LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

Ballの魔術師

2006-06-24 | lohas的情景
深夜帰宅すると、皆寝静まっていた。
そう言えば、早朝4時からのブラジル戦を見るって言っていたなぁ。と出勤前の会話を思い出し、私も床に就いた。
家内には、私もTVを見るので起こしてくれと言っておいた。

翌朝、薄っすらとした記憶の中では、何度か起こされたようだ。
しかし、起きることができない。
そのうち、TVと家内と息子の甲高い声で、先取点を取ったのが分かった。
勝つかも知れない...。
普通だったら、そこで起き上がるだろうが、依然睡魔に襲われたままだ。
その後もウトウトしていたら、数点取られており、いつの間にか敗退していた。

結局定時に起床したが、目覚めが何とも悪い。
TVでは、ブラジル戦のハイライトシーンを何度も放映していた。
日本チームが先取点を取ったシーンは、さすがにドラマティックだ。何度見ても良い。
しかし、その後のブラジル...。日本のレベルとは明らかに違う。
素人の私にもそう感じるのだから、選手や関係者は尚一層の事だろう。
TVでは、ブラジルチームをボールの魔術師と言っていた。

今朝の朝日新聞では、一次リーグ敗退「選手過信したジーコ」と大見出しが載っていた。

組織か個人か?
理想とする戦術に合わせて選手を選び、細かく教え込んだトルシェ前監督に対し、
戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に出すことを求めたジーコ監督。

結論から言うと、朝日ではジーコ論は時期尚早だったとした。
しかし、「戦うのは選手なのだ」という強いメッセージを出し続けたジーコ監督に対して、チーム全体が応えなかった面もある。

組織と個人能力は、対立軸ではなく、両方備えてこそ強いチームになる。と最後に述べていた。

ピアノ協奏曲第一番(ショパン)

2006-06-18 | 音楽の調べ?
クラシック音楽は丸首のカシミアのセーターである。
もとより色や形は変哲もなく、風合さえも、およそ代り映えがしないのが丸首のセーターである。
同じように百年一日のごとく、バッハやモーツァルトの作品を取り上げてコンサートを行っているのがクラシック音楽である。
とサライ紙上で音楽評論家が言っていた。

なるほど面白い事を言うなと感じながらサライを読んでいた。
そうだ、たまにはクラシックでも思い、ショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調を聞いてみた。
協奏曲とは言え、第三楽章まで40分ある大作だ。

うーん。
第一楽章は哀切の情を歌うメロディが印象的だが、どうも第三楽章の最後まではなかなか音楽に集中できない。
いつの間にか、別の事を考えはじめてしまっている。
ピアノ小品などは比較的聞くほうだが、曲全体を通して大局観でその音楽を捉えるのは、今の自分には至難の業だ。
やっぱりメロディが口ずさめるものが良いなぁ。

しかし、このような大作をよく作曲できるものだ。
音楽そのものよりもそういった事に敬意を表してしまうのは自分だけだろうか?
この曲、ショパンが20歳の時に作曲したものだそうだ。


和小屋の現場

2006-06-13 | 建築と文化
うーん。倉の改造工事かぁ。
スタッフが黙々と後片付けをしていた。

なかなかの仕上がりだ。
1Fはガレージで、オーバードアを取付けている。
外観は、総タイル貼りの仕上がりで洋風的なイメージが漂っている。
この外観からは、以前の姿は想像できないだろう。

今回の改造工事は、倉の全体改装だが、メインは2Fの居室兼オーディオルームだ。
和小屋の梁は全て見出しにし、天井からはトップライトからの穏やかな光が差し込んでいる。
シーリングファンとJBLのスピーカーが印象的だ。

クローゼット扉やオーディオ収納は、すべてスタッフとお施主様との打合せによるオリジナル作品だ。
和小屋の梁と室内造作は、以前の面影を微かに残しながら全体的な色・質感バランスがとても保たれている。

お施主様の笑顔・くつろぎが想像できるそんな現場だった。



安野 光雅

2006-06-10 | その他
画家・絵本作家である安野光雅の世界を覗いてみた。
安野光雅は、NHKFM「日曜喫茶室」の常連として、時折出演していたので以前から知っていた。

今回、私が手に取った本は、「絵本 歌の旅」講談社。
表紙を開くと、右側に小タイトルとそれにまつわるエッセー。左側には淡い色調の水彩で風景画が描かれている。

一番目のタイトルは、「美しき自然」。
その中で、安野光雅はこんな事を言っていた。

自然は美しい。自然であればなんでも美しい。
これはおそらく真理である。
海野の底、洞穴の中、あるいは地中の木の根など見慣れぬ世界も自然なら美しいのだが、
普通に暮らしていると、その美しさに感応してきた体験のほうが乏しいだけだ。
・・・
私たちの美に感応する感覚は自然によって育てられたのだ。
芸術という仕事は、その自然に帰依する生き方だと思っている。


うーん。日々何に気づくか?かなり重要だ。
気づくのと気づかないのでは、かなり違う。
人生にとってもそうだろう。

多面体の巨人

2006-06-04 | 建築と文化
多面体の巨人・・・・建築家 丹下健三である。
丹下健三は、努めて無色であろうとした。
そして、向き合う相手の長所を自分に取組み、様々な色に染まっていった。
そして、多面体の建築家が形成されていった。

日経アーキテクチャーでは、丹下健三の追想録「時代を映した多面体の巨人」として冒頭そんな記述をしていた。

丹下健三というと、勿論業界で知らない人はいないだろう。
東京都庁やフジテレビ本社ビルの設計では特に有名だ。

その追想録の中に、磯崎新との対談が掲載されていた。
磯崎新は、ポストモダニズムを提唱し、水戸芸術館やつくばセンタービル等の設計をしている。
磯崎新は、丹下氏もポストモダンの時代に所属していると発言しているが、丹下氏はポストモダンには批判的のようだ。

丹下健三は、ポストモダンは非常に短期的な現象だとし、個人的なポストモダンを抜け出て、情報化社会の建築を目指さなければ良い建築や都市は生まれない。
また、個人の単純な表現だけで建築という社会的な存在が成り立つわけがない、としている。
そういった丹下氏の批判に、磯崎氏はこう答えている。

社会的にも客観的にも評価がなされるような共通の様式を失い、パーソナルな表現からスタートせざるを得なかったポストモダンの世代が明らかに存在する。
それで、一度ゼロに戻って、磯崎氏自身が学んだ建築とパーソナルな感覚の中から、客観的評価基準に頼らないものを作っていってみてはどうかと考え、実行に移していった。

うーん。ポストモダンの意図とするものが丹下氏の感覚とは異なるのだろう。
ポストモダンの定義も個人差があるだろうし、また単純な理解では解決できないのだろう。

しかし、いずれにしても、両者の建築感とは程遠い所にいる自分が見えた.....。

ある出来事

2006-06-01 | lohas的情景
あれは確か、昨年の暮れの事だった。
お客様宅の建替工事も無事に終わり、そのお客様宅でホームパーティーを開いた時の事だ。

料理はスタッフの手作り料理に徹した。
・・それぞれスタッフの家から調理道具を持参し、握り鮨・豚角煮・ケーキなどなど、次々に披露していった。
料理もさることながら、パーティーでの話題はプランニングから完成に至るまで、色々な出来事を振り返るように思い出話で花が咲いた。

そして、ホームパーティも終わりに近づいた頃、奥様が照れくさそうに小声で言った。
「なんか万歳したい気持ち!!」
それを受けて
「じゃあ、みんなで万歳しましょうよ」とスタッフが声を掛け、
全員で大声で万歳三唱をした。

そんな記憶が鮮明に蘇ってきた。

PM5:55
静寂な中、何かを待つように、今、ジャー・パン・ファンの二胡の曲「サイレントムーン」が、どこからとも無く流れている。
黒服に包まれた奥様を遠巻きに見る。

しかし、あまりにもギャップが大きい...。
目を閉じていても涙が零れそうだ。目頭があつい。
私たちに夢を託してくれたあの方が偲ばれる。

心からご冥福をお祈り申し上げます。