遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

展覧会準備

2013-03-27 18:01:09 | 展覧会情報

なんと土砂降りだよ

一枚は水彩なので 焦った

スプレーをかけたりくるんだり

軽トラに乗せるまで大わらわだった

わたしは車は運転できそうなので

車で行き

武蔵は大きい絵を二枚軽トラで会場に運ぶ

Img_2241

搬入口

会長さんは大きい絵はこっちから

とお茶飲み会でおっしゃってたが

Yさんも来ないなあ

会長副会長男のYさんコーナー担当のHさんの絵を運んで

私の絵が残っているところ

Img_2242

会場はなんか パネルが少なくないか?

聞いたところによると

地震被害に遭ったパネル補給してないんだって!

去年よりも壁面が少ない

傷んだのも去年使ったのかもしれない

それが使えなくなって これっぽっちの壁面じゃ

足んないよ

わたし 大きい絵一枚没にする!と言ったんだがな

強引にみな飾ろうとするようだが

無理だよ

結局 二段がけにして 全部飾った

前は 大塚先生 二段がけは見えにくいからいけない

とおっしゃってたがな

そんなこと言ってられない事態になったわけだ

水彩連盟展だって 二段がけするしな

Img_2244
右二点Yさんの

左の赤いのが私の

この時点では並んでたが

後 展示場所は離れた

Yさんの絵のモデルはお隣の御友人

さきゆきその方にこの絵は進呈なさるというので

100万円で売りな

と言ったがな

首振ってたけど

30号だから100万だって号あたり3万ちょっとでしょ

本当はべらぼうでもないのだよ

お友だちは誰も理解してくれない話だけど

Img_2245


その右行くとK さんの二点

その右 なんか見たことある絵だなあ

と思ったら

私の絵が寝てるんだ

Img_2247

そこへえっちらおっちら

女性最高齢会員のTさんが絵を運んでいる

この絵描いた方

わたしはこの方の絵が好きなんだけど

この方は話すと 本物そっくりに描くのが

上手な絵だと思い込んでいらっしゃる風なんだが

・・・・

Img_2249

こんなふうに 二段がけになった

Img_2251
私の絵のあるコーナー

こっちに歩いてくるのは

誰だろな

私の当番は土曜日です

その時ちゃんと作品の写真を撮ってきて

ご覧にいれますね

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明日からKINU洋画会

2013-03-27 09:35:57 | 展覧会情報

お近くの方 見に来てください

Kinu2013_2

今日は昼から 準備に行く

武蔵に絵は運んでもらわねばならない

会の人たちは

会場設営に武蔵を使役したがる

武蔵は 俺は年寄だぞと文句を言うが

ヒヒ

皆武蔵より年寄だよ

「旦那 来る?」と当てにしている男性Yさんだって

武蔵とは同い年だ

今朝は 痛くて目が覚め

あああ 今日も ひどいもんだな

準備なんかできないよ

と思ったが 時間が経つうちに 大丈夫になって来た

思うに

痛かったり痛くなかったりするんだから

痛いのは我慢すればいいだけのことだろう

我慢できればできることはやっても大丈夫なのだよ

多分

かつて腰にブロック注射して 動いたということはよ

痛いのは神経を通って脳がそう感じているわけで

それがなきゃ動いていいなら

痛いのはつらいだけで どうってことないのだ

と思えばいいわけね

だから 先生は痛くても動かせというのよね

そういわれると

恨めしくて 涙目にはなるけどさ

それだけの話だ
人生は

自分の都合のいいように考えればいいのだ

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巷の市民芸術家を気取って考えてみた

2013-03-27 06:11:00 | 現代美術

この頃 娘のツイッターから 仏像ボットというのがあるのを知って

フォローしてみた

われながらすごいな

ほとんど知ってることばかりだ

なんで私こんなに仏像のこと(っても表層的なことだけど)

知ってるんだ?

それで

頭のなかが仏師について学習した頃にときどき戻っている

定朝様式と運慶についていろいろ考えたことが

戻ってきた

定朝の仕事が巨人的に残って

平安後期は 定朝様式一色

それでなきゃもう時流に合わないというか

そういう雰囲気だったころ

関東では 野趣あふれる田舎作がつぎつぎ生まれてたんだ

それと運慶がどういう関係だろうか

と妄想したのだった

芸術にとって大切なのは 革命的なことだ

新しい価値観美の基準というようなんものを

生み出せなかった芸術家って ありえないんだ

というのが若いころは好きな考え方で

だから 運慶が好きでもあったのだけど

その運慶を生み出したものに

関東で 中央と離れたところで制作していた仏師たちとの交流から

何が生どうかかわったのだろうか

と妄想するのは 趣味にあったんだけど

実は

運慶はお父さんを通して

定朝様式は叩き込まれてきた

これの元になった

大日如来像

お父さんの康慶の指導下で作られたものだ

これを見に行ったとき 若者の運慶が学び取っていったのは

定朝の世界だ

というのは理屈は分からないけれど ひしひし感じてしまった

浅はかな考え方では平安後期の仏像彫刻は

もう 定朝様式一辺倒 パターン化 様式化の一途

それはスポンサーの貴族が

芸術の保護者としては保守的でマイナスにしか働いてなかった

という風に

これまたパターン化して理解していたけれど

定朝の仕事は脈々と受け継がれ 

運慶の中で(本というと別パターンで快慶のなかでも)

変貌を遂げて 新しいものとして生まれたじゃないか

伝統と革新と合わせて 考えたのだけど

今の時代にも

いつの時代にも

同じことが起きている

私が思い描いた平安後期の貴族みたいな

硬直した芸術のオピニオンリーダーを

気取るものはいつの時代にもいるのだものな

そう思うと

巷の 大した仕事はできなくても

市民芸術家だって それなりに意欲がわくものがあるな

と思った

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