LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

ル・コルビュジェ:創造力の変貌

2007-09-09 | 建築と文化
行付けの書店に入り新書コーナーに立ち寄ると、一冊の本が目に留まった。

「ル・コルビュジェを見る」中公新書 越後島研一著

著書は、ル・コルビュジェの建築家としての足跡、サヴォア邸からロンシャンの教会などに至る経緯などを、
革新・変貌・成熟といった切り口でル・コルビュジェの建築物を通し解説していた。
非常に興味深い。
世間一般には、ル・コルビュジェの作品そのものについて記載させている書物は多い。
しかし、この著書では、コルビュジェを最大限に賞賛しつつも、一方ではル・コルビュジェの現実的な不協和音による創造力の変貌といったものも取り上げていた。

例えば、サヴォア邸を例に出すとこんな事だ。
サヴォア邸は、
「新しさを支える原理」
「新しさの魅力」
「新しさの極」
これらが備わり世紀の名作として君臨していると述べている。

しかしそれらは、ル・コルビュジェの今までの絵画や家具そして都市にまで至る創造力が、サヴォア邸を発想させた裾野であり、今までの緻密な作業の積み重ねが根底にあるとしている。
そして、それらと共に少しの飛躍が名作を生んだのだ。

この後、越後島研一は、ル・コルビュジェの創造力の変貌について述べている。
サヴォア邸がはらんだ建築としての限界...。

サヴォア邸は、サヴォア氏一家が住み始めて数日後には雨漏りで床に水溜りができた。
天井からも壁からも雨が入り込んだという。
基本的な住宅の性能そのものに欠陥があったのだ。
サヴォア邸以外にも、コルビュジェの「白い箱型」住宅は、実はトラブルの連続だったのだ。

サヴォア邸の美的緊張を感じさせる壁が、性能的に不備だったとすれば、
ル・コルビュジェの想像力の中にも決定的な不協和音が響いたとしても不思議はない。
表現意欲と可能な技術とが、実は両立し得ないという事実を鋭く突きつけられることになってしまった。

確かに、創造力と技術力とが両立しないことには、建築物としての機能が果たせない。
そのため、建築業界では、奇抜な発想に対しては、安全な方に追いやるケースが多くあることは事実だろう。

しかし、ル・コルビュジェの創造力は、一瞬の閃きではない。
何段階かの試みを積み重ねた結果が作品に現れ、そしてその後もさらに積み重ねていく。

そういった結果が、「白い箱体」からの変貌を遂げ、
ユニテ・ダビタシオンやチャンディガールに見たブリーズソレイユを用いての独創的な表現を生み出していったのだ...。

建築家安藤忠雄も、以前、様々な作品は一瞬の閃きで成せるものではないと言っていた。

創造力の根底には、緻密な作業の積み重ねが必要なのだ...。











井の頭公園

2007-09-03 | lohas的情景
先週末の朝日新聞に、吉行淳之介「闇の中の祝祭」が取り上げられていた。
この手の小説は普段は読まないが、新聞に掲載された井の頭公園近くにあるらしい旅館というのが妙に気になってしまい、読まずにはいられない衝動に駆られた。

実は先日、井の頭公園を歩いていたのだ。
ひどく蒸し暑く、確か都内で最高気温を示した時だった。
勿論その時は、その小説の存在は知らなかった。
尤も、今では文庫本にもなっていないそうだ。
井の頭公園と言うと、30年前ぐらいに放映された「俺たちの旅」のロケ地という印象が強く、歩いていると当時の懐かしさが込上げて来た。

時代の変化と共に環境もずいぶん変わるんだなぁと、改めて感じる。
物質的な変化のみならず、人々の感受性も多様に変化して行っているような気がする。
カースケ、グズロク、オメダ...自分にとって彼らの存在は大きかった。

そんな思いを巡らして歩いた井の頭公園だった...。



備後表と泥染め

2007-09-02 | 建築と文化
先週のNHK「美の壺」では、畳を取り上げていた。

陰翳のある深く真っ直ぐな線が出ている畳ほど価値がある。
拙宅の畳はというと、陰翳の線があるどころかよく見ると擦り切れているではないか。
新畳のような香りもいつの事だったのか?まったく記憶にない。

畳表は、備後表が良質とされている。
藺草が細く長く、また、色合いも揃うのが備後産の特徴との事だ。

藺草は、泥染めの工程を経て畳表の材料となる。
同じ土地の土で泥水をつくり、泥染めをする。
そうする事で、畳表が銀色を帯び、そしてあの特有の香りを放つことができるそうだ。

「美の壺」では、手織りの備後表も取り上げていたが、職人心意気が伝わってくるような畳だった。

そういった畳の上で、茶事でもできるような生活が送れればと物思いふける今日この頃...。