LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

fado:ファド

2007-11-28 | 音楽の調べ?
なかにし礼が「天上の音楽」の中で、fadoについて語っていた。

fadoかぁ。そう言えば久しく聞いていないなぁと思いながら読んでいた。

fadoは、ポルトガルの首都リスボンの下町にうまれた哀愁漂う歌だ。
19世紀に入り、ポルトガルやスペインの植民地支配による栄光の日々は陰りを見せ、
ブラジルやアフリカの植民地を手放したポルトガルは暗い困窮した時代に入る。
リスボンの石畳を敷いた裏町の安宿から、黒いショールをまっとた女が歌い出だす。そういった音楽だ。

なかにし礼は、ファド歌手のアマリアロドリゲスに、リスボンのfadoは何ゆえにかくも哀しいのかと質問をしている。

「それは昔から問われ続けている質問です。ファドはとても古い。
ファドは運命と言われています。
運命は人生です。多分人生が哀しいからファドも哀しいのでしょう。
ファドは私たちの人生。
遠いところへ新しい世界を発見するために、海へ行った人たちの人生なのです。
彼らは家族から離れ、愛から離れ、そして哀しさに懊悩する。
それがファドになった。
だからファドは哀しいのです。」
とアマリアロドリゲスは答えていた。

私がファドを知ったのは、ある方との出会いからだった。
20年程前にその方と知り合った。
戦時中はインパール作戦等を経験した方で、その方は通信が主な任務だった。
戦後は商船会社に勤務して、人生の1/3は海外と海上で生活していた方だ。
ある時そのお宅に伺うと、スコッチを片手に一人ソファーに座りfadoを聞いていたのだ。

あまりにも哀愁を帯びた歌が印象的だった。

その方は私に、海外の話、政治経済の話、戦時中の話など数々語ってくれた。
自分自身を支えてくれた心の糧として、
今はもう思い出としてしかないのがまさに哀しいが、やはりこれも運命なのだろう...。







Good Luck!

2007-11-25 | その他
運は、呼びこむことも引き留めることもできない。

幸運は、自らの手で作り出せば、永遠に尽きることはない。

 ~「Good Luck」  
  アレックス・ロビラ フェルナンド・トリアス・デ・ベス著 ポプラ社


三崎公園にて~車窓からの夕景

2007-11-24 | lohas的情景
小名浜の海岸を左手に見ながら車で三崎付近を走る。
暫くすると小高い丘に出ることができる。
三崎公園だ。

この道は何度か通っているが、この時間帯に通り過ぎるのは初めてだった。

三崎公園から下る途中、小名浜港とその遠方に山並みが連なっているのが見えた。
ちょうどこの時間、太陽が西の空に隠れ始めるのだが、ここからでは太陽を確認できない。

西空に広がる今時分の静寂さと、先程まで賑わっていただろう小名浜の街、そして穏やかにきらめく海がとても印象深い。
ほんの一瞬ではあったが、車窓よりの風景に感動していた。

6号に出る頃になると、ヘッドライトを灯した車とすれ違うようになり、
いつの間にかあの山並も闇の中に消えていった。


厠の移ろい

2007-11-22 | 建築と文化
最新型のトイレ開発に各メーカーがしのぎを削っている。
松下電工のアラウーノを初め、衛生陶器の老舗TOTOやINAXもそれぞれ新商品を出してきている。
それと共に、トイレ空間におけるこだわりも以前から見るとかなり変わってきている様な気がする。

これは極端かも知れないが、谷崎潤一郎が「陰翳礼賛」の中で、厠と日本建築について語っている。

日本の厠は実に精神が休まるように出来ている。
それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のしてくるような植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持ちは、何とも言えない。

あの器は、男子用のも、女子用のも、木製の奴が一番いい。
蝋塗りにしたのは最も結構だが、木地のままでも、年月を経るうちには適当に黒ずんで来て、木目が魅力を持つようになり、不思議に神経を落ち着かせる。
分けてもあの、木製の朝顔に青々とした杉の葉をつめたのは、眼に快いばかりでなく些の音響をも立てない点で理想的というべきである。

ちなみに昭和8年の執筆だ。

谷崎潤一郎の言わんとしているイメージは良く分かる。
自分にとってもそのイメージは理想形だと感じる。
しかし、現代ではそれと同じ仕様の空間はまずないだろう。
もちろん、様々な快適機能も捨てがたい。

心地良い空間とはどうあるべきか?
常に自らの問いかけに応えていきたい。





北大路魯山人と岡本太郎 ~心の富者

2007-11-20 | 美の壺的解釈
小生の師匠と崇める魯山人の作品が展示されているというので、
先日笠間の陶芸美術館まで足をのばした。(北大路魯山人と岡本太郎展)

なぜ、北大路魯山人と岡本太郎なんだろうと疑問を抱きつつ館内に入ったが、
すぐに理解することができた。
魯山人は書家として岡本太郎の祖父の所に弟子入りして、
岡本家に住み込んで修行をしていたのだ。
その後も岡本家との関係は、岡本太郎の父そして岡本太郎本人と続いていったとの事だ。

岡本太郎の鮮明な色彩と大胆な構図は、見入る人を捉えて止まない。
北大路魯山人は言うまでもなく素晴らしい作品ばかりだ。
特に、魯山人織部との出会いには感動した。

館内を歩いていると、通路の壁に掛けてあった魯山人語録の前で立ち止まった。

美を意識し、おのづから美を取り入れざるべからず「人」の生活は、
自然の天与であって、誰の所業でもない。
即ち天の人に与えたもうた神業である。
しかし、同じ「人」ではあるが極めて低い美にしか生きることを許されていない人々がある。
天の恵みが薄いのである。

日常生活に雅とか美とかを弁え、それを取り入れて楽しめる者は、たとえ貧乏暮らしであっても金持ち性と言えよう。
能く言うところの心の富者である。

    ~北大路魯山人



梅干

2007-11-19 | 男の料理
最近妙に気になっていることがある。
それもひょんな事から気になりだした。

いつだったか、水戸の弘道館の裏手にある神社の前を自転車で通り過ぎようとしたら、その神社の前で梅干が販売されていたのだ。
小生、めったなことでは梅干は手にしない。
自らすすんで梅干を頬張るなどまったく有り得ないことだ。

しかし、その梅干のパッケージに、「宮司の手作り梅干」とあったのに小生の好奇心が妙に働き、思わず立ち止まって見入ってしまったのだ。
そこには3種類の梅干が置いてあった。
勿論買い求めたのは言うまでもない。

自宅に持ち帰ると、まず家内に味見を勧めた。
久々に家内の表情をじっくり伺った。
こんな事がなければ家内の表情をまじまじと見る事など有り得ないだろう。
うーん、大丈夫そうだ。うまそうに食しているではないか。
小生もほんの僅か梅干を口にした。
うん?以外にいけるかも。

新たな感動をもとに、小生の梅干作りの夢がそこから広がっていくのである...。
乞うご期待!



湖畔の黄葉

2007-11-16 | lohas的情景
紅葉の名所というのに、さすがにここまで来ると散策している人も数少ない。
もっとも散策するという感じでもないか。
ディパックに忍ばせたペットボトルも次第に残量が気になってくる。
そんな散策コースだ。

木立の赤、黄、湖畔と空の青、それぞれが主張し合いながらも
絶妙な調和を見せ、眼下に迫ってくる。
久しぶりに感動した。

このコースを歩いて2時間ほど経過した頃だろうか、シャッターを切った。
湖畔沿いの黄葉が素晴らしい。