遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

「風車小屋だより」ドーデー

2010-01-13 20:40:05 | 外国の本

20080912

ドーデーの風車小屋は

南フランスだけれど

これはパリだ

 

この「風車小屋」だよりって

題名だけ知ってたけれど

読んだことはなかった

この中の

「黄金の脳みそを持った男の話」を読もうと

図書館に借りに行った

ふと目に付いて

「ふらんす幻想短篇精華集―冴えわたる30の華々」と言う本も借りた

 

なんと

この本の中にも

「黄金の脳みそを持った男の話」が載ってる

こちらはボードレールやらアポリネールやら19世紀の色々な人の短編を集めたもので

編集したPGカスティックスと言う人は20世紀のひとだ

 

しかし「黄金の脳みそを持った男の話」の中身が

この二つの短編集では違う話

なぜだろう?

翻訳の仕方でと言う違い方ではない

中身が違う

 

ドーデーの風車小屋便りは

絵を見るようなお話です

「星」と言うお話なんかアニメーションにしたいなあと思いました。

他にもアニメーションを作りたくなるようなお話ばかりです

アニメーションを作って朗読する

老後の楽しみに取っておこう。

この本は岩波文庫ですから買えるでしょう

 

もう一つ

アマゾンに注文しておいた本が来ました

このハングルを作る話は

ちょっとテレビで見たのです

暦とか科学的知識とか文字とか

それらは

国同士

身分を越えて

気前よく分かち合ったものではなく

それを獲得するのは大変なことだったらしい

それこそ国家間の階級闘争だったの?

 

その辺のいきさつ

全然知らなかった

と思い興味津々だった

文字を読み書きすると言うことの意味を

しっかり考えたこともなかった

この板倉さんの本では

文字を獲得して朝鮮の例えば農産物の生産量が

どう代わって言ったか

数量をもって見せてくれるかもしれない

これから読む

S0161

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ネット上の情報

2010-01-13 06:50:03 | ブログ

膨大な情報がネット上にはあふれている

テレビはがんがん情報をぶちまけている

真実を見抜くのはなかなか難しい

でも

結構 若者も大事なものを掴み取るなと思うことがよくある

 

志村さんの記事から

たどったこの二つの記事

皆さんにも読んでもらいたい

派遣村に関する記事です

http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007/e/ad545744eaefba1790b3338ce101e7d7

http://blogs.yahoo.co.jp/tocka_jikkoi/61051648.html

吉宗の締め付け政策が歴史上何をしたことになるのか

と言うことについて

ちょっと書いたけれど

関係も深いなあと思った

締め付けて管理すると

それは人殺しにつながる

2万円もらったけれどバックレタと言う人の

コメントからパワフルな生きる力を感じ取れた

テレビの報道では

そういう不届きものがいるから

もうお世話なんかしてあげられませんよ  的だったなあ

目線はどこに

私は誰と?と考えなければいけない。

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幼かった頃

2010-01-13 05:54:30 | ブログ

Shakunage

パンの絵と一緒に

出てきたから ちょっと飾りたかっただけ

意味のない画像です

 

ゆすらうめさんもみどりさんも

育ったところの景色について書いてるので

私も色々思い出してる

(ただの老化現象か?)

 

それにしても

みんないいところでお育ちですね

うらやましい

 

今回は護国寺あたりの話

 

私は赤ちゃんのときからだが弱く 太れない子で(!)

心配した母はせっせと私を抱いて

音羽にある東大の分院に通った

(昭和19年から21年ごろ)

私の記憶にあるのは

木の柱と屋根のある渡り廊下を

母に抱かれて歩いていくとき目にした

生い茂る草

 

母の話では帰りに護国寺の境内で遊んで帰ったそうだ

 

武蔵はその近くで生まれやはり護国寺では遊んだって

そのころ

空襲になると

今一緒にいるおばさんに負われて

防空壕に逃げたそうだ

じきに田舎に疎開してしまうのだけれど

もしかすると

一度くらいは護国寺の境内で出会っていたかもしれない

(きっとそのときもう私の虜になって

こうなる運命に陥ったのかもしれない)

 

このあたりは若者の頃(昭和34年から37年)も歩いたし

働き始めの頃(昭和49年頃)もよく出かけた

音羽の山の緑はどんどんなくなり

今じゃビルだらけだ

 

やがて

母が人工透析をするようになるとき

シャントという血管の蛇口のようなものを作る手術のため

東大の分院に入院した(昭和58年頃)

看病に通う頃病院はすっかりコンクリートの建物  舗装された地面

草むらなんかもどこにもなかった。

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