。  

 こうしたことから考えると、往昔の菅原は春日、佐保、率川、添などとともに、重要な土地柄であったことがわかります。

〒631-0842 奈良県奈良市菅原東1-15-1 (旧住所:奈良市菅原町518番地)

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自分を見つめる  時間が足りないのは自己責任 これまでのよう自分で考え、自分の時間を有効に使い、満足の行く時間をつなぎ合わせていこう!

2024-05-17 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

 自分を見つめる  時間が足りないのは自己責任

 

 

 

 時間が足りない。

 あれもこれもに手を伸ばし、自分にとって何が大切かを見失う。

 改めて、時間が足りないのは自己責任だと気づく。

 

 自分を見つめる。

 一体自分は何が好きで、何を求めているのか

 何をしているときに、満足感を感じるのか。

 ここの軸がぶれると、時間ばかりが消化され、満たされず、身体と精神を急降下させる。

 

 呼吸法によって安定感を求めるはずが、逆効果の場合。

 興味のない本を教えていただいた場合、読んだほうがいいからと言ってテントに置くと、追いつめられることは世の常。

 本は、自分で選ぶものだという考えでこれまでやってきたが、それを覆すのは自分の生き方にとって、あまりにもダメージが大きい。

 

 字を書いたり、興味のある本を読んだり、舞台や好きな映像を見たり、自分が心地よいという場所に行く。

 こういった行動の心地よさは、至福の時だ。

 

 何事に対しても、興味のないことに時間を費やすのは、ばかげたことだ。

 これまでのよう自分で考えで自分の時間を有効に使い、満足の行く時間をつなぎ合わせていこう!

 

 

 

 

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法然 4  讃岐配流と晩年 

2024-05-16 | ことのは

 

 法然 4  讃岐配流と晩年 

 

 

 

 建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。

 享年80(満78歳没)

 法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。

 

 今週も忙しかった。

 複数の講義を受け、その後は図書館に行き、先ほど帰宅。

 7、8回目まで見ていたドラマ『光る君へ』を、今一度第七回から見始める。

 退屈だ。

 なので、ドラマをつけつつ、ブログに向かっている。

 

 どこに行っても、まことしやかここでに、当然見ているであろうとばかりに、ドラマ『光る君へ』の話がなされる。

 私はこれまで大河ドラマを一度も見たことがないことをここで暴露しておこう、、、

 

 ドラマ『光る君へ』を一旦見なくなった理由は、清少納言の描き方があまりにも『枕草子』から受ける清少納言のイメージからかけ離れていたため。

 せっかく時をかけて読んだ『枕草子』のイメージを壊したくなかったからだ。

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

法然 4  讃岐配流と晩年 

 

 讃岐配流と晩年 (ウィキペディア)

 讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。

 

 法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。  

 法然上人廟所 (知恩院) 承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。

 翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。

 

 建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。

 享年80(満78歳没)

 

 なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。

 廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。  

 

 法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。

 また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子 宇都宮頼綱[注釈などがいる。  

 

 死後・嘉禄の法難 詳細は「嘉禄の法難」を参照

 

 法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。

 そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。

 

 更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。

 そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。 

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立春歌舞伎特別公演 大阪松竹座 昼夜鑑賞 夜の部は二度見た。2024.02

2024-05-16 | 歌舞伎

立春歌舞伎特別公演 大阪松竹座 昼夜鑑賞 夜の部は二度見た。2024.02

 

 今となってはずいぶん昔のように思えるが、、、

 以前、南座の大歌舞伎は昼夜鑑賞の記録は書いた。 

 だが、ブログの再開に伴い、松竹座の昼夜鑑賞の記録をしてなかった。そのことが気がかりで、ここにきて、急遽書くことにした。

 

 二月は大阪国際文化芸術プロジェクトということもあるのか、料金が少し安かった。

 あまり期待はしてなかった興行だったが、夜の部が大変見事であった。

 

『新版色讀販(しんぱんうきなのよみうり)』の出来が良く、面白かった。

 何度も通いたいと思わせるほどにこなれた芝居であった。

 なので、三月の夜の部は席を変えて二度見に行った。二度ともに色あでやかであった。

 

 また夜といえば、扇雀親子の『連獅子』も丁寧で、おまけに気品に満ちた『連獅子』が展開された。

 毛振りは三十数回以上で、割合に多いほうだ。

 回数では過去の故勘三郎の五十回以上には満たないが、品位を感じさせる松羽目者らしさを感じさせる扇雀さんの良さが前に出た『連獅子』だった。

 

『曽根崎心中』の壱太郎も大変良かった。

 

 

 また昼の部の愛之助は、何度も見ている演目だが、畳と階段部分ではかっこ良くて黄色い悲鳴を上げそうになった。

 愛之助もそこそこのお歳なのに、まだこんな舞台を展開される気力があるのだと感心した。

 同時に、仁左衛門丈のこの芝居を今一度見たいとも感じた。

 

大阪松竹座「立春歌舞伎特別公演」
日時
令和6年(2024年)2月1日(金)~18日(日)
昼の部 午前11時~
夜の部 午後4時~
【休演】8日(木)
劇場
大阪松竹座
昼の部
演目
源平布引滝げんぺいぬのびきのたき
義賢最期
竹生島遊覧
実盛物語
配役
〈義賢最期〉
【木曽先生義賢】片岡愛之助
【下部折平実は多田蔵人行綱】尾上右近
【御台葵御前】片岡千壽
【高橋判官長常】市川荒五郎
【長田太郎末宗】片岡當吉郎
【待宵姫】片岡りき彌
【腰元】片岡愛三朗
【腰元】片岡千太郎
【進野次郎宗政】上村吉太朗
【百姓九郎助】片岡松之助
【矢走兵内】中村亀鶴
【九郎助娘小万】中村壱太郎
〈竹生島遊覧〉
【斎藤別当実盛】片岡愛之助
【小万】中村壱太郎
【主馬判官】中村かなめ
【飛騨左衛門】中村翫政
【塩見忠太】上村吉太朗
【平宗盛】中村亀鶴
〈実盛物語〉
【斎藤別当実盛】片岡愛之助
【小万】中村壱太郎
【葵御前】片岡千壽
【矢走仁惣太】市川荒五郎
【庄屋太郎右衛門】片岡當吉郎
【郎党】中村翫政
【郎党】片岡愛三朗
【九郎助】片岡松之助
【九郎助女房小よし】上村吉弥
【瀬尾十郎兼氏】中村鴈治郎
夜の部
演目(一)
 
配役
【油屋番頭善六】中村鴈治郎
【丁稚久松】中村壱太郎
【娘お染】尾上右近
【女中おとり】中村鴈乃助
【油屋後家おみね】上村吉弥
【松屋源右衛門】中村亀鶴
【山家屋清兵衛】片岡愛之助
演目(二)
連獅子れんじし
配役
【狂言師右近後に親獅子 扇雀 小獅子小太郎
【法華の僧蓮念】中村かなめ
【浄土の僧遍念】市川荒五郎
演目(三)
曽根崎心中そねざきしんじゅう
配役
【天満屋お初】中村壱太郎
【平野屋徳兵衛】尾上右近
【茶屋女おさと】中村扇乃丞
【同  おくに】上村折乃助
【町の衆六兵衛】市川荒五郎
【同  甚兵衛】中村かなめ
【同 松右衛門】片岡當吉郎
【女郎お千代】上村吉太朗
【同  お仲】片岡千太郎
【同 おかつ】片岡愛三朗
【下女お玉】中村翫政
【手代茂兵衛】中村鴈成
【天満屋惣兵衛】中村寿治郎
【油屋九平次】中村亀鶴
【平野屋久右衛門】中村鴈治郎
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法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

2024-05-15 | ことのは

 法然 3  長浄土宗の開宗 

 

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 そういわれれば、苦しい生活を強いられている民衆ならば、人によっては飛びつかれるのは、世の常、、、

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 

長浄土宗の開宗  (ウィキペディア)

 長浄土宗の開宗

 承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験。

 専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。

 そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。

 すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。

 これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 法然はこの地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。

 法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)

 しかし、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。

 この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。

 

 法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

   養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

  文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。

 そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。

 これを「大原問答」と呼んでいる。

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。  

 

 建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。

 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。

 叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

 建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。  

 

 元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。

 

 絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

 法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。

 これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。  

 

 延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 詳細は「承元の法難」を参照 元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。

 しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。

 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

  法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。

 なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

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奈良 法華寺   光月亭や湯屋の写真あり   (14景)

2024-05-14 | 神社仏閣・祭り

奈良 法華寺  (14景)

 

 先日は花の法華寺を記録させていただきました^^

 今回は寺や光月亭や湯屋の記録です。

 一部重複しておりますが、ご了承ください。

 

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法然 2  生い立ちと出家・授戒

2024-05-14 | ことのは

 法然 2  生い立ちと出家・授戒

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

 

生い立ちと出家・授戒 (ウィキペディア)

 長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。

 生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。  

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。

 その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。  

 

 その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。

 源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。

 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。

「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。

 したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。

 

 法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。

 そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。

  これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。

 

 その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。

 また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている

 

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法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

2024-05-14 | ことのは

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

 

『法然上人絵伝 上』(日本絵巻物大系)と『別冊 太陽』(178)を楽しみ始めた。

 ただいま東京国立博物館では『法然展』を展開されている。その後秋には、京都国立博物館に『法然展』がやってくる。

 美術などを詳しく展開されていらっしゃるブロガーさんに、『法然上人絵伝』は一期で四軸も公開されるとのことを教えていただいた。ありがとうございます。

 

 そういえば、三月、芝居を見た日に知恩院に行ったときに、【法然800年(要約)】と書かれていたのを思い出す。

 知恩院といえば幼いころ、お正月には毎年のように父に連れてもいらったことを思い出す。

 いわば思い出の寺の一つである。

 

 京都国立博物館の『法然展』をしっかりと見たいので、今から予習しておくことにした。

 まずは安直に、ウィキペディで記録したい。

 

法然について  ウィキペディア(Wikipedについて

 法然房源空 長承2年4月7日 - 建暦2年1月25日(宣明暦)(1133年5月13日 - 1212年2月29日〈ユリウス暦〉)

 

 幼名 勢至丸 号

(房号)法然

(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師

 

諱 源空 諡号 慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・ 天下上人無極道心者・光照大士

尊称 元祖法然上人

生地 美作国(現・岡山県)

没地 洛東大谷(現在の知恩院付近)

宗旨 浄土宗 寺院 法然自身は寺院を建立せず。

 

 師 源光・叡空

弟子 弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、 幸西、信空、隆寛、長西、湛空 など。

 

著作 『選択本願念仏集』、 「一枚起請文」、他。

 

廟 知恩院、金戒光明寺、法然寺、 粟生光明寺など。

 

法然上人絵伝

 

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

 

 はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。

 法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。  

 諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。  

 

 大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。  

 

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

 

  浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。  浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。

 

 親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

房号(坊号、房号)

 ①院中の坊につける名前。〔日葡辞書(1603‐04)〕

 ② 得度後、実名と別につけた僧名。何々坊と称するもの。鎌倉期以後盛んに行なわれるようになった。

※円照上人行状(1302)上「東大寺戒壇院住持上人、諱円照、房号実相」

 
諡号(し‐ごう)とは
 
 貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名。
 
 [類語]戒名・法名・諱・贈り名・追号・霊位
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奈良 法華寺の花   2024.05.初旬 5月はカキツバタやシャクヤク、ほか、多くの花が咲いていた。(21景)

2024-05-13 | 神社仏閣・祭り

奈良 法華寺の花   2024.05.初旬 5月はカキツバタやシャクヤク、ほか、多くの花が咲いていた。(21景)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良 法華寺

 境内の西にある「国史跡名勝庭園」は江戸時代初期に作庭された回遊式庭園です。広さは約500坪で、京都仙洞御所(せんとうごしょ)の庭園から石や庭木などが移されたと伝えます。5月には杜若が咲き誇り見頃を迎えます。

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奈良の鹿は場所によって表情が違う。ここは、東大寺。

2024-05-13 | お出かけ

奈良の鹿は場所によって表情が違う。ここは、東大寺。

 

 

 奈良の鹿は場所によって表情が違う。

 ドングリを食べる鹿。

 桜の花びらを食べる鹿。

 気の幹を食べる鹿。

 歯科せんべいをもらう鹿。

 そして、この日は草を食んでいた。

 ここは、東大寺。

 

  2024.05.上旬

 

 

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国宝 興福寺五重塔  2024年4月から始まった五重塔の修復は着実に少しづつ進んでいる。5/11(10景)

2024-05-12 | 神社仏閣・祭り

国宝 興福寺五重塔  2024年4月から始まった五重塔の修復は着実に少しづつ進んでいる。5/11(10景)

 

 工事が始まるまでが難航していた興福寺五重塔の修復が4月から始まり、5月11日現在、その工事は着実に進みつつある。

 完成は8年後の2030年。

 いったん五重塔が囲いで覆われると、長い年月この五重塔は見ることができない。

 

 興福寺の五重塔は国宝で、日本で二番目に高い塔だといわれている。

 人力車の案内人の方が大声で旅行者に言う、

案内人「二番目なんですよ。一番はどこだと思います?」

観光客「京都」

案内人「そうなんですよ、東寺なんですよ。嫌でしょう。悔しいでしょう、、、」

観光客「、、、、」

案内人「お客さんは◎◎から来られたので、いってもいいかとおもって、、、」

観光客「、、、、(苦笑)」

 そういった案内者がおられた(爆笑)

 周りには京都からの観光客や京都出身者もいるであろうにと、今一度 人力車(案内人)をみてしまった、、、

国宝 興福寺五重塔について

奈良県公式HP(国宝 興福寺五重塔/奈良県公式ホームページ (pref.nara.jp)

                  ↓

 興福寺は、『宝字記』によると、天智8年(669)に藤原鎌足の夫人であった鏡女王が、夫の病気の回復を祈願するために、堂舎の建立を夫に再三願い出て許しを得て建立を果たしたとされております。

 山科にあったので「山階(やましな)寺」と呼ばれておりましたが、この寺がのちに近江から飛鳥に遷都され、さらに平城遷都に際して再度平城京に移建されて興福寺と改称されたと伝えられております。

 五重塔の創建は天平2年(730)光明皇后の発願によるものとされ、創建以来、度々雷や兵火、類焼による火災に見舞われ、5度の罹災と再建を経ております。応永33年(1426)のものが現在の建物となっております。塔の高さは、50.937mで、奈良県内で1番高い建物です。

 修理は奈良県が興福寺より受託し、文化財保存事務所興福寺出張所が直営にて調査と工事を実施します。

 

 

『宝字記』(天平宝字  てんぴょうほうじ)とは (ウィキペディア)

 天平宝字てんぴょうほうじ旧字体天平󠄁寶字)は、日本元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。

 この時代の天皇は孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇(孝謙天皇重祚)。

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興福寺 本坊(平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ建物)  (7景)

2024-05-11 | 神社仏閣・祭り

 

 興福寺 本坊(平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ建物)  (7景)

 

 興福寺の本坊に行く。

 庭は丹念に整理され、植物は形良く刈られ、シランが咲いていた。

    興福寺公式HP

                 ↓

 平安時代頃から僧侶が生活し、学問にはげんだ建物

 興福寺の寺務を執り行う場所です。

 表門は天正年間(1573~1592)に建立された正面4.5m、側面2.6m、本瓦葺の四脚門(しきゃくもん)。明治40年(1907)に菩提院(ぼだいいん)の北側築地の西方に構えられていた門を移築しました。
 南客殿は同じ頃に増築された正面16.7m、側面10.0m、桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物。北客殿は嘉永7年(1854)に再建された正面20.0m、側面11.0m、桟瓦葺の建物で、平安時代頃から僧侶が生活し、学問に励んだ東室(ひがしむろ)と呼ばれる東西に長い僧房(そうぼう)の伝統を受け継いでいます。

 また本坊北西には明治時代に建てられた大圓堂(だいえんどう)と呼ばれる持仏堂(じぶつどう)【正面7.0m(桁行3間)、側面6.0m(梁行3間)、桟瓦葺】があり、堂内には聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像を安置しています。

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お土産は、タイ王国のお菓子

2024-05-11 | 外メシ、うまし。家メシ、うまし。昼弁当は、尚も良し。

 

  お土産は、タイ王国のお菓子

 

 

 タイのお土産に、お菓子をいただいた。

 いろいろなお菓子や缶詰のタイカレー。

 たのしませて少しづつ頂いているが、中でも変わったものは、マンゴーにチリペッパーが加わった塊が練りこまれたチョコレート。

 普通のチョコと思い食べたら、びっくり@@;;

    辛い!

    おいしい!

    辛い!

    おいしい!

    辛い!

と、ハフハフ言いながら食べたチョコは、日本のチョコとはまた違ったおいしさだった。

 

 おいしいめずらしいお土産をありがとう!でございまする^^

 

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東大寺 東とうアト(古地図の表記)の周辺を歩く。

2024-05-11 | 神社仏閣・祭り

 

東大寺 東とうアト(古地図の表記)の周辺を歩く

 

 

 先日、東大寺東の五重塔跡の復元は、68m.に落ち着いたと記録した。

東大寺東塔の大きさは諸説あるが、復元案は68mに落ち着いた。

 

 

 今回は東大寺の法華堂の途中に、東とうアト(古地図の表記)を楽しむ。

 復元のために木々を伐採し、整備されていた

 

 

東塔跡は、写真の左

鳥居の向こうには、東大寺大仏殿

写真の右が、東塔跡

まっすぐ歩いて左に曲がると、修二会で有名な二月堂や法華寺

 

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奈良国立博物館庭園  2024.05.10

2024-05-11 | お出かけ

 

   奈良国立博物館庭園  2024.05.10

  

 天気が良かったので、奈良国立博物館庭園を見る。

 ここに、茶室“八窓庵” がある。

 写真でかすかにかやぶきの屋根が見えるのが、その八窓庵。

 

 ライトアップされた奈良国立博物館庭園を見るのも良いが、間昼の庭園も気持ちが良い。

 四月だというのに前日が冬日、その前は雨が降っていたせいか、新緑の木々の葉が心地よさそうに笑っていた^^

 

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